豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役と二度行った唐入りの真相

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豊臣秀吉はなぜ文禄の役、慶長の役と二度に渡り唐入りを実施したのか?唐入り賛成派の武将というのは実はほとんどいなかった。大それた反論はしなかったものの石田三成でさえも唐入りには反対しており、実際に反乱の火種となりかねなかった豊臣秀次や千利休に至っては切腹させられている。秀吉はなぜ秀次や利休を切腹させてまで唐入りを目指したのだろうか。


実は唐入り構想の原案は秀吉のものではなかった。最初に唐入りを目指すと口にしたのは織田信長であり、それを嫌った明智光秀により信長は討たれてしまった。つまり秀吉は、信長が考えていたことをそのまま自分のアイデアとして取り入れてしまったということになる。

信長は日の本を統一した後は、有力大名たちには刈り取った朝鮮、民国の広大な土地を与え、国内の主要部は織田一門に任せるという構想を練っていた。本能寺の変直前、織田家で最も力を持っていた家臣が明智光秀であり、まさに光秀は朝鮮、民国に移封させられる最有力とされていた。

秀吉も同じことを考えていた。朝鮮、民国に攻め入り領地化し、力を持ち過ぎた大名たちを国内から追い出そうと考えていたのだ。そしてさらには領土を広げることにより、秀吉は大王になろうとしていたとも言われている。一説では実子捨(すて)の死の悲しみを癒すべく唐入りしたとも言われているが、一国を治める太閤(前関白の意)がそのような理由で戦を仕掛けるはずはない。

秀吉も信長同様、有力大名たちを国内から追い出すような形にし、国内は豊臣一門を中心に政権運営していくことを目指したのだった。そしてこれが実現されれば秀吉亡き後、有力大名に後継が狙われる心配もなくなる。秀吉としては先の短くなっていた命、後継が狙われる心配を排除した上で命を全うしたかったようだ。

だからこそ唐入りに意を唱え、クーデターを起こす可能性のあった豊臣秀次や千利休を、下手な言い掛かりをつけて切腹させてしまっている。実際多数の武将たちが秀次や利休を頼り、秀吉に唐入りを中止させるように頼んでいたようだ。秀吉としては唐入り反対派をまとめる役割を果たしていた秀次や利休が邪魔で仕方なかったというわけだ。

武器商人であった千利休としては、実際のところは唐入りという大掛かりな戦をしてくれた方が莫大な利益を得ることができた。それでも利休が唐入りに反対したということは、それだけ国益に繋がらない大義なき戦だと唐入りは見られていたのだろう。そして実際二度に渡り行なわれた唐入りは、大義も成果も何もない戦で、ただただ大名たちを疲弊させただけで終わってしまった。

だが秀吉からすれば、力を持ち過ぎた大名の体力を失わせただけでも、唐入りは成功に値するものだったのかもしれない。だが立派な武将に成長していた豊臣秀次を切腹させてしまったことで、豊臣政権はその後大きく揺らぐことになってしまう。秀次は素行が悪かったとも伝えられているが、しかしそれは切腹を命じた際のでっち上げだと考えられている。実際の秀次は武士としての習い事も真面目に取り組み、勤勉であり、教養にも優れた人物だった。

詳しくはこちらの巻に記しているが、秀次は千利休の愛弟子でもあった。そのため唐入りを阻止するために二人が結託していた可能性も非常に高い。だからこそこのふたりが揃って見せしめとして切腹させられたと考えるのが自然ではないだろうか。

日の本全体としては決して成功とは言えない結果に終わった唐入りだが、しかし秀吉個人からすれば上述の通り唐入りは決して失敗ではなかった。だがその唐入りをめぐっての秀次の切腹などにより、その後豊臣政権が行き行かなくなってしまった。もし秀次に切腹を命じていなければ幼い秀頼が家督を継ぐ状況にもならず、豊臣政権も秀吉一代では終わっていなかったかもしれない。

だが秀次を失ってしまったことにより豊臣政権は大きく揺らぎ、秀吉の死後はあっさりと徳川家康に政権を乗っ取られてしまった。そういう意味に於いては秀吉の唐入りは、特に秀吉の死後は豊臣家に大きな爪痕を残す形となってしまった。

天正19年(1591年) 千利休切腹
文禄元年(1592年)  文禄の役
文禄4年(1595年)  豊臣秀次切腹
慶長2年(1597年)  慶長の役
  • 豊臣秀吉はなぜ文禄の役、慶長の役と二度も唐入りしたのか?!
  • 豊臣秀次と千利休が切腹させられた本当の理由
  • 秀吉にとって唐入りは成功でも、秀吉死後の豊臣家にとっては失敗

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