最期の姿だけで愚将のレッテルを貼られた北条氏政

houjo.gif北条氏政という人物は言われているように、本当に愚将だったのだろうか。戦国時代の出来事について書かれた家記や軍記などは、大きく誇張されたり後世の創り話が加えられていることが非常に多い。氏政の無能振りを強調したような「二度汁」に関するエピソードも、真実は毛利家のエピソードからの引用だとされている。

「二度汁」とは、この時代は飯に汁をかけて食べるのが一般的だったわけだが、毎日食べているにもかかわらず汁の分量を一度では量り切れず二度に分けたため、そんな分量も量れない者に善政が可能なはずはない、当家も自らの代で終わるのか、と北条氏康が氏政を嘆いたとされるエピソードだ。だがこれは上述の通り、毛利元就の輝元に対してのエピソードの引用であった可能性が高い。

氏政が愚将と呼ばれる所以は、やはり大名としての北条家を滅亡に追い込んだ事実があるためだろう。本能寺の変が起こり、その後豊臣秀吉が力を付けていくわけだが、氏政は天下統一を目前としている秀吉と対立してしまったのだ。しかも真田昌幸のような智謀により勝機があってこその対立ではなく、小田原城の守備力を過信してのものだった。

確かに小田原城はかつて、戦国最強と謳われた上杉謙信や武田信玄の侵攻さえも難無く防いだ名城だ。だが上杉軍や武田軍と、北条家の最後となる頃の豊臣軍とでは軍勢の規模がまるで違っていた。確かに上杉謙信が10万を超える軍勢で攻め込んできたこともあったが、しかし小田原城を攻めた際の豊臣軍は22万だったと言われている。

見たこともないようなこの大軍勢を前に北条勢は戦意喪失してしまい、結局降伏することになった。こうして勝てないとわかり切っていた戦を行い大名北条家を滅亡位に追いやったため、氏政は愚将と呼ばれるようになった。

ではなぜ氏政は豊臣に敵対したのか。それは独立大名としての誇りを強く持っていたためだとされる。この時代に北条が大名として生き残るためには豊臣に臣従する必要があった。だが同時に徳川、もしくは上杉の格下として扱われる可能性が高かった。北条にとって上杉は天敵であり、徳川にしてもかつてのライバルで、一昔前であれば徳川よりも北条の方がよほど大きな家だった。そのようなプライドが働き氏政は判断を鈍らせ、豊臣に敵対する道を歩んでしまった。

しかし本能寺の変が起こらなければ、氏政の判断は決して愚かなものばかりではなかった。まず織田信長が力を付け始めると、武田家の抑えとして北条家は織田家と友好関係を築いていく。そして天正10年(1582年)に織田家が甲州征伐に乗り出した際も助力している。このまま何も起こらなければ織田家との同盟により、北条家は末長く安泰となるはずだった。だが氏政の判断も本能寺の変によりすべてが狂い出してしまう。

本能寺の変が起こるまでは、武田との同盟により上杉と戦い、さらには徳川との同盟により今度は武田を攻めるなど、臨機応変の現実的な判断を数多く下してきた。もし氏政のこのような判断がなければ、北条家はもしかしたらもっと早くに衰退していたかもしれない。北条氏政を生涯を通して見ていくと、決して愚将ではなかったと言える。しかし最後の最後で大きな過ちを犯してしまったため、そのことだけが人々の記憶に残り、愚将のレッテルを貼られてしまったのだった。

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