だが明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実
』を読むと、秀吉が本能寺で事件が起こることをあらかじめ知っていたであろう証拠が並べられている。その内容はどれも納得がいくものばかりで、こうして証拠を並べられると疑う余地もない。
そもそも織田と毛利はそれほど険悪な状態ではなかったようだ。毛利に天下を狙う意志はなく、領地安堵のみを望んでいた。そのため毛利から積極的に戦を仕掛けることもなく、定説で言われているような一触即発状態ではなかった。そして和睦そのものも本能寺の変が起こる以前より下交渉を行われており、羽柴方の黒田官兵衛と毛利方の安国寺恵瓊との間ではほとんど合意に至っていたらしい。
テレビドラマや小説ではドラマティックに仕立てるため、本能寺の変が起こった後に急いで和睦交渉を行ったように描かれることがほとんどだが、しかし事実はそうではなかったようだ。下交渉が行われていたために和睦がすぐに締結し、秀吉は明智討伐へと向かうことができた。
中国大返しは、通常では考えられないようなスピードで備中高松城から姫路城まで戻ったと伝えられている。備中高松城を撤収したのは6月6日14時頃で、姫路城に着いたのは翌7日で、体勢を整えて姫路を発ったのは9日とされている。明智憲三郎氏の研究によれば、備中高松城から姫路城までは通常4日、早くても3日はかかるらしい。だが秀吉が書かせた『惟任退治記』では1日か1日半程度で姫路まで着いたと書かれている。
ではなぜ秀吉は早くても3日かかる道のりを、1日で進んだと書かせたのだろうか?それは本能寺で何かが起こることを知っていたことを、知られないためだ。秀吉が本能寺の変が起きたことを知ったのは3日夜で、そこから和睦を開始し姫路城に向かったのは6日14時頃と伝えられている。しかし6月7日に姫路に着くためには、現実的には遅くとも6月4日は備中高松城を出ていなければならないと明智憲三郎氏は言う。
つまり2日の夜に信長が討たれ、3日の夜に秀吉がそれを知り、4日には和睦を済ませ備中高松城を出たという真実が知れ渡れば、秀吉が本能寺で何かが起こることをあらかじめ知っていたと疑われる可能性が高いのだ。その事実を隠蔽するために秀吉は真実よりも2日以上遅い、6月6日14時に備中高松城を発ったと書かせたのだ。これが中国大返しの真実であり、史実は決して『惟任退治記』に書かれているように1日で姫路城に着いたわけではなかったのだ。
秀吉という男とは、現代でいうメディア操作に長けた人物だった。かんたんに言えば様々な噂を流すことにより、自らを誇張するのが得意だった。そして時を経るほどその誇張が真実として定着するようになり、秀吉伝説が作られていくことになる。中国大返しも不都合な真実を隠すために誇張し書かせたものであり、決して真実ではなかったのだ。
もしかしたら今後も歴史研究が進むことにより、『本能寺の変 431年目の真実 』のように証拠を並べ立て新たな真実が明らかにされることが増えてくるのかもしれない。そうなれば今まで常識として伝えられていた戦国時代の多くの出来事が、実は作り話だったなんてことになるのかもしれない。