「毛利元就」と一致するもの

戦国大名になるための四つの方法

今川家の家紋

戦国時代に活躍した者たちとして、まず挙げられるのが大名たちです。戦国大名として有名なのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、今川義元、武田信玄、上杉謙信などなど、挙げ始めると実に切りがないほどです。

では大名とは何を以って大名と呼ばれたのかと言うと、一般的には二郡以上支配する者が大名と呼ばれたようです。戦国時代は今で言う都道府県を「郡」という単位で分割していたのですが、その郡を二郡以上支配できるようになると戦国大名と呼ばれるようになります。

例えば元々は国人衆の一つだった毛利氏ですが、毛利元就の才覚によって毛利家は国人衆としてどんどん力を付けていきました。その結果二郡以上支配するに至り、さらには他の国人衆を従属化させることで一国人衆から戦国大名へとのし上がっていきました。

ちなみに鎌倉時代を経て、戦国大名へとなっていく方法は主に四つです。一つ目は鎌倉時代より将軍家から守護大名に任命されており、それがそのまま戦国大名になったパターンです。今川氏、武田氏、島津氏がこのパターンですね。ちなみに鎌倉時代には本来守護大名は在京している必要がありましたが、戦国時代になると在国と言って京にはおらず、それぞれの国にいながらまつりごとをし、財力・戦力の強化に勤めるようになりました。

二つ目のパターンは守護代から戦国大名に成り上がるパターンです。織田氏、上杉氏、朝倉氏がこれに当たります。守護代というのは、守護大名が在京している際にその国の政を担う、言わば代理監督のような存在でした。尾張の守護大名は斯波氏でしたが、尾張の守護代を務めた織田氏がどんどん財力を付けていき、それに伴い軍も強化され、守護大名であった斯波氏の力を上回ってしまったことで斯波氏は淘汰されていき、自然と織田氏が斯波氏と代わるようにして尾張の戦国大名となっていきました。

三つ目のパターンは国人衆や地侍から成り上がっていく、上述の毛利氏のパターンですね。そして四つ目は下剋上です。例えばマムシと呼ばれた斎藤道三は主家である土岐氏を攻め、土岐氏を尾張に追放することによって美濃国を乗っとりました。以上が戦国大名になる主な四つのパターンです。

守護大名と戦国大名の違い

そして鎌倉時代から続く守護大名と戦国大名は何が違うかと言うと、守護大名は常に幕府の権威に依存していましたが、戦国大名は独自に国力を付けていきました。例えば元々は守護大名である今川氏などは、鎌倉時代にはあくまでも幕府から駿河国などを預かっているという立場で、幕府の意向に沿わない行動を取ることはできませんでした。

一方幕府の力が弱体化して来た戦国時代では、幕府の権威は尊重しながらも、大名たちは幕府に依存することはありませんでした。例えば織田信長が将軍足利義昭の権威を天下取りの道具として使っていた事例などは、まさにそれを象徴しています。

また、上述の通り守護大名は在京している必要がありました。つまり京にいる将軍のお側に常にいなければならなかったわけです。しかし戦国大名は、かつては守護大名だった武田氏も今川氏も京を離れ、それぞれの国に居を構えていました。

そして法律に関しても、戦国大名は自らの領地で勝手に法律を策定し、独自のルールで国を支配して行きましたが、守護大名の場合は室町幕府が定めた通りにそれぞれ任された国を支配し、勝手に独自のルールを作ることは許されてませんでした。このあたりが戦国時代以前の守護大名と、戦国大名の大きな違いだと言えます。

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。
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戦国時代には戦をする際、主に8つの基本陣形があったとされている。いわゆる「戦国の八陣」と言われているものだ。しかしこの陣形はあくまでも基本的な考え方であり、戦で毎回必ず実践されていたという事実はない。江戸時代後期の軍学者などはこの八陣についてかなり研究をしていたようだが、しかし戦国時代はほとんど使われていなかったと考えるのが自然だ。


戦国時代の戦というのは、少なくとも数千人規模で行われていた。多い時では10万人を超すこともある。10万人と10万人が戦う戦となると、途方もない大規模な戦となる。そして1000人と1000人による戦であっても、これも決して少人数とは言えない。

現代のように拡声器や、スマホのような連絡手段があるわけでもない。ほとんど声の伝達により指示は伝えられていた。しかもほとんどの戦で兵は専任ではなく、農作業をしながら戦う者たちばかりだった。つまり足軽隊などは、ほとんど訓練されていないに等しい。

そのような状況で、例えば歴史ドラマでもよく登場する「鶴翼の陣」などをきれいに敷けるはずがないのだ。そして何よりも場所が問題だ。数千人、数万人規模で陣形を整えるとなると、東京ドーム何個分もの広大な平野が必要となる。しかし戦国時代はそこまで平野ばかりの場所で戦うケースは非常に少なかったと考えられる。

武田信玄などは陣形を整えるのが得意だったとも言われているが、しかし甲州の山ばかりの土地で陣形をきれいに整えて戦うことはほとんど不可能だ。そのため戦国の八陣はあくまでも基本的考え方であり、実際に用いられるケースはほとんどなかった。

その代わり、隊列にはどの武将もかなりこだわりを持っていたようだ。つまり足軽、騎馬隊、鉄砲隊などの割合と並び方だ。これによって各武将自らの戦闘スタイルを構築していった。面白いのは伊達政宗だ。政宗は鉄砲騎馬という新しい形を生み出した。

それまでの鉄砲隊は隊列を組んで、何枚かに分かれて入れ替わり順に撃っていくという形だったのだが、政宗は鉄砲隊を騎馬に乗せてしまった。これにより破壊的な突破力を得ることに成功した。これを初めて実験的に導入したのが大坂夏の陣だった。

このように戦国時代の戦では実際には八陣よりも、隊列や編成を工夫することの方が重要だったのだ。八陣が用いられるのは広大な平野で行われる戦にほとんど限定されていた。そして陣形よりも地形の方が重要であることを理解していたからこそ、織田信長や真田信繁はいつも馬に乗り地形の調査を行っていたのだ。

逆に地形をまったく理解せずに戦ってしまうと、厳島の戦いで大軍を率いたにもかかわらず、寡兵の毛利元就に敗れた陶晴賢のように、大軍が狭い土地に追い込まれて身動きが取れなくなってしまうこともあった。そのようなミスを犯さないためにも、戦国時代の戦は陣形以上に地形が何より重視されていたのである。
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上杉謙信は戦国最強の大名だと言われている。自ら毘沙門天の化身を名乗り、義のための戦いを生涯続けた。戦場では軍神と化すその迫力、一騎打ちでは絶対的な強さを見せた姿は、確かに戦国最強の大名だと言えるかもしれない。しかし戦そのもの戦績を見返していくと、その勝率は決して高くはないのである。


上杉謙信は大名として生涯で100回を超える戦を経験しているのだが、その勝率は6割程度なのである。だが4割負けているというわけではなく、4割近くは引き分けに終わっているのだ。反面最も高い勝率を誇る毛利元就は8割を優に超え、戦の回数は謙信よりも20ほど少ないのだが、引き分けの数は謙信の1/3にも満たない。つまり負けも引き分けも少ないということだ。戦の勝率だけで見るならば、毛利元就を戦国最強と言うことができる。

だが上杉謙信の場合、他の大名が参戦しないような戦も戦っていた。義のための戦いだ。謙信は誰かに助けを求められると、それを決して断ることをしなかった。救援に出るとほとんど確実に勝って帰ってくるのだが、しかし謙信が去るとまた戦が再開されてしまう。そしてまた救援に向かう。上杉氏の関東遠征などはまさにその繰り返しだった。

上杉謙信が最も優れていたのは、負けない戦い方ではないだろうか。遠征を多く戦った謙信ではあるが、しかし決して無謀な戦いに挑むことはなかった。引き際を心得ており、義を果たしたと判断すると決して敵を深追いすることなく、すぐ越後に帰還していった。そのような判断力もあり、謙信は生涯で8回しか負け戦を経験していない。

最強と謳われる謙信の勝率は上述の通り6割程度なのだが、これは戦国大名としては10位くらいの戦績となる。だが謙信の場合、武田信玄と北条氏康との戦いが続いた時期があり、この3人に関してはそれぞれがそれぞれの勝率を下げる戦いを行っていた。そのため武田信玄にしても北条氏康にしても、勝率は謙信よりも少し上を行く程度とそれほど高くはない。

謙信の場合、実は戦よりも商才を高く評価すべきかもしれない。越後は海に面していたため、湊を使った貿易や商いによって資金力を高めていた。さらには武田信玄が塩を入手できずに苦しんでいると、すぐさま甲斐に塩商人を送り込み高値で塩を売らせた。「敵に塩を送る」の美談の元となった話だ。

通常、謙信ほど多くの遠征をしていては兵はすぐに疲弊してしまう。しかし資金力があったからこそいつでも武具を揃えることができ、兵にもしっかりと兵糧を分け与えることができた。だからこそ他の大名家よりも遥かに多く遠征を戦っているにもかかわらず、6割もの勝率を残しているのだろう。

地の利を得にくい遠征が多かったという意味では、それで6割の勝率を残しているのだから戦国最強と言っても良いのかもしれない。特に関東への遠征は、戦場にたどり着くまでに兵は多少なりとも疲れてしまう。その疲れた兵を駆使しての通算6割なのだから、やはり上杉謙信の統率力は並外れたものがあったのだろう。
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当時、毛利元就は大内義隆の傘下に入っていた。しかしその大内義隆が天文20年(1551年)に陶晴賢に討たれてしまう。この直後こそ元就は陶氏に従属の意を示していたが、しばらくすると大名として独立色を強めるするための行動を取り始める。それにより毛利元就と陶晴賢は敵対関係となり、天文24年の厳島の戦いへと繋がっていく。


毛利元就は天文24年、厳島に宮尾城を築城したのだが、その城が陶晴賢に攻められてしまう。この時陶晴賢は2万人以上の軍勢を率いて厳島に上陸し、島北部の塔ノ岡に本陣を置いた。そして9月21日、宮尾城の攻撃を開始する。宮尾城が攻められているという報せを受けると、元就は毛利隆元と吉川元春を率いて佐東銀山城(さとうかなやまじょう)を出立し、9月24日に厳島の対岸となる草津に到着した。

そこから船で島を時計回りに進み包ヶ浦(つつみがうら)に上陸すると、陶軍の背後に回り博奕尾山(ばくちおさん)に着陣した。この戦いで元就は水軍の協力を得て、陶方の水軍を寝返らせることにも成功しているのだが、しかしそれでも毛利勢は3000人程度という寡兵でしかなかった。陶軍が2万人以上の大軍で攻めて来ている中、とても正攻法で勝てるような差ではなかった。

元就を追うように小早川隆景も厳島に向かい、厳島神社のすぐ西にある大元浦から上陸しようと試みるも、しかし陶方の警護が固く上陸することができなかった。すると隆景はそのまま反時計回りに西へと船団を進めていく。この時小早川勢に加わっていた乃美宗勝が、闇夜に紛れ、敵方の援軍を装い厳島神社の鳥居付近に上陸することを進言した。

一か八かの賭けではあったがこれが上手くいってしまう。暗闇となっている海岸線では、敵味方の区別を付けることは困難だった。小早川勢は筑前からやってくる予定だった陶方の援軍宗像氏を装い、陶方の警護の中を難なく通り抜けてしまった。

10月1日は早朝から暴風雨で荒れていた。恐らく台風だったのだろう。だが毛利元就はこの暴風雨を奇襲の味方に付けた。突撃を合図する太鼓が打ち鳴らされると、博奕尾山に布陣していた毛利本隊が一気に山を駆け下りて陶本陣の背後を突いた。陶方はまさかこんな暴風雨の中毛利勢が攻めてくるとは予想しておらず、本陣は大混乱に陥ってしまう。

しかも毛利本隊とは別に、厳島神社の方からも今度は丘を登ってくる形で小早川勢が攻めて来た。陶方からすれば、その方角は警護を固めていたはずで、敵がいるはずのない方角だった。だが闇夜に紛れ援軍を装い身を潜めていた小早川勢が勢い良く攻め込んでくる。2万以上の陶勢は完全に挟撃させる形となってしまった。

開戦前は陶勢が圧勝すると思われていたこの戦いだったが、しかし2万と3000という兵力差が陶晴賢を油断させてしまった。まさかの形で挟撃されてしまい軍勢は総崩れとなってしまう。陶晴賢は何とかこの窮状を抜け出し大江浦まで兵を退くも、しかしそこで手詰まりとなり自害してしまう。まだ35歳という若さだった。その若さ故に油断という大敵に敗れてしまった。

厳島の戦いで陶晴賢を討ち取ったことにより、毛利氏の勢いは加速されていく。そしてかつて傘下に入っていた大内氏を継いだ大内義長を攻め自刃させると、毛利元就は中国地方を手中に収めることに成功した。毛利氏が独立大名として発展して行く大きなきっかけとなったのが、この厳島の戦いだった。

もしこの戦いで陶氏に敗れていれば、毛利氏はそこで滅亡する可能性すらあった。だが乃美宗勝の機転と元就の奇襲、そして若き陶晴賢の油断により毛利はこの戦いで奇跡的な大勝利を収めることができた。その後毛利氏が版図を拡大させることができたのも、この戦いで勝利した結果あってこそだった。そういう意味で厳島の戦いは、毛利元就にとっては最も意味深い一戦だったと言えるのだろう。
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戦国時代、「昔楠木、今竹中(昔は楠木正成だったが、現代では竹中半兵衛が一番)」「今楠木(現代の楠木正成)」と、楠木正成同等の評価をされていた軍師がいた。それが竹中半兵衛重治だ。竹中半兵衛が戦略を練った戦は、斎藤家時代、羽柴家時代とほとんど負けがなかった。もし竹中半兵衛の勝率を出したならば、間違いなく毛利元就や上杉謙信の上を行くことになる。だからこそ天才軍師の名を欲しいままにできたのだ。


竹中半兵衛は天文13年(1544年)9月11日、竹中重元の次男として生まれた。重行という兄がいたのだが、詳しい資料は残されていないが、どうやら戦で負った怪我で体が不自由になり、次男の重治が竹中家を継ぐことになったようだ。

だが竹中家では当初、三男の重矩(しげのり)に家督を継がせたいという声もあった。その理由は半兵衛が武将としてはあまりに物静かで、肌も青白く女性のような印象があったからだと言う。一方重矩はいわゆる武将タイプの人物で、武芸にも優れていた。しかし重矩に家督を継がせたいと考えた家臣たちの考えは、永禄7年2月6日に変わることとなる。

この日竹中半兵衛は、織田信長がいくら攻めても落とせなかった稲葉山城を、僅か16人の手勢だけで一夜にして落としてしまった。この稲葉山城乗っ取り事件により、家臣たちは半兵衛を見る目を変えざるをえなかった。またこの事件により竹中半兵衛の名が日ノ本中に轟くことになる。

まさに智謀に富んだ名軍師だったわけだが、しかし体は元来強くはなかった。それもあり36歳という若さで結核により亡くなってしまう。若くして亡くなったこの姿も、歴史ファンの心を引き寄せる要因なのだろう。

竹中半兵衛には様々な逸話が残されているが、その大半は後世の創作だと言われている。例えば垂井で隠棲していた際に、三顧の礼によって木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に迎えられたという話だが、これは三国志に登場する劉備が諸葛亮を幕下に加えるため、三度諸葛亮の屋敷を尋ねたという逸話の焼き増しとなる。竹中半兵衛自身が実際、どのような流れによって織田の寄人になったのかは正確にはわかっていない。

あまり有名な話ではないが、牛に関する逸話が残っている。ある時羽柴秀吉の陣屋は出陣を前にしててんやわんやとなっていた。誰もが慌ただしく動き回っており、まったく落ち着きのない雰囲気となっていた。だがひとりその雰囲気を壊す者がいた。もちろん竹中半兵衛だ。皆が忙しく動き回っている中、何と半兵衛はのんびりと牛に跨っていたのだ。

家中の誰かが「なぜこんな忙しい時に牛に乗っているのです?」と尋ねると、半兵衛は「忙しい時ほど牛に乗ってゆっくりと考え、冷静になる必要がある」と答えたと言う。半兵衛のこの言葉により羽柴陣営は落ち着きを取り戻していった。

冷静沈着という言葉はまさに、竹中半兵衛のためにあるようなものだ。いつでも冷静に物事を考え、戦に勝っても決して浮き足立つことなく、勝ったからこそ兜の緒をきつく締め直す、それが竹中半兵衛という人物像だ。

すぐに調子に乗るタイプの羽柴秀吉に対し、どんな時も冷静さを欠かない竹中半兵衛、こうして見ると非常にバランスの取れた良きパートナーだったのかもしれない。そして羽柴秀吉の人柄に惚れこんだからこそ、半兵衛は織田信長の家臣として仕えるのではなく、あえて織田の寄人として秀吉の幕下に加わったのだろう。

そして稲葉山城乗っ取り事件もあり、信長も半兵衛の力量を高く買っていたからこそ、半兵衛の我儘を聞き入れ、家臣ではなく寄人として与力となることを認めたのだろう。そうじゃなければあの織田信長が、たかだか竹中家の当主というだけの人物の我儘を許すはずはない。

竹中半兵衛はまだ謎多き武将ではあるが、戦国時代記では今後もこの人物を深く掘り下げていきたい。なぜなら筆者自身が最も尊敬している人物が竹中半兵衛であるからだ。
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毛利輝元と石田三成は盟友で、お互い助け合った場面が多々ある。この縁があり関ヶ原の戦いでは三成の要請に応える形で、輝元は西軍の総大将に就いている。だが輝元は関ヶ原開戦前に三成を裏切り、東軍に内通してしまった。兵力の分散など、毛利勢が関ヶ原でほとんど打って出なかった理由は他にもあるわけだが、一番の理由は東軍への内通だったようだ。

関ヶ原前の毛利家は、決して一枚岩とは言えない状況だった。まず小早川隆景を失ったことにより、毛利家は豊臣政権では力を失いつつあった。その上御家騒動を家康に干渉されるなどのこともあり、毛利家内は毛利輝元と吉川広家との派閥に二分されていた。もっと言えば政略を担当していた安国寺恵瓊派と、軍事面を担当していた吉川広家派とで関係が上手くいっていなかった。隆景が死んだことによりこの対立がより鮮明化されてしまい、関ヶ原の時点では毛利はまったく一枚岩とはなっていなかったのだ。

輝元の祖父、毛利元就はこうなることを予見していたからこそ「三矢の教え」を説いたのだろう。だが元就の願いも空しく、毛利家の分裂は日ごとに増してしまい、関ヶ原の時点では修復し難い状況にまで陥っていた。中でも広家は、恵瓊に対し良い感情をまったく持っていなかったと言う。

輝元は三成とも良好な関係を築いていたが、実は家康とも友好関係を結んでいた。そのため輝元が西軍の総大将になったことを聞くと、家康は非常に驚いたと言う。しかしこれを吉川広家が、すべては安国寺恵瓊の考えだと家康に弁明してしまう。つまり輝元は何も知らず、恵瓊の言う通りにしていたら西軍の総大将にされてしまった、というわけだ。

もちろん事実は違う。輝元と三成の関係あってこその総大将への就任であり、家康の毛利家に対する干渉への対抗心もあったようだ。だが最終的に輝元が優先したのは領地安堵だった。

関ヶ原の戦いは、総勢だけを見れば西軍も東軍もほぼ互角だった。この互角の戦力が真っ向から戦えば、どちらに勝利が傾くかはまったくわからない。だが毛利輝元が東軍として戦わないまでも、西軍として出陣さえしなければ、西軍には勝ち目はほとんどない。さらには小早川秀秋の東軍への内通も明らかになっていたため、輝元と秀秋が東軍に味方をすれば、ほとんど100%東軍が勝利するという状況だった。

そこに家康は東軍が勝利した暁には、現在の毛利の領地を安堵するという密約を輝元と結んだ。これにより関ヶ原の戦いが開戦する前日までに、西軍の総大将が事実上西軍から離脱する形となってしまった。この状況ではやはり西軍に勝ち目などまったくなく、開戦後は2時間も経たないうちに西軍は総崩れとなってしまった。

もう一度繰り返すが、輝元が西軍の総大将に就いたのは恵瓊の策略ではない。三成への友情と、家康への対抗心から輝元自らが総大将に就くことを了承したのだ。決して恵瓊が騙したわけではない。家康は広家の弁明を聞いたからこそ毛利の領地安堵を約束したわけだが、しかし関ヶ原の戦いが終わると、輝元が自らの意思で西軍の総大将に就いたという証拠が出てきてしまった。

これにより開戦前は120万石だった毛利家が、関ヶ原の戦いの後は30万石まで減封されてしまう。版図拡大に情熱を注いでいた輝元としては、立ち直れないほどの衝撃だったのだろう。減封後は間も無く隠居し一線から退いてしまった。ちなみにこの時、毛利家の取り潰しという話もあったようだが、吉川広家の尽力もありそれは回避され、30万石への減封で収まったのだと言われている。

だが冷静に考えれば、もし吉川広家が輝元に完全に味方し関ヶ原の戦いで奮闘していれば、西軍が勝利する可能性も決して低くはなかった。そして西軍が勝っていれば120万石以上を手にできた可能性もある。安国寺恵瓊にしても、そのような考えがあったからこそ西軍への参陣を説いていたのだろう。

しかし恵瓊を毛嫌いする広家の対応もあり、毛利家は結局関ヶ原では戦うこと自体を避けてしまった。最終的には周防・長門の30万石は維持できたものの、実はこの30万石は当初、家康は吉川広家に与えると言っていた。だが広家がそれを拒み、30万石は毛利家に与えて欲しいと懇願し、毛利家の改易処分が免れている。

もしかすると広家には、自分の対応が毛利家を取り潰してしまうところだったという罪悪感があったのかもしれない。だからこそ自らに与えられた30万石を、そっくりそのまま毛利家に譲ったのではないだろうか。今となっては真実は定かではないが、広家の一連の行動からは、そのようなことも想像できるのではないだろうか。
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もし毛利輝元が元就の遺言を忠実に守っていれば、もしかしたら関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利することもなかったかもしれない。だが領土拡大を目指したことにより兵力が分散してしまい、関ヶ原の戦いで思うような兵動員ができなくなってしまった。そして盟友である石田三成を助けることもまた、できなかったのである。


元就には、国人衆あがりの大名がこれ以上領土を拡大しようとしては、とてもじゃないが治め切れないし守り切れないことがわかっていたのだ。だからこそ遺言で版図拡大を禁じたのである。そして国人衆あがりとして国人衆をまとめることは苦労の連続だが、しかし3人が力を合わせれば今の領土を守り抜くことができると考えていた。「三矢の教え」とはそれを伝えるためのものだったのだ。

では毛利輝元はなぜ元就の遺言を守らなかったのか?豊臣政権に於いて毛利輝元と小早川隆景は共に大老だったわけだが、これは豊臣秀吉が小早川隆景を盟友として見ていたからだ。隆景のいる毛利家であれば、筆頭大老徳川家康の抑止力になると秀吉は考えていた。そのため6人の大老の中でも家康、輝元、隆景は別格の扱いだった。しかし秀吉よりも1年早く、慶長2年(1597年)6月12日、隆景は急逝してしまう。死因は脳卒中だと言われている。

隆景が死去すると、豊臣政権での毛利家の力が少しずつ失われていった。隆景存命の頃は家康と同等だったわけだが、しかし輝元のみになると事情が変わってきてしまう。秀吉は家康の抑止力として今度は前田利家を選んだのである。つまり筆頭大老が家康と利家に変わり、輝元の格が下げられてしまった。輝元はこの処遇により毛利家当主としての誇りを傷つけられてしまう。

その傷ついた誇りを癒すために、関ヶ原開戦の直前になり版図拡大を目指し始めたのだった。そしてこれが元就の遺言を守らなかった原因だと考えられる。隆景が存命中は、隆景が輝元の抑止にもなっていたため、輝元が元就の遺言を破ることもなかった。しかしその隆景が逝去してしまったことにより、輝元は自由に毛利家を動かせるようになった。

毛利家の礎は先代までがしっかりと固めてくれていた。そのため輝元は国人衆あがりの戦国大名の苦労をそれほど知らずして育っていく。いや、実際には父隆元、隆景、元春らが伝えていたのかもしれないが、しかしそれらは輝元にとっては一昔前の話に過ぎなかったのである。だからこそ元春、隆景が亡くなると、輝元は内に秘めていた野心を解放し始めたのであった。

元就が「三矢の教え」を与えた際、輝元はまだ18歳の若者だった。もしかしたら18歳の輝元には、元就の真意を理解するに至らなかったのかもしれない。そして輝元はもはや国人衆あがりの大名ではなく、大名の子の大名という世代になっていた。だからこそ輝元には元就の遺言を守ることよりも、野心を見せ領土拡大を目指した方が毛利家のためになると考え行動したのだろう。

輝元は決して「三矢の教え」や遺言を忘れたわけではなかったと思う。だが輝元自身の判断として、領土を拡大し、毛利の力をさらに強くしていくことが最善だと状況判断したのだ。だが関ヶ原の戦い後の毛利家の姿を見ると、結果的には元就が正しかったということになる。200万石とも言われ栄華を誇った毛利家が、37万石の小大名となってしまったのだから。


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毛利元就は元亀2年(1571年)7月6日、老衰もしくは食道癌にて75年の生涯を閉じた。その病床に元就は2人の息子と家督を継いだ孫を呼び、1本ずつ矢を手渡し、それをそれぞれ折らせた。矢は当然かんたんに折れてしまう。そして次に3本ずつ矢を渡しまとめて折らせた。だが1本なら容易く折れてしまう矢も、3本まとめればなかなか折ることができない。元就はそうして3人を諭し、元就亡き後は3人で力を合わせて毛利家を守るようにと伝えた。これが世に言う「三矢(さんし)の教え」だ。


この時元就に呼ばれたのは孫の毛利輝元(嫡子隆元は41歳の若さで死去)、吉川元春、小早川隆景の3人だった。いわゆる毛利両川と呼ばれた3人で、吉川家に養子となった次男元春、小早川家の養子となった三男隆景、そして長男隆元の子である輝元だ。そして彼らに対し元就は、これ以上の版図拡大はしないようにと遺言を残した。つまり現有の領地をしっかり守り抜くことだけに尽力し、それ以上の領土拡大は行うな、ということだ。

毛利家ほどの大大名であれば、普通であれば天下を目指していても不思議ではない。だがそこには毛利家特有の問題が存在しており、うかつに天下を目指すことができない事情があったのだ。それは毛利家が国人衆あがりの戦国大名だったことに所以している。

戦国大名が県知事だとすれば、国人衆は言わば市長であり、国人衆あがりの戦国大名とは、その国の国人衆のまとめ役という色合いが強いのだ。ちなみに真田家も国人衆あがりとなる。国人衆上がりの戦国大名を、国人衆は自分たちとほとんど対等くらいに考えていたのだ。つまり毛利家は領地の国人衆に対し、絶対的な権力を持っていなかったということだ。

毛利家が少しでも隙を見せるようなら、いつでも自分たちが代わりに国人衆の代表を務める、というくらいに考えていた。そのため一般的な戦国大名と比べると、毛利家は領土をまとめ上げるのに非常に苦労をしていたのだ。その点に関しては真田家と共通している。そしてそういう意味で絶対的なカリスマであった織田信長や、名門武田信玄よりも民政に神経を使っていたのが毛利元就だったというわけだ。

にも関わらず元就は11カ国200万石を治めるまでに毛利家を成長させることに成功した。元就にどれほど高い政治力ががあったのかがよく窺える。国人衆あがりの戦国大名としては、多少誇張されての200万石だったとしても、その手腕はかなり高く評価することができる。ちなみに200万石という数字は太閤検地以前のものであるため、正確な数字ではなかったのかもしれない。もしかしたらもっと多かったかもしれないし、逆に少なかったのかもしれない。

元就は国人衆あがりの戦国大名として国を治める大変さがよくわかっていた。だからこそこれ以上版図を拡大することなく、現有領土を3人で力を合わせて守り抜いて欲しいと遺言を託したのだった。小早川隆景に関してはその遺言を最後まで守り抜こうとしたのだが、しかし関ヶ原の戦いが起こる少し前になると、毛利輝元が領土拡大に意欲を見せていく。だが結果的にはそれが仇となってしまい、関ヶ原後には自らの首を絞めることになってしまった。


houjo.gif北条氏政という人物は言われているように、本当に愚将だったのだろうか。戦国時代の出来事について書かれた家記や軍記などは、大きく誇張されたり後世の創り話が加えられていることが非常に多い。氏政の無能振りを強調したような「二度汁」に関するエピソードも、真実は毛利家のエピソードからの引用だとされている。

「二度汁」とは、この時代は飯に汁をかけて食べるのが一般的だったわけだが、毎日食べているにもかかわらず汁の分量を一度では量り切れず二度に分けたため、そんな分量も量れない者に善政が可能なはずはない、当家も自らの代で終わるのか、と北条氏康が氏政を嘆いたとされるエピソードだ。だがこれは上述の通り、毛利元就の輝元に対してのエピソードの引用であった可能性が高い。

氏政が愚将と呼ばれる所以は、やはり大名としての北条家を滅亡に追い込んだ事実があるためだろう。本能寺の変が起こり、その後豊臣秀吉が力を付けていくわけだが、氏政は天下統一を目前としている秀吉と対立してしまったのだ。しかも真田昌幸のような智謀により勝機があってこその対立ではなく、小田原城の守備力を過信してのものだった。

確かに小田原城はかつて、戦国最強と謳われた上杉謙信や武田信玄の侵攻さえも難無く防いだ名城だ。だが上杉軍や武田軍と、北条家の最後となる頃の豊臣軍とでは軍勢の規模がまるで違っていた。確かに上杉謙信が10万を超える軍勢で攻め込んできたこともあったが、しかし小田原城を攻めた際の豊臣軍は22万だったと言われている。

見たこともないようなこの大軍勢を前に北条勢は戦意喪失してしまい、結局降伏することになった。こうして勝てないとわかり切っていた戦を行い大名北条家を滅亡位に追いやったため、氏政は愚将と呼ばれるようになった。

ではなぜ氏政は豊臣に敵対したのか。それは独立大名としての誇りを強く持っていたためだとされる。この時代に北条が大名として生き残るためには豊臣に臣従する必要があった。だが同時に徳川、もしくは上杉の格下として扱われる可能性が高かった。北条にとって上杉は天敵であり、徳川にしてもかつてのライバルで、一昔前であれば徳川よりも北条の方がよほど大きな家だった。そのようなプライドが働き氏政は判断を鈍らせ、豊臣に敵対する道を歩んでしまった。

しかし本能寺の変が起こらなければ、氏政の判断は決して愚かなものばかりではなかった。まず織田信長が力を付け始めると、武田家の抑えとして北条家は織田家と友好関係を築いていく。そして天正10年(1582年)に織田家が甲州征伐に乗り出した際も助力している。このまま何も起こらなければ織田家との同盟により、北条家は末長く安泰となるはずだった。だが氏政の判断も本能寺の変によりすべてが狂い出してしまう。

本能寺の変が起こるまでは、武田との同盟により上杉と戦い、さらには徳川との同盟により今度は武田を攻めるなど、臨機応変の現実的な判断を数多く下してきた。もし氏政のこのような判断がなければ、北条家はもしかしたらもっと早くに衰退していたかもしれない。北条氏政を生涯を通して見ていくと、決して愚将ではなかったと言える。しかし最後の最後で大きな過ちを犯してしまったため、そのことだけが人々の記憶に残り、愚将のレッテルを貼られてしまったのだった。