石田三成に命を捧げた戦国時代きっての猛将・島左近

ishida.gif石田三成は自らの弱点をよくわきまえていた。同じ奉行衆であった盟友大谷吉継は、内政も戦も得意としていた。主君豊臣秀吉も、大谷吉継に100万の兵を預け指揮させてみたい、と語っているほどだ。だが石田三成は戦に関しては決して得意ではなかった。

戦略に関しては秀吉の戦いをそばで見ていたこともあり熟知していた。陣中での冷静な判断も失わなかった。だが槍働きに関しては苦手だったのだ。戦を理路整然と考え部隊を動かしていくことはできるのだが、自身で槍を持ち人を殺めることは苦手としていた。なお石田三成の戦下手に関しての誤解はこちらの巻にて解いていただきたい

石田三成は知略に優れた武将だった。出身が近江商人で有名な近江であり、父親正継も近江石田村の庄屋で観音寺の檀那職を務めるような人物だった。つまり父親も算術に秀た人物であり、三成もそれを受け継いでいたようだ。その影響で三成は兵站奉行として兵糧、武器などを滞りなく調達し、秀吉の数々の勝利の手助けをし活躍した。

石田三成の人物の良さは、上述したように自らの弱点をよくわきまえていた点だ。つまり奉行職で地位を得てもすべてが優れているとは勘違いせず、槍働きが苦手なことを自認していたのだ。そしてその弱点を補うために、三成はある人物のスカウティングを行った。そして近江水口城主になり4万石の所領を得た三成は、何と1万5千石をその人物に与えてしまった。その人物とは島左近のことだ。

島左近は大和の筒井順慶を支える筆頭家老だった。しかし順慶が病死したあとは家督を継いだ定次に疎まれるようになり、ついには筒井家を去ってしまう。その後左近は蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えるも長続きはせず、浪人として放浪することが長くなっていった。どうやら左近は筒井家の筆頭家老だった誇りが邪魔をし、新参者として扱われることを嫌ったようだ。

その噂を耳にし、三成は自らの家臣になって欲しいと左近に頭を下げたのだった。島左近清興と言えばまさに戦国時代きっての猛将だ。鬼左近と呼ばれたのも伊達ではなく、戦場で左近と出会った者は皆慄いたと言う。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点をピンポイントで補うことに成功した。

島左近は漢気溢れる人物で、三成が所領の半分近い1万5千石で召し抱えてくれたことにより、生涯三成に尽くすことを誓った。その後三成は佐和山城19万4千石の大名となったわけだが、その際三成は左近の所領も増やそうとした。だが左近は自分に1万5千石以上は必要ないと言い、その代わりもっと多くの兵を雇い石田軍を強化なものにしてくれと申し出た。左近とはこのように、意気に感じた相手にはとことん尽くせる漢気溢れる人物だったのだ。

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という唄が当時巷で流行っていたようだ。これは文字通り、島左近と佐和山城は三成にはもったいない、と皮肉った歌詞だ。だが本当にこれが戦国時代に唄われていたのだろうか。これも恐らく江戸時代に捏造されたものなのだろう。

関ヶ原以前に於いて、三成を悪く思っているのは豊臣家のいわゆる武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政など槍働きを得意とした武将たち)だけだったと言う。そう考えるとこの唄も、恐らく関ヶ原後の江戸時代の創り話なのではないだろうか。この唄については『古今武家盛衰記』という作者不明の古文書に記されており、恐らくは江戸時代後期に書かれたものだと思われる。

関ヶ原で三成は敗れてしまうわけだが、戦場から無事逃げ出すため命を張ったのが島左近だった。とにかくまずは三成を無地戦場から逃がそうと、左近は自ら先頭に立って黒田長政勢と戦った。だが最期は黒田勢の鉄砲で蜂の巣とされてしまい、壮絶な討ち死にを遂げてしまう。

左近としてはこの直前に家康暗殺に失敗しているため、それを挽回するためにも死に場所を探していたのだろう。西軍を何とか立て直すというよりは、左近の最期の行動は自ら華々しく散ることを優先に考えられていたように感じる。もし左近がもっと策を巡らすことができれば、西軍があそこまで総崩れになることはなかったのかもしれない。そして家康暗殺がもし成功していたら、関ヶ原の戦いが起こることもまたなかったのかもしれない。

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