「上杉謙信」と一致するもの

戦国大名になるための四つの方法

今川家の家紋

戦国時代に活躍した者たちとして、まず挙げられるのが大名たちです。戦国大名として有名なのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就、今川義元、武田信玄、上杉謙信などなど、挙げ始めると実に切りがないほどです。

では大名とは何を以って大名と呼ばれたのかと言うと、一般的には二郡以上支配する者が大名と呼ばれたようです。戦国時代は今で言う都道府県を「郡」という単位で分割していたのですが、その郡を二郡以上支配できるようになると戦国大名と呼ばれるようになります。

例えば元々は国人衆の一つだった毛利氏ですが、毛利元就の才覚によって毛利家は国人衆としてどんどん力を付けていきました。その結果二郡以上支配するに至り、さらには他の国人衆を従属化させることで一国人衆から戦国大名へとのし上がっていきました。

ちなみに鎌倉時代を経て、戦国大名へとなっていく方法は主に四つです。一つ目は鎌倉時代より将軍家から守護大名に任命されており、それがそのまま戦国大名になったパターンです。今川氏、武田氏、島津氏がこのパターンですね。ちなみに鎌倉時代には本来守護大名は在京している必要がありましたが、戦国時代になると在国と言って京にはおらず、それぞれの国にいながらまつりごとをし、財力・戦力の強化に勤めるようになりました。

二つ目のパターンは守護代から戦国大名に成り上がるパターンです。織田氏、上杉氏、朝倉氏がこれに当たります。守護代というのは、守護大名が在京している際にその国の政を担う、言わば代理監督のような存在でした。尾張の守護大名は斯波氏でしたが、尾張の守護代を務めた織田氏がどんどん財力を付けていき、それに伴い軍も強化され、守護大名であった斯波氏の力を上回ってしまったことで斯波氏は淘汰されていき、自然と織田氏が斯波氏と代わるようにして尾張の戦国大名となっていきました。

三つ目のパターンは国人衆や地侍から成り上がっていく、上述の毛利氏のパターンですね。そして四つ目は下剋上です。例えばマムシと呼ばれた斎藤道三は主家である土岐氏を攻め、土岐氏を尾張に追放することによって美濃国を乗っとりました。以上が戦国大名になる主な四つのパターンです。

守護大名と戦国大名の違い

そして鎌倉時代から続く守護大名と戦国大名は何が違うかと言うと、守護大名は常に幕府の権威に依存していましたが、戦国大名は独自に国力を付けていきました。例えば元々は守護大名である今川氏などは、鎌倉時代にはあくまでも幕府から駿河国などを預かっているという立場で、幕府の意向に沿わない行動を取ることはできませんでした。

一方幕府の力が弱体化して来た戦国時代では、幕府の権威は尊重しながらも、大名たちは幕府に依存することはありませんでした。例えば織田信長が将軍足利義昭の権威を天下取りの道具として使っていた事例などは、まさにそれを象徴しています。

また、上述の通り守護大名は在京している必要がありました。つまり京にいる将軍のお側に常にいなければならなかったわけです。しかし戦国大名は、かつては守護大名だった武田氏も今川氏も京を離れ、それぞれの国に居を構えていました。

そして法律に関しても、戦国大名は自らの領地で勝手に法律を策定し、独自のルールで国を支配して行きましたが、守護大名の場合は室町幕府が定めた通りにそれぞれ任された国を支配し、勝手に独自のルールを作ることは許されてませんでした。このあたりが戦国時代以前の守護大名と、戦国大名の大きな違いだと言えます。

武田勝頼は決して挑むべきではなかった長篠の戦い

織田信長や上杉謙信が恐れた武田勝頼

武田勝頼の最期は実に呆気ないものだった。父信玄の従甥であった小山田信茂の裏切りに遭い、最期は一説によれば100人にも満たない僅かな共の者と逃げ場を失い、天目山で自害したと伝えられている。勝頼のこの自害により、450年続いた甲斐武田氏は信玄亡き後あっという間に滅亡してしまった。だからと言って、武田勝頼は決して愚直な武将だったわけではない。

事実信玄の死後は強過ぎる大将と謳われるほどの戦いを見せていた。だが負け知らずであったがために勝頼のプライドはどんどん高くなってしまったようだ。本来は退くべき戦を退かずに挑んでしまった。勝者の奢りとも言うべきだろうか。重臣たちはしきりに退くことを提言したが、しかしここで退いてはは武田の名が廃るとばかりに、勝頼は無謀な戦いに挑んでしまう。それが長篠の戦いだった。

織田信長は上杉謙信に対し「勝頼は恐るべし武将」と書状を書き、謙信もそれに異論はなかったようだ。長篠の戦いは1万5000の武田勢に対し、織田徳川連合軍は3万8000だった。数の上では織田徳川連合軍が圧倒的に上回っている。しかし信長はそれでも勝利を確信することができなかった。

そのため佐久間信盛に武田に寝返った振りをするように命じた。勝頼はあろうことかこれを信じてしまい、戦いが始まれば織田方の重臣である佐久間信盛が内応することを前提に戦いに挑んでしまった。つまり武田勝頼は長篠では織田方に騙され、天目山では血族である小山田信茂に裏切られたことになる。武田勝頼は織田信長や上杉謙信が恐れる名将ではあったが、生きるか死ぬかの戦国時代に於いては人を信じ過ぎたことが仇となってしまった。

武田信玄は『孫子』を熟知する軍略家だった。しかし勝頼はこの時『孫子』を無視した状態で戦に挑んでしまう。もし勝頼がもっと織田方が整えていた準備を把握できていれば、武田軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった。だが勝頼は最強の武田騎馬軍団を過信してしまい、信長の誘いに乗り沼地の多い設楽原(したらがはら)に陣を敷いてしまった。沼地ではいくら最強と言えど、騎馬軍団の威力半減してしまう。

一方の織田徳川連合軍が沼地の先に用意していたのは馬防柵だった。騎馬隊が侵攻できないように木でフェンスを作り、その隙間から鉄砲を撃てるようにしていた。この戦略により武田騎馬軍団は一網打尽にされてしまう。

天正3年(1575年)5月21日、早朝に始まった死闘は8時間にも及んだという。だが武田軍に勝機はなく、この戦いで土屋昌次、山縣昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・信輝兄弟(ふたりとも真田昌幸の兄)が討ち死にし、撤退時に殿(しんがり)を務めた馬場信春も、勝頼が無事に撤退したことを知ると討ち死にしてしまった。たった一度の戦でこれだけ名のある武将たちが次々命を失った戦も珍しい。

この敗戦により武田家は一気に衰退していき、天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで勝頼が自害したことにより、名家武田氏は歴史からその名を葬られてしまった。

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。

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戦国時代のドラマを見ていたり、小説を読んだりすると必ず「上洛」という言葉が出てくるわけだが、果たして上洛とは一体何のために行われていたのか?そして上洛の意味はどこにあったのか?

各国に派遣された元々は外様だった守護大名

上洛について話をする際、まず考えなければならないのは室町幕府についてだろう。室町幕府とはいわゆる足利幕府のことで、戦国時代であれば足利義輝や、室町幕府最後の将軍となった足利義昭などが首長を務めていた幕府のことだ。足利幕府は元来、二十一屋形と呼ばれた各国の守護大名たちと相互関係を結びながら成り立っていた。そして守護大名は本来、洛内(京の都)にいることが義務付けられていた。

守護大名とは足利家の系譜にある人物が、その地を治めるために将軍によって各国に派遣された立場の人物のことだ。そのためその土地とは無縁の者ばかりで、それ故できるだけ早くその土地に馴染もうとし、守護大名たちはその土地の地名を名字に用いることが多かった。このように元々はその土地に所縁のない守護大名だったが、土地を治める年数が長くなるにつれ、その土地の有力者たちの厚い支持を得られるようになって行く。

そうなってくると元々は外様だった守護大名たちも力や経済力を持つようになり、次第に規則を破って洛内を出て下国(げこく:京から自らが守護している国に帰ること)してしまう守護大名が増えていった。そして戦国に世ともなると、洛内になお留まる守護大名はほとんど細川家だけになってしまう。

上洛とは?

将軍家直属の軍隊は1000~2000人程度の規模でしかなかった。この勢力だけではとてもじゃないか謀反や大規模な一揆を抑え込むことなどできない。そのため何か問題が起こると、将軍家は守護大名たちに出陣の要請を出し、それぞれの小規模な軍隊を集結することによって大軍隊を編成していた。だが上述の通り、戦国時代になると洛内に留まっていたのは細川家だけで、足利家は細川家だけを頼らざるを得ない状況に陥っていた。

ただ、その状況は戦国時代に突入する以前から続いており、もし細川家が衰退してしまったら、足利家も滅びの道を辿る運命にあった。それを防ぐために将軍は下国してしまっていた守護大名たちに、幕府に協力するように要請を出していた。その要請に応えて京の都に戻ろうとすることを「上洛」と言った。

では戦国時代において、大名が上洛する利点はどこにあったのだろうか?それは守護職を維持することや、官位を賜ることにあった。幕府から守護職や官位を賜ることにより、大名は幕府という大きな後ろ盾を得られるようになる。守護職=幕府に認められた大名、となるわけで、これによって国衆や有力者などの支持を集めやすくなり、治政も行いやすくなった。過去には守護職を剥奪されて衰退していった大名家もあるため、各国の大名たちはどうしても守護職を失いたくなかったというわけだ。ちなみに武田信玄は甲斐と信濃の守護職を務め、上杉謙信は越後の守護代を務めていた。織田家に関しては尾張守護職である斯波家(三官僚と呼ばれた名家中の名家)の家臣で、ただの奉行でしかなかった。そのため上洛してもなお、武田や上杉などから「田舎大名」と揶揄されることになる。

幕府の役割とは?

さて、幕府の長である足利将軍は一体どのような役割を担っていたのか?「戦国時代の将軍様はお飾りでしかなかった」と言われることもあるが、実際はそんなことはなかった。確かに力を失いつつあったという現実に間違いはないわけだが、しかし将軍の存在意義は戦国時代においても非常に大きかった。だからこそ武田信玄や上杉謙信という超大物であっても、上洛の要請にはしっかりと応じている。

将軍とは、今でいう最高判事のような存在だった。幕府の最大の役割は調停にあり、何か問題が起こると幕府に訴状を提出して裁定を仰ぐというシステムになっていた。つまり幕府とは最高裁判所のような存在だったわけだ。だが力を持った大名たちは問題を自分たちで解決できるようになり、幕府を頼ることも少なくなり、それによって幕府は資金源を失い始め力を失っていたというのが戦国時代においての室町幕府だったようだ。

織田信長が上洛するまでは、経済力を失っていた室町幕府のある京の都は荒れに荒れていた。とても都と呼べるような状況ではなかったわけだが、そこに登場し京の都を再建することによって織田信長はあっという間に幕府の信頼を得ていった。だがこの頃になると頼りの細川家も完全に力を失っており、その細川家はもはや織田の軍門に下っていた。

実は本来世襲制ではなかった守護職

室町幕府最後の将軍となった足利義昭の時代になると、室町幕府を支える家は完全に織田の一強となっていた。そして信長は思いのままに将軍と幕府を利用しようとし、それを嫌った足利義昭が各大名に上洛を求める書状を乱発していった。この義昭の要請により信長は幕府の救世主から朝敵という立場にされ、武田信玄や上杉謙信もその朝敵を討つという大義名分を得て、織田を討つために上洛を目指した。

大義名分という意味では、まだ義昭が将軍になりたての頃、信長は上洛の要請に応じなかった朝倉義景を将軍家に対する謀反者と断罪し、その謀反者を成敗するという大義名分を得ることにより、越前へ侵攻していった。戦国時代において大義名分は非常に重視されており、織田信長でさえも戦を仕掛ける際には必ず大義名分を用意していた。

上洛とはこのように、大義名分として利用されることも戦国時代には多かった。さて、最後にもう一点付け加えておくと、実は守護職というのは元々は世襲制ではなかった。だが長期間にわたり国替えが行われなかったために各守護大名たちが力をつけてしまい、徐々に幕府の手に負えなくなっていった。もし幕府が数年に一度転封(国替え)を実施していたら、室町幕府もまた違った終焉となっていたのだろう。

ii.gifNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』は、第4回目の今回までは子役たちが主演を務めた。近年の大河ドラマで4回目までを子役のみで展開することは非常に珍しいと言う。だが直虎の幼少期を演じた新井美羽ちゃんの演技はとても好評であるらしい。確かに実際にドラマを観ていても、将来は芯の強い女性に成長していくことを垣間見せてくれるようなお芝居をしているように感じられる。

さて、第4回目は「女子(おなご)にこそあれ次郎法師」というタイトルで放送された。現代語にすると「女の子なのに名前は次郎法師」という感じだろうか。とにかく今回は、とわは女の子なのに次郎法師という男の名前を付けられた、という内容で描かれている。

ドラマでは「次郎」という名が代々井伊家惣領の名前であると描かれているが、これはその通りだ。井伊家惣領は代々「備中次郎」と名乗っており、それを継いでいくという意味で南渓和尚が名付けた。

ちなみに第4回目のタイトルである「女子にこそあれ次郎法師」という言葉は、『井伊家伝記』に以下のように記されている。「備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非もなく、南渓和尚御付け成され候名也」

ところでドラマではとわが出家するのは10歳くらいという設定になっているが、これは史実とは違うようだ。井伊直虎の正確な生年は不詳なのだが、史家たちは「恐らく亀之丞よりも2歳ほど上だったのではないか」という研究結果を発表している。直虎が実際に出家したのは、亀之丞が18歳だった頃だとされる。

史家の研究結果が正しければ、直虎が出家したのは20歳くらいの時だったということになる。つまりドラマで描かれた10歳あたりでの出家よりも、実際にはさらに10年後に出家しているということだ。ただしこれも正確な史料が残されているわけではないため、ドラマの内容が100%フィクションとも言い切れないのである。

戦国時代、20歳という年齢は女性としては婚期を逃していることになり、完全に行き遅れてしまったという形だ。もちろん一時は許嫁となった亀之丞が隠遁生活をしなければならなくなったという事情もあるわけだが。

直虎は亀之丞の帰還を健気に待ち続けていた。だが亀之丞はそうではなかったのである。それは第5回目以降で描かれると思うのだが、その事実を知ったからこそ、どうやら史実の直虎は出家を決意したようなのである。

ではなぜ直虎は尼僧ではなく、僧として出家しなければならなかったのか?これも南渓和尚の機転だったようだ。前後の時代では必ずしもそうではなかったようだが、戦国時代に関しては尼僧の還俗は一般的には許されない風潮だったらしい。つまり戦国時代に於いては、仮に井伊家に何か問題が起こった場合でも、尼僧から直虎が還俗して井伊家を継ぐことができなかったのだ。

そのため風潮として還俗が一般的にも認められていた僧として出家させたようだ。僧から還俗して大名になった人物は今川義元や上杉謙信を始めとし多々存在する。史実の南渓和尚は井伊家の行く末を先の先まで読み、尼僧ではなく僧ならば、という条件で直虎の出家を認めたようだ。そして南渓和尚の懸念は現実のものとなり、将来的に次郎法師は還俗して井伊家を継がなければならない、という状況に陥っていくのである。
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NHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の第3回目では、幼少期の直虎、とわが出家するまでのいざこざが描かれている。とわはその後出家し次郎法師と名乗ることになるわけだが、大河ドラマでは今川家に人質として送られることを回避するために出家の道を選んだというように描かれている。だがこれはフィクションなのだろう。恐らくとわが今川家の人質にされそうになったという史料は存在していないはずだ。


ドラマ内で井伊家から先立って人質に出されていた佐名という人物が登場するが、佐名という名前はドラマ内での創作だとは思うが、実在した人物であり、ドラマ内での設定の通り井伊直平(直虎の曽祖父)の娘となる。佐名はのちに今川義元の養女となり、今川家の重臣である関口親永に嫁ぐことになる。

佐名について、とわの乳母であるたけが「佐名は太守様(今川義元)のお手つきとなった」と語る場面がある。お手つきとは現代で言えば愛人のようなものだ。主人が侍女や女中らと性的関係を持つことであり、側室のように正式な妾というわけではない。そのため正室や側室のような待遇は受けられず、主人が飽きてしまえばそれまでの関係となってしまう。

つまり佐名は、今川義元に遊ばれるだけ遊ばれたのちに捨てられた、ということだ。だがこれもあくまでもドラマ内での設定であり、史料として残っているわけではない。そもそもお手つきとして捨てた女を、のちのち養女として迎え入れることも考えにくい。この点に関しては、フィションが過ぎるのかなと筆者は感じてしまった。

さて、とわに話を戻すと、史実としては今川家への人質になることを回避するためではなく、どうやら亀之丞への貞節を守るために出家したのではないかと、一部の史家たちは考えているようだ。確かに仮に人質ということになれば、名前は残らずとも「井伊家の女が今川家の人質となった」という史料は、佐名のケースのように残るはずだ。だがそれがないということは、人質にされそうになったということはなかったのかもしれない。

そもそも大名の命により人質にされそうになり、それが蹴鞠の勝負により覆されることはまず考えられない。蹴鞠に関する場面も、40話以上に及ぶ大河ドラマのために書き下ろされた創作となる。

なおドラマ内で重要な役どころとなっている龍潭寺の南渓和尚とは、井伊直平の弟(養子で父母は不明)となる。そのために井伊家との結びつきが強く、常に直虎を支えてくれる存在となっていく。とわを尼僧ではなく男性同様に僧として出家させるという助言をしたのも南渓和尚であるようだ。

尼僧から還俗した事例はこの頃にはほとんどなかったが、層として出家し、その後還俗して戦国時代で活躍した人物は大勢いる。例えば今川義元や上杉謙信らがその好例だ。南渓和尚は、万が一井伊家に何かが起きた時は次郎法師を還俗させられるようにと、尼僧ではなく僧としてとわを出家させたというのが史実となる。

ちなみに第3回目では菜々緒さん演じる瀬名という女性も登場するのだが、瀬名とは後の築山殿であり徳川家康の正妻だ。この回では今川義元の嫡男、龍王丸(のちの今川氏真)の正室になることに躍起になっているように描かれているが、しかし瀬名が龍王丸に嫁ぐことはなく、代わりに当時はまだ三河の田舎侍であったのちの徳川家康、松平元康に嫁ぐことになる。

井伊直虎に関する史料というのはとにかく少なく、史実だけで小説を書くことは不可能なほどだ。そのため大河ドラマでも多くのフィションが巧みに盛り込まれている。今後どのようなフィションで、視聴者を小説感覚で楽しませてくれるのか、それも今年の大河ドラマの醍醐味の一つとなるのではないだろうか。
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上杉謙信は戦国最強の大名だと言われている。自ら毘沙門天の化身を名乗り、義のための戦いを生涯続けた。戦場では軍神と化すその迫力、一騎打ちでは絶対的な強さを見せた姿は、確かに戦国最強の大名だと言えるかもしれない。しかし戦そのもの戦績を見返していくと、その勝率は決して高くはないのである。


上杉謙信は大名として生涯で100回を超える戦を経験しているのだが、その勝率は6割程度なのである。だが4割負けているというわけではなく、4割近くは引き分けに終わっているのだ。反面最も高い勝率を誇る毛利元就は8割を優に超え、戦の回数は謙信よりも20ほど少ないのだが、引き分けの数は謙信の1/3にも満たない。つまり負けも引き分けも少ないということだ。戦の勝率だけで見るならば、毛利元就を戦国最強と言うことができる。

だが上杉謙信の場合、他の大名が参戦しないような戦も戦っていた。義のための戦いだ。謙信は誰かに助けを求められると、それを決して断ることをしなかった。救援に出るとほとんど確実に勝って帰ってくるのだが、しかし謙信が去るとまた戦が再開されてしまう。そしてまた救援に向かう。上杉氏の関東遠征などはまさにその繰り返しだった。

上杉謙信が最も優れていたのは、負けない戦い方ではないだろうか。遠征を多く戦った謙信ではあるが、しかし決して無謀な戦いに挑むことはなかった。引き際を心得ており、義を果たしたと判断すると決して敵を深追いすることなく、すぐ越後に帰還していった。そのような判断力もあり、謙信は生涯で8回しか負け戦を経験していない。

最強と謳われる謙信の勝率は上述の通り6割程度なのだが、これは戦国大名としては10位くらいの戦績となる。だが謙信の場合、武田信玄と北条氏康との戦いが続いた時期があり、この3人に関してはそれぞれがそれぞれの勝率を下げる戦いを行っていた。そのため武田信玄にしても北条氏康にしても、勝率は謙信よりも少し上を行く程度とそれほど高くはない。

謙信の場合、実は戦よりも商才を高く評価すべきかもしれない。越後は海に面していたため、湊を使った貿易や商いによって資金力を高めていた。さらには武田信玄が塩を入手できずに苦しんでいると、すぐさま甲斐に塩商人を送り込み高値で塩を売らせた。「敵に塩を送る」の美談の元となった話だ。

通常、謙信ほど多くの遠征をしていては兵はすぐに疲弊してしまう。しかし資金力があったからこそいつでも武具を揃えることができ、兵にもしっかりと兵糧を分け与えることができた。だからこそ他の大名家よりも遥かに多く遠征を戦っているにもかかわらず、6割もの勝率を残しているのだろう。

地の利を得にくい遠征が多かったという意味では、それで6割の勝率を残しているのだから戦国最強と言っても良いのかもしれない。特に関東への遠征は、戦場にたどり着くまでに兵は多少なりとも疲れてしまう。その疲れた兵を駆使しての通算6割なのだから、やはり上杉謙信の統率力は並外れたものがあったのだろう。
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戦国時代、「昔楠木、今竹中(昔は楠木正成だったが、現代では竹中半兵衛が一番)」「今楠木(現代の楠木正成)」と、楠木正成同等の評価をされていた軍師がいた。それが竹中半兵衛重治だ。竹中半兵衛が戦略を練った戦は、斎藤家時代、羽柴家時代とほとんど負けがなかった。もし竹中半兵衛の勝率を出したならば、間違いなく毛利元就や上杉謙信の上を行くことになる。だからこそ天才軍師の名を欲しいままにできたのだ。


竹中半兵衛は天文13年(1544年)9月11日、竹中重元の次男として生まれた。重行という兄がいたのだが、詳しい資料は残されていないが、どうやら戦で負った怪我で体が不自由になり、次男の重治が竹中家を継ぐことになったようだ。

だが竹中家では当初、三男の重矩(しげのり)に家督を継がせたいという声もあった。その理由は半兵衛が武将としてはあまりに物静かで、肌も青白く女性のような印象があったからだと言う。一方重矩はいわゆる武将タイプの人物で、武芸にも優れていた。しかし重矩に家督を継がせたいと考えた家臣たちの考えは、永禄7年2月6日に変わることとなる。

この日竹中半兵衛は、織田信長がいくら攻めても落とせなかった稲葉山城を、僅か16人の手勢だけで一夜にして落としてしまった。この稲葉山城乗っ取り事件により、家臣たちは半兵衛を見る目を変えざるをえなかった。またこの事件により竹中半兵衛の名が日ノ本中に轟くことになる。

まさに智謀に富んだ名軍師だったわけだが、しかし体は元来強くはなかった。それもあり36歳という若さで結核により亡くなってしまう。若くして亡くなったこの姿も、歴史ファンの心を引き寄せる要因なのだろう。

竹中半兵衛には様々な逸話が残されているが、その大半は後世の創作だと言われている。例えば垂井で隠棲していた際に、三顧の礼によって木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に迎えられたという話だが、これは三国志に登場する劉備が諸葛亮を幕下に加えるため、三度諸葛亮の屋敷を尋ねたという逸話の焼き増しとなる。竹中半兵衛自身が実際、どのような流れによって織田の寄人になったのかは正確にはわかっていない。

あまり有名な話ではないが、牛に関する逸話が残っている。ある時羽柴秀吉の陣屋は出陣を前にしててんやわんやとなっていた。誰もが慌ただしく動き回っており、まったく落ち着きのない雰囲気となっていた。だがひとりその雰囲気を壊す者がいた。もちろん竹中半兵衛だ。皆が忙しく動き回っている中、何と半兵衛はのんびりと牛に跨っていたのだ。

家中の誰かが「なぜこんな忙しい時に牛に乗っているのです?」と尋ねると、半兵衛は「忙しい時ほど牛に乗ってゆっくりと考え、冷静になる必要がある」と答えたと言う。半兵衛のこの言葉により羽柴陣営は落ち着きを取り戻していった。

冷静沈着という言葉はまさに、竹中半兵衛のためにあるようなものだ。いつでも冷静に物事を考え、戦に勝っても決して浮き足立つことなく、勝ったからこそ兜の緒をきつく締め直す、それが竹中半兵衛という人物像だ。

すぐに調子に乗るタイプの羽柴秀吉に対し、どんな時も冷静さを欠かない竹中半兵衛、こうして見ると非常にバランスの取れた良きパートナーだったのかもしれない。そして羽柴秀吉の人柄に惚れこんだからこそ、半兵衛は織田信長の家臣として仕えるのではなく、あえて織田の寄人として秀吉の幕下に加わったのだろう。

そして稲葉山城乗っ取り事件もあり、信長も半兵衛の力量を高く買っていたからこそ、半兵衛の我儘を聞き入れ、家臣ではなく寄人として与力となることを認めたのだろう。そうじゃなければあの織田信長が、たかだか竹中家の当主というだけの人物の我儘を許すはずはない。

竹中半兵衛はまだ謎多き武将ではあるが、戦国時代記では今後もこの人物を深く掘り下げていきたい。なぜなら筆者自身が最も尊敬している人物が竹中半兵衛であるからだ。
uesugi.gif永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川家の家督を氏真が相続すると、今川家の衰退は止め処なく進行していった。その姿を見て武田信玄は今川家を見限り、当時締結していた武田・北条・今川による「甲相駿三国同盟」を永禄11年(1568年)に破棄し、さらに信玄は今川領である駿河を攻め自領としてしまった。

これに怒った今川氏真は「塩止め」を実施する。武田家は塩を駿河湾からの輸入で賄っていたのだが、氏真はこの塩を武田には売らないように塩商人たちに指示を出したのだ。これにより武田家のみならず、甲斐や信濃の民までも苦しめられてしまう。塩がなければ食料を保存することもできず、食べ物はどんどん腐っていってしまう。

この窮状を知り、上杉謙信は川中島で鎬を削っていた武田信玄に日本海産の塩を送ったという逸話が残っている。いわゆる「敵に塩を送る」という故事の語源だ。だがこれはあくまでも逸話であり、事実は少し異なる。

上杉謙信は武勇で名を馳せた武将であるわけだが、商業面でも優れた才覚を発揮していた。謙信は病死するまでに2万7140両という莫大な財産を築き上げていたわけだが、これは決して佐渡金山のお陰ではない。なぜなら佐渡金山が上杉家の物となったのは景勝の代になってからだからだ。では謙信はどのようにして財を成したのか?

謙信は直江津、寺泊、柏崎などの湊で「船道前(ふなどうまえ)」という関税を徴収していた。さらには越後上布(えちごじょうふ/上質な麻糸で織った軽くて薄い織物)を京で売るため、京に家臣を常駐させるなどしていた。このように関税や特産品によって謙信は財を成して行ったわけだが、そんな折に目をつけたのが塩不足で困っている武田信玄だった。

謙信は決して塩を信玄にプレゼントしたわけではない。そうではなく、越後の塩商人を甲斐に送り、通常よりも高い価格で塩を売ったに過ぎない。今では謙信の義の象徴として語り継がれる故事ではあるが、事実は謙信の商魂によるものだったのだ。そもそも謙信は武田信玄のやり方を嫌っていた。今回の塩止めに関しても、信玄が同盟を破棄して今川領駿河に攻め込んだ自業自得が生んだ出来事であり、謙信は決して信玄を救おうとしたわけではない。

謙信と信玄は永遠のライバルのようにも語られているが、謙信は決して信玄のことを良く思ってはいなかったという。逆に信玄は謙信という人物を高く評価していたようだ。ちなみに謙信は、武田勝頼という人物に関しては信玄のことよりも高く評価していた。それは織田信長とやり取りした書状に残されている。

「敵に塩を送る」という故事の語源は、このように決して美談ではなかったというわけだ。事実は謙信が、塩がなく困ったいた信玄の足元を見ただけの話なのである。だが他面に於いて義を貫き通した上杉謙信であるため、後世に書かれた書物によりいつの間にか美談化されていったようだ。

uesugi.gif上杉謙信は女性だったという説が実しやかに語られているが、某には謙信公が女性だったとは考えられない。謙信公を女性だとする説は、文献に毎月腹痛に悩んでいたということが記されており、これを月経だったと考えたり、死因として記されている大虫は女性の生理を意味すると説明している。

だが腹痛に悩んでいたのは上杉謙信だけではない。羽柴秀吉もよく腹を下していたことで有名だ。また、一部文献で書かれる大虫という死因だが、生理痛や更年期障害で命を落とすというのも考えにくい。ちなみに中国語で大虫は獣、主に老虎を意味する。

死因を大虫と書いた松平忠明は、もしかしたら上杉謙信の別名であった景虎、もしくは幼名虎千代にかけて、中国語の老虎を意味する大虫という言葉を「虎も老いて亡くなった」と洒落で使ったのではないだろうか。そんな考え方も、こじつけではあるができなくもない。

そもそも上杉謙信には3人の兄がいる。もし上杉家に男の子が生まれていなければ、世継ぎ不在を回避するため女の子を男の子として育てることも考えられたかもしれない。だが兄が3人もおり、姉もいるためあえて女の子を男の子として育てる必要はないと考えるのが普通だ。そのため幼名も虎千代と男の子の名前が付けられている。

戦国時代には確かに男勝りな女城主たちが存在していた。だがそれは決して一般的なことではなく、あくまでも非常手段でしかない。根本的に考えれば当時の時代背景に於いて、歴戦の武将たちが女性の下につくことを良しとするはずがない。そしていくら隠そうとも、女性の男装が何十年にも渡りバレないということも考えにくい。本当に生理になっていたとすれば、当時であれば着衣が生理によって汚れもしただろう。

上杉謙信は女性だった。と言うことは夢があってもとても面白いと思う。だがそれはあくまでも小説の世界の話だ。生涯独身を貫いたことも女性説を唱える要因になっているが、逆に上洛した際には遊郭に通ったという逸話も残っているし、男色が今ほど異色扱いされていなかった戦国時代であれば、同性愛者だった可能性だってあるだろう。このように可能性をたどっていけば切りがなく、女性説を裏付ける根拠も何一つ残されていない。

イスパニア(スペイン)の文献に「謙信は景勝(謙信の養子)の叔母」と記されているものがあるようだが、これに関しても根拠としては内容が非常に乏しく、日本語がよくわからないイスパニア人が勘違いした可能性だって高いだろう。そもそも謙信が女性であったならば景勝の叔母ではなく、景勝の母になる。この点からして勘違いしているため、イスパニアのこの文献を謙信女性説の根拠にすることはできない。

さらに肖像画のヒゲの描かれ方が戦国武将らしくなく、女性に取って付けたような無精髭であるという考えられ方もされているが、しかし戦国時代に描かれた謙信公の肖像画は現存していない。つまり現在残されている肖像画はすべて、謙信公の顔を見たことがない肖像画家が描いたものなのだ。そのためどれだけ謙信公が忠実に描かれているのかは未知数だと言える。

このような観点から、上杉謙信は女性だったという説は、まだファンタジーの域を出ないと某は考えているのである。だが今後もっと歴史調査が進んでいけば、もしかしたら謙信公が女性だったという確たる証拠が出てくるかもしれない。それまでは夢やファンタジーとして謙信公女性説を楽しみたいと思う。