石田三成はなぜ関ヶ原の戦いで野戦を選んでしまったのか

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慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いで、西軍最大の敗因は石田三成が籠城戦を選ばず、大垣城を出て野戦を選んでしまったことだと言われている。物語などではよく、野戦が得意な家康位に対し野戦を挑んだ三成を戦下手だと評しているが、家康が野戦を得意としていることは三成もよく知っていたはずだ。それなのになぜ三成は野戦を選んだのだろうか?!

一般的に考えれば西軍は大垣城を出るべきではなかった。東軍は大軍勢で美濃まで進行してきているため、兵站の確保が難しい。長期戦になるほど兵糧の消費も多くなり、戦が長引くほど籠城側に有利な状況になっていく。特に関ヶ原の戦いでは遠方から駆け付けた軍勢も多かったため、兵糧に関してはかなりの不安要素となっていた。

一方大垣城に入っていたのは三成自身であったため、兵糧など兵站の準備は得意分野であり、備えも万全だったはずだ。籠城しようと思えば1年以上は戦える準備を整えていたはずだ。そして籠城して堪えている間に東軍の士気が下がり、そこを突く形を取れば大きな勝機も見えて来たはずだ。それに関しては三成自身もそう考えていたのだろう。

しかし現実問題として、籠城するわけにはいかない状況に陥っていた。それは小早川秀秋の西軍離脱だ。関ヶ原の戦いが開戦する何日か前には、小早川秀秋の裏切りは疑いようもないものになっていた。その小早川秀秋が着陣したのが松尾山という、大垣城の西にある場所だった。

そして東側からは家康が西上してきている。つまり小早川秀秋の裏切りがほとんど確定した時点で、大垣城は小早川勢と徳川勢に挟撃されてしまう状況に陥ってしまったのだ。小早川勢が東軍に寝返ったとなれば、大垣城は完全に包囲される形になる。つまりは小田原攻めと同じ状況だ。例え堅固な城だったとしても、完全に包囲されて四方から攻められればひとたまりもない。

小早川秀秋の軍勢は、大垣城を包囲されないようにするため松尾山に配陣させたようなものだった。だがその小早川秀秋が東軍に内通してしまったため、大垣城は一気に窮地に陥ってしまう。これにより三成は、野戦を選ばざるをえない状況になったしまった。決して好き好んで野戦を選んだわけではない。もはや野戦を選ぶしかない状況になっていたのだ。

なおこの時東軍に寝返ったのは小早川秀秋だけではない。大谷吉継の軍勢に加わっていた脇坂安治、小川祐忠も藤堂高虎の調略により東軍に内通していた。9月15日の午前10時頃に開戦されると脇坂・小川が寝返り、その横からは小早川勢が突いてくる。これではさすがの大谷吉継でも太刀打ちはできない。開戦から間も無く、吉継は壮絶な討ち死にを果たしてしまう。

これにより西軍は総崩れになり、立て直しが不可能な状況になってしまった。関ヶ原の戦いは実際には2時間で終わってしまったと言う。江戸時代に書かれた軍記物では当初は西軍が善戦していたと書かれたものもあるが、事実はそうではない。軍記物に書かれている内容のほとんどは、家康の勝利を劇的に見せるための脚色だ。

事実は善戦するどころか、開戦直後に西軍は総崩れとなってしまったのだ。そしてさらに裏切り者として名を挙げるならば、毛利輝元もまた、開戦前日までに東軍に内通していたと言う。つまり西軍の総大将が東軍に内通したということだ。三成自身、まさか盟友であり西軍総大将の輝元に裏切られるとは夢にも思わなかっただろう。

関ヶ原の戦いは、調略という前哨戦ですべての勝敗が決してしまった。小早川秀秋、毛利輝元の調略に成功した徳川家康に対し、福島正則の調略に失敗してしまった石田三成。

石田三成は調略にあたり、とにかく秀吉に対する義を説いて福島正則の説得を試みた。一方の家康方は黒田長政が小早川秀秋の調略を担当したのだが、この時長政は幾度も嘘の情報を秀秋に対し送っている。やはり戦国の世に於いては義だけで生き抜くことはできないということなのだろう。だが義将石田三成が現代の通説のように悪人に仕立てられてしまったことは、どうしても納得し難いものだ。

だがそれができる人間が戦国の世では強い。羽柴秀吉は明智光秀を悪人に仕立て上げることにより、徳川家康は石田三成を悪人に仕立て上げることにより天下を奪った。そう考えると西軍の敗因は、石田三成の人柄の良さが招いてしまったと言うこともできるのかもしれない。
  • 関ヶ原の戦いは前哨戦で勝敗が決していた
  • 石田三成はなぜ籠城戦を選ばなかったのか?

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