本能寺の変で、明智光秀はそこにはいなかったという驚きの事実

明智家

本能寺の変が起きた際には鳥羽にいた明智光秀

本能寺の変を舞台にしたテレビドラマや映画を見ると、必ず明智光秀が本能寺の門の外で軍配を振っているようなシーンが描かれている。だがこの光秀の姿は事実ではなかった可能性があり、これに関しては長い間専門家たちも議論していると言う。

本能寺の変が起こったのは1582年で、それから87年後の1669年に書かれた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という古文書があるのだが、実はこの古文書に「光秀は鳥羽に控えたり」という記述があるのだ。この古文書は関屋政春によって書かれたもので、斎藤利宗が井上清左衛門に語った言葉として書かれている。

井上清左衛門とは加賀藩の士で、斎藤利宗とは光秀の重臣だった斎藤利三の三男だ。『乙夜之書物』によれば、本能寺を急襲する軍を率いたのは斎藤利三と明智秀満で、光秀は本能寺の南8kmほどの鳥羽の地で待機していたらしい。

一般的な本能寺の変は、公家の吉田兼見の日記に書かれていた内容に沿っている。その日記には光秀が信長が滞在していた本応寺(本能寺)に向かったという趣旨のことが書かれているため、本能寺の変は光秀自らが陣頭指揮を執ったと思われていた。

だが吉田兼見の日記には事実同様に噂話の類も多く書かれているため、本能寺の変に関する記述に関しても確かな事実であると言い切ることはできない。吉田兼見が誰かから聞いた話を日記に書いただけという可能性も低くはないからだ。

ちなみに光秀が鳥羽に控えていたという話が広く知られていなかった理由は、関屋政春が自ら記した『乙夜之書物』を他人に見せることを禁じていたからだったと言われている。この古文書は関屋政春が息子のためだけに書き残した物だったらしい。

なおこの古文書は金沢市立玉川図書館の所蔵で、三巻による書物だ。そしてこの書物は関屋政春の直筆であるらしく、複製されなかったこともこの事実が公にならなかった理由であるようだ。

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