細川ガラシャは本能寺の変後、どのように生きたのか?

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明智光秀が引き起こした本能寺の変によって運命を狂わされた人物は数知れない。しかしその中でも、最も辛い目に遭った一人が細川ガラシャだと言えるかも知れない。細川ガラシャは明智光秀の娘で信長の命令、そして両家の意向によって細川藤孝の嫡男、細川忠興に嫁いだ。戦国時代、この細川ガラシャほど数奇な運命を生きた女性は少ない。

本能寺の変後にガラシャと離縁した細川家

本能寺で主君織田信長を討った後、明智光秀は盟友である細川藤孝に救援を求めた。光秀と藤孝は旧知の仲であり、光秀が最も当てにしていたのが藤孝だった。しかし藤孝は主君を討った光秀に与することはせず、この謀反を知るや否や家督を忠興に譲り、自らは出家して細川幽斎と名を変えた。

そして同じ頃、謀反人の娘となってしまった細川ガラシャは細川家から離縁という形を取られてしまった。だがガラシャが明智家に戻されるという最悪の事態には至らなかった。仮に明智に戻されていたとしたら、光秀の正室や親族同様、坂本城で自刃する運命となっていただろう。だが細川家はガラシャをそのまま明智家に戻すことはしなかった。

二人の世話役を付けられて味土野に送られたガラシャ

細川家は形式上ガラシャとは離縁という形を取ったわけだが、明智家の居城だった坂本城に戻さなかったのなら、その後ガラシャはどこにいったのだろうか?離縁される前は丹後の細川家居城である宮津城で暮らしていたのだが、離縁後は味土野という土地に送られている。味土野とは、現在の京都府京丹後市弥栄町の山の中にある土地で、今もガラシャの時代同様に何もない人里離れた場所となっている。ガラシャはその味土野で約二年間暮らした。

この時ガラシャは、一色宗右衛門と小侍従(侍女)の二人を付けられたのだが、小侍従の名前が記されている記録は存在しないようだ。一説では清原マリアがその小侍従だったという説もあるが、どうやらそれは間違いらしい。この小侍従は細川忠興の命令によって松本因幡に嫁いでいる。清原マリアは貞節を誓いガラシャに代洗を授けた人物であるため、結婚することはできない。そのために辻褄が合わなくなってしまう。どうやらこの小侍従は単に細川家の侍女というだけの人物だったようだ。

本能寺の変から二年後に忠興との再婚が許されたガラシャ

ではなぜガラシャは味土野という何もない山奥に送られてしまったのか。どうやら明智光秀は丹後国に多少の領土を持っていたようで、専門家の研究によればそれが味土野であった可能性が高いらしい。確かにこの説には筋が通る。謀反人の娘ガラシャと離縁をしつつ、そのガラシャを細川領に置いていたとすれば、当時であれば何らかの疑いを持たれても不思議ではない。だが明智領に追放したとなれば、これは細川家が明智家には与していないという大きな意思表示になる。だが宮津城を挟み、坂本城とは反対方向の味土野に追放したというのは、細川家がガラシャに示せた最大限の優しさだったのかも知れない。

細川家が盟友明智光秀に与することがなかったことに関し、後に信長の後継者となる秀吉から高く評価されている。そのためガラシャは本能寺の変から二年後、秀吉により細川忠興との再婚が許されている。そして無事、再び宮津の地を踏むことができ、子供たちとの再会も果たした。永禄6年(1563年)に越前で生まれたガラシャは、本能寺の変が起こった時はまだ19歳だった。19歳の娘が背負うにはあまりにも重い運命だ。だがガラシャの数値な運命はこれだけには止まらなかった。

  • 本能寺の変後にガラシャと離縁した細川家
  • 二人の世話役を付けられて味土野に送られたガラシャ
  • 本能寺の変から二年後に忠興との再婚が許されたガラシャ

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