信長でも落とせない稲葉山城を16人で落として見せた19歳の竹中半兵衛

櫓から小便をかけられても怒る素振りさえ見せなかった竹中半兵衛

竹中半兵衛

永禄7年(1564年)2月6日の夜、織田信長が4年攻めても落とせなかった美濃・稲葉山城を、竹中半兵衛重治が僅か16人の手勢のみで鮮やかに落として見せた。稲葉山城は天然の要塞とも呼ばれ、これまでどれだけの大軍で攻められても落ちなかった難攻不落の城として有名だった。果たしてこの城を、竹中半兵衛はどのような手を使って僅か16人で落として見せたのか?

そもそも竹中半兵衛は斎藤家の家臣だった。だが斎藤家の他の熱血的な武将たちとは違い、半兵衛はいつも飄々とし、何を考えているのか分からないような人物だった。だがそれは生気がなかったからではなく、斎藤家が近い将来滅びるであろうことが半兵衛には分かっていたからこその姿だった。愚将の主斎藤龍興を守るために熱を帯びることなど、半兵衛にとっては無駄以外の何物でもなかったのだ。

龍興は、祖父道三の頃から仕えている斎藤家の重臣たちをことごとく遠ざけ、自分の言うことをよく聞く者だけを側に置き重用するようになった。そして龍興がことあるごとに半兵衛を馬鹿にするため、龍興の側近たちもそれを真似て半兵衛をからかうようになった。斎藤飛騨守秀成に関しては、菩提山城へ戻って行く半兵衛に対し櫓から小便をかける蛮行を見せたほどで、これは永禄7年、半兵衛が新年の挨拶をするために稲葉山城の龍興の元に出向いた帰り際の出来事だった。

小便をかけられてもなお半兵衛は無表情のまま、不気味なほど冷静な目礼だけをし稲葉山城を去っていく。小便をかけられれば、普通の武士であれば抜刀し怒りを露わにするのが当然だ。だが半兵衛は表情一つ変えない。この半兵衛の姿に逆に恐怖感を覚えたのは斎藤飛騨守の方だった。慌てて龍興の元へ行くと、半兵衛に復讐されるかもしれないと助けを求め、また、半兵衛には逆心があるのではないかという疑心まで龍興に植え付けようとした。

後日、龍興は半兵衛を稲葉山城に呼び出し、逆心の疑いをかけられていることを伝えた。そして半兵衛はそのつもりはないと証明するため、弟である竹中久作重矩(きゅうさくしげのり)を人質として差し出した。だがこの人質こそが、半兵衛が仕掛けた稲葉山城乗っ取り作戦の初動だった。半兵衛は人質として稲葉山城に送られる重矩に対し、2月になったら仮病を患えと命じていた。

逆心を疑われて差し出した弟に仮病を使わせた竹中半兵衛

重矩はその通り、2月になると腹痛で苦しむ振りをした。その痛がりようは尋常ではなく、医者にも痛みの原因が分からない。しかし当然である、仮病なのだから。これは命に関わる重病に違いないと思った龍興は、菩提山城の半兵衛に報せを走らせた。そして半兵衛はまず弟の病を主に詫び、すぐに見舞いに向かうつもりだと返した。

そして2月2日、半兵衛は16日の共を連れ稲葉山城に入った。半兵衛たちはまったくの軽装で、持っていたのは幾つか長持だけだった。これには見舞いの品や、龍興への手土産が入っていると言い城内に持ち込んだ。だが実際に入っていたのは16人分の武具だった。

2月6日になると竹中半兵衛と16人の家臣たちは、長持に隠し持っていた武具を次々纏っていく。この日は夜風が冷たい静かな夜だったらしい。半兵衛は城内を散歩しながら、ようやく二の丸付近で探していた人物を見つけ出した。そう、斎藤飛騨守秀成だ。

遭遇するなりまた威丈高に物言う飛騨守を、半兵衛は一瞬のうちに切り捨てたと伝えられている。実はこの夜の夜警が斎藤飛騨守であることを、半兵衛はあらかじめ知っていた。この2月、斎藤飛騨守は1〜6日の夜警を担当していた。だからこそ半兵衛は夜警最終日であるこの日に稲葉山城を乗っ取ることにしたのだった。

斎藤飛騨守を切り捨てると、半兵衛は家臣たちに「竹中の兵が大勢城内に攻め込んできた」と城内で吹聴させて回った。すると城内は大混乱に陥り、着の身着のまま城を逃げ出す者が続出し、城を守ろうとする者はほとんどいなくなった。斎藤龍興も側近である長井新八郎と新五郎兄弟に支えられ、状況を把握できないまま城を捨て逃げ出すという有様だった。

織田信長と舅安藤伊賀守を感服させた19歳の竹中半兵衛

龍興が城を捨てたことでこのクーデターは完了し、稲葉山城は竹中半兵衛の手中に落ちた。なおこの時、半兵衛の舅である安藤伊賀守範俊がもしもの時のため城下で待機していたようだ。数日前に事を起こすことはすでに本人から伝えられていたが、舅はまさか婿がこの乗っ取りを成功させるとは夢にも思っていなかった。だが16人の手勢のみで一夜にして城を落として見せたことで、範俊はあらためて「この男に娘を嫁がせて正解だった」と思うのだった。

半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件は、瞬く間に美濃周辺へと広がっていった。これに最も驚いたのは尾張の織田信長だ。信長は4年かけて稲葉山城を攻めていたが、未だ落とせる気配さえ見えていなかった。それを竹中半兵衛という19歳の若者が、たった16人の手勢だけで一夜にして落としてしまったのだ。

信長はすぐに半兵衛に使者を送った。そして稲葉山城を織田に明け渡せば、美濃国の半分を与えるという好条件を提示した。だが半兵衛にその提案を受けるつもりはない。そもそも半兵衛は謀反を起こしたのではなく、愚将の主斎藤龍興を諌めるために城を乗っ取っただけなのだ。それを信長に明け渡し、逆臣の汚名を背負うつもりは半兵衛にはさらさらなかった。

しかし半兵衛は信長に対しすぐに回答しようとしない。その理由は信長の使者が頻繁に半兵衛を訪ねているという噂を、龍興の耳に入れるためだ。その噂を聞きつけると龍興は案の定慌て、自ら半兵衛に頭を下げて城の返還を求めた。すると半兵衛は、今回の稲葉山城乗っ取りに関わったすべての者の責任を問わないということを条件に、あっさりと城を明け渡した。そして自らは家督を弟重矩に譲り、自らは晴耕雨読の隠遁生活へと入ったのだった。

この出来事以来、竹中半兵衛は「今楠木(現代の楠木正成)」と称されるようになった。

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