信長が称した第六天魔王の真意と比叡山延暦寺の焼き討ち

oda.gif比叡山延暦寺が織田信長によって焼き討ちされると、武田信玄は延暦寺の生き残りを甲斐にて保護した。そして信長に対し延暦寺の焼き討ちを「天魔ノ変化」批判する書状を送ると、その最後に「天台座主沙門信玄(てんだいのざすしゃもん)」と署名した。その意味は天台宗の総本山である延暦寺の住職の元で修行をする信玄」となる。

その書状に対し信長は「第六天魔王信長(どいろくてんのまおう)」と署名し返信した。神仏を大切にしようとする信玄に対し、神仏に頼らず幸せになろうと言う信長。ふたりはまさに好対照であった。

第六天魔王という言葉は時に、「魔王信長」という言葉だけが一人歩きしてしまい、悪魔に心を捧げた信長、と誤解されることもしばしばある。だがそうではない。確かに第六天魔王は神仏に対する敵であるわけだが、信長が使った意図は悪魔という意味ではなかった。

確かに第六天魔王波旬となると、波旬(はじゅん)というのは悪魔という意味になる。つまり「仏道の修行を妨げる悪魔」という意味だ。だが第六天魔王信長となると「仏道の修行を妨げる王信長」という意味になる。魔=悪魔と考えるべきではない。

第六天魔王はどのような魔王かと言うと、上述したように神仏に頼らない幸せを人々に与え、その幸せを自らの幸せとする魔神であると言う。つまり信長は神仏に対し多額の布施を包まなくても、信長の政治に従えば人々は幸せになれる、そんな世の中を作ろうとしていたのだ。

実際当時の比叡山の僧侶たちの多くは遊興にかまけ、金貸しを生業としていたようだ。本来女人を絶って修行すべき僧侶たちが遊女としとねを共にすることも日常だったらしい。そんな堕落した僧侶たちに民を救えるはずがないというのが信長の考え方だった。もちろんそんな堕落した僧侶たちに混じり尊敬すべき高僧・僧侶も多かったわけだが、しかし彼らは比叡山の焼き討ちの巻き添えを食ってしまう。

元亀2年(1571年)9月12日、仇敵となっていた浅井・朝倉を比叡山延暦寺が匿ったことにより信長の怒りは頂点に達しこの日、織田軍は比叡山延暦寺を焼き討ちしてしまった。信長の命は女子供問わず、比叡山延暦寺にいる者はひとりも山から出すなというものだった。いや、本来比叡山は女人禁制であるはずで、そもそも女人などいるはずはなかったのである。そして女人がいないのだから稚児がいるはずもない。だが比叡山には多くの女人と稚児がいた。

ちなみに浅井・朝倉はと言うと坂本での戦いで森可成(乱丸の父)と織田信澄(信長の弟)を討ち取り、その足で比叡山延暦寺に逃げ込んで行った。比叡山に入ってしまえば、さすがの信長も追っては来られないと思ったのだろう。しかしその考えは甘かった。信長は神仏など恐れてはいなかったのだ。

この作戦の先頭に立っていたのは明智光秀だったようだ。ドラマなどでは光秀が焼き討ちに最後まで反論するような場面が描かれてはいるが、事実はそうではなかったようだ。光秀は信長の命に従い、徹底した焼き討ちを遂行している。この功績により坂本領主となった光秀はその後、比叡山の木々も伐採してしまった手の入れようだった。つまりこの頃の信長と光秀はまだ一心同体であったのだ。

比叡山を焼き討ちにしたことにより、信長は日本全国に新たな敵を作り出してしまった。信長自身そのような状況になることは予測していたはずだ。だがあえて焼き討ちを実行したのには、織田軍に立ち向かえる大名・勢力などほとんどいなくなっているという自負からだったのだろう。例え織田包囲網を敷かれたとしても戦い抜ける、そう自信を持っていたのだと思う。だからこそ敵を増やすとわかっていながら、迷わず比叡山を焼き討ちにしたのだろう。

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