信長はまず、小谷城までの経路の確保に努めた。その任を仰せつかったのが羽柴秀吉であり、調略を担当したのが稲葉山城乗っ取り事件を起こした竹中半兵衛だった。この頃竹中半兵衛は客人として秀吉の陣に加わっており、軍師として活躍していた。半兵衛の活躍で堀秀村の調略に成功し、織田勢は難なく小谷城への経路を確保することができた。
元亀元年(1570年)6月21日、織田軍は浅井父子が立て篭もる小谷城を取り囲み、城下に火を放って回った。信長の作戦は長政を挑発し、野戦に持ち込むことだった。だが長政も愚将ではない。信長の作戦などすでに見通しており、挑発に乗ることはなかった。だが信長も長政が愚将ではないことをよく知っている。だからこそ愛する妹、市を嫁がせたのだ。
信長は第二の作戦に出た。長政にあえて背を見せ、背後から襲わせるという作戦だ。だがもちろんただ襲われるわけではなく、追撃に出てきた浅井勢を返り討ちにするための作戦だった。浅井勢は多少の追撃は見せたものの、しかし本格的に城から討って出ることはなかった。だが籠城戦に持ち込まれ、小谷城を陥すのに何ヵ月も、何年もかけるつもりは信長にはない。
信長は方向転換をし、支城である横山城の攻略へと向かった。小谷城からは6キロ程度しか離れていない、まさに目と鼻の先にある支城であり、信長はここを本拠にし本格的な浅井攻めを行う腹づもりだった。大方の予想通り横山城はあっさりと陥落した。そしてこの頃6月24日、織田軍には5千の兵を率いた徳川家康が加わった。
一方浅井方にも、8千の兵を率いた朝倉景健(かげたか)が援軍に駆けつけた。すると6月26日、織田軍4万+徳川軍5千、浅井長政5千+朝倉景健8千が大依山(おおよりやま)で対峙する形となった。4万5千と1万3千とではあまりに兵力に差があり過ぎる。だがこれを逆手に取ったのは長政だった。6月27日、この大差により一旦兵を引く姿を見せる。もちろんこれは長政の陽動作戦だ。織田勢を誘き寄せ、地の利を活かし戦うつもりだった。しかし信長がそんな戦術に乗ることはなく、織田勢が追撃に出ることはなかった。
6月28日、浅井・朝倉連合軍は結局姉川まで軍勢を進め態勢を整えた。そして川を挟み浅井の正面には織田、朝倉の正面に徳川が向かい合う形で布陣した。いよいよ姉川合戦の火蓋が切られようとしていた。