麒麟がくる(5)「伊平次を探せ」の史実とフィクション

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麒麟がくる第5回放送「伊平次を探せ」ではついに第十三代将軍足利義輝が登場し、さらには国友衆という鉄鋼鍛冶集団も登場してきた。明智光秀は斎藤利政(後の道三)に鉄砲についてもっと調べるように命じられ、鉄砲鍛冶の伊平次という男を探すという内容だった。

鉄砲が最初に渡って来たのは実は種子島ではなかった?!

さて、明智光秀と本能寺はまさに因縁とも言える関係であるわけだが、その明智光秀のドラマの5回目で、その本能寺が早速画面に登場してきた。本能寺とは京にある日蓮宗の寺であり、実は今も昔も商魂たくましい寺院として知られている。現代の本能寺は隣接するホテルを経営しているのだが、戦国時代における本能寺は鉄砲の仲卸業者のようなことをしていたようだ。

火縄銃は天文十二年(1543年)に初めて日本の種子島に渡って来たとされているが、どうやらこれは違うようだ。近年の史家の研究結果によると、どうやら天文十二年以前に朝鮮より日本の複数の湊町に伝えられていたという。ちなみに第4回放送では天文十七年(1548年)頃が描かれているため、劇中では少なくとも鉄砲が伝来して5年以上は経過していることになる。

今も昔も商魂たくましい本能寺

ただ、本格的に鉄砲の複製品が作られ始めたのは種子島であるようで、種子島で作られた鉄砲が本能寺に持ち込まれて売買されていた。本能寺は宗教という隠れ蓑を用い、鉄砲の仲介役を務めていたようだ。現代ではホテル業を営み、戦国の世では鉄砲の仲介業者役を務めていたというわけだ。そのため宗教家集団というよりも、戦国時代では商人としての色が濃かったとも言われている。

ちなみにこの鉄砲の暴発などによって本能寺はよく炎上していたのでは、と考えられることもあるが、それはもちろん間違いだ。本能寺が天正十年(1582年)の前に焼失したのは天文五年(1536年)であり、まだ鉄砲は伝来していないものと思われる。

そして仲介業者としての役割は、本能寺の変が起きた天正十年の時点ではもう終えていたのではないだろうか。その理由は本能寺の変が起こった際、信長は弓や十文字槍で戦ったという記録は残っているのだが、信長側の誰かが鉄砲で応戦したという記録は残っていない。もしなおも種子島と本能寺のパイプが繋がっていたのなら、信長も本能寺に保管されていた鉄砲で応戦していたはずだ。だがこの時点ではすでに近江の国友村など、いくつかの拠点で鉄砲が量産されるようになっていた。そのような背景からも、信長が力を付けたこの頃には本能寺はもう仲介業者としての役割は終えていたと考えられる。

明智光秀と盟友細川藤孝の出会い

さて、今回は細川藤孝も登場してきた。細川藤孝と言えば、今後明智光秀と盟友となっていく存在であり、光秀にとっては最重要人物のひとりとも言える。その藤孝が血気盛んな人物として描かれているが、果たしてこれはどうなのだろうか。明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)を娶った細川藤孝の息子忠興は、血気盛んで短気な人物として知られている。忠興は問題を起こしたとされる家臣の首を斬り、それをガラシャの膝の上に置いたり、ガラシャの世話をしていた女衆の耳を斬ったりしたようだが、その度に藤孝がガラシャに謝り、忠興の愚行を許すように諭していたと記録されている。

それらの愚行は『細川家記』に記されているため、多少誇張されていたとしても、まったくの出鱈目が書かれているわけではないと思われる。細川家からすれば、忠興の愚行は家の恥でしかない。しかしそれでも家記に載せたということは、もしかしたら忠興が神経質になるほどガラシャを必死に守ろうとした、ということを伝えたかったのかもしれない。

そのような史実を踏まえると、細川藤孝は決して息子忠興のような武断派ではなかったと思われる。茶の湯や連歌にも造詣が深かったと伝えられており、戦国時代随一の文化人としても知られている。その人物を武断派として描いたのは、これは完全なるフィクションだと言えるのではないだろうか。ただ、まだ一度だけの登場でしかないため、今後細川藤孝がどのように描かれていくのかは今後の楽しみということになるのだろう。ということで次回の放送では、京の町が再び荒れ模様となるらしい。ただし劇中が天文十七年辺りだとするならば、足利義輝が討たれるのはまだ15年以上先となる。そのため将軍義輝の活躍はもう少し楽しめそうだ。

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