明智光秀という人物にはまだ多くの謎が残されている。その最大の謎はもちろん、なぜ本能寺で主君信長を討たなければならなかったのか、ということだが、それに次いで出自にもまだ多くの謎が残されている。近年専門家の研究によって随分多くのことが判明してきているわけだが、それでも光秀の出自には明確にならない部分もまだ多い。
明智姓を隠そうとした光秀の親族
ではなぜ明智光秀の出自には不明瞭な点が多いのか。その理由は主君信長を討ってしまったことにより、永きに渡り逆賊として扱われてきたからだ。光秀の出自を追う資料としては、土岐家の家系図と明智家の家系図が存在している。しかしこの2つの家系図には相違点が散見していて、どちらも光秀の出自を正確に伝えるための資料にはなり切れていない。
その理由は本能寺の変後、光秀の親族が明智の名を隠そうとしたことにある。もし明智光秀同様に逆賊として扱われることになれば、とてもじゃないが普通の暮らしは送れなくなってしまう。そうならないために本能寺の変後、江戸時代も含め、明智姓を捨てた明智一族が多かったようだ。そのために家系図が正確でなくなってしまった、という事情があるらしい。
高木家の居城で誕生した明智光秀
光秀が生まれた頃の明智家は、小さな土豪に過ぎなかった。大きな力も持っておらず、吹けば飛んでしまうような小さな家柄だった。そんな明智家に光秀が誕生したのは享禄元年(1528年)で、生まれたのは美濃の多羅城だった。しかし多羅城は高木氏の所領だったため、生まれは多羅城だが、育ったのは別の場所であるらしい。
明確な資料が残されているわけではないのだが、専門家たちの懸命な研究によれば、どうやら生まれた後は妻木氏の所領で育った可能性が高いようだ。妻木氏とは妻木範煕のことで、当時は明智家よりも大きな力を持っていた。恐らくは妻木範煕の庇護を受けながら光秀は育ち、のちに妻木範煕の娘、煕子を娶ったのだと考えられている。
国主からも嘱望された若き日の明智光秀
若き日の明智光秀を見た美濃の国主斎藤道三は、「彦太郎(光秀)は万人の将になる人相がある」と言ったとされている。光秀は十代の頃よりすでに文武に磨きがかけられていて、国主からも将来を嘱望された若武者だったと伝えられている。だがその道三が息子義龍に討たれてしまうと、状況は一変していく。
当時の住まいだった明智城は義龍軍に落とされ、光秀は一族を連れて脱出するのが精一杯だった。そしてこの後から明智光秀の放浪生活が始まっていく。明智城を落とされたのは弘治2年(1556年)、光秀が29歳の時で、その後越前の朝倉家に500貫で仕官したわけだが、30歳になると光秀は諸国放浪へと旅立ち、越前に戻って来たのはその5年後だった。
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