「真田昌幸」と一致するもの

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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
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石田三成という人物は、とにかく周囲から誤解されやすい性格だった。どうやら率直に物を言い過ぎてしまう嫌いがあったようで、意に反し言葉にも棘があったらしい。だがその実像は決して冷徹な人間ではなく、心に熱いものを秘めた人物だった。そして誰よりも日本という国と豊臣政権のことを深く愛し、そして考えていた。自身のことなど二の次だったのだ。


近江出身の三成には、近江商人の血が流れていた。近江商人と言えば「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」を信条とする商人たちのことだ。つまり売る側も買う側も幸せになり、それによって世間全体も良くしていこうという信念だ。三成もこの近江商人の信念を受け継いでいた。だが三成自身はと言えば、買い手と世間の幸せばかりを考え、自らの幸せなどほとんど考えていなかった。

その好例となるのが佐和山城だ。佐和山城と言えば「三成に過ぎたるもの」と揶揄されたほどの名城で、三成が関ヶ原の合戦後に京都の六条河原で処刑されると、その城は東軍によって接収され、井伊直政(井伊直虎のはとこ)に与えられた。その際将兵たちは「三成のことだから秀吉のように、さぞや財宝を蓄えているのだろう」と考えていた。だが彼らは佐和山城に入り驚くことになる。

佐和山城内は財宝に溢れかえるどころか、驚くほどに質素だった。壁にも庭にも装飾品らしいものは一切なく、生活感さえ感じられないほどだったようだ。三成は「残すは盗なり。つかひ過して借銭するは愚人なり」という言葉を残している。これは農民たちから集めた年貢を使い残し自分のものとするのは盗み同然であり、逆に使い過ぎて借金をするのは愚か者、という意味だ。誰よりも現代の政治家たちに教えてあげたい言葉だ。

つまり三成は集めた年貢はすべて民政のために使い、わずかに残った分で慎ましく暮らしていたのだ。テレビドラマで描かれているように、決して派手な着物を纏っていたわけではなかった。三成は秀吉政権の重臣だったため、どうしてもイメージが秀吉と被ってしまったのだろう。NHK大河ドラマでさえも時に三成を流行に敏感な派手な人物として描いている。

現代に於ける三成のイメージは、すべて江戸時代に捏造されたものばかりだ。確かに武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りは合わなかったようだが、しかしだからと言って誰からも嫌われるような人物ではなく、逆に身近な人間からは非常に好かれていたのだ。

秀吉が滅ぼした大名家の遺臣たちを三成も多く召し抱えたわけだが、彼らのほとんどは関ヶ原の合戦で三成に命を捧げている。さらには盟友である大谷吉継、島左近、真田昌幸・信繁父子、上杉景勝・直江兼続主従は西軍として三成に味方している。しかも大谷吉継と島左近はここで討ち死にを果たしてもいる。

さらには三成に恩を感じていた佐竹義宣も明確に東軍に味方することはせず、再び三成を助けるために上杉家と密約を結んでいたとも伝えられている。果たして三成が現代に伝わるような冷徹な人間であったなら、彼らのような名将たちが天下を分ける関ヶ原で西軍についていただろうか。

家を守るためには手段を選ばず、秀吉に「表裏比興の者」と称された真田昌幸でさえ西軍に味方しているのだ。恐らく昌幸は忍城の水攻めでの三成の働きを間近で見て感銘を受けたことにより、西軍の勝利に賭けたのだろう。

「三成は嫌われ者だった」というイメージは完全に間違っている。もし本当に嫌われ者だったとすれば、わずか19万石の小大名に過ぎなかった三成が、関ヶ原の戦いのために8万人以上の兵を集めることなどできなかったはずだ。西軍に味方した大名たちは「三成だからこそ」味方したのだ。

三成の人柄を言い表すならば、取っ付きにくいが話してみると良い奴、と言った感じだったのだろう。そして弁明などは一切しない人物だっため、誤解をされてもその誤解を自ら解くことはほとんどなかったようだ。それによって誤解が誤解を生み、武断派武将たちを敵に回してしまった印象も強い。

だが石田三成が処刑されてからもう400年以上が経過している。そろそろ三成の誤解をすべて解いてあげてもいいのではないだろうか。

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NHK大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄さんが好演する真田昌幸とは、一体どのような人物だったのだろうか。父親は真田幸隆で、昌幸に勝る謀将として知られた人物だ。昌幸は幸隆の三男として天文16年(1547年)に生まれた。そして7歳になると武田家への人質として甲斐に送られ、武田信玄の近侍となる。


信玄は昌幸の器量の良さを非常に気に入っていたようだ。だからこそ信玄は、三男であり昌幸が真田家を継ぐ身にないことを憂い、世継ぎが早世していた武田臣下の名門武藤家を継ぐように命じた。これが元亀2年(1571年)、昌幸が24歳の時だった。このため若き日の昌幸は武藤喜兵衛と名乗っていたのだ。

なお尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘、山之手殿(大河ドラマでは高畑淳子さん)を18歳の昌幸が娶ったのは永禄7年(1564年)であり、その後村松殿(木村佳乃さん)が誕生し、永禄9年には長男信幸(大泉洋さん)、永禄10年には幸村(堺雅人さん)が生まれている。つまり昌幸が武藤家の養子になったのは幸村が生まれ、兄信綱が真田家の家督を継いだ4年後のことだったというわけだ。

そこからさらに4年後の天正3年(1575年)、真田家を揺るがす大事件が起こってしまう。長篠の戦いだ。何とこの戦で昌幸の兄である信綱と昌輝が揃って討ち死にしてしまったのだ。この出来事により、昌幸は武藤喜兵衛から真田昌幸に戻り、真田家の家督を継ぐことになった。

天正6年(1578年)になると、御館の乱の混乱に乗じ上杉領だった沼田城を北条氏政が略奪した。この時上杉家と武田家は同盟を結んでおり、上杉景勝は武田家が沼田城を攻略することを容認する。この沼田城攻めを任されたのが真田昌幸だった。翌年には沼田城攻略のために名胡桃城を築城し、さらに翌年天正8年、調略により沼田城の無血開城に成功した。

大河ドラマでは沼田城がとにかく真田にとって重要な城であると描かれているが、沼田城はこのようにして真田の城になったのだった。ちなみに沼田城とは北関東に於ける交通の要衝であり、かつてより上杉氏、武田氏、北条氏によって奪い合いが続けられていた。

その重要拠点を真田昌幸と叔父の矢沢頼綱の尽力によって手に入れたわけだが、その沼田城を天正壬午の乱(天正10年)を鎮静させるため、徳川家康が北条氏政に対し、沼田城を攻め落としても良いと勝手に容認してしまったのだ。武田家滅亡後、真田家は徳川に味方していたのだが、これによって真田昌幸は徳川家康に対し不信感を抱き始める。

そして天正13年(1584年)、昌幸は上杉と結び、家康と手を切った。こうして第一次上田合戦へと突入していくのである。

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第一次上田合戦以降、真田家と徳川家の間には険悪なムードが漂い続けていた。まさに一触即発といった状況で、家康としては状況さえ許せばすぐにでも真田を潰してしまいたい思いだった。自ら真田のために築いた上田城で、自ら真田に大敗を喫してしまったのも家康としては内心忸怩たる思いだったはずだ。


この頃の真田は上杉家の庇護を受けており、弁丸(のちの真田信繁、通称幸村)が人質として送られていた。第一次上田合戦では母山之手殿を海津城に代わりの人質として送ることにより一時的な帰国と、上田合戦への参加を許されはしたが、あくまでも弁丸は上杉家の人質という立場だった。

真田昌幸は徳川対策を考え始める。もちろん上杉の傘下に入ったことがその一つではあるのだが、同時に羽柴秀吉とも交渉を進めていたようだ。一説では秀吉と交渉をすることは、上杉側から許可をもらっていたと言う。義の上杉に対し、義を立てて接した昌幸と思いきや、これもやはり昌幸一流の芝居だった。

昌幸の交渉が実り、秀吉が真田と徳川の仲裁をしてくれることが決まった。その条件として秀吉は真田昌幸に人質を求めたわけだが、その人質として昌幸は弁丸を送ろうとする。だが弁丸はもちろんまだ上杉家の人質だ。一人の人間がふたつの家の人質になることはできない。では昌幸は一体どのようにしたのか?

天正14年(1586年)6月、上杉景勝は羽柴秀吉の軍門に下り上洛することになった。昌幸はこの隙を突き春日山城から勝手に弁丸を奪還してしまったのだった。上杉景勝はさすがに怒りを露わにするが、しかし弁丸が再び送られた先は羽柴秀吉の元であり、これにより真田家は羽柴家の臣下となっていた。つまり上杉が真田を攻撃するということは、上杉が羽柴を攻めるのに等しい行為であり、これは当然謀反となってしまう。そのため景勝は真田に対し何も行動を起こすことができなかったのだ。

真田昌幸はそこまで予測し、弁丸の奪還を実行した。秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれたのもこの辺りの出来事が所以となっているのだろう。だが結果的には第一次上田合戦の翌年、秀吉の仲裁により真田家と徳川家の和睦が成立した。上杉家はこの和睦を実現させるために利用された形となったわけだが、昌幸は最初からその腹づもりだったようだ。

真田と徳川の全面戦争になれば、さすがの謀将真田昌幸にも勝ち目はない。国力に差があり過ぎるのだ。つまり徳川との火種をいつまでも燻らせていては、いつか徳川に真田が滅ぼされると昌幸は考えていた。昌幸の目的はあくまでも真田の家の存続だ。真田の家と真田の郷を守ることに命を賭している。そして真田を守れるのであれば手段など問わないのが昌幸のやり方だった。

この一連の流れにより真田は上杉とも険悪になってしまうのだが、しかしこれは後々解消されていくようだ。恐らく景勝自身、真田はそうまでしなければ家を守ることができなかったと考えるようになり、そして許したのだろう。だからこそ関ヶ原の戦いで真田と上杉は同じ西軍として石田三成に味方し、徳川家康を敵に回し戦ったのだろう。

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真田と徳川による第一次上田合戦が始まったのは天正13年(1585年)8月2日だった。戦いが始まる前、真田昌幸は上田城下に千鳥掛けを仕掛けていた。千鳥掛けとは柵を斜めに並べ配置し、まるで迷路のように敵の行く手を阻む防衛線のことだ。この千鳥掛けを仕掛けた上で、昌幸は徳川勢を上田城内に誘き寄せた。


この時上田城を攻めたのは鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉で、彼らの下には信濃勢や甲州勢など武田の旧臣たちが付けられ、総勢7000の軍勢となっていた。対する上田城に籠る真田勢は2000程度で、数の上では真田勢が圧倒的不利な状況だった。だが7000という大所帯が徳川勢を逆に不利に追い込んでしまう。昌幸が仕掛けた千鳥掛けにまんまとはまってしまったのだ。

徳川勢は誘き寄せられるまま上田城内に侵入していくと、本城まで間近の二の曲輪で千鳥掛けによる迷路に迷い込んでしまった。進むことも戻ることもできず兵は右往左往している。徳川勢はやむなく一度城外に戻り体勢を整えることにした。この時徳川勢は放火してから城下に出ようともしたらしいが、結局味方への損害も鑑みられ火は放たれなかった。だが千鳥掛けを縫うように退いて行く徳川勢の動きを謀将真田昌幸が見逃すはずはなかった。

徳川勢が上田城から出ようとするその背中を昌幸は急襲した。するともう徳川勢は大混乱に陥る。後ろからは真田勢が追い打ちをかけてくるし、出て行こうとする城下町には真田自ら放火し、徳川勢は退くことも進むこともできなくなってしまった。それでも何とか城門まで退くと、今度は上から岩や大木、火の着いた松明が徳川勢に向け次々と投げ込まれた。徳川勢は「卑怯だ!」と皆喚くが真田勢は意に介さない。もはや人対人の戦ではなく、ゲリラ戦の様相となり、どんどん岩などを投げ込んで行った。だが真田昌幸の謀略はこれだけではなかった。

昌幸は百姓たちを城下町周辺に忍ばせておき、紙で急拵えした真田の旗を掲げさせた。これ見た徳川勢はさらに大混乱に陥り、完全に包囲されたと錯覚してしまった。徳川勢がここから体勢を整えることなど、もうほとんど不可能に近かった。大久保忠教は上田城から退く際に、やはり火を放っておくべきだったと後悔したと言う。

だが真田の攻撃はまだまだ終わらない。命辛々上田城を出た徳川勢を待っていたのは、砥石城から援軍に駆けつけた昌幸の長男、真田信幸の部隊だった。もはや徳川勢にできることと言えば逃げることだけだ。部隊はそれぞれ壊滅状態で、軍としてはまるで機能していない。それでも何とか信幸の部隊を振り切った徳川勢だったが、神川まで落ち延びるとさらなる悲劇が待っていた。

この戦いが始まる前まで、上田は連日の大雨に見舞われており、川はどこも増水していたのだ。そんな増水している神川を渡っている最中に、鉄砲水が徳川勢を襲ったのだった。これにより徳川勢には多くの溺死者が出てしまう。最終的に7000の兵のうち1300人が命を失ってしまったと伝えられている。だがこの1300という数は、真田信幸が家臣に送った書状に書かれていたものであり、かなり誇張され書かれたものだと思われる。

一方徳川方の『三河物語』には300人の損害と書かれており、これもやはりかなり少なめに書かれている。ちょうど中間をとるならば、実際には800人前後の損害だったのではないだろうか。それでも兵の内11%が戦死してしまったのだから、これは非常に大きな損害だったと言える。しかも相手はたかだか2000の真田勢だったのだからなおさらだ。なお真田勢の被害は40人程度だったと伝えられている。

ちなみに第一次上田合戦には、上杉家に人質として送られていた昌幸の次男弁丸(真田信繁、通称幸村)も参戦していたようだ。小説やテレビドラマなどの物語では、上杉景勝が義を以って信繁を信じ、人質として再び戻ってくることを条件にし、ほとんど無条件での参戦を許していることが多いだ。だが近年の歴史家たちの研究によれば、信繁が参戦する代わりに、母親である山之手殿(昌幸正室)が一時的に海津城に人質に出されていたことがわかってきたようだ。つまり上杉景勝は戦国時代随一の義将ではあったが、決してお人好しではなかったということだ。

さて、上田城の攻防後も徳川は真田に味方した丸子城の岡部長盛を攻めるなど、20日間ほど小競り合いを繰り返した。だがその最中に重臣石川数正が出奔し、羽柴秀吉側に寝返ってしまった。これにより徳川家康は、真田昌幸を相手にしている場合ではなくなってしまい、8月28日になると上田城攻めから完全撤退していった。これにより第一次上田合戦は、完全なる真田昌幸の勝利でを幕を閉じたのである。

NHK大河ドラマ『真田丸』第13話 決戦の史実

sanada.gif天正10年(1582年)3月11日に武田勝頼が天門山の戦いに敗れ自刃したことにより武田家が滅亡すると、その武田の旧領を他家や国衆たちが奪い合った。これを「天正壬午(てんしょうじんご)の乱」というわけだが、ここで最も大きくぶつかり合ったのが徳川家康と北条氏政・氏直父子だった。この時真田昌幸は徳川家康に味方をし、策を巡らすことにより北条軍を撃退している。だが徳川と北条の戦いも、家康と氏政が和睦を結んだことにより唐突に終結してしまった。

だがその後が問題だった。和睦が締結した後には必ず国分けという、大名同士の境界線を設定する作業があるのだが、この国分けが、真田家にとって不都合なものとなってしまったのだ。多くの小説やNHK大河ドラマ『真田丸』では、真田が所有していた沼田領を家康が勝手に北条に譲ってしまったように描かれている。だがこれは事実ではない。恐らく物語を面白くするために原作者たちが脚色したのだろう。

事実としては、真田家にとって不都合なのは変わりないわけだが、北条が武力を以ってして沼田領が含まれる上野(こうずけ)を制圧することを家康が認めるという内容の和睦だったようだ。つまり家康が勝手に沼田領を北条に譲渡し、その上で真田に沼田を明け渡すように言ったわけではないのだ。

この和睦内容により、北条はすぐに沼田攻めを開始した。この攻撃により真田は中山城を奪われてしまったが、それでも沼田城代を務めていた矢沢頼綱(真田幸隆の弟で、昌幸の叔父)の奮闘により何とか沼田城は死守することができた。この後も北条の攻撃は続くのだが、それにより沼田城が落ちることはなかった。

天正11年になると、真田の本拠である小県郡で、国衆が蜂起するという出来事が起こってしまう。真田昌幸はその鎮圧に苦労し、家康にも援軍を求めている。そしてその流れで昌幸はどさくさに紛れて上杉景勝を刺激しようと企てる。この時の真田は徳川に従っていたため、真田が上杉領に侵攻すれば、上杉は徳川を攻めることになってしまう。

事実上杉の徳川への牽制が入るわけだが、上杉に攻め込まれないようにと昌幸は上田に城を築くことを家康に提言する。上田は、上杉領である虚空蔵山城(こくぞうさんじょう)の目と鼻の先だ。だが真田家の力だけでは簡単に城を築くことはできない。そのため昌幸は、上田に城を築くことが上杉を抑えるためにも、徳川にとっての得策であると家康を説得し、上田城を家康に作らせることに成功した。

だが同じ頃、城の請取を求めに沼田城に入った北条の使者を矢沢頼綱が斬り捨ててしまうという事件が起こった。実はこれは昌幸の策略だった。矢沢頼綱に北条の使者を斬らせ、それを手土産に叔父矢沢頼綱を単独で上杉に寝返らせた。この時代で使者を切り捨てるということは、相手に対し宣戦布告をしたことになる。つまり昌幸は沼田城を守るために上杉の義を利用しようとしたのだ。上杉は助けを求める者は必ず助ける。それを昌幸が逆手に取ったのだった。

これにより困ったのは家康だ。北条に対しては切り取り次第北条領にして良いと密約を結んだ沼田領の援軍として、上杉がやってくることになったのだ。これでは北条も簡単に沼田城を攻めることはできなくなるし、上杉が動けば北条は本領を手薄にはできなくなる。当然家康自身も徳川に従う形となっている真田をここで攻めるわけにはいかない。形式上上杉に寝返ったのは矢沢頼綱だけなのだから。

この状況に困った家康は小県群の国衆である室賀正武を上手く言いくるめ、昌幸の暗殺を企てる。だがこの暗殺を事前に察知していた昌幸は室賀を返り討ちにしたことで、逆に室賀の所領を奪い取り勢力を増すことに成功した。家康としては暗殺の失敗によりますます状況が悪化してしまったというわけだ。

上田城は、沼田城の件の侘びのつもりで家康が築城を許したと伝えられている。つまり家康側からすれば「徳川で上田城を作り進呈するから、沼田は北条に譲ってくれ」という思惑だ。だが真田昌幸は上田城をありがたく頂戴したあげく、沼田城の引き渡しは拒否し続けたのだった。

この一連の騒動により、真田と徳川の関係は日に日に悪化していく。そもそも昌幸は、天正壬午の乱で真田が徳川に味方した直後に、家康が沼田領攻めを北条に対し容認したことで、家康への不信感を募らせ徳川から離れる時期を早々から図っていた。そしてその時期は天正13年6月にやってくる。昌幸は徳川と絶縁し、次男である弁丸(のちの真田信繁)を人質として送ることにより、上杉に従属していった。

ここで真田と徳川は正式に敵対関係となり、徳川が真田昌幸の居城となっていた上田城に侵攻し、第一次上田合戦が始まっていくのである。それにしても自分で作って真田昌幸に与えた城を自分で攻めることになるとは、家康からすれば実に皮肉な出来事となってしまった。

ishida.gif忍城の水攻めに失敗した石田三成だが、実はこの当初、三成を悪く言う者はいなかった。徳川四天王のひとりである榊原康政も、三成と共に忍城を攻めた浅野長吉への書状で「お手柄」と書いているほどだ。やはり三成の戦下手という評価は江戸時代に恣意的に作られたものだと考えるべきだ。

備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。

土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。

大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。

忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。

結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。

忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。

なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。


oda.gif世に言う清須会議とは一体どのような会議だったのだろうか。そして誰が参加していたのか。天正10年(1582年)6月2日に織田信長と嫡男信忠は明智光秀に討たれ、その明智光秀も同6月13日に討たれている。平たく言えば清須会議とは信長の後継者を決めるための会議だったのだ。

参列したのは柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、そして羽柴秀吉という重臣4人だった。本来であればここで滝川一益も加わっていなければならないわけだが、しかし信濃路で足止めを食い会議が開かれた6月27日までに清須城に入ることができなかった。

織田家の家督は天正3年(1575年)にすでに信忠に譲られていた。だがその信忠も本能寺の変で討たれてしまったため、家督継承者の席が空席になってしまったのだ。通常であれば信忠の子が織田家を継ぐべきだが、しかしこの時三法師(織田秀信)はまだ3歳だった。そのため信忠の弟である信長の次男信雄、三男信孝も候補に挙げられていた。

だが歴史学者の研究によれば、後継者は最初から三法師で決まっていた可能性が高いようだ。つまり清須会議とは実は信長・信忠の後継者を選ぶための会議ではなく、信長・信忠・明智光秀の旧領を分配するための会議であったようだ。

戦国時代までは、嫡男が家督を相続するという決まりごとはなかった。例えば嫡男よりも次男の方が器量が良かった場合、次男が家督を継ぐというケースも多かった。なぜなら戦国時代に於いて何よりも重要なのは、家を守ることだからだ。器量の悪い嫡男に継がせて家を滅ぼすようなら、迷わず器量のいい次男に家を継がせていたのである。信長と弟信勝(信行)が後継者争いを繰り広げたのも、このような理由からだと言われている。

本能寺の変後、三法師は清須城に避難をしていた。そして後継者は最初から三法師と決められていたからこそ、清須会議は清須城で行われたことになる。つまり後継者がいる城に、重臣たちが集結したという形だ。この会議で所領の分配が行われたわけだが、それは以下の通りとなる。

柴田勝家
本領越前+伊香・浅井・坂田の北近江3郡

羽柴秀吉
山城・丹波

丹羽長秀
本領若狭+近江の高島・志賀2郡

池田恒興
摂津一国

北畠信雄
本領南伊勢+尾張

神戸信孝
本領北伊勢+美濃

三法師に関しては本来安土城に入るはずだったが消失してしまったことにより、岐阜城に入り叔父信孝の後見を受けている。もしここに滝川一益が間に合っていれば、この分配ももう少し違う形になっていたかもしれない。

一益は本能寺の変を知ると信濃の城を旧城主に無条件で返還し清須への道を急いだ。そのため清須会議後は旧領の現状維持という形になってしまった。一益は人柄の良さでも知られる人物であるが、その人柄ゆえに信長亡き後の出世レースで遅れを取ってしまったのかもしれない。

また、もし本能寺の変が起こるのがもう少し遅く、一益が旧武田領の仕置きを終えた後であれば、一益も旧武田領を失うことなく清須会議にも間に合い、旧武田領に於いて勢力を伸ばせていたかもしれない。そして一益をよく助けた真田昌幸と協力することで、滝川一益は織田家でもっと大きな力を得ていたかもしれない。

だが結果的には賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に味方したことにより敗れ、本領であった伊勢の所領まで没収されてしまった。もしかしたら本能寺の変により最も損をさせられたのは滝川一益だったのかもしれない。

sanada.gifNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公でもある真田幸村とは、一体どのような人物だったのだろうか。歴史ファンの間で幸村の人気は非常に高いわけだが、しかしそれほど多くの武功を立てた人物ではない。確かに徳川との戦いで強さを見せてきたわけだが、その多くの戦を父真田昌幸と共に戦っている。つまり幸村のみの采配で戦った戦はほとんどないのだ。

幸村の出生にはいくつか説がある。永禄10年(1567年)出生説、元亀元年(1570年)2月2日出生説、元亀2年出生説だ。いくつかある説の中で、幸村の行動を照らし合わせていくと元亀元年出生説が歴史研究家たちの間では最も現実的となるようだ。

父親は言わずと知れた真田昌幸で、兄は真田信之、母は山之手殿。幼名は弁丸で、後に真田源次郎信繁、通称真田幸村となる。この真田幸村の名前が歴史上に最初に登場するのは天正壬午(じんご)の乱となる。天正壬午の乱とは、織田信長が本能寺の変で討たれた直後に起こった出来事のことだ。この時武田の旧領はは滝川一益が治めていたのだが、本能寺の変が起こると清洲会議に出席するため、元の領主に返還し自領に戻って行った。

この武田の旧領を徳川、北条、上杉、真田で奪い合うわけだが、これが主に天正壬午の乱と言われている。そしてこの時幸村がどのように登場するかと言えば、まずは本能寺の変の前、武田が滅亡した際だ。天正10年3月3日、本能寺の変が起こるちょうど3ヵ月前。武田勝頼は普請したばかりで完成も間近だった新府城に火を放ち、城が敵の手に落ちないようにし、岩殿城へと落ち延びようとした。

この時幸村は兄信之、母山之手殿らと共に真田の本領である岩櫃(いわびつ)城への帰還を許された。だがその道のりは落ち武者狩りと絶えず遭遇し続ける過酷なものだったようだ。これが幸村の名前が歴史上に最初に登場した場面となるわけだが、この直後、天正壬午の乱に突入すると再び名前が登場してくる。

しかしこの時も戦で活躍したという記述ではなく、祖母と共に滝川一益の人質になったという記録だ。元亀元年出生説であればこの時幸村は12歳で、永禄10年説だったとしても15歳という年齢だ。NHK大河ドラマではこの幸村を堺雅人さんが演じているわけだが、さすがに年齢設定に無理があるのでは、と某は見ていて感じてしまった。

滝川一益が無事信濃を脱出すると、人質であった幸村たちは木曽福島城の木曽義昌に引き渡され、その後9月に真田本領に無事返されている。若き日の幸村はとにかく人質生活が多かった。この後も天正13年(1585年)には上杉景勝の人質とされ、天正15年には豊臣秀吉の人質とされている。

人質となった幸村だが、他の人質とはまるで違っていた。上杉景勝はすぐに幸村の力量に気づき、人質としてではなく1000貫の知行を与え、臣下として迎え入れた。そして元服を迎えた頃に送られた豊臣家では、後に豊臣姓を賜るほど秀吉に気に入られている。幸村は人質でありながらも、臣下としても仕え力を与えられた珍しい武将だったのだ。

これが若き日の幸村の日々であり、戦に主力として参加したという記録はほとんどない。恐らく最初に大きな戦に加わるのは天正13年の第一次上田合戦となるのだろう。この時幸村はすでに上杉の人質だったわけだが、景勝は幸村の参陣を許した。これは異例中の異例だ。通常では人質を返すということはどのような状況でもほとんど考えられない。だが義将上杉景勝は、真田幸村の義を信じたのだろう。上田での戦で父昌幸の手助けをしに帰ることを許した。

ただこの参陣に関しても、歴史学的には「可能性があった」という話に留まり、実際に参陣していたのかどうかはまだ明確にはなっていないようだ。しかし上杉景勝という人物を見ていくと、幸村の参陣を認めた可能性は高いように感じられる。

ちなみに幸村は、第一次上田合戦で真田が上杉に援軍を求めるために送られた人質だった。にも関わらず景勝が本当に幸村の参陣を許したのだとすれば、これほど男気溢れる武将もそうはいないのではないだろうか。非常に無口であったためあまりスポットライトが当たらない武将ではあるが、上杉景勝の度量は謙信にも劣ってはいなかったように感じられる。

今回は若き日の幸村をダイジェストで記して行ったが、今後は上田合戦などをまた細かく書いていきたいと思う。

houjo.gif北条氏政という人物は言われているように、本当に愚将だったのだろうか。戦国時代の出来事について書かれた家記や軍記などは、大きく誇張されたり後世の創り話が加えられていることが非常に多い。氏政の無能振りを強調したような「二度汁」に関するエピソードも、真実は毛利家のエピソードからの引用だとされている。

「二度汁」とは、この時代は飯に汁をかけて食べるのが一般的だったわけだが、毎日食べているにもかかわらず汁の分量を一度では量り切れず二度に分けたため、そんな分量も量れない者に善政が可能なはずはない、当家も自らの代で終わるのか、と北条氏康が氏政を嘆いたとされるエピソードだ。だがこれは上述の通り、毛利元就の輝元に対してのエピソードの引用であった可能性が高い。

氏政が愚将と呼ばれる所以は、やはり大名としての北条家を滅亡に追い込んだ事実があるためだろう。本能寺の変が起こり、その後豊臣秀吉が力を付けていくわけだが、氏政は天下統一を目前としている秀吉と対立してしまったのだ。しかも真田昌幸のような智謀により勝機があってこその対立ではなく、小田原城の守備力を過信してのものだった。

確かに小田原城はかつて、戦国最強と謳われた上杉謙信や武田信玄の侵攻さえも難無く防いだ名城だ。だが上杉軍や武田軍と、北条家の最後となる頃の豊臣軍とでは軍勢の規模がまるで違っていた。確かに上杉謙信が10万を超える軍勢で攻め込んできたこともあったが、しかし小田原城を攻めた際の豊臣軍は22万だったと言われている。

見たこともないようなこの大軍勢を前に北条勢は戦意喪失してしまい、結局降伏することになった。こうして勝てないとわかり切っていた戦を行い大名北条家を滅亡位に追いやったため、氏政は愚将と呼ばれるようになった。

ではなぜ氏政は豊臣に敵対したのか。それは独立大名としての誇りを強く持っていたためだとされる。この時代に北条が大名として生き残るためには豊臣に臣従する必要があった。だが同時に徳川、もしくは上杉の格下として扱われる可能性が高かった。北条にとって上杉は天敵であり、徳川にしてもかつてのライバルで、一昔前であれば徳川よりも北条の方がよほど大きな家だった。そのようなプライドが働き氏政は判断を鈍らせ、豊臣に敵対する道を歩んでしまった。

しかし本能寺の変が起こらなければ、氏政の判断は決して愚かなものばかりではなかった。まず織田信長が力を付け始めると、武田家の抑えとして北条家は織田家と友好関係を築いていく。そして天正10年(1582年)に織田家が甲州征伐に乗り出した際も助力している。このまま何も起こらなければ織田家との同盟により、北条家は末長く安泰となるはずだった。だが氏政の判断も本能寺の変によりすべてが狂い出してしまう。

本能寺の変が起こるまでは、武田との同盟により上杉と戦い、さらには徳川との同盟により今度は武田を攻めるなど、臨機応変の現実的な判断を数多く下してきた。もし氏政のこのような判断がなければ、北条家はもしかしたらもっと早くに衰退していたかもしれない。北条氏政を生涯を通して見ていくと、決して愚将ではなかったと言える。しかし最後の最後で大きな過ちを犯してしまったため、そのことだけが人々の記憶に残り、愚将のレッテルを貼られてしまったのだった。