明智光秀が再興を夢見た土岐氏とはどんな家柄だったのか?

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明智光秀という人物は、土岐氏の再興に強いこだわりを持っていた。ではなぜ明智光秀は明智姓であるにも関わらず、土岐氏の再興を夢見ていたのだろうか。その理由はいたってシンプルで、明智姓は土岐氏が源流となっており、明智氏の祖先を辿ると土岐氏に繋がっていく。そのため明智姓を「土岐明智」と呼ぶこともある。つまり土岐氏というのは、光秀にとっては言わばルーツということになる。

土岐氏を源流とする偉人は光秀以外にも意外と多い

現代の日本人が日本人としてのルーツ、日本人としての誇りを持って外国へと旅立つように、明智光秀も自らのルーツを誇りとしていた。光秀の時代にこそ凋落していた土岐家だったが、土岐氏というのはかつては名門と呼ばれる一族だった。鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府では鎌倉殿、つまり源頼朝と主従関係にある家のこと)として栄えた家柄であり、鎌倉時代や『太平記』の中で活躍した家柄の一つが土岐氏ということになる。

ちなみに有名どころの土岐源流の人物は明智光秀だけではなく、豊臣五奉行の浅野長政、『忠臣蔵』の浅野内匠頭や、坂本龍馬も土岐氏を源流としている。土岐氏の始祖は諸説あるのだが、土岐光衡(みつひら)であるという説が有力なようだ。この土岐光衡から土岐明智氏を経て16代降ると明智光秀に辿り着く。

土岐光衡の父親は源光長と言い、平家が滅び鎌倉幕府が開かれると光衡は源頼朝の御家人となり、美濃の土岐郡を本拠地にしたことから土岐姓を名乗るようになった。光衡の父ら上の世代も土岐と称されることがあるが、しかし実際にはこの土岐光衡が土岐氏の始祖となる。

斎藤道三と戦おうにも戦えなかった明智家

土岐氏が力を失っていったのは1400年代終盤、戦国時代がまさにこれから始まろうとしている頃だった。この頃の土岐家は数十年に渡り相続争いが頻発し、内紛を続けることで力を失い続けていよいよ天文11年(1542年)、土岐頼芸の代になり土岐氏は斎藤道三によって美濃を追放されてしまった。永きに渡り美濃守護職を務めてきた土岐氏も、ここで滅びを迎えることとなった。

そして斎藤道三によって滅ぼされた土岐氏の再興を誰よりも願っていたのが明智光秀という人物だ。つまり道三は土岐氏の仇になるわけだが、しかし話はそう単純ではなく、明智光秀の叔母にあたる小見の方が斎藤道三の正室となっていたのだ。小見の方は信長の正室帰蝶(濃姫)を生んだことでも知られる。このように明智家と斎藤家の繋がりがあったために、光秀は道三を敵に回すことができなかった。

小見の方は天文元年(1532年)に長井規秀に嫁いだ。長井規秀とは油売りという商人の身から立身出世していき、長井家、斎藤家を次々と乗っ取っていき、最後は美濃一国までもを乗っ取ってしまった、まさに下克上を絵に描いたような人物だった。この長井規秀、のちの斎藤道三が小見の方を正室としていたため、明智家は土岐氏が道三によって美濃から追放された後、この縁組と力関係により、道三に服従せざるを得ない状況が続いた。

美濃守護職を美濃から追放してしまった斎藤道三

土岐家とはまさに名門であり、道三が乗っ取った斎藤家も、元々は美濃守護職である土岐氏の守護代だった。つまり土岐氏を源流とする明智家からすると、斎藤道三というのは土岐氏の守護代だった斎藤氏の家臣に過ぎない存在だったのだ。それが卑劣な手法により下克上を繰り返し、美濃一国の大名まで登りつめていった。「土岐家の家臣の家臣に土岐氏は美濃を追放されてしまった」、このような考えはきっと光秀の中にも少なからず存在していたはずだ。

戦国時代に於いて最も重視されたのは、家が滅ばないようにとにかく家を守ることだった。そして名を途切れさせないため、男子が生まれない場合や戦死した場合、血縁者などから養子を引き受けることによって家名を継いで行った。そして土岐家もそれに倣い、血脈を途切れさせなかったことで、明智氏など数々の名門を派生させていった。その名門の数々を派生させた源流である美濃守護職土岐氏を、斎藤道三は美濃から追放してしまったのだった。

偏見を持たずに人を評価した斎藤道三

斎藤道三という人物は戦国時代を代表する悪人の一人とも呼べるわけだが、有能な人材に関しては一切の偏見を持たずに接した懐の広さも持ち合わせていた。商人から立身出世した経験から、その辺りは農家出身の羽柴秀吉と同じ感性を持っていたと言える。例えば尾張でうつけ者と呼ばれていた織田信長の才能にいち早く気付き、その将来に賭けるかのように愛娘の帰蝶をその尾張のうつけに嫁がせた。そしていつか斎藤家の家臣たちは信長の馬を引くことになるだろうと口にし、息子義龍の機嫌を損ねていく。だが実際には道三の言葉通りになった。

そしてもう一人道三が目にかけたのが彦太郎こと、幼い頃の明智光秀だった。当然道三は光秀の源流が土岐であることも、その土岐氏を追放したことで明智家に良い感情を持たれていないことも理解していたはずだ。それでも有能な人材は有能だと偏見なく言い切ることができたのが、道三の懐の広さだ。もし道三が懐の狭い人物であったなら、他の大名たちがそうしたように、復讐をしてくる可能性のある人物は眼が出る前に排除していたはずだ。しかし道三は決してそうはしなかった。

本能寺の変、すべては土岐家のために!

とにかく土岐氏という家柄は、源頼朝の頃より御家人となり、後々美濃守護職を賜ることになっていく、まさに名門中の名門とも言える家柄だった。その家柄に対し、光秀は誇りを持っていた。そして道三に滅ぼされてしまった土岐家の再興を願いながら若き日々を流浪の日々に費やし、武術、学問、文化、鉄砲技術を磨き、将軍家と縁の深い越前朝倉氏に仕官することによって足利義昭に近付くことに成功し、さらには信長の臣下になっていく。

そして今か今かと土岐家を再興するための機会を窺い続け、天正10年6月2日、本能寺に大きな機会を得ていった。この機会が光秀にとって土岐家を再興するためのものだったのか、土岐家の再興を阻まれることを防ぐためのものだったのか、それは今となっては誰も知ることはできない。だが少なくともこの本能寺の変が、すべて土岐家のために決行された事件だったことは確かなようだ。

ちなみに明智家は、初代美濃守護職を務めた土岐頼貞の九男の子、明智頼重を祖としている。

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