石田三成の戦下手の象徴となった「のぼうの城」の水攻め 前篇

ishida.gif石田三成は戦下手としてよく知られているが、実際はそんなことはなかった。石田三成の戦下手を強調する戦として忍城(おしじょう)の戦いと関ヶ原の戦いが挙げられるわけだが、特に忍城の戦いでの失敗が三成の戦下手を有名にしてしまった。だがそう語っているのは徳川幕府が開かれたあと、江戸時代に書かれた書物なのだ。

石田三成と徳川家康は天敵同士だった。江戸時代に徳川幕府に取り入ろうとする者の多くが、三成批判を展開していた。中には三成の故郷である近江の石田村までわざわざ出向き、石田家の墓を破壊する者までいたと言う。つまり江戸時代に書かれた石田三成に関する事柄は信じてはいけないということだ。

さて、忍城の戦いというのは一般的にはそれほど有名な戦ではないが、映画『のぼうの城』と言えばピンと来る方が多いのではないだろうか。この戦は豊臣秀吉が北条氏を滅亡させた小田原征伐の一環だったわけだが、小田原城の支城であった忍城への攻撃を秀吉から任されたのが石田三成だった。ちなみに忍城とは現在の埼玉県行田市にある、関東七名城のひとつだ。

この忍城攻めを三成は、秀吉が備中高松城を攻めた時のように水攻めを行った。堤を築き周囲を水浸しにし、城を浸水させ開城を迫る戦い方だ。だが備中高松城攻めの時のように水攻めは上手くはいかなかった。堤が決壊してしまい、本来は城を攻めるはずの水が石田陣営に流れ込んでしまったのだ。この失敗により三成は戦下手であるとのちに語られるようになる。

だが事実は違う。繰り返すが三成の戦下手を流布させたのは江戸時代の語り部たちだ。実は三成は忍城は水攻めにすべきではないと秀吉に進言していた。その理由は忍城の周辺は元々湿地帯で、過去洪水が起こっても城に被害が及ぶことはほとんどなかった。なぜなら忍城は湿地帯の中心にある孤島のような丘に築かれており、例え洪水が起こったとしても城が沈むことはないのだ。実際に忍城を見てそれがわかったからこそ、三成は水攻めはすべきではないと進言したのだ。

実は三成は共に忍城を攻めた浅野長吉(秀吉の死後に長政に改名)に対し「力攻めをすべきだが、諸将は水攻めと決めかかっており戦意を失っている」という趣旨の書状を天正18年(1590年)6月12日に送っている。さらにその後7月3日には秀吉が長吉に対し「とにかく水攻めをし、水攻め以外で攻めた将は処罰す」という書状を送っている。秀吉は三成に対しても6月20日に書状を送り、堤の図面などを提出させ自ら指揮を執る姿勢を見せている。

つまり忍城水攻めは三成は反対していたのだが、秀吉が水攻めにこだわったことにより行われた攻城だったのだ。三成は始めから力攻めをして一気に方をつけべきだと言い続けていたのだ。なぜなら石田勢2万3千に対し、忍城の守勢は3千程度だったからだ。

ではなぜ秀吉はこの時水攻めにこだわったのか?それは諸大名に対するパフォーマンスだったと考えられている。水攻めというのは大量の人員と莫大な費用がかかる。秀吉はそんな水攻めを行うことにより動員力と財力を見せつけ、諸大名の反抗心を減退させようとしたのだ。要するに水攻めが成功しようが失敗しようが関係なかったのだ。秀吉は動員力と財力を見せつけられればそれで良かったのである。


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