毛利元就が息子と孫に与えた「三矢の教え」と遺言 前篇

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毛利元就は元亀2年(1571年)7月6日、老衰もしくは食道癌にて75年の生涯を閉じた。その病床に元就は2人の息子と家督を継いだ孫を呼び、1本ずつ矢を手渡し、それをそれぞれ折らせた。矢は当然かんたんに折れてしまう。そして次に3本ずつ矢を渡しまとめて折らせた。だが1本なら容易く折れてしまう矢も、3本まとめればなかなか折ることができない。元就はそうして3人を諭し、元就亡き後は3人で力を合わせて毛利家を守るようにと伝えた。これが世に言う「三矢(さんし)の教え」だ。


この時元就に呼ばれたのは孫の毛利輝元(嫡子隆元は41歳の若さで死去)、吉川元春、小早川隆景の3人だった。いわゆる毛利両川と呼ばれた3人で、吉川家に養子となった次男元春、小早川家の養子となった三男隆景、そして長男隆元の子である輝元だ。そして彼らに対し元就は、これ以上の版図拡大はしないようにと遺言を残した。つまり現有の領地をしっかり守り抜くことだけに尽力し、それ以上の領土拡大は行うな、ということだ。

毛利家ほどの大大名であれば、普通であれば天下を目指していても不思議ではない。だがそこには毛利家特有の問題が存在しており、うかつに天下を目指すことができない事情があったのだ。それは毛利家が国人衆あがりの戦国大名だったことに所以している。

戦国大名が県知事だとすれば、国人衆は言わば市長であり、国人衆あがりの戦国大名とは、その国の国人衆のまとめ役という色合いが強いのだ。ちなみに真田家も国人衆あがりとなる。国人衆上がりの戦国大名を、国人衆は自分たちとほとんど対等くらいに考えていたのだ。つまり毛利家は領地の国人衆に対し、絶対的な権力を持っていなかったということだ。

毛利家が少しでも隙を見せるようなら、いつでも自分たちが代わりに国人衆の代表を務める、というくらいに考えていた。そのため一般的な戦国大名と比べると、毛利家は領土をまとめ上げるのに非常に苦労をしていたのだ。その点に関しては真田家と共通している。そしてそういう意味で絶対的なカリスマであった織田信長や、名門武田信玄よりも民政に神経を使っていたのが毛利元就だったというわけだ。

にも関わらず元就は11カ国200万石を治めるまでに毛利家を成長させることに成功した。元就にどれほど高い政治力ががあったのかがよく窺える。国人衆あがりの戦国大名としては、多少誇張されての200万石だったとしても、その手腕はかなり高く評価することができる。ちなみに200万石という数字は太閤検地以前のものであるため、正確な数字ではなかったのかもしれない。もしかしたらもっと多かったかもしれないし、逆に少なかったのかもしれない。

元就は国人衆あがりの戦国大名として国を治める大変さがよくわかっていた。だからこそこれ以上版図を拡大することなく、現有領土を3人で力を合わせて守り抜いて欲しいと遺言を託したのだった。小早川隆景に関してはその遺言を最後まで守り抜こうとしたのだが、しかし関ヶ原の戦いが起こる少し前になると、毛利輝元が領土拡大に意欲を見せていく。だが結果的にはそれが仇となってしまい、関ヶ原後には自らの首を絞めることになってしまった。


  • 毛利元就が息子と孫に与えた「三矢の教え」が意味するもの
  • 元就が遺言で版図拡大を禁じた理由
  • 200万石とも言われた毛利家の最盛期

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