斎藤道三と斎藤義龍はなぜ戦わなければならなかったのか?

saito.gif斎藤道三は11歳で京の妙覚寺で僧侶となり、法蓮房と名乗った。だがその後還俗して松波庄五郎と名乗り、油屋だった奈良屋又兵衛の娘を娶り、山崎屋という称号で油売り商人となった。しかもただの商人ではなく、一文銭の穴を通して油を注ぎ、一滴でも溢れたら代金は取らないという手法で売り歩いていた。これが美濃で評判となり、庄五郎は財を成していく。

だがある日、当時美濃の国主だった土岐氏の家臣、矢野という名の武士に「その技術は素晴らしいが所詮商人のものだ。だがそれを武芸に繋げられれば、立派な武士になれるだろう」と称えられ、庄五郎は武芸の道に進むことを決意する。その後土岐氏臣下である長井長弘の家臣になり、土岐頼芸の信頼を得ていく。

その後は長弘を殺害することで長井氏を名乗り、さらには斎藤利良が病死すると斎藤氏を名乗り稲葉山城に入り、城の大改築などを行う。さらには土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺し土岐氏を混乱状態に陥れ、最終的には国主であった土岐頼芸を美濃から追放し、斎藤利政(のちの道三)は美濃一国を乗っ取ってしまった。このように乗っ取りに乗っ取りを重ね、最終的には国そのものまで乗っ取ってしまったために、斎藤道三はマムシと呼ばれるようになったのである。

そのマムシ斎藤道三は嫡男である義龍に家督を譲った後でも、義龍のことを良いようには思っていなかった。逆に義龍の弟たちのことは高く評価し、義龍を廃嫡にし、弟に家督を譲るという噂まで流れていたほどだ。さらには三女である濃姫(帰蝶・明智光秀のいとこ)を織田信長に嫁がせ、「義龍率いる斎藤氏は近い将来織田の軍門に下るだろう」という趣旨の言葉まで発している。これによって道三と義龍の関係は日に日に険悪になっていく。

濃姫を嫁がせた頃の織田信長は、尾張の大うつけと呼ばれ周囲も呆れるような存在だった。だが道三は織田信長がうつけの振りをしているのを見抜き、あえて濃姫を大うつけに嫁がせたのだった。織田信長の才覚を見抜いた道三の眼力は素晴らしいものだが、しかしなぜか義龍の才覚を認めることは最期の時までできなかった。

義龍が廃嫡にされるという噂が本格的に広がり始めると、義龍は病を装い弟二人を呼び出し殺害してしまう。そして父道三をも討とうと企てる。冬の間は美濃の深雪により休戦状態が続いたが、弘治2年(1556年)4月、雪が溶けると両軍動き出した。

4月18日、道三は鶴山に布陣し、織田信長の援軍を待った。義龍軍は17,500人という大軍勢となったが、しかし道三軍は2,700人ほどしか動員することができなかった。それは何故なのか?理由は道三が美濃を手中に収めた時の経緯が関係していた。道三は下剋上により長井、斎藤の家を乗っ取り、さらには土岐頼満を毒殺したところで土岐頼芸を美濃から追放し、美濃を手に入れていた。斎藤道三の力量は買っていたとしても、この一連の乗っ取りを快く思っている家臣はほとんどいなかったのだ。

そのため安藤守就(竹中半兵衛の舅)、稲葉一鉄(頑固一徹の由来の人物)、氏家卜全(3人の中では最大勢力)という西美濃三人衆まで義龍側に味方する事態となってしまった。軍勢にこれだけの差が生じてしまっては、織田信長の援軍が到着したところで焼け石に水だと考えたのだろう。義龍が長良川南岸に布陣すると、道三は信長を待たずして長良川北岸に移動し義龍軍と対峙した。

緒戦こそ善戦した道三ではあったが、全面対決となると兵力の差は歴然だった。道三軍はあっという間に押されてしまい、道三の首は小牧源太によって落とされてしまった。

数々の乗っ取りによって美濃を手に入れたマムシの道三だったが、最期は息子との骨肉相食む争いを繰り広げすべてを失ってしまった。そして長良川の戦いで義龍の見事な采配振りを目にし、道三は自分の義龍を見る目が間違っていたことに気付き後悔したと伝えられている。

因果応報とでも云うべきか、それとも業(ごう)、カルマとでも言うべきか。災いはすべて道三の身に返ってきてしまった。ちなみに道三が追放した土岐氏は、明智光秀が本能寺の変を起こしてまで再興しようとした、あの土岐氏だ。つまり明智光秀にとって叔父斎藤道三は、土岐氏を滅ぼした仇敵であり、織田信長はその仇敵の娘婿だったというわけなのである。

  • 僧侶、油商人を経て大名となった下剋上大名、斎藤道三
  • 乗っ取りに乗っ取りを重ね美濃を手に入れたことへカルマ
  • 長良川の戦いで道三に味方する武将が少なかった理由

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