のちに徳川四天王と呼ばれることになる井伊直政は、22歳まで元服をしなかった。元服は早ければ13歳、一般的には15〜16歳で行うものであり、22歳での元服は異例の遅さだったと言える。ではなぜ井伊直政は22歳まで元服をしなかったのか?実はこれは直政の優しさに理由が隠されていた。
井伊直政の父は井伊直親であり、幼い日の直親、つまり亀之丞と井伊直虎は幼馴染であり、かつての許嫁だった。だが紆余曲折あり、結局亀之丞と直虎が結婚することはなかった。そして直親となった亀之丞は讒言により謀反の疑いをかけられて謀殺されてしまう。その後直親の子である虎松、つまりのちの井伊直政は、父同様に命を狙われないように名を変えて鳳来寺で匿われていた。
直親が殺害されてからの十数年の間、井伊家を守っていたのは女城主直虎だった。その直虎は虎松が14歳になり井伊家に戻ってくる形になると、虎松の養母となる。虎松はその後徳川家康に目をかけられ万千代と名乗り、目覚ましい活躍をしていく。その間も井伊家の居城である井伊谷城を守り続けたのは直虎だった。
一時は今川により、井伊家は滅亡の危機を迎えたこともあった。それを強い信念で乗り越え、直虎は井伊家を再興させようと命を賭していた。そのことを虎松はよく知っていたし、鳳来寺から井伊家に戻ってからもその直虎の姿を目の当たりにしていた。つまり虎松は、自分が井伊家に戻って来られたのは直虎の努力あってこそだったとよくわかっていたのだ。
22歳を迎えるまでもなく、もちろん虎松には何度も元服する機会があった。だが虎松は頑なに元服することを拒み続けた。虎松が元服をすると、当然名は井伊直政となる。そして井伊直政が誕生するということは直親の死以来、ついに井伊宗家を継ぐ男子が登場することを意味し、井伊直虎の女城主としての役割もそこで終わることになる。
虎松は直虎が経験してきた苦労をよく理解していた。そのため直虎が存命であるうちは、直虎こそが井伊家の頭領であるべきだと考えていた。だから虎松は22歳になるまで元服しなかったのである。
だが天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎は50歳前後という年齢でこの世を去ってしまった。50歳前後と書くのは、直虎が生まれた年が不明であるためだ。史家の研究により、ただい50歳くらいだったと推定されており、有力なのは井伊直親よりも2歳上だったという説だ。仮に直親よりも2歳上だったとすれば、直虎は享年49ということになり、同年6月2日に本能寺の変で討たれている織田信長と同じ歳ということになる。
直虎がこの世を去ってから3ヵ月後の11月、万千代と名を改め家康の元で活躍していた虎松は、ようやく22歳で元服し井伊直政と名乗り、正式に井伊家を継ぐことになった。戦場では赤鬼と呼ばれ恐れられた井伊直政ではあるが、戦場を離れれば母思いの心優しい青年だったのである。
直政にとって井伊直虎は実の母親ではなく、あくまでも養母だった。しかし直虎と父直親が許嫁だったことを知る直政としては、直虎は実の母同然の存在だったようだ。そして直虎のこれまでの苦労を知るだけに、その母にいつまでも井伊家頭領でいてもらいたく、普通では考えられない22歳で元服する形になったのだった。
なお井伊直虎の墓は井伊谷城にほど近い龍潭寺にあり、法名は「妙雲院殿月泉祐圓大姉(みょううんいんでんげつせんゆうえんだいし)」とされている。