豊臣秀次は実は、叔父秀吉の唐入りに対し反対派だった。秀吉は日本国内を平定すると朝鮮出兵を行うわけだが、秀次は朝鮮出兵を反対し続けていたのだ。そのため石田三成や黒田官兵衛らが朝鮮への渡海を説得しようとしても、結局朝鮮へ出陣していくことを避け続けた。そして日夜妾たちと遊興に更けっていたという噂も流れ、それが秀次愚将説へと繋がっている。
さて、朝鮮出兵反対派の中心として多くの武将たちの相談を受けていた人物がいる。前編にも記した千利休だ。利休は朝鮮出兵に関し反対派武将たちを取りまとめていると見なされ秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられている。秀吉は豊臣家の将来を安泰にするため、何としても有力大名の多くを朝鮮に移封させたいと考えていた。だからこそ唐入り反対派が有力になってしまっては困るのだ。
日本国内は豊臣一族で支配し、武功を挙げた有力武将たちには明に広大な土地を与え、日本国内で謀反を起こせない状況にする。それが秀吉が目指したものだった。それを実現させるためには唐入り反対派にいてもらっては困るのだ。そのため秀吉は「茶器を法外な値段で売り私腹を肥やしている」という罪により利休に切腹を命じた。当然だが切腹を命じられるほどの罪ではない。真実は唐入り反対派の口を閉じさせるための切腹命令だったのだ。
利休には台子(だいす)七人衆という、茶の秘伝を秀吉から伝授することを許された七人の弟子がいた。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、木村重茲、芝山宗綱、瀬田正忠、そして豊臣秀次だ。つまり秀次は利休の愛弟子であり、反唐入りの同士でもあったのだ。秀吉は利休の意思を最も強く継いでいるのが秀次であり、今後秀次を中心にし反唐入り同盟が組まれることを最も恐れていた。
秀次は逆心を持っていたわけではない。豊臣の未来、そして日本の未来を憂いて唐入りに反対の意を示していただけなのだ。実は唐入りに反対していたのは石田三成も同様だった。三成もまた軍事的に明へ侵攻するのには反対で、逆に明との貿易を盛んにしていくことで日本を豊かにしていきたいと考えていたようだ。
つまり秀次は利休同様、唐入りに反対の姿勢を示したために秀吉の怒りを買ってしまったのだ。秀吉からすれば「豊臣の未来を考えての唐入りなのに、なぜ豊臣である秀次がそれをわかろうとしないのだ」というジレンマもあっただろう。
改めて書き記すが、このように秀次の切腹事件は石田三成が黒幕だったわけではない。なぜなら秀次切腹後、秀次の数少ない遺臣たちは三成に召し抱えられたからだ。もし本当に秀次の切腹が三成の進言によるものであれば、果たして秀次の遺臣たちが三成の家臣になり、さらには関ヶ原で三成の下で命を賭しただろうか。
このような以後の状況から考えても、恐らく三成はなんとかして秀次の切腹を回避させようと苦心したのではないだろうか。結果として秀吉を止めることはできなかったわけだが、しかし三成の対応に何らかの恩を感じていたからこそ、秀次の遺臣たちは誰でもなく三成の下で働くことを決意したと考えるのが自然ではないだろうか。
このように考えられるからこそ、豊臣秀次切腹の黒幕は石田三成ではないと断言できるのである。