浅井賢政が、戦国一の美女と謳われた信長の妹、市を娶ったのは永禄10年(1567年)9月のことだった(時期については諸説あり)。これは浅井家と織田家を結ぶための、いわゆる政略結婚で、この婚儀を機に賢政は信長より一字拝し長政と改名している。ちなみに賢政という名は、かつては主従関係にあった六角義賢の賢をもらった名だった。
浅井家と織田家の関係は同盟当初は非常に友好なものだった。長政自身、信長の天下取りの助力となることを望んでいたともされている。だが唯一の懸念は、かねてより織田家と朝倉家の関係が悪いということだった。浅井家は朝倉家には大恩があった。そのため浅井家としては両者にはあまりいがみ合ってもらいたくはない。
そんな長政の思惑もあり、織田家と同盟を結ぶ際、浅井に断りなく朝倉を攻めないことを信長に約束させている。この約束により、例え織田家と朝倉家が一触即発状態になったとしても、間に浅井が入れば最悪の状態は回避できるはずだった。
浅井家と織田家の同盟については、実は浅井家の総意ではなかったようだ。先見の明があった長政には、今の時代では信長と手を結ぶことが浅井家を守る最良の手だとわかっていた。だが朝倉との仲を懸念する父、浅井久政や何人かの重臣はこの同盟には反対だったようだ。
しかし同盟を結ばなければ、美濃の斎藤が滅んだ後は浅井が織田に攻められることは明白だった。何故なら信長が尾張から上洛するためには、浅井家が支配する北近江を通らなければならない。もし浅井が道を空けなければ、信長は力づくで道を確保するはずだ。長政にはそれがわかっていたからこそ、久政が大反対をしても織田との同盟を推し進めたのだった。
このような点を見ていくと、浅井長政は決して優柔不断ではなかったように感じられる。むしろ積極果敢に未来を切り開こうとする才知溢れる武将のようにも見える。
浅井の協力もあり、信長は永禄11年(1568年)9月16日に足利義昭を奉じ念願の上洛を果たした。だがこの上洛が長政の頭を悩ませることになっていく。