明智光秀という人物は時に、義理に堅くない武将として語られることがあるが、実際にはそんなことはなかった。義理堅く律儀な人物だったということが、光秀が残している書状などから読み取ることができる。
朝倉家の被官とは言え正式な臣下ではなかった光秀
光秀がなぜ義理堅くない武将として語られるかと言えば、それはひとえに主を次々と変えていったためだろう。順に追っていくと斎藤家、朝倉家、足利家、織田家と転々としている。まず斎藤家に関しては斎藤義龍に明智城を攻められて美濃を追われているため、これは光秀の意志ではない。その後越前の朝倉家に仕官するわけだが、その身分は平社員どころか、契約社員のような一時的なものだった。
その後朝倉家にも籍を置いたまま足利義昭に仕えていくわけだが、これは細川藤孝の推薦によるものであり、決して光秀が朝倉義景を蔑ろにしたわけではなかった。ちなみに足利義昭からすれば、大名家は幕臣であるという考え方があるため、各大名家の家臣は自らの家臣という考えもあったはずだ。
一方朝倉義景からすれば、契約社員1人が掛け持ちで他社で働いていたとしても痛くも痒くもない。そのため光秀は義景からすれば「欲しければあげるよ」という程度の存在だったと言える。
朝倉家と足利家に於いての明智光秀の地位とは
足利義昭の側近として織田家に出入りするようになると、光秀は織田信長に気に入られるようになる。その理由の一つとして、光秀が信長の正室である濃姫の従兄妹だったことも影響していたのだろう。この頃の光秀はまだ正社員と呼べるような地位は手にしていなかった。越前はもう完全に去っていたとしても、足利義昭自身「流浪の将軍」状態であり、家臣をしっかりと養う力を持っていたわけではない。そのような状況だったため、義昭と信長の取次役を務めているうちに、信長から頼まれる仕事の割合が少しずつ増えていった。
そうしているうちに光秀は初めて正式な家臣として織田家に仕えるようになる。光秀は決して、義景や義昭を踏み台にしていったわけではない。朝倉家と足利家では光秀は契約社員程度の身分であり、それを信長が初めて正社員として迎えたのであって、光秀が義理に堅くない人物であったからではなかった。
朝倉家が滅んだ直後に光秀が認めた書状の内容
光秀はよく筆を手にする人物だった。例えば束の間の休暇を取り旅行を楽しむと、親しい友人に向け、今でいう絵葉書のような手紙を書くこともあった。そして知人の体調が優れないと知れば、すぐに見舞いに出向いたり気遣いの手紙を書くこともあった。
光秀はどうやら越前にいた頃、竹という人物に世話になっていたようだ。だが朝倉家は後に織田信長に攻められ滅ぶことになる。朝倉家が滅んだ後、光秀は服部七兵衛尉(はっとりしちへいのじょう)という人物に「朝倉が攻められた際、竹を助けてくれてありがとうございました」という内容の書状を認めている。光秀が本当に薄情な人物だったとすれば、果たしてこのような書状を認めただろうか。
ちなみに戦国時代には、光秀のように二つの家で被官することは決して珍しいことではなかった。また、他家からの引き抜きも日常茶飯事であり、光秀のように仕官先を転々とする武将はどこにでもいた。だが確かにそれが元でいざこざが起こることもあり、戦がなくなった江戸時代には、他家からの引き抜きは幕府によって禁止された。
さて、この巻を読んでもらえれば、明智光秀という人物が決して義理堅くない人物ではなかった、ということがおわかりいただけると思う。朝倉義景や足利義昭を裏切ってきた人物なのだから、織田信長に刃を向けたのも不思議ではない、という考え方は間違いであると筆者は考えている。明智光秀という人物は、実は非常に義理堅い人物だったのだ。
- 朝倉家の被官とは言え正式な臣下ではなかった光秀
- 朝倉家と足利家に於いての明智光秀の地位とは
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