備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。
土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。
大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。
忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。
結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。
忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。
なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。