さて、第4回目は「女子(おなご)にこそあれ次郎法師」というタイトルで放送された。現代語にすると「女の子なのに名前は次郎法師」という感じだろうか。とにかく今回は、とわは女の子なのに次郎法師という男の名前を付けられた、という内容で描かれている。
ドラマでは「次郎」という名が代々井伊家惣領の名前であると描かれているが、これはその通りだ。井伊家惣領は代々「備中次郎」と名乗っており、それを継いでいくという意味で南渓和尚が名付けた。
ちなみに第4回目のタイトルである「女子にこそあれ次郎法師」という言葉は、『井伊家伝記』に以下のように記されている。「備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非もなく、南渓和尚御付け成され候名也」
ところでドラマではとわが出家するのは10歳くらいという設定になっているが、これは史実とは違うようだ。井伊直虎の正確な生年は不詳なのだが、史家たちは「恐らく亀之丞よりも2歳ほど上だったのではないか」という研究結果を発表している。直虎が実際に出家したのは、亀之丞が18歳だった頃だとされる。
史家の研究結果が正しければ、直虎が出家したのは20歳くらいの時だったということになる。つまりドラマで描かれた10歳あたりでの出家よりも、実際にはさらに10年後に出家しているということだ。ただしこれも正確な史料が残されているわけではないため、ドラマの内容が100%フィクションとも言い切れないのである。
戦国時代、20歳という年齢は女性としては婚期を逃していることになり、完全に行き遅れてしまったという形だ。もちろん一時は許嫁となった亀之丞が隠遁生活をしなければならなくなったという事情もあるわけだが。
直虎は亀之丞の帰還を健気に待ち続けていた。だが亀之丞はそうではなかったのである。それは第5回目以降で描かれると思うのだが、その事実を知ったからこそ、どうやら史実の直虎は出家を決意したようなのである。
ではなぜ直虎は尼僧ではなく、僧として出家しなければならなかったのか?これも南渓和尚の機転だったようだ。前後の時代では必ずしもそうではなかったようだが、戦国時代に関しては尼僧の還俗は一般的には許されない風潮だったらしい。つまり戦国時代に於いては、仮に井伊家に何か問題が起こった場合でも、尼僧から直虎が還俗して井伊家を継ぐことができなかったのだ。
そのため風潮として還俗が一般的にも認められていた僧として出家させたようだ。僧から還俗して大名になった人物は今川義元や上杉謙信を始めとし多々存在する。史実の南渓和尚は井伊家の行く末を先の先まで読み、尼僧ではなく僧ならば、という条件で直虎の出家を認めたようだ。そして南渓和尚の懸念は現実のものとなり、将来的に次郎法師は還俗して井伊家を継がなければならない、という状況に陥っていくのである。
- なぜ直虎は出家して次郎法師という男の名前になってしまったのか?!
- そもそもなぜ尼僧ではなく、僧として出家することになったのか?!
- ドラマでは10歳だったが、実際に直虎が出家した年齢は?!