真田丸で人気の真田昌幸、第一次上田合戦以前の生い立ち

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NHK大河ドラマ『真田丸』で草刈正雄さんが好演する真田昌幸とは、一体どのような人物だったのだろうか。父親は真田幸隆で、昌幸に勝る謀将として知られた人物だ。昌幸は幸隆の三男として天文16年(1547年)に生まれた。そして7歳になると武田家への人質として甲斐に送られ、武田信玄の近侍となる。


信玄は昌幸の器量の良さを非常に気に入っていたようだ。だからこそ信玄は、三男であり昌幸が真田家を継ぐ身にないことを憂い、世継ぎが早世していた武田臣下の名門武藤家を継ぐように命じた。これが元亀2年(1571年)、昌幸が24歳の時だった。このため若き日の昌幸は武藤喜兵衛と名乗っていたのだ。

なお尾藤頼忠(のちの宇多頼忠)の娘、山之手殿(大河ドラマでは高畑淳子さん)を18歳の昌幸が娶ったのは永禄7年(1564年)であり、その後村松殿(木村佳乃さん)が誕生し、永禄9年には長男信幸(大泉洋さん)、永禄10年には幸村(堺雅人さん)が生まれている。つまり昌幸が武藤家の養子になったのは幸村が生まれ、兄信綱が真田家の家督を継いだ4年後のことだったというわけだ。

そこからさらに4年後の天正3年(1575年)、真田家を揺るがす大事件が起こってしまう。長篠の戦いだ。何とこの戦で昌幸の兄である信綱と昌輝が揃って討ち死にしてしまったのだ。この出来事により、昌幸は武藤喜兵衛から真田昌幸に戻り、真田家の家督を継ぐことになった。

天正6年(1578年)になると、御館の乱の混乱に乗じ上杉領だった沼田城を北条氏政が略奪した。この時上杉家と武田家は同盟を結んでおり、上杉景勝は武田家が沼田城を攻略することを容認する。この沼田城攻めを任されたのが真田昌幸だった。翌年には沼田城攻略のために名胡桃城を築城し、さらに翌年天正8年、調略により沼田城の無血開城に成功した。

大河ドラマでは沼田城がとにかく真田にとって重要な城であると描かれているが、沼田城はこのようにして真田の城になったのだった。ちなみに沼田城とは北関東に於ける交通の要衝であり、かつてより上杉氏、武田氏、北条氏によって奪い合いが続けられていた。

その重要拠点を真田昌幸と叔父の矢沢頼綱の尽力によって手に入れたわけだが、その沼田城を天正壬午の乱(天正10年)を鎮静させるため、徳川家康が北条氏政に対し、沼田城を攻め落としても良いと勝手に容認してしまったのだ。武田家滅亡後、真田家は徳川に味方していたのだが、これによって真田昌幸は徳川家康に対し不信感を抱き始める。

そして天正13年(1584年)、昌幸は上杉と結び、家康と手を切った。こうして第一次上田合戦へと突入していくのである。

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