竹中半兵衛とは実際にはどのような人物だったのか?!

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戦国時代、「昔楠木、今竹中(昔は楠木正成だったが、現代では竹中半兵衛が一番)」「今楠木(現代の楠木正成)」と、楠木正成同等の評価をされていた軍師がいた。それが竹中半兵衛重治だ。竹中半兵衛が戦略を練った戦は、斎藤家時代、羽柴家時代とほとんど負けがなかった。もし竹中半兵衛の勝率を出したならば、間違いなく毛利元就や上杉謙信の上を行くことになる。だからこそ天才軍師の名を欲しいままにできたのだ。


竹中半兵衛は天文13年(1544年)9月11日、竹中重元の次男として生まれた。重行という兄がいたのだが、詳しい資料は残されていないが、どうやら戦で負った怪我で体が不自由になり、次男の重治が竹中家を継ぐことになったようだ。

だが竹中家では当初、三男の重矩(しげのり)に家督を継がせたいという声もあった。その理由は半兵衛が武将としてはあまりに物静かで、肌も青白く女性のような印象があったからだと言う。一方重矩はいわゆる武将タイプの人物で、武芸にも優れていた。しかし重矩に家督を継がせたいと考えた家臣たちの考えは、永禄7年2月6日に変わることとなる。

この日竹中半兵衛は、織田信長がいくら攻めても落とせなかった稲葉山城を、僅か16人の手勢だけで一夜にして落としてしまった。この稲葉山城乗っ取り事件により、家臣たちは半兵衛を見る目を変えざるをえなかった。またこの事件により竹中半兵衛の名が日ノ本中に轟くことになる。

まさに智謀に富んだ名軍師だったわけだが、しかし体は元来強くはなかった。それもあり36歳という若さで結核により亡くなってしまう。若くして亡くなったこの姿も、歴史ファンの心を引き寄せる要因なのだろう。

竹中半兵衛には様々な逸話が残されているが、その大半は後世の創作だと言われている。例えば垂井で隠棲していた際に、三顧の礼によって木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に迎えられたという話だが、これは三国志に登場する劉備が諸葛亮を幕下に加えるため、三度諸葛亮の屋敷を尋ねたという逸話の焼き増しとなる。竹中半兵衛自身が実際、どのような流れによって織田の寄人になったのかは正確にはわかっていない。

あまり有名な話ではないが、牛に関する逸話が残っている。ある時羽柴秀吉の陣屋は出陣を前にしててんやわんやとなっていた。誰もが慌ただしく動き回っており、まったく落ち着きのない雰囲気となっていた。だがひとりその雰囲気を壊す者がいた。もちろん竹中半兵衛だ。皆が忙しく動き回っている中、何と半兵衛はのんびりと牛に跨っていたのだ。

家中の誰かが「なぜこんな忙しい時に牛に乗っているのです?」と尋ねると、半兵衛は「忙しい時ほど牛に乗ってゆっくりと考え、冷静になる必要がある」と答えたと言う。半兵衛のこの言葉により羽柴陣営は落ち着きを取り戻していった。

冷静沈着という言葉はまさに、竹中半兵衛のためにあるようなものだ。いつでも冷静に物事を考え、戦に勝っても決して浮き足立つことなく、勝ったからこそ兜の緒をきつく締め直す、それが竹中半兵衛という人物像だ。

すぐに調子に乗るタイプの羽柴秀吉に対し、どんな時も冷静さを欠かない竹中半兵衛、こうして見ると非常にバランスの取れた良きパートナーだったのかもしれない。そして羽柴秀吉の人柄に惚れこんだからこそ、半兵衛は織田信長の家臣として仕えるのではなく、あえて織田の寄人として秀吉の幕下に加わったのだろう。

そして稲葉山城乗っ取り事件もあり、信長も半兵衛の力量を高く買っていたからこそ、半兵衛の我儘を聞き入れ、家臣ではなく寄人として与力となることを認めたのだろう。そうじゃなければあの織田信長が、たかだか竹中家の当主というだけの人物の我儘を許すはずはない。

竹中半兵衛はまだ謎多き武将ではあるが、戦国時代記では今後もこの人物を深く掘り下げていきたい。なぜなら筆者自身が最も尊敬している人物が竹中半兵衛であるからだ。
  • 享年36、竹中半兵衛の死因は結核
  • 楠木正成と並び称された天才軍師竹中半兵衛
  • 竹中半兵衛と牛にまつわるエピソード

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