「井伊直親」と一致するもの

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大河ドラマ『おんな城主直虎』第6回目・初恋の別れ道では、井伊直親の元服と結婚が描かれている。元服に関しての史料はほとんど残されていないため、直親が元服した年齢は史実ともフィクションとも言えない。だが亀之丞が井伊谷に戻ったのは実際には二十歳頃のため、二十歳で元服となるとかなり遅い元服ということになる。一方結婚に関しては史実とは少し異なった描き方をしているようだ。


大河ドラマでは奥山朝利の娘ひよを娶る姿が描かれている。ひよは井伊直政の母となる人物であるが、実は直親はこの前にすでに結婚をしているのだ。いや、厳密には結婚をしていたと言うよりは、ある女性との間に子を持っていた、という表現すべきなのかもしれない。相手は隠遁生活を送っていた時に知り合った塩沢氏の娘だ。この塩沢氏の娘との間に、直親は男児と女児を一人ずつ持った。

男児の名は吉直と言うようだ。しかし吉直は直親が井伊谷に帰還した際、隠遁していた先に置いてこられた。そして塩沢氏に養育され、その後吉直の数代先が延享3年頃(1746年)に麹屋を創業した。そして同じ時期に塩沢の姓から井伊姓へと戻し、島田屋は飯田藩御用達の麹屋として栄えていったと言う。

女児に関しては名前は不明だが、直親が井伊谷へ戻ってきた際に連れてこられたようだ。井伊家に伝わる史料では直親の子は井伊直政とこの女児だけということになっているが、実際には直政よりも先に吉直という男児を持っていたようだ。しかし吉直は、井伊家へと戻っていく直親の将来が案じられ、井伊谷に連れて行かれることはなかった。そして塩沢氏の養子となり、井伊家の記録からは抹消されてしまったらしい。

さて、奥山朝利とは井伊分家の実力者であり、井伊家にとっては親族に当たる家臣だったようだ。井伊直親はその娘であるひよを娶り、ひよは永禄4年(1561年)にのちの井伊直政を産んだ。

この回で次郎法師は公案について南渓和尚から学んでいる。公案とは僧侶が修行をする際に学ぶものであり、答えの出ないことを延々と考え続ける修行の一環だ。例えば手を叩き「これは右手の音か?それとも左手の音か?」と問い、答えを出せないことを考えさせ、物事の多面性を学ばせるという修行であるようだ。

ドラマの中では中国の王とふたりの大臣、そしてふたつずつ与えられた饅頭に関する故事が次郎法師に公案として与えられていた。だがこれは公案というよりは、この回で描かれたフィクション、次郎法師が溺死を装おとするくだりを演出するための出典だったのではないだろうか。なぜなら故事にはすでに答えが存在しているからだ。

最後にもう一つ公案を紹介しておくと、天にも届きそうな棒の上に立ち、そして一歩踏み出す。するとどうなる?という問いも公案のひとつだ。普通に考えれば落ちて死んでしまうわけだが、そのような当たり前のことを答えることが公案の目的ではない。

筆者はもちろん公案による修行などしたことがないため、一歩踏み出した先がどうなるかなど考えたことはない。だがこの機会に少しこういうことを考えてみるのも面白いかもしれないなと感じている。一歩踏み出した先でどうなるのか、そして手を叩いた音は右手の音なのか、それとも左手の音なのか。
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2017年大河ドラマの主人公は戦国時代の女城主、井伊直虎。演じるのは柴咲コウさん。第一回目『井伊谷の少女』では幼い日の井伊直虎・とわ、井伊直親・亀之丞、小野政次(またの名を道好)・鶴丸が十前後という年齢で登場する。3人とも幼馴染という仲であり、共に遊んだり、共に学んだりするシーンが描かれている。だがこの3人にはこの後、残酷な運命が待ち受けている


おとわの両親は井伊直盛と千賀(ちか)だが、この時の井伊家には嫡男が誕生しておらず、子はとわだけだった。ちなみに母は千賀、直虎の幼名はドラマではとわと設定されているが、本当の名前は史実には残されていないため、これはあくまでもドラマ内だけでの設定となる。ただ千賀の晩年の名前である祐椿尼(ゆうちんに)は史実の名前となり、千賀は今川家の家臣・新野親矩(にいのちかのり)の妹となる。

劇中でとわと父直盛が遠乗りに出かけるシーンがあるのだが、そこで直盛は「おとわが継ぐか?わしの跡を」と語り、とわも「われもずっとそのつもりなのですが」と答える場面がある。これは今後のドラマ展開の伏線とも言えるやり取りであり、とても重要なシーンだ。

とわは、ドラマでは男勝りに育てられている設定だが実際にそうだったのかはもちろんわからない。何しろ戦国時代の女性の史料というのは、よほど力のある人物でない限り残されてはいない。井伊直虎に関してもそうで、女城主になったからとは言え、直虎の詳細がわかる史料はほとんど残されていない。そのため大河ドラマの内容も史実を描いたシーンは少なく、あくまでも多くのフィクションを加えた小説のドラマ化ということになる。ちなみに井伊家に伝わる正式な家系図に於いても女であるが故に直虎の名は省かれている。

体が弱いという設定になっている亀之丞は笛の名手であるわけだが、これは史実通りだ。歴史上の亀之丞、後の井伊直親も笛の名手として知られている。ただし体が弱かったという史実は残されてはいないため、この設定はフィクションなのかもしれない。

第一回目でとわと亀之丞は許嫁(いいなづけ)となる。これはもちろん史実通りだ。史実でも十前後の歳の頃に幼き日の井伊直虎と亀之丞は婚約している。だが亀之丞の父親である井伊直満が謀殺されてしまうことで、亀之丞の命も危ぶまれることになる。そこで井伊家と龍潭寺の住職である南渓和尚が協力し合い、亀之丞を密かに匿うことになった。

亀之丞を何から匿うかというと、それは今川家だ。この頃の井伊家は今川家に属していた。井伊直満(亀之丞の父)は、今川贔屓の井伊家家老・小野政直の讒言によって謀反の疑いをかけられ、今川義元の命により謀殺されてしまった。つまり井伊家は娘婿として井伊家の跡取りとなった亀之丞を、小野政直の魔の手から守ろうとしたというわけだ。その詳細に関してはこちらの記事に少し詳しく書いているため、ぜひ参考にしてもらいたい。

だいたいこの辺りまでが『おんな城主直虎』第一回目のあらすじとなる。史実通りのこととフィクションが上手く織り交ぜられた内容であり、二回目以降が楽しみになるストーリー展開がされている。ちなみに脚本を書かれているのは『世界の中心で、愛を叫ぶ』『仁-JIN-』『天皇の料理番』『白夜行』などの脚本を手掛けられた森下佳子さんだ。

森下佳子さんは涙を誘う台詞回しがとても上手な方なので、きっと今後『おんな城主直虎』でも涙を誘うシーンがたくさん出てくるのだろう。役者さんたちの好演、森下さんの脚本などなど、今後とても楽しみに感じられる大河ドラマであり、決して2016年の『真田丸』に引けを取らない素晴らしい作品になっていくのだと思う。
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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を俗に徳川四天王と呼ぶ。だがこの4人年齢が実にバラバラなのである。その中でも井伊直政は最も若く、酒井忠次とは親子以上の歳の差があった。それでも井伊直政が徳川四天王に名を連ねたということは、物凄い速度で出世していったということになる。


酒井忠次・・・大永7年(1527年)生まれ
本多忠勝・・・天文17年(1548年)生まれ
榊原康政・・・天文17年生まれ
井伊直政・・・永禄4年(1561年)生まれ

酒井忠次と井伊直政は34歳差、本多忠勝・榊原康政と井伊直政は13歳となる。ちなみに直政を除く3人はみな三河出身で、つまりは家康と同郷となる。まだ新興大名だった頃から家康を支えていた3人だった。一方直政は遠江出身で、家康に出仕したのは天正3年(1575年)、直政が15歳の時からだった。この時はわずかに300石の知行だった。

それから7年後、本能寺の変が起こる天正10年(1582年)には4万石にまで加増されている。そして関ヶ原の戦いでの功績として石田三成の居城であった佐和山城を与えられた時には、18万石の有力大名となっていた。まさにトントン拍子で出世して行ったと言える。

この出世に対し一説では徳川家康が男色家であり、直政を寵愛していたためだと言われている。だがこれは真実とは言えない。多くの史家たちが言うように、家康に男色の気はなかったのである。これは織田信長が森蘭丸を寵愛したことになぞらえられていると考えられるが、実は織田信長も男色家として森蘭丸を寵愛していたわけではなかった。

信長が蘭丸を寵愛したというのは、信長の死後に秀吉が吹聴した作り話だった。森蘭丸という漢字も秀吉が勝手に変えてしまったものであり、実際の漢字は森乱丸だった。 当時、蘭という言葉には女性らしい男子という意味合いがあったらしく、信長を男色家としてしまうために、秀吉はあえて蘭丸と書かせていたようだ。秀吉の場合、男色家の信長より、自分の方が天下人に相応しいとアピールするために、このような捏ち上げをしている。

話を井伊直政に戻すと、直政の父親は直親であり、直親の祖父は井伊直平だ。この井伊直平という人物は、実は築山殿の母方の祖父なのだ。築山殿とはもちろん、徳川家康の正室だ。築山殿は直政が家康に仕えた4年後に殺されてしまうのだが、正室の血縁者ということで家康も直政を重用するようになった。

そしてもう一つ家康が直政を重用した理由がある。直政の父、井伊直親は謀反の嫌疑をかけられ謀殺されてしまったわけだが、その原因は直親と徳川家康が遠江について話し合ったことにあった。もちろん謀反の相談ではなかったわけだが、それを謀反だと讒言され、直親は今川氏真の命により殺害されてしまう。

このような経緯もあり、家康は直親の子である直政を重用するようになった。井伊直虎の死後、まだ万千代と名乗っていた22歳の直政に「井伊を名乗るようにと」命じたのも家康だった。

井伊直政の驚異的なスピード出世の陰には直政自身の高い能力に加え、築山殿の血縁者、直親の死に家康が関係していた、という要因があったようだ。そして最終的には近江佐和山藩初代藩主にまで昇り詰め、慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で追った怪我が原因で41歳という若さで亡くなっている。

幼き頃から今川から命を狙われ、14歳でようやく井伊谷に戻ることができ、15歳で家康に出仕してからはスピード出世し、そして関ヶ原から1年半後に亡くなってしまった。まさに井伊直政は太く短く生きた戦国の名将と言えるだろう。
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のちに徳川四天王と呼ばれることになる井伊直政は、22歳まで元服をしなかった。元服は早ければ13歳、一般的には15〜16歳で行うものであり、22歳での元服は異例の遅さだったと言える。ではなぜ井伊直政は22歳まで元服をしなかったのか?実はこれは直政の優しさに理由が隠されていた。


井伊直政の父は井伊直親であり、幼い日の直親、つまり亀之丞と井伊直虎は幼馴染であり、かつての許嫁だった。だが紆余曲折あり、結局亀之丞と直虎が結婚することはなかった。そして直親となった亀之丞は讒言により謀反の疑いをかけられて謀殺されてしまう。その後直親の子である虎松、つまりのちの井伊直政は、父同様に命を狙われないように名を変えて鳳来寺で匿われていた。

直親が殺害されてからの十数年の間、井伊家を守っていたのは女城主直虎だった。その直虎は虎松が14歳になり井伊家に戻ってくる形になると、虎松の養母となる。虎松はその後徳川家康に目をかけられ万千代と名乗り、目覚ましい活躍をしていく。その間も井伊家の居城である井伊谷城を守り続けたのは直虎だった。

一時は今川により、井伊家は滅亡の危機を迎えたこともあった。それを強い信念で乗り越え、直虎は井伊家を再興させようと命を賭していた。そのことを虎松はよく知っていたし、鳳来寺から井伊家に戻ってからもその直虎の姿を目の当たりにしていた。つまり虎松は、自分が井伊家に戻って来られたのは直虎の努力あってこそだったとよくわかっていたのだ。

22歳を迎えるまでもなく、もちろん虎松には何度も元服する機会があった。だが虎松は頑なに元服することを拒み続けた。虎松が元服をすると、当然名は井伊直政となる。そして井伊直政が誕生するということは直親の死以来、ついに井伊宗家を継ぐ男子が登場することを意味し、井伊直虎の女城主としての役割もそこで終わることになる。

虎松は直虎が経験してきた苦労をよく理解していた。そのため直虎が存命であるうちは、直虎こそが井伊家の頭領であるべきだと考えていた。だから虎松は22歳になるまで元服しなかったのである。

だが天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎は50歳前後という年齢でこの世を去ってしまった。50歳前後と書くのは、直虎が生まれた年が不明であるためだ。史家の研究により、ただい50歳くらいだったと推定されており、有力なのは井伊直親よりも2歳上だったという説だ。仮に直親よりも2歳上だったとすれば、直虎は享年49ということになり、同年6月2日に本能寺の変で討たれている織田信長と同じ歳ということになる。

直虎がこの世を去ってから3ヵ月後の11月、万千代と名を改め家康の元で活躍していた虎松は、ようやく22歳で元服し井伊直政と名乗り、正式に井伊家を継ぐことになった。戦場では赤鬼と呼ばれ恐れられた井伊直政ではあるが、戦場を離れれば母思いの心優しい青年だったのである。

直政にとって井伊直虎は実の母親ではなく、あくまでも養母だった。しかし直虎と父直親が許嫁だったことを知る直政としては、直虎は実の母同然の存在だったようだ。そして直虎のこれまでの苦労を知るだけに、その母にいつまでも井伊家頭領でいてもらいたく、普通では考えられない22歳で元服する形になったのだった。

なお井伊直虎の墓は井伊谷城にほど近い龍潭寺にあり、法名は「妙雲院殿月泉祐圓大姉(みょううんいんでんげつせんゆうえんだいし)」とされている。
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井伊直虎は姫として生まれ、なぜ男として生きなければならなかったのか?それには井伊家と今川家の間の深い因縁が関係している。井伊家は長年に渡り今川家に苦しめられてきたのだが、直虎が家督を継ぐまではそれがずっと続いていた。だが直虎が家督を継ぎ、桶狭間の戦いによって今川家が衰退していくことにより、井伊は徐々に平和を取り戻していった。

直虎の曽祖父井伊直平は永禄6年(1563年)、今川家から離反していた天野景泰・天野元景父子を攻めた戦いで討ち死にを果たしている。そして直虎の祖父井伊直宗は天文11年(1542年)に田原城攻めで討ち死に。さらに父井伊直盛は桶狭間の戦いで討ち死にしている。決して討ち死にが珍しくはなかった戦国時代とは言え、ここまで代々討ち死にが続くことはさすがに珍しいことだった。

そして父井伊直盛は男児に恵まれず、子は女児である直虎ひとりしかいなかった。そのため桶狭間の戦い後、井伊家は家督問題に直面してしまう。そこで井伊宗家は、直虎の祖父直宗の弟である直満の子、亀之丞(のちの井伊直親)を直虎の婿として迎え、井伊宗家を継がせることにした。亀之丞は直虎にとっては幼馴染であり、気心の知れた親戚の子だった。

だがそうなろうとした矢先、井伊直満と直義兄弟が小野和泉守政直(道高)の讒言により謀反の疑いをかけられ、主君今川義元に殺害されてしまった。ちなみに直満と小野政直は犬猿の仲だったようで、直満の子が井伊宗家を継ぐことが政直は許せなかったらしい。小野直政としては自らの息子に井伊宗家を継がせたいという思いだったようだ。

直満が殺害されたことにより、亀之丞にも危機が迫る。謀反の疑いにより殺害された者の息子がそのまま平和に生きることは許されない。もちろんこの疑いは小野政直のでっち上げだったわけだが、それでも亀之丞も小野政直によって命を狙われ、離れた土地の寺で匿われることになる。その後7〜8年の潜伏生活ののち亀之丞は戻り、ようやく養子として井伊宗家を継ぐことになった。

だが亀之丞改め井伊直親は、今度は小野政直の息子、小野道好の讒言により謀反の疑いをかけられ永禄5年(1563年)、今川氏真の命により騙し討ちにされてしまった。井伊宗家は、こうしてまたもや跡取りを失ってしまったのだった。

この時直虎はすでに出家し次郎法師として生きていたのだが、かつての直虎の婚約者であった直親が殺害されてしまったため直虎が井伊家を継ぐしか道が残されておらず、還俗し名を直虎と改め、井伊宗家を継ぐことになった。不幸が続くことによりこうして井伊家24代当主直虎が誕生したのであった。

ちなみに直親の子・直政は直虎が養母となりその後25代当主となるわけだが、井伊直政はご存知の通り徳川四天王としてその後大活躍することになる。

曽祖父・井伊直平(20代当主)/討ち死に
祖父・井伊直宗(21代当主)/討ち死に
父・井伊直盛(22代当主)/桶狭間の戦いで討ち死に
大叔父・井伊直満、直義/謀反の疑いにより騙し討ち
養子・井伊直親(23代当主)/謀反の疑いにより騙し討ち
井伊直虎(24代当主)
井伊直政(25代当主)/佐和山藩初代藩主
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2017年NHK大河ドラマの主人公は井伊直虎と発表されている。直虎を演じるのは柴咲コウさんであり、井伊直虎とは男性の名でありながら、戦国時代を強く生き抜いた女性なのである。大河ドラマの主人公となるわけだが、しかし井伊直虎に関する詳しい資料は非常に少なく、史家も研究に苦心しているようだ。


筆者は最近『女城主・井伊直虎 』という本を拝読したのだが、井伊直虎を知るには一番オススメの一冊だ。時々小説ような文体を混ぜながら、井伊直虎のドキュメントをわかりやすく丁寧に伝えてくれている。だがこの本でさえも冒頭1/3程度は直虎はほとんど登場せず、直虎が直虎になるまでの井伊家の歴史紹介にページが割かれている。つまり井伊直虎とは、それほどまでに歴史的資料が残されていない人物なのだ。

そもそも井伊直虎の女性としての名も文書では残されていないため、許嫁がいた頃の姫としての名さえも謎に包まれたままだ。直虎は亀之丞(後の井伊直親)という婚約者がいたのだが、しかし様々な事情により命を狙われることとなり、亀之丞は身を潜めなくてはならなくなった。直虎は婚約者である亀之丞の帰りをいつまでも待ち続けたが、しかし亀之丞は潜伏先で出会った別の女性と結婚してしまう。

直虎はその失意により出家を決意する。最初は尼となるはずだったが、尼が還俗するという風習は当時はほとんどなかった。つまり一度尼になってしまうと、姫に戻ることはほとんどできない時代だったのだ。だが僧の場合はそうではなく、僧から還俗して戦国大名になった者は多い。井伊家の天敵であった今川家の義元も僧から還俗して大名になったひとりだ。

この頃の井伊家は跡取り不在に悩んでいたため、もしもの場合は直虎が井伊家を継ぐ必要があった。だが尼になってしまうとそれができなくなるため、この時直虎は次郎法師という名前で、尼ではなく僧として出家したのだった。そして結果的には還俗し直虎と名乗り、井伊家を継ぐことになる。

井伊直虎は、井伊直盛と新野左馬助の妹との間に生まれた子ということはわかっている。しかし生まれた日や年は記録として残されておらず、正確な年齢は謎に包まれている。史家の中には直虎と亀之丞の関係を追うことにより、亀之丞よりも2歳ほど上だったのではないかと予想している方もいる。

となると亀之丞は天文4年(1535年)生まれであるため、直虎は天文2年あたりに生まれたことになる。そして亡くなったのは天正10年(1582年)8月26日であることから、享年は49だったのではないかと言われている。だが確かな資料が残っているわけではないため、これも史家の推測の域はまだ出ていない。

直虎が亀之丞よりも2歳上だと仮定すると、亀之丞と婚約したのは天文13年で亀之丞9歳、直虎11歳ということになる。だがこの直後に亀之丞は潜伏生活に入り、18歳になる頃には別の女性と結婚し2人の子供がいた。それを知った直虎は失意により出家を決意するのだが、その時直虎は20歳くらいだったと推測される。

戦国時代、20歳を過ぎて結婚する女性は稀だった。有名どころでは織田信長の妹である市姫が20歳を過ぎて浅井長政に嫁いだくらいで、あとはほとんど例がない。この年齢も出家を決意する一因になったのではないかと史家は語る。

しかしいずれにせよ、婚約直後に命を狙われ姿を消した亀之丞を待ち続けたにも関わらず、その亀之丞は別の女性と結婚し子供を持ってしまった。この現実は直虎にとっては相当心の痛手となったはずだ。亀之丞の無事だけを祈り、7年も8年も待ち続けた結果がそれなのだから、直虎がその後未婚を貫いたことも少し理解できる気がするのである。