ほとんどを人質として過ごした10代の頃の真田幸村

sanada.gifNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公でもある真田幸村とは、一体どのような人物だったのだろうか。歴史ファンの間で幸村の人気は非常に高いわけだが、しかしそれほど多くの武功を立てた人物ではない。確かに徳川との戦いで強さを見せてきたわけだが、その多くの戦を父真田昌幸と共に戦っている。つまり幸村のみの采配で戦った戦はほとんどないのだ。

幸村の出生にはいくつか説がある。永禄10年(1567年)出生説、元亀元年(1570年)2月2日出生説、元亀2年出生説だ。いくつかある説の中で、幸村の行動を照らし合わせていくと元亀元年出生説が歴史研究家たちの間では最も現実的となるようだ。

父親は言わずと知れた真田昌幸で、兄は真田信之、母は山之手殿。幼名は弁丸で、後に真田源次郎信繁、通称真田幸村となる。この真田幸村の名前が歴史上に最初に登場するのは天正壬午(じんご)の乱となる。天正壬午の乱とは、織田信長が本能寺の変で討たれた直後に起こった出来事のことだ。この時武田の旧領はは滝川一益が治めていたのだが、本能寺の変が起こると清洲会議に出席するため、元の領主に返還し自領に戻って行った。

この武田の旧領を徳川、北条、上杉、真田で奪い合うわけだが、これが主に天正壬午の乱と言われている。そしてこの時幸村がどのように登場するかと言えば、まずは本能寺の変の前、武田が滅亡した際だ。天正10年3月3日、本能寺の変が起こるちょうど3ヵ月前。武田勝頼は普請したばかりで完成も間近だった新府城に火を放ち、城が敵の手に落ちないようにし、岩殿城へと落ち延びようとした。

この時幸村は兄信之、母山之手殿らと共に真田の本領である岩櫃(いわびつ)城への帰還を許された。だがその道のりは落ち武者狩りと絶えず遭遇し続ける過酷なものだったようだ。これが幸村の名前が歴史上に最初に登場した場面となるわけだが、この直後、天正壬午の乱に突入すると再び名前が登場してくる。

しかしこの時も戦で活躍したという記述ではなく、祖母と共に滝川一益の人質になったという記録だ。元亀元年出生説であればこの時幸村は12歳で、永禄10年説だったとしても15歳という年齢だ。NHK大河ドラマではこの幸村を堺雅人さんが演じているわけだが、さすがに年齢設定に無理があるのでは、と某は見ていて感じてしまった。

滝川一益が無事信濃を脱出すると、人質であった幸村たちは木曽福島城の木曽義昌に引き渡され、その後9月に真田本領に無事返されている。若き日の幸村はとにかく人質生活が多かった。この後も天正13年(1585年)には上杉景勝の人質とされ、天正15年には豊臣秀吉の人質とされている。

人質となった幸村だが、他の人質とはまるで違っていた。上杉景勝はすぐに幸村の力量に気づき、人質としてではなく1000貫の知行を与え、臣下として迎え入れた。そして元服を迎えた頃に送られた豊臣家では、後に豊臣姓を賜るほど秀吉に気に入られている。幸村は人質でありながらも、臣下としても仕え力を与えられた珍しい武将だったのだ。

これが若き日の幸村の日々であり、戦に主力として参加したという記録はほとんどない。恐らく最初に大きな戦に加わるのは天正13年の第一次上田合戦となるのだろう。この時幸村はすでに上杉の人質だったわけだが、景勝は幸村の参陣を許した。これは異例中の異例だ。通常では人質を返すということはどのような状況でもほとんど考えられない。だが義将上杉景勝は、真田幸村の義を信じたのだろう。上田での戦で父昌幸の手助けをしに帰ることを許した。

ただこの参陣に関しても、歴史学的には「可能性があった」という話に留まり、実際に参陣していたのかどうかはまだ明確にはなっていないようだ。しかし上杉景勝という人物を見ていくと、幸村の参陣を認めた可能性は高いように感じられる。

ちなみに幸村は、第一次上田合戦で真田が上杉に援軍を求めるために送られた人質だった。にも関わらず景勝が本当に幸村の参陣を許したのだとすれば、これほど男気溢れる武将もそうはいないのではないだろうか。非常に無口であったためあまりスポットライトが当たらない武将ではあるが、上杉景勝の度量は謙信にも劣ってはいなかったように感じられる。

今回は若き日の幸村をダイジェストで記して行ったが、今後は上田合戦などをまた細かく書いていきたいと思う。

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