三千の寡兵で二万の大軍を打ち破った毛利元就の厳島の戦い

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当時、毛利元就は大内義隆の傘下に入っていた。しかしその大内義隆が天文20年(1551年)に陶晴賢に討たれてしまう。この直後こそ元就は陶氏に従属の意を示していたが、しばらくすると大名として独立色を強めるするための行動を取り始める。それにより毛利元就と陶晴賢は敵対関係となり、天文24年の厳島の戦いへと繋がっていく。


毛利元就は天文24年、厳島に宮尾城を築城したのだが、その城が陶晴賢に攻められてしまう。この時陶晴賢は2万人以上の軍勢を率いて厳島に上陸し、島北部の塔ノ岡に本陣を置いた。そして9月21日、宮尾城の攻撃を開始する。宮尾城が攻められているという報せを受けると、元就は毛利隆元と吉川元春を率いて佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を出立し、9月24日に厳島の対岸となる草津に到着した。

そこから船で島を時計回りに進み包ヶ浦(つつみがうら)に上陸すると、陶軍の背後に回り博奕尾山(ばくちおさん)に着陣した。この戦いで元就は水軍の協力を得て、陶方の水軍を寝返らせることにも成功しているのだが、しかしそれでも毛利勢は3000人程度という寡兵でしかなかった。陶軍が2万人以上の大軍で攻めて来ている中、とても正攻法で勝てるような差ではなかった。

元就を追うように小早川隆景も厳島に向かい、厳島神社のすぐ西にある大元浦から上陸しようと試みるも、しかし陶方の警護が固く上陸することができなかった。すると隆景はそのまま反時計回りに西へと船団を進めていく。この時小早川勢に加わっていた乃美宗勝が、闇夜に紛れ、敵方の援軍を装い厳島神社の鳥居付近に上陸することを進言した。

一か八かの賭けではあったがこれが上手くいってしまう。暗闇となっている海岸線では、敵味方の区別を付けることは困難だった。小早川勢は筑前からやってくる予定だった陶方の援軍宗像氏を装い、陶方の警護の中を難なく通り抜けてしまった。

10月1日は早朝から暴風雨で荒れていた。恐らく台風だったのだろう。だが毛利元就はこの暴風雨を奇襲の味方に付けた。突撃を合図する太鼓が打ち鳴らされると、博奕尾山に布陣していた毛利本隊が一気に山を駆け下りて陶本陣の背後を突いた。陶方はまさかこんな暴風雨の中毛利勢が攻めてくるとは予想しておらず、本陣は大混乱に陥ってしまう。

しかも毛利本隊とは別に、厳島神社の方からも今度は丘を登ってくる形で小早川勢が攻めて来た。陶方からすれば、その方角は警護を固めていたはずで、敵がいるはずのない方角だった。だが闇夜に紛れ援軍を装い身を潜めていた小早川勢が勢い良く攻め込んでくる。2万以上の陶勢は完全に挟撃させる形となってしまった。

開戦前は陶勢が圧勝すると思われていたこの戦いだったが、しかし2万と3000という兵力差が陶晴賢を油断させてしまった。まさかの形で挟撃されてしまい軍勢は総崩れとなってしまう。陶晴賢は何とかこの窮状を抜け出し大江浦まで兵を退くも、しかしそこで手詰まりとなり自害してしまう。まだ35歳という若さだった。その若さ故に油断という大敵に敗れてしまった。

厳島の戦いで陶晴賢を討ち取ったことにより、毛利氏の勢いは加速されていく。そしてかつて傘下に入っていた大内氏を継いだ大内義長を攻め自刃させると、毛利元就は中国地方を手中に収めることに成功した。毛利氏が独立大名として発展して行く大きなきっかけとなったのが、この厳島の戦いだった。

もしこの戦いで陶氏に敗れていれば、毛利氏はそこで滅亡する可能性すらあった。だが乃美宗勝の機転と元就の奇襲、そして若き陶晴賢の油断により毛利はこの戦いで奇跡的な大勝利を収めることができた。その後毛利氏が版図を拡大させることができたのも、この戦いで勝利した結果あってこそだった。そういう意味で厳島の戦いは、毛利元就にとっては最も意味深い一戦だったと言えるのだろう。
  • 厳島の戦いは陶晴賢2万、毛利元就3千という兵力差だった!
  • 毛利元就はこの寡兵でどのようにして勝利を収めたのか?!
  • 小早川隆景を救った乃美宗勝の機転

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