刀工村正の詳細は詳しくは残されてはいないが、室町時代の終盤に活躍した刀工だったようだ。つまり1500年代前半〜中盤にかけて数多の名刀を生み出し、その後江戸時代初期まで三代に渡り名刀村正を作刀し続けたという。
なぜ村正が妖刀と呼ばれるのか。実は妖刀伝説には明確な根拠が残されているわけではない。ただ徳川家との巡り合わせが悪かったというだけの話である可能性が高く、そこに尾ひれが加えられ伝承されてきたようだ。
天文4年(1535年)12月5日、徳川家康の祖父である松平清康が尾張守山城の織田信光(信長の叔父)を攻めた際、突然家臣の阿部正豊の裏切りに遭い斬られてしまった。この時正豊が使っていた刀が村正だったと言い、守山崩れと呼ばれるこの裏切りで清康は25歳でこの世を去ってしまった。
そして家康自身村正によって傷を負ったことがあり、家康の父である松平広忠も岩松八弥が振った村正によって殺害されている。さらには嫡男信康が武田への内通を疑われ切腹した時介錯された刀も村正だった。ちなみにこの事件は信長が切腹を命じたことが通説になっているが、近年の研究では父家康との確執が原因だった可能性が高くなっている。
このように徳川家と村正の巡り合わせは非常に悪かった。そのため徳川幕府では村正の所持を禁止する触れを出すほど、徳川家は村正を嫌気していた。だが寛永11年(1634年)2月2日、豊後府内藩主の竹中重義(竹中半兵衛の従弟の子孫)が24本もの村正を密かに収集していることが見つかった。これにより徳川幕府は重義に対し切腹を命じている。これほどまでに徳川家は村正を嫌気していたのだ。
つまり村正とは徳川家にとっては天敵そのものであり、だからこそ幸村も大坂夏の陣では千子村正(せんじむらまさ)を脇に差し戦いに挑んだのだった。まさに妥当徳川への執念が感じられる。ちなみにこの話は水戸黄門こと徳川光圀によって語られたわけだが、「武士ならば幸村のような心がけをしていたい」と合わせて語っていたようだ。
幸村は、大坂夏の陣では家康本陣まであと一歩のところまで迫った。この時危機を感じた家康は真田に討たれるくらいなら切腹する腹積もりもあったらしい。だが真田勢3000で徳川の大軍を最後まで切り崩すことなどやはり不可能だった。最後は力尽き幸村勢は壊滅してしまうわけだが、その直前に家康の目前まで迫った際、幸村は最後の力を振り絞り力いっぱい家康目掛けて村正を投げつけた。幸村は無意識にそんな行動に出てしまうほど、打倒徳川に燃えていたのである。