秀次は実力に乏しい武将として語られることも多いが、事実はそうではない。生前は数々の武功を挙げているし、習い事にも熱心に取り組み、文武両道の実力派の武将だった。だからこそ豊臣家臣団たちも秀次に気に入られようと尽くしている。中には自らの娘を側室として送った家臣もいたらしい。果たして秀次が本当に無能であったならば、豊臣家臣団がそこまで秀次詣を行っていただろうか。
だがそんな秀次は関白職を賜った天正19年(1591年)から僅かに4年後の文禄4年(1595年)7月15日に切腹を命じられている。理由は諸説あるが、筆者が最も信憑性を感じているのは千利休の切腹と同様の理由だ。そして利休同様、秀次をも切腹に追い込んだ黒幕が、石田三成だと言い伝えられている。だがこれも徳川幕府時代に事実を歪曲されてしまったものだ。三成は利休の切腹も、秀次の切腹も主導していない。
今回は秀次切腹に関して書き進めていくわけだが、ルイス・フロイスの手記によれば、秀次が関白を継いだ2年後に秀吉と淀殿に拾丸(ひろいまる、のちの豊臣秀頼)という待望の男の子が誕生すると、秀次と秀吉の関係はどんどん悪化していったらしい。秀吉はもう自分では子供を作れないと感じていたからこそ甥である秀次に豊臣の家督を譲っていた。だがその僅か2年後に淀殿が男の子を生んだのだった。これにより秀吉は、秀次に家督を譲ったことを後悔し始める。
そして秀次を廃嫡にする理由を探し始めるわけだが、秀吉はその相談も「何か良い手はないか」と三成に持ちかけていたはずだ。恐らくそれによって三成黒幕説が煙を立て始めたのだろう。だが三成は義将だ。いくら秀吉からの相談だったとは言え、秀次を理不尽に廃嫡にする方法など簡単に進言するはずがない。
そんな中秀次は何人かの武将たちとよく鷹狩りに出かけていた。それを知り秀吉は、秀次が反秀吉武将たちと鷹狩りと称し謀反を企てていると断罪したのである。もちろん事実無根であり完全なる捏ち上げた。もちろん三成が流した噂でもない。にも関わらず秀吉は、そうまでしても秀次を廃嫡し、拾丸に家督を譲りたかったのだ。
だがさすがに謀反疑惑はあまりにも根拠がなさすぎるし、周囲もこの噂を鵜呑みにすることはなかった。つまりそれだけ秀次は周囲から慕われてもいたのだ。そして石田三成たち奉行衆の説得もあり、秀次自身が逆心はないという起請文(きしょうもん)を認めたためこの問題はこれで終わっている。
しかしこの後も秀次は次々に疑惑をかけられ、その度に秀吉の命を受けた三成が疑惑の真意を問い質すことを繰り返していた。するとそのうち秀次も呆れ果てたのか、三成の詰問にすぐに応じなくなる。このようなやり取りも、三成黒幕論が恣意的に助長されている場合がある。