勇将浅井長政が最後の最後で犯した判断ミス 後篇

azai.gif第15代将軍足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、大名たちに対しても上洛を求めた。つまり第15代将軍への挨拶に出向けという指令だ。しかし尾張の田舎大名の指示に従う謂れはないとし、この上洛命を無視する大名も中にはいた。その中でも最も酷かったのは朝倉義景で、理由をつけて上洛を先延ばしにするどころか、再三に渡る上洛命を義景は無視し続けたのだった。

これにより信長と義景の関係はさらに悪化していく。だが義景にしてみれば確かにこれは面白くない上洛だった。何故なら信長が義昭を奉じ上洛する直前まで、義昭は越前朝倉家の庇護下にあったのだ。だが美濃を制した信長が上洛できる旨を書状で伝えてくると、義昭は越前を去り信長の元へと鞍替えしてしまう。

義昭は朝倉から受けた恩に感謝を示したものの、義昭が朝倉の天敵である織田家に鞍替えしてしまったことがまったく面白くない。しかも信長からは上洛の命が何度も届く。尾張の田舎大名から上洛の命を受けることなど、名門朝倉家としては受け入れられるものではなかった。それが例え第15代将軍足利義昭の名代であったとしても。

朝倉と織田の関係が悪化していることに最も頭を悩ませたのは浅井長政だった。浅井の了承なしに朝倉を攻めないという約束をしてはいたが、しかしまさに今一触即発状態に陥っている。信長は今にも朝倉攻めを開始しそうな様相を見せていた。

元亀元年(1570年)2月30日、信長は3万の大軍を率いて上洛すると、4月20日には若狭国の武藤氏を討つために京を後にした。そしてあっという間に武藤氏を征伐すると4月24日、信長はそのまま東に進路をとることを重臣たちに告げた。つまりこれは上洛命に従わない朝倉を征伐することを意味していた。

信長はこの時、果たして長政との約束を忘れてしまっていたのだろうか。それとも覚えてはいたが、上洛命に従わなかったという大義名分があったため、約束など関係ないと踏んだのだろうか。信長は浅井に断ることなく朝倉攻めを開始してしまった。4月25日には天筒山城(てんづつやま)をあっという間に陥落させ、翌26日には金ヶ崎城と疋田城(ひきた)を陥した。

織田軍は破竹の勢いで朝倉義景の居城である一乗谷館に迫ろうとしていた。そして浅井長政は大きな決断を迫られていた。義兄である信長につくべきか、祖父の代に浅井の独立に力を貸してくれた大恩ある朝倉に味方すべきか。長政の決断により浅井家の運命は大きく変わってしまう。浅井家を守るも滅ぼすも、長政のこの決断一つですべてが決まってしまう。

父久政は当然朝倉に味方すべきだと長政を説く。そして重臣たちもまた約束を反故にした信長よりも、大恩ある朝倉に味方すべきだという意見が大勢を占めていた。だが浅井を守るためには朝倉を見捨ててでも織田につくべきだということもまた、長政にはわかっていたのだ。それでも長政の意見を支持する家臣は少なかったようだ。

この時信長はと言えば、まさか義弟が裏切るとは夢にも思っていなかったようだ。信長という人物は時に人を信じ過ぎる嫌いがある。本能寺の変も、明智光秀を信じ過ぎたばかりに相手に隙を見せてしまった。今回もやはりそうで、長政を信じ切ったが故に信長は北近江を背にした状態で朝倉攻めを開始してしまった。

長政は市を愛し、市もまた長政を愛していた。だが浅井家に於いて朝倉に味方することが総意になりつつある中、長政ひとりの意見で織田につくという決断を下すことはできなかった。長政は最後の最後で自らの判断ではなく、周りに押し切られる形で朝倉に味方することを決めてしまう。故に後々優柔不断の将であったと後々語られてしまうのである。

長政は義兄を敵に回すことを市に詫びると、がら空きになっている織田軍の背後を突くため小谷城から出陣していった。そして市は小豆を藁で包み両端を縛ると、それを急ぎ兄信長の元へと送った。これは浅井・朝倉に前後を挟まれ、織田が袋の鼠状態であることを伝える市からのメッセージだった。ただしこのエピソードに関しては、後世書かれた『朝倉家記』で創作された話であるようだ。

信長はそのメッセージをすぐに理解し、義弟浅井長政の裏切りを知り烈火の如く怒り狂うのだった。そして羽柴秀吉に殿を命じると、壮絶な戦いにより金ヶ崎を撤退していく。長政からすれば、もしこの戦いで信長を討つことができなければ、それはすなわち浅井家の滅亡を意味していた。しかし信長は命辛々でありながらも無事に京に辿り着いてしまうのだった。


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