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石田三成という人物は本当に誤解されやすい人だ。その理由の一つとして実直すぎるという点を挙げられる。そして実直すぎる故に融通が利かなく、あまり他人を信用しないという性格だったようだ。そしてその性格による対応のせいで、慶長の役では豊臣恩顧の武断派との溝がさらに広まってしまった。


慶長の役とは慶長2年(1597年)に始まった秀吉二度目の唐入りのことで、この朝鮮との戦は慶長3年に豊臣秀吉が死去したことにより終結した。その際、石田三成は国内に留まり、自らが信頼を寄せる軍目付(いくさめつけ)7人を朝鮮に派遣し、戦況や戦功の状況を調査させた。

その7人とは太田一吉(三成家臣)、垣見一直(三成家臣)、熊谷直盛(三成の娘婿)、竹中重利(竹中半兵衛の義弟)、早川長政、福原長堯(ながたか、三成の妹婿)、毛利高政という人選だった。このように三成は軍目付として、自らが信用している人物だけを選んだ。だがこの人選が武断派の不興を買ってしまう。

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、軍目付として三成の臣下以外からも選ぶようにと迫ったが、三成はそれを受け入れなかった。その理由は武断派の息がかかった者を選べば、事実を誇張して報告される恐れがあったためだ。それを防ぎ、事実を正確に把握するために三成は自らが信頼している人物のみを軍目付として選んだ。

この7人の報告を受け、最終報告するのは三成の役目だったわけだが、武断派たちはそこで三成が讒言し、自らの武功を過小評価されたのではないかと猜疑したようだ。だが三成は過小評価して報告をしたわけでも、讒言したわけでもなかった。ただ事実をありのままに秀吉の報告したに過ぎなかったのである。決して私情を交えて報告するようなことはしなかった。

武断派たちは三成の思いなどまったく理解しようとはしなかった。文禄の役などでは特に、日本軍は海路を確保することができなかった。そのため兵糧を日本から朝鮮に送ることもできず、送ったとしても輸送船はあっという間に沈められてしまった。それにより朝鮮の日本軍は食糧危機に陥った。それでも武断派は戦いを続けようとしたのだが、三成は兵を無駄に死なせることを嫌い、退却を強く進言したのだった。

慶長の役では慶長3年8月18日に秀吉が死去し、朝鮮攻めが頓挫すると、三成は帰国してきた武将たちを博多で出迎えた。そして「伏見で秀頼公に御目通りされたら一度国に戻り休み、来年また上洛あれ。その折には茶の湯でも楽しもうではないか」と心からの労いの言葉をかけたようだが、加藤清正は「治部少は茶を振舞われるがよかろう。我らは異国で7年も戦い、米一粒、茶も酒もないため稗粥(ひえがゆ)ででも持て成そう」と怒鳴りつけたと伝えられている。

しかし振り返り見れば、兵糧が尽きかけようとしても戦を続けたのは清正ら武断派であり、兵を守るため撤退させようと苦心したのが三成だった。武断派たちはそんなことは決して理解しようとはせず、理不尽にも三成に当たり散らしたのだった。

秀吉の死は、三成にとっては心が千切れるような出来事だったに違いない。自分を武将に仕立ててくれた恩人であり、三成は秀吉の構想を実現させるべき身を粉にして働いてきた。三成にとっては秀吉こそが正義だったのである。慶長の役は8月以降、撤退は12月まで及んだのだが、三成は兵たちが無事帰国できるように、その間も奉行として涙を見せず働き続けた。

石田三成という人物は、自らにかかる疑念に対し弁明することはほとんどしなかった。そのため誤解が解かれることもなく、誤解がさらなる誤解を生んでしまうことも多々あった。そして江戸時代になると徳川家康の敵として、さらに有る事無い事酷く書かれることになってしまう。

秀吉の生前は秀吉のミスをカバーし続け、そのミスも自らが罪を被り、秀吉のカリスマ性が失われないように対応し続けた。そのような事実も武断派たちは決して知らなかったはずだし、知ろうともしなったのだろう。現代の歴史ドラマでも石田三成は未だ悪役として描かれることが多い。だが実際の石田三成は信じた正義を貫き通した、豊臣家最大の義将だったのである。
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石田三成と加藤清正は本当に仲が悪かったのかと言えば、それは確かであるようだ。そしてその仲を決定的に悪くしたのは文禄の役での一連のやりとりでだった。文禄の役とは天正20年(1592年)4月に始まった唐入りのことだ。ちなみにこの年の12月8日に文禄と改元されたために、この唐入りは文禄の役と呼ばれている。


実は石田三成は唐入りには反対の意を持っていた。だが千利休や豊臣秀次とは違いそれを態度で示すことはなかった。しかし検分のため自らも実際に朝鮮に渡り、兵糧が尽きかけていると知るや否や、三成はすぐに戦線を縮小させようとした。それに異を唱えたのが加藤清正ら、いわゆる豊臣恩顧の武断派武将だちだったわけだ。

唐入り直後は、日本軍は破竹の勢いで朝鮮を攻め立てていた。だが明国が朝鮮の援軍として駆けつけてきた後は日本軍の勢いは少しずつ失われていく。そして見知らぬ土地で食べ物を調達することもできず、病死する者も多数出るようになった。これ以上戦況を悪くしないためにも、三成は戦線の縮小を大将宇喜多秀家に進言したのだった。

しかしこの時点では、槍働きをしている武将たちの手柄はほとんどないに等しかった。つまりこのタイミングで戦が終わってしまうと、兵を消耗しただけで何の得もない状態で帰国させられることになる。それだけは避けたいと躍起になったのが加藤清正だった。

さらに石田三成は軍目付(いくさめつけ)として、加藤清正を讒言(ざんげん)したと伝えられている。讒言とは事実を捻じ曲げて他人を陥れようとする行為のことだが、石田三成は決してそのようなことはしなかった。ただ、事実だけを秀吉に伝えたのである。

どのような事実かと言えば、実はこの戦いで加藤清正は、朝鮮の王子ふたりを捕虜としていた。戦いは少しずつ日本軍が劣勢に傾き始めており、そこへ明国の勅使から清正はある提言を受けた。それは朝鮮の王子をふたりとも無事に返せば、日本軍もこのまま無事に日本に返してくれる、というものだった。

だが清正はこの提案を勝手に蹴ってしまった。しかもあろうことか「豊臣朝臣(あそん)清正」と署名して。しかしこの時の加藤清正は豊臣姓は賜っていない。つまり清正は勝手に秀吉の姓を用い、勝手に交渉を蹴ってしまったというわけだ。三成はこの事実をありのまま秀吉に報告したに過ぎなかった。

さらに清正は明国とのやり取りの中で、小西行長のことを商人扱いし侮辱し、清正の家臣に至っては現地で狼藉を働いてもいた。このような事実が秀吉の怒りを買い、清正はその後帰国と伏見への蟄居を命じられている。ちなみに清正の勝手な越権行為が交渉決裂を招いてしまい、慶長の役へと繋がってしまった。

このように事実は、石田三成は讒言などしてはおらず、事実を報告されたことを加藤清正が讒言されたと歪曲理解してしまっただけの話なのだ。石田三成は、決して加藤清正を陥れようとなどしてはいないのである。だが日頃の不仲が積もり積もったことにより、このような事態になってしまったことは確かだろう。

この出来事により、石田三成と武断派たちとの間には決して埋め切れない大きな溝が生まれてしまった。そしてこの溝を巧みに利用して豊臣家から政権を横奪したのが徳川家康なのである。
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慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いで、西軍最大の敗因は石田三成が籠城戦を選ばず、大垣城を出て野戦を選んでしまったことだと言われている。物語などではよく、野戦が得意な家康位に対し野戦を挑んだ三成を戦下手だと評しているが、家康が野戦を得意としていることは三成もよく知っていたはずだ。それなのになぜ三成は野戦を選んだのだろうか?!

一般的に考えれば西軍は大垣城を出るべきではなかった。東軍は大軍勢で美濃まで進行してきているため、兵站の確保が難しい。長期戦になるほど兵糧の消費も多くなり、戦が長引くほど籠城側に有利な状況になっていく。特に関ヶ原の戦いでは遠方から駆け付けた軍勢も多かったため、兵糧に関してはかなりの不安要素となっていた。

一方大垣城に入っていたのは三成自身であったため、兵糧など兵站の準備は得意分野であり、備えも万全だったはずだ。籠城しようと思えば1年以上は戦える準備を整えていたはずだ。そして籠城して堪えている間に東軍の士気が下がり、そこを突く形を取れば大きな勝機も見えて来たはずだ。それに関しては三成自身もそう考えていたのだろう。

しかし現実問題として、籠城するわけにはいかない状況に陥っていた。それは小早川秀秋の西軍離脱だ。関ヶ原の戦いが開戦する何日か前には、小早川秀秋の裏切りは疑いようもないものになっていた。その小早川秀秋が着陣したのが松尾山という、大垣城の西にある場所だった。

そして東側からは家康が西上してきている。つまり小早川秀秋の裏切りがほとんど確定した時点で、大垣城は小早川勢と徳川勢に挟撃されてしまう状況に陥ってしまったのだ。小早川勢が東軍に寝返ったとなれば、大垣城は完全に包囲される形になる。つまりは小田原攻めと同じ状況だ。例え堅固な城だったとしても、完全に包囲されて四方から攻められればひとたまりもない。

小早川秀秋の軍勢は、大垣城を包囲されないようにするため松尾山に配陣させたようなものだった。だがその小早川秀秋が東軍に内通してしまったため、大垣城は一気に窮地に陥ってしまう。これにより三成は、野戦を選ばざるをえない状況になったしまった。決して好き好んで野戦を選んだわけではない。もはや野戦を選ぶしかない状況になっていたのだ。

なおこの時東軍に寝返ったのは小早川秀秋だけではない。大谷吉継の軍勢に加わっていた脇坂安治、小川祐忠も藤堂高虎の調略により東軍に内通していた。9月15日の午前10時頃に開戦されると脇坂・小川が寝返り、その横からは小早川勢が突いてくる。これではさすがの大谷吉継でも太刀打ちはできない。開戦から間も無く、吉継は壮絶な討ち死にを果たしてしまう。

これにより西軍は総崩れになり、立て直しが不可能な状況になってしまった。関ヶ原の戦いは実際には2時間で終わってしまったと言う。江戸時代に書かれた軍記物では当初は西軍が善戦していたと書かれたものもあるが、事実はそうではない。軍記物に書かれている内容のほとんどは、家康の勝利を劇的に見せるための脚色だ。

事実は善戦するどころか、開戦直後に西軍は総崩れとなってしまったのだ。そしてさらに裏切り者として名を挙げるならば、毛利輝元もまた、開戦前日までに東軍に内通していたと言う。つまり西軍の総大将が東軍に内通したということだ。三成自身、まさか盟友であり西軍総大将の輝元に裏切られるとは夢にも思わなかっただろう。

関ヶ原の戦いは、調略という前哨戦ですべての勝敗が決してしまった。小早川秀秋、毛利輝元の調略に成功した徳川家康に対し、福島正則の調略に失敗してしまった石田三成。

石田三成は調略にあたり、とにかく秀吉に対する義を説いて福島正則の説得を試みた。一方の家康方は黒田長政が小早川秀秋の調略を担当したのだが、この時長政は幾度も嘘の情報を秀秋に対し送っている。やはり戦国の世に於いては義だけで生き抜くことはできないということなのだろう。だが義将石田三成が現代の通説のように悪人に仕立てられてしまったことは、どうしても納得し難いものだ。

だがそれができる人間が戦国の世では強い。羽柴秀吉は明智光秀を悪人に仕立て上げることにより、徳川家康は石田三成を悪人に仕立て上げることにより天下を奪った。そう考えると西軍の敗因は、石田三成の人柄の良さが招いてしまったと言うこともできるのかもしれない。
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賤ヶ岳の戦いと言えば、とにかく真っ先に出てくるのは七本槍だ。賎ヶ岳の七本槍とは糟屋武則、片桐且元、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、福島正則、脇坂安治のことで、この戦いで武功を挙げた秀吉の若き近習たちだ。しかし賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけではない。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らが含まれていた。


先駆け衆とは一番槍の武功を挙げた者たちのことで、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼ぶ。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいた。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わない。だが武断派の活躍は三成あってこそのものだったことを、決して見逃してはならない。

柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いに於いて、羽柴軍は5万を超える大軍となっていた。三成はまず、その5万人分の兵糧の調達を秀吉から命じられた。5万人分の兵糧とは、まさに途方もない数字だ。この時三成は大谷吉継に、5万人の軍勢が何日間食べられるだけ兵糧を用意すればいいかと相談していた。それに対し吉継は1ヵ月半と弾き出した。吉継が軍略に富んだ人物であることは三成もよく知っている。三成は吉継の言葉を信じ、5万人が1ヵ月半食べられるだけの兵糧を準備した。事実この戦いは1ヵ月少々期間で勝敗jが決した。

そしてもちろん揃えるのは兵糧だけではない。鉄砲の玉や硝煙などの武器を揃えたのも三成だった。つまり七本槍が心置きなく戦えたのは、三成が兵糧などを抜かりなく準備してくれたお陰なのである。だが武断派たちはそれを持って三成は槍働きをしていない、と不満を募らせる。

さて、この時三成が任されたのは兵站だけではない。賤ヶ岳での決戦に及ぶ前、秀吉は岐阜城の織田信孝を攻めていた。その隙を突いて柴田勢が賤ヶ岳近くの木之本の羽柴陣営に攻め寄せてきた。柴田勢屈指の猛将佐久間盛政だ。だが佐久間盛政は手薄だったはずの木之本を攻撃することができなかった。

秀吉は岐阜城の信孝を攻めているはずだった。しかし木之本には数え切れない程の松明が灯されている。佐久間盛政はそれを見て、秀吉の本陣がもう木之本まで戻って来たと勘違いしたのだった。さすがの佐久間盛政であっても、秀吉の大軍勢を相手に戦うわけにはいかない。そのため盛政はその松明を見ると、すぐに後退していった。

しかしその松明は、羽柴勢本体が木之本まで戻ったものではなかった。三成が先駆けて木之本まで戻り、農民らの手を借りて杭に笠をかぶせ偽装したものだった。つまりは案山子だ。その案山子を羽柴本体だと勘違いして佐久間盛政は撤退していったのである。もしこの時佐久間盛政が攻め入れば、木之本はあっさりと陥落していた。そしてその後の戦いも柴田勢有利に進み、賤ヶ岳の戦いの結果ももしかしたら変わっていたかもしれない。

このような三成の策略があったからこそ、七本槍の若者たちが活躍する機会も生まれた。なお三成の賤ヶ岳での活躍はこれだけではない。早馬や狼煙を活用することにより、情報を限りなく速くやり取りするシステムの構築も行っていた。狼煙の色によって伝達内容をあらかじめ決め、早馬も一里(約4キロ)置きに馬を置き、常に最速の馬の走りで伝達できるように工夫していた。

七本槍の活躍も見事だったわけだが、しかし石田三成ら十四人の先駆け衆の活躍も、この通り見事だったのである。それでも七本槍ばかりが注目されてきたのはやはり、家康の天敵であった三成の情報が江戸時代に入り、恣意的に捻じ曲げられてしまったせいなのだろう。もし三成が関ヶ原で敗れていなければ、賤ヶ岳の先駆け衆ももっと注目されて然るべきだった。

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石田三成の一般的なイメージは決して良いものではない。NHK大河ドラマ『真田丸』では山本耕史さんが演じているのだが、やはり感情のない黒幕的な匂いが漂っている。だが石田三成という人物は決して人情味がなかったわけではない。確かに誤解される性格ではあったようだが、当時の石田三成を知る者たちからは、人情味のある熱い人物と見られていたようだ。


石田三成は関ヶ原の戦いで西軍の中心人物であったわけだが、小早川秀秋らの寝返りにより、徳川家康率いる東軍に敗れてしまった。この関ヶ原の戦い自体も大義は三成側にあった。太閤秀吉の遺言を健気に守り続けようとする三成と、豊臣から政権を奪い取ろうとする家康。黒幕という意味では家康の方がよほど黒幕だった。

家康は秀吉恩顧の一部大名たちと三成の対決姿勢を演出し、見事にそれを利用した。つまり本来は豊臣側に付かなければならない福島正則や黒田長政が、三成を嫌っているという理由で家康に味方してしまった。一方の三成は黒幕どころか純粋だった。西軍に味方してくれた諸将たちすべての陣を自ら回り、戦略を細かに伝え、そして礼を尽くしたという。

だが結果的に西軍は敗れてしまい、三成は賊軍というレッテルを貼られてしまう。島左近の奮闘もあり関ヶ原から何とか脱出した三成は、生まれ故郷である近江古橋村へと向かうのだが、その途中にある浅井郡谷口村の石田氏に一時匿ってもらった。この石田氏はこの時の礼として三成から石田姓、家紋、短刀を譲られたという。

その後三成は何とか古橋村までたどり着き、そこでは与次郎太夫という人物に匿われた。この時三成は腹痛を起こしており歩くのもやっとの状態だったようだ。せっかく古橋村までたどり着いた三成だったが、すぐに追っ手に追いつかれてしまった。そこで三成が考えたことは、このままここにいては与次郎太夫に迷惑をかけてしまうということだった。

三成は与次郎太夫の屋敷を出る際、与次郎太夫に対し「追っ手が来たら自分の居所を伝えてくれ」と頼んだ。つまりこれは与次郎太夫が三成の味方をしたことを伏せ、咎めを受けないようにするための三成の心遣いだったのだ。最初与次郎太夫はそれを拒んだが、三成の強い意志により涙を流し承知した。

そして時を経ず、古橋山中にある洞窟に隠れていた三成は田中吉政の家臣によって捕縛されてしまう。

もし三成が本当に心のない人物であったなら、自分の命が狙われているようなこんな時に谷口村の石田氏や、古橋村の与次郎太夫に対しここまで気を回せただろうか。本当に心ない人物であったなら、与次郎太夫が後々どうなろうと逃げた先を追っ手に伝えるなと言ったはずだ。だが三成はそうではない。自分の命よりも、与次郎太夫に下されるかもしれない咎めの回避を優先してすべてを判断した。

勘違いされやすい性格ではあったのかもしれない。だが石田三成という人物の行動を追っていくと、こんなに義に厚く、こんなに人情味溢れる人物はそうそういないということを知ることができる。『真田丸』では今後石田三成がどのように描かれていくのか現段階ではわからない。だが真田信繁(幸村)と石田三成の関係は深いため、今後石田三成も重点的に描かれていくのだろう。だとしても、さらなる誤解を招くような描き方はして欲しくないと筆者としては願うばかりだ。

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千利休の切腹事件に関し、石田三成が黒幕だったと物語るドラマは非常に多い。NHK大河ドラマ『真田丸』でも、16話の時点で利休の失脚を三成が大谷吉継に相談する場面が描かれている。だが三成が利休の切腹を首謀したという資料は一切存在していない。ではなぜ三成黒幕説が実しやかに語られてきたのだろうか?


公家、吉田兼見が記した日記『兼見卿記 』には、三成が利休の妻を蛇責めの刑にするという噂があったことが記されている。だがこれはもちろんただの噂であり、事実無根だ。恐らく三成を敵対視する武断派の武将が流した噂だったのだろう。そもそも利休の妻である宗恩が亡くなったのは1600年であり、利休が切腹した1591年から9年後だ。つまり三成が宗恩への刑を処断したという事実は存在していないのだ。

利休が切腹した際、大徳寺の山門に置かれていた利休の木像も磔刑に処されている。木像を磔刑にするとは、秀吉の怒りも相当なものだったのだろう。そして木像の存在を秀吉に伝えたのは前田玄以であり、その前田玄以と三成が親しかったために、三成黒幕説が唱えられたこともあったようだ。

もし三成が本当に黒幕であったならば、三成と大徳寺の関係は険悪になっていたはずだ。だが関ヶ原の戦い後、三成の亡骸を引き取り供養したのは大徳寺の僧侶、春屋宗園(しゅんおくそうえん)だったと言う。三成と大徳寺の関係が利休の切腹により悪化していたのならば、大徳寺が三成を供養する理由などないはずだ。逆の言い方をすれば、三成と大徳寺の関係が良好だったからこそ、大徳寺が三成の亡骸を引き取ったのである。このあたりの詳細については『実伝 石田三成 』の小和田哲男氏の記事に詳しく書かれている。

石田三成という人物は、確かに誤解されることの多い性格ではあった。だが実際には義理堅く、気配りの利く人物だったのだ。もし義理堅くなく本当に冷酷な人物だったとすれば、まず自分を召し抱えてくれた恩人秀吉のために、すべての泥を被るようなことはしなかったはずだ。だが三成は秀吉が被るべき泥を、すべて自ら被ることによって秀吉の権威を守ろうとした。

恐らく利休切腹の件もそうなのではないだろうか。三成黒幕説が出ても決して弁明しなかったのは、弁明をすれば主君秀吉に対する風当たりが強くなると考えたのだろう。そうなれば豊臣家の天下も揺らぐことになる。豊臣の家と豊臣の天下を守るために、三成は自ら泥をかぶり、身を粉にして働き続けたのだ。

もし三成が秀吉の泥をかぶっていなければ、秀吉の天下統一は成し遂げられなかっただろう。そして天下統一(天正18年/1590年)後も三成がいなければ、利休や豊臣秀次の切腹事件により秀吉は求心力を失い、豊臣政権はもっと早く家康に乗っ取られていたかもしれない。だが三成が秀吉の面目を守り続けたことで、豊臣の天下がもう少し守られる結果となった。三成を語る上で、その事実は決して省いてはならない。

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石田三成という人物は、とにかく周囲から誤解されやすい性格だった。どうやら率直に物を言い過ぎてしまう嫌いがあったようで、意に反し言葉にも棘があったらしい。だがその実像は決して冷徹な人間ではなく、心に熱いものを秘めた人物だった。そして誰よりも日本という国と豊臣政権のことを深く愛し、そして考えていた。自身のことなど二の次だったのだ。


近江出身の三成には、近江商人の血が流れていた。近江商人と言えば「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」を信条とする商人たちのことだ。つまり売る側も買う側も幸せになり、それによって世間全体も良くしていこうという信念だ。三成もこの近江商人の信念を受け継いでいた。だが三成自身はと言えば、買い手と世間の幸せばかりを考え、自らの幸せなどほとんど考えていなかった。

その好例となるのが佐和山城だ。佐和山城と言えば「三成に過ぎたるもの」と揶揄されたほどの名城で、三成が関ヶ原の合戦後に京都の六条河原で処刑されると、その城は東軍によって接収され、井伊直政(井伊直虎のはとこ)に与えられた。その際将兵たちは「三成のことだから秀吉のように、さぞや財宝を蓄えているのだろう」と考えていた。だが彼らは佐和山城に入り驚くことになる。

佐和山城内は財宝に溢れかえるどころか、驚くほどに質素だった。壁にも庭にも装飾品らしいものは一切なく、生活感さえ感じられないほどだったようだ。三成は「残すは盗なり。つかひ過して借銭するは愚人なり」という言葉を残している。これは農民たちから集めた年貢を使い残し自分のものとするのは盗み同然であり、逆に使い過ぎて借金をするのは愚か者、という意味だ。誰よりも現代の政治家たちに教えてあげたい言葉だ。

つまり三成は集めた年貢はすべて民政のために使い、わずかに残った分で慎ましく暮らしていたのだ。テレビドラマで描かれているように、決して派手な着物を纏っていたわけではなかった。三成は秀吉政権の重臣だったため、どうしてもイメージが秀吉と被ってしまったのだろう。NHK大河ドラマでさえも時に三成を流行に敏感な派手な人物として描いている。

現代に於ける三成のイメージは、すべて江戸時代に捏造されたものばかりだ。確かに武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りは合わなかったようだが、しかしだからと言って誰からも嫌われるような人物ではなく、逆に身近な人間からは非常に好かれていたのだ。

秀吉が滅ぼした大名家の遺臣たちを三成も多く召し抱えたわけだが、彼らのほとんどは関ヶ原の合戦で三成に命を捧げている。さらには盟友である大谷吉継、島左近、真田昌幸・信繁父子、上杉景勝・直江兼続主従は西軍として三成に味方している。しかも大谷吉継と島左近はここで討ち死にを果たしてもいる。

さらには三成に恩を感じていた佐竹義宣も明確に東軍に味方することはせず、再び三成を助けるために上杉家と密約を結んでいたとも伝えられている。果たして三成が現代に伝わるような冷徹な人間であったなら、彼らのような名将たちが天下を分ける関ヶ原で西軍についていただろうか。

家を守るためには手段を選ばず、秀吉に「表裏比興の者」と称された真田昌幸でさえ西軍に味方しているのだ。恐らく昌幸は忍城の水攻めでの三成の働きを間近で見て感銘を受けたことにより、西軍の勝利に賭けたのだろう。

「三成は嫌われ者だった」というイメージは完全に間違っている。もし本当に嫌われ者だったとすれば、わずか19万石の小大名に過ぎなかった三成が、関ヶ原の戦いのために8万人以上の兵を集めることなどできなかったはずだ。西軍に味方した大名たちは「三成だからこそ」味方したのだ。

三成の人柄を言い表すならば、取っ付きにくいが話してみると良い奴、と言った感じだったのだろう。そして弁明などは一切しない人物だっため、誤解をされてもその誤解を自ら解くことはほとんどなかったようだ。それによって誤解が誤解を生み、武断派武将たちを敵に回してしまった印象も強い。

だが石田三成が処刑されてからもう400年以上が経過している。そろそろ三成の誤解をすべて解いてあげてもいいのではないだろうか。

ishida.gif石田三成は自らの弱点をよくわきまえていた。同じ奉行衆であった盟友大谷吉継は、内政も戦も得意としていた。主君豊臣秀吉も、大谷吉継に100万の兵を預け指揮させてみたい、と語っているほどだ。だが石田三成は戦に関しては決して得意ではなかった。

戦略に関しては秀吉の戦いをそばで見ていたこともあり熟知していた。陣中での冷静な判断も失わなかった。だが槍働きに関しては苦手だったのだ。戦を理路整然と考え部隊を動かしていくことはできるのだが、自身で槍を持ち人を殺めることは苦手としていた。なお石田三成の戦下手に関しての誤解はこちらの巻にて解いていただきたい

石田三成は知略に優れた武将だった。出身が近江商人で有名な近江であり、父親正継も近江石田村の庄屋で観音寺の檀那職を務めるような人物だった。つまり父親も算術に秀た人物であり、三成もそれを受け継いでいたようだ。その影響で三成は兵站奉行として兵糧、武器などを滞りなく調達し、秀吉の数々の勝利の手助けをし活躍した。

石田三成の人物の良さは、上述したように自らの弱点をよくわきまえていた点だ。つまり奉行職で地位を得てもすべてが優れているとは勘違いせず、槍働きが苦手なことを自認していたのだ。そしてその弱点を補うために、三成はある人物のスカウティングを行った。そして近江水口城主になり4万石の所領を得た三成は、何と1万5千石をその人物に与えてしまった。その人物とは島左近のことだ。

島左近は大和の筒井順慶を支える筆頭家老だった。しかし順慶が病死したあとは家督を継いだ定次に疎まれるようになり、ついには筒井家を去ってしまう。その後左近は蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えるも長続きはせず、浪人として放浪することが長くなっていった。どうやら左近は筒井家の筆頭家老だった誇りが邪魔をし、新参者として扱われることを嫌ったようだ。

その噂を耳にし、三成は自らの家臣になって欲しいと左近に頭を下げたのだった。島左近清興と言えばまさに戦国時代きっての猛将だ。鬼左近と呼ばれたのも伊達ではなく、戦場で左近と出会った者は皆慄いたと言う。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点をピンポイントで補うことに成功した。

島左近は漢気溢れる人物で、三成が所領の半分近い1万5千石で召し抱えてくれたことにより、生涯三成に尽くすことを誓った。その後三成は佐和山城19万4千石の大名となったわけだが、その際三成は左近の所領も増やそうとした。だが左近は自分に1万5千石以上は必要ないと言い、その代わりもっと多くの兵を雇い石田軍を強化なものにしてくれと申し出た。左近とはこのように、意気に感じた相手にはとことん尽くせる漢気溢れる人物だったのだ。

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という唄が当時巷で流行っていたようだ。これは文字通り、島左近と佐和山城は三成にはもったいない、と皮肉った歌詞だ。だが本当にこれが戦国時代に唄われていたのだろうか。これも恐らく江戸時代に捏造されたものなのだろう。

関ヶ原以前に於いて、三成を悪く思っているのは豊臣家のいわゆる武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政など槍働きを得意とした武将たち)だけだったと言う。そう考えるとこの唄も、恐らく関ヶ原後の江戸時代の創り話なのではないだろうか。この唄については『古今武家盛衰記』という作者不明の古文書に記されており、恐らくは江戸時代後期に書かれたものだと思われる。

関ヶ原で三成は敗れてしまうわけだが、戦場から無事逃げ出すため命を張ったのが島左近だった。とにかくまずは三成を無地戦場から逃がそうと、左近は自ら先頭に立って黒田長政勢と戦った。だが最期は黒田勢の鉄砲で蜂の巣とされてしまい、壮絶な討ち死にを遂げてしまう。

左近としてはこの直前に家康暗殺に失敗しているため、それを挽回するためにも死に場所を探していたのだろう。西軍を何とか立て直すというよりは、左近の最期の行動は自ら華々しく散ることを優先に考えられていたように感じる。もし左近がもっと策を巡らすことができれば、西軍があそこまで総崩れになることはなかったのかもしれない。そして家康暗殺がもし成功していたら、関ヶ原の戦いが起こることもまたなかったのかもしれない。

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豊臣秀次は実は、叔父秀吉の唐入りに対し反対派だった。秀吉は日本国内を平定すると朝鮮出兵を行うわけだが、秀次は朝鮮出兵を反対し続けていたのだ。そのため石田三成や黒田官兵衛らが朝鮮への渡海を説得しようとしても、結局朝鮮へ出陣していくことを避け続けた。そして日夜妾たちと遊興に更けっていたという噂も流れ、それが秀次愚将説へと繋がっている。

さて、朝鮮出兵反対派の中心として多くの武将たちの相談を受けていた人物がいる。前編にも記した千利休だ。利休は朝鮮出兵に関し反対派武将たちを取りまとめていると見なされ秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられている。秀吉は豊臣家の将来を安泰にするため、何としても有力大名の多くを朝鮮に移封させたいと考えていた。だからこそ唐入り反対派が有力になってしまっては困るのだ。

日本国内は豊臣一族で支配し、武功を挙げた有力武将たちには明に広大な土地を与え、日本国内で謀反を起こせない状況にする。それが秀吉が目指したものだった。それを実現させるためには唐入り反対派にいてもらっては困るのだ。そのため秀吉は「茶器を法外な値段で売り私腹を肥やしている」という罪により利休に切腹を命じた。当然だが切腹を命じられるほどの罪ではない。真実は唐入り反対派の口を閉じさせるための切腹命令だったのだ。

利休には台子(だいす)七人衆という、茶の秘伝を秀吉から伝授することを許された七人の弟子がいた。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、木村重茲、芝山宗綱、瀬田正忠、そして豊臣秀次だ。つまり秀次は利休の愛弟子であり、反唐入りの同士でもあったのだ。秀吉は利休の意思を最も強く継いでいるのが秀次であり、今後秀次を中心にし反唐入り同盟が組まれることを最も恐れていた。

秀次は逆心を持っていたわけではない。豊臣の未来、そして日本の未来を憂いて唐入りに反対の意を示していただけなのだ。実は唐入りに反対していたのは石田三成も同様だった。三成もまた軍事的に明へ侵攻するのには反対で、逆に明との貿易を盛んにしていくことで日本を豊かにしていきたいと考えていたようだ。

つまり秀次は利休同様、唐入りに反対の姿勢を示したために秀吉の怒りを買ってしまったのだ。秀吉からすれば「豊臣の未来を考えての唐入りなのに、なぜ豊臣である秀次がそれをわかろうとしないのだ」というジレンマもあっただろう。

改めて書き記すが、このように秀次の切腹事件は石田三成が黒幕だったわけではない。なぜなら秀次切腹後、秀次の数少ない遺臣たちは三成に召し抱えられたからだ。もし本当に秀次の切腹が三成の進言によるものであれば、果たして秀次の遺臣たちが三成の家臣になり、さらには関ヶ原で三成の下で命を賭しただろうか。

このような以後の状況から考えても、恐らく三成はなんとかして秀次の切腹を回避させようと苦心したのではないだろうか。結果として秀吉を止めることはできなかったわけだが、しかし三成の対応に何らかの恩を感じていたからこそ、秀次の遺臣たちは誰でもなく三成の下で働くことを決意したと考えるのが自然ではないだろうか。

このように考えられるからこそ、豊臣秀次切腹の黒幕は石田三成ではないと断言できるのである。


ishida.gif豊臣秀吉には姉の子、豊臣秀次という甥がいた。秀吉が53歳の時にようやく誕生した男の子、鶴松が僅か2歳で病死してしまうと、秀次は豊臣家の家督と関白職を秀吉から譲り受けた。名実ともに豊臣家の二代目となったわけだ。

秀次は実力に乏しい武将として語られることも多いが、事実はそうではない。生前は数々の武功を挙げているし、習い事にも熱心に取り組み、文武両道の実力派の武将だった。だからこそ豊臣家臣団たちも秀次に気に入られようと尽くしている。中には自らの娘を側室として送った家臣もいたらしい。果たして秀次が本当に無能であったならば、豊臣家臣団がそこまで秀次詣を行っていただろうか。

だがそんな秀次は関白職を賜った天正19年(1591年)から僅かに4年後の文禄4年(1595年)7月15日に切腹を命じられている。理由は諸説あるが、筆者が最も信憑性を感じているのは千利休の切腹と同様の理由だ。そして利休同様、秀次をも切腹に追い込んだ黒幕が、石田三成だと言い伝えられている。だがこれも徳川幕府時代に事実を歪曲されてしまったものだ。三成は利休の切腹も、秀次の切腹も主導していない。

今回は秀次切腹に関して書き進めていくわけだが、ルイス・フロイスの手記によれば、秀次が関白を継いだ2年後に秀吉と淀殿に拾丸(ひろいまる、のちの豊臣秀頼)という待望の男の子が誕生すると、秀次と秀吉の関係はどんどん悪化していったらしい。秀吉はもう自分では子供を作れないと感じていたからこそ甥である秀次に豊臣の家督を譲っていた。だがその僅か2年後に淀殿が男の子を生んだのだった。これにより秀吉は、秀次に家督を譲ったことを後悔し始める。

そして秀次を廃嫡にする理由を探し始めるわけだが、秀吉はその相談も「何か良い手はないか」と三成に持ちかけていたはずだ。恐らくそれによって三成黒幕説が煙を立て始めたのだろう。だが三成は義将だ。いくら秀吉からの相談だったとは言え、秀次を理不尽に廃嫡にする方法など簡単に進言するはずがない。

そんな中秀次は何人かの武将たちとよく鷹狩りに出かけていた。それを知り秀吉は、秀次が反秀吉武将たちと鷹狩りと称し謀反を企てていると断罪したのである。もちろん事実無根であり完全なる捏ち上げた。もちろん三成が流した噂でもない。にも関わらず秀吉は、そうまでしても秀次を廃嫡し、拾丸に家督を譲りたかったのだ。

だがさすがに謀反疑惑はあまりにも根拠がなさすぎるし、周囲もこの噂を鵜呑みにすることはなかった。つまりそれだけ秀次は周囲から慕われてもいたのだ。そして石田三成たち奉行衆の説得もあり、秀次自身が逆心はないという起請文(きしょうもん)を認めたためこの問題はこれで終わっている。

しかしこの後も秀次は次々に疑惑をかけられ、その度に秀吉の命を受けた三成が疑惑の真意を問い質すことを繰り返していた。するとそのうち秀次も呆れ果てたのか、三成の詰問にすぐに応じなくなる。このようなやり取りも、三成黒幕論が恣意的に助長されている場合がある。


ishida.gif忍城の水攻めに失敗した石田三成だが、実はこの当初、三成を悪く言う者はいなかった。徳川四天王のひとりである榊原康政も、三成と共に忍城を攻めた浅野長吉への書状で「お手柄」と書いているほどだ。やはり三成の戦下手という評価は江戸時代に恣意的に作られたものだと考えるべきだ。

備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。

土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。

大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。

忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。

結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。

忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。

なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。


ishida.gif石田三成は戦下手としてよく知られているが、実際はそんなことはなかった。石田三成の戦下手を強調する戦として忍城(おしじょう)の戦いと関ヶ原の戦いが挙げられるわけだが、特に忍城の戦いでの失敗が三成の戦下手を有名にしてしまった。だがそう語っているのは徳川幕府が開かれたあと、江戸時代に書かれた書物なのだ。

石田三成と徳川家康は天敵同士だった。江戸時代に徳川幕府に取り入ろうとする者の多くが、三成批判を展開していた。中には三成の故郷である近江の石田村までわざわざ出向き、石田家の墓を破壊する者までいたと言う。つまり江戸時代に書かれた石田三成に関する事柄は信じてはいけないということだ。

さて、忍城の戦いというのは一般的にはそれほど有名な戦ではないが、映画『のぼうの城』と言えばピンと来る方が多いのではないだろうか。この戦は豊臣秀吉が北条氏を滅亡させた小田原征伐の一環だったわけだが、小田原城の支城であった忍城への攻撃を秀吉から任されたのが石田三成だった。ちなみに忍城とは現在の埼玉県行田市にある、関東七名城のひとつだ。

この忍城攻めを三成は、秀吉が備中高松城を攻めた時のように水攻めを行った。堤を築き周囲を水浸しにし、城を浸水させ開城を迫る戦い方だ。だが備中高松城攻めの時のように水攻めは上手くはいかなかった。堤が決壊してしまい、本来は城を攻めるはずの水が石田陣営に流れ込んでしまったのだ。この失敗により三成は戦下手であるとのちに語られるようになる。

だが事実は違う。繰り返すが三成の戦下手を流布させたのは江戸時代の語り部たちだ。実は三成は忍城は水攻めにすべきではないと秀吉に進言していた。その理由は忍城の周辺は元々湿地帯で、過去洪水が起こっても城に被害が及ぶことはほとんどなかった。なぜなら忍城は湿地帯の中心にある孤島のような丘に築かれており、例え洪水が起こったとしても城が沈むことはないのだ。実際に忍城を見てそれがわかったからこそ、三成は水攻めはすべきではないと進言したのだ。

実は三成は共に忍城を攻めた浅野長吉(秀吉の死後に長政に改名)に対し「力攻めをすべきだが、諸将は水攻めと決めかかっており戦意を失っている」という趣旨の書状を天正18年(1590年)6月12日に送っている。さらにその後7月3日には秀吉が長吉に対し「とにかく水攻めをし、水攻め以外で攻めた将は処罰す」という書状を送っている。秀吉は三成に対しても6月20日に書状を送り、堤の図面などを提出させ自ら指揮を執る姿勢を見せている。

つまり忍城水攻めは三成は反対していたのだが、秀吉が水攻めにこだわったことにより行われた攻城だったのだ。三成は始めから力攻めをして一気に方をつけべきだと言い続けていたのだ。なぜなら石田勢2万3千に対し、忍城の守勢は3千程度だったからだ。

ではなぜ秀吉はこの時水攻めにこだわったのか?それは諸大名に対するパフォーマンスだったと考えられている。水攻めというのは大量の人員と莫大な費用がかかる。秀吉はそんな水攻めを行うことにより動員力と財力を見せつけ、諸大名の反抗心を減退させようとしたのだ。要するに水攻めが成功しようが失敗しようが関係なかったのだ。秀吉は動員力と財力を見せつけられればそれで良かったのである。


ishida.gif悪役を立てなければドラマが引き締まらないためだろうか、テレビドラマに登場する石田三成という人物は、大抵が嫌われ役という設定になっている。一昨年放送されたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では顕著で、あのドラマを見て石田三成を誤解したり、嫌いになったという人は多いのではないだろうか。

武田鉄矢さん率いる海援隊が歌う「二流の人」という曲にも「石田三成 愚か者」という歌詞が出てくる。このように石田三成という人物は誤解されていることが多い。だが歴史好きの間では石田三成こそ義将であると高く評価されている。では何故ここまで酷く誤解されることになってしまったのだろうか?

石田三成は豊臣政権に於ける奉行衆のひとりで、治部少(じぶのしょう)という地位にあった。治部少とは簡単に言えば戸籍や婚姻などに関するお役所仕事をしたり、外国からやってきた使臣を持て成す役割を担っている。いわゆるお役人だ。

豊臣秀吉の元で治部少として活躍する三成ではあったが、時として秀吉は悪政を歩んでしまうことや、道を誤ることもあった。そんな時でも三成は文句一つ言わず、黙々と執行役を務めた。なぜ文句ひとつ言わなかったかと言えば、その文句は秀吉批判に繋がってしまい、豊臣政権内で秀吉批判をしてしまえば、政権への信頼が揺らいでしまうためだ。

三成はとにかく豊臣政権を安定させるために死力を尽くした人物だ。秀吉のミスはすべて三成がカバーしていく。そのためいつしか秀吉のミスが三成のミスへと挿げ替えられ、豊臣政権内で三成は集中砲火を浴びるようになってしまう。それでも三成は決して秀吉に責任を返すことはしなかった。自分が我慢していれば主人秀吉への家臣団の信頼が揺らぐことはない、そう信じ、秀吉の過ちをすべて自ら黙って被っていったのだ。

毛利輝元を大将とする西軍と、徳川家康を大将とした東軍が戦った関ヶ原の戦いでは、三成は東軍同等の10万という兵を率いたにもかかわらず、開戦後あっという間に敗れてしまった。西軍からすれば、籠城していれば徳川に勝てる戦だった。なぜなら徳川軍の多くが遠征隊であり、兵糧に不安を抱えていたからだ。だが三成は家康の陽動作戦に引っかかってしまい、野戦を選択してしまう。野戦は家康が最も得意とする戦いだ。

関ヶ原の戦いに於ける西軍大将は毛利輝元だったわけだが、しかし輝元は大阪城に入っただけで自ら出陣することはなかった。もし戦経験豊富な輝元が出陣していれば、三成が大垣城を出て野戦を選ぶというミスを犯すこともなかったのだろう。だが戦経験に乏しい三成は勢力が互角ならば自軍に分があると踏んだのか、大垣城を出て野戦を選んでしまった。

これは三成のミスだというのが定説ではあるが、しかし疑問点が残ることも事実だ。もし家康が大垣城を横目に進軍していったのであれば、西軍は東軍の横腹を突く攻撃を仕掛けたはずだ。だがそうはせず、対陣する形を選択している。これは果たして何を意味するのだろうか。

一説では家康が大垣城を水攻めしたことにより、三成と主力部隊である小早川秀秋らの連絡が絶たれそうになり、それを防ぐためには城を出るしかなかったという見方もあるようだ。

だがいずれにしても小早川秀秋は西軍を裏切ってしまった。これはやはり三成が人心掌握術に長けていなかったということなのだろう。逆に人心掌握を得意とした家康の口車に乗り、秀秋は東軍に寝返ってしまった。これにより西軍は完全に態勢を崩してしまい、総崩れとなってしまう。

腹心島左近の命懸けの奮戦もあり、三成は何とか戦場を脱出することができた。しかしその後すぐに捕縛されてしまい、家康の命により六条河原で打ち首とされてしまった。辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」と読み、享年41歳だった。

三成は決して私利私欲のために敵を増やしたわけではない。三成はとにかく秀吉への恩顧に応えるため、豊臣政権を守るために奮闘し続けたのだ。そして秀吉が犯したミスの責任をすべて負い続けた。それにより誤解されることも多く、江戸時代になると三成の子孫たちは三成の墓を埋めて隠し、ひっそりと生活していたという。それほどまでに誤解がさらなる誤解を呼んでいった三成の生涯だったというわけだ。

戦国時代記では今後、石田三成の誤解を解くための巻も少しずつ増やしていきたいと考えている。