武田鉄矢さん率いる海援隊が歌う「二流の人」という曲にも「石田三成 愚か者」という歌詞が出てくる。このように石田三成という人物は誤解されていることが多い。だが歴史好きの間では石田三成こそ義将であると高く評価されている。では何故ここまで酷く誤解されることになってしまったのだろうか?
石田三成は豊臣政権に於ける奉行衆のひとりで、治部少(じぶのしょう)という地位にあった。治部少とは簡単に言えば戸籍や婚姻などに関するお役所仕事をしたり、外国からやってきた使臣を持て成す役割を担っている。いわゆるお役人だ。
豊臣秀吉の元で治部少として活躍する三成ではあったが、時として秀吉は悪政を歩んでしまうことや、道を誤ることもあった。そんな時でも三成は文句一つ言わず、黙々と執行役を務めた。なぜ文句ひとつ言わなかったかと言えば、その文句は秀吉批判に繋がってしまい、豊臣政権内で秀吉批判をしてしまえば、政権への信頼が揺らいでしまうためだ。
三成はとにかく豊臣政権を安定させるために死力を尽くした人物だ。秀吉のミスはすべて三成がカバーしていく。そのためいつしか秀吉のミスが三成のミスへと挿げ替えられ、豊臣政権内で三成は集中砲火を浴びるようになってしまう。それでも三成は決して秀吉に責任を返すことはしなかった。自分が我慢していれば主人秀吉への家臣団の信頼が揺らぐことはない、そう信じ、秀吉の過ちをすべて自ら黙って被っていったのだ。
毛利輝元を大将とする西軍と、徳川家康を大将とした東軍が戦った関ヶ原の戦いでは、三成は東軍同等の10万という兵を率いたにもかかわらず、開戦後あっという間に敗れてしまった。西軍からすれば、籠城していれば徳川に勝てる戦だった。なぜなら徳川軍の多くが遠征隊であり、兵糧に不安を抱えていたからだ。だが三成は家康の陽動作戦に引っかかってしまい、野戦を選択してしまう。野戦は家康が最も得意とする戦いだ。
関ヶ原の戦いに於ける西軍大将は毛利輝元だったわけだが、しかし輝元は大阪城に入っただけで自ら出陣することはなかった。もし戦経験豊富な輝元が出陣していれば、三成が大垣城を出て野戦を選ぶというミスを犯すこともなかったのだろう。だが戦経験に乏しい三成は勢力が互角ならば自軍に分があると踏んだのか、大垣城を出て野戦を選んでしまった。
これは三成のミスだというのが定説ではあるが、しかし疑問点が残ることも事実だ。もし家康が大垣城を横目に進軍していったのであれば、西軍は東軍の横腹を突く攻撃を仕掛けたはずだ。だがそうはせず、対陣する形を選択している。これは果たして何を意味するのだろうか。
一説では家康が大垣城を水攻めしたことにより、三成と主力部隊である小早川秀秋らの連絡が絶たれそうになり、それを防ぐためには城を出るしかなかったという見方もあるようだ。
だがいずれにしても小早川秀秋は西軍を裏切ってしまった。これはやはり三成が人心掌握術に長けていなかったということなのだろう。逆に人心掌握を得意とした家康の口車に乗り、秀秋は東軍に寝返ってしまった。これにより西軍は完全に態勢を崩してしまい、総崩れとなってしまう。
腹心島左近の命懸けの奮戦もあり、三成は何とか戦場を脱出することができた。しかしその後すぐに捕縛されてしまい、家康の命により六条河原で打ち首とされてしまった。辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」と読み、享年41歳だった。
三成は決して私利私欲のために敵を増やしたわけではない。三成はとにかく秀吉への恩顧に応えるため、豊臣政権を守るために奮闘し続けたのだ。そして秀吉が犯したミスの責任をすべて負い続けた。それにより誤解されることも多く、江戸時代になると三成の子孫たちは三成の墓を埋めて隠し、ひっそりと生活していたという。それほどまでに誤解がさらなる誤解を呼んでいった三成の生涯だったというわけだ。
戦国時代記では今後、石田三成の誤解を解くための巻も少しずつ増やしていきたいと考えている。