信長・謙信が恐れるも、人を信じ過ぎたことが仇となった武田勝頼

武田勝頼は決して挑むべきではなかった長篠の戦い

織田信長や上杉謙信が恐れた武田勝頼

武田勝頼の最期は実に呆気ないものだった。父信玄の従甥であった小山田信茂の裏切りに遭い、最期は一説によれば100人にも満たない僅かな共の者と逃げ場を失い、天目山で自害したと伝えられている。勝頼のこの自害により、450年続いた甲斐武田氏は信玄亡き後あっという間に滅亡してしまった。だからと言って、武田勝頼は決して愚直な武将だったわけではない。

事実信玄の死後は強過ぎる大将と謳われるほどの戦いを見せていた。だが負け知らずであったがために勝頼のプライドはどんどん高くなってしまったようだ。本来は退くべき戦を退かずに挑んでしまった。勝者の奢りとも言うべきだろうか。重臣たちはしきりに退くことを提言したが、しかしここで退いてはは武田の名が廃るとばかりに、勝頼は無謀な戦いに挑んでしまう。それが長篠の戦いだった。

織田信長は上杉謙信に対し「勝頼は恐るべし武将」と書状を書き、謙信もそれに異論はなかったようだ。長篠の戦いは1万5000の武田勢に対し、織田徳川連合軍は3万8000だった。数の上では織田徳川連合軍が圧倒的に上回っている。しかし信長はそれでも勝利を確信することができなかった。

そのため佐久間信盛に武田に寝返った振りをするように命じた。勝頼はあろうことかこれを信じてしまい、戦いが始まれば織田方の重臣である佐久間信盛が内応することを前提に戦いに挑んでしまった。つまり武田勝頼は長篠では織田方に騙され、天目山では血族である小山田信茂に裏切られたことになる。武田勝頼は織田信長や上杉謙信が恐れる名将ではあったが、生きるか死ぬかの戦国時代に於いては人を信じ過ぎたことが仇となってしまった。

武田信玄は『孫子』を熟知する軍略家だった。しかし勝頼はこの時『孫子』を無視した状態で戦に挑んでしまう。もし勝頼がもっと織田方が整えていた準備を把握できていれば、武田軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった。だが勝頼は最強の武田騎馬軍団を過信してしまい、信長の誘いに乗り沼地の多い設楽原(したらがはら)に陣を敷いてしまった。沼地ではいくら最強と言えど、騎馬軍団の威力半減してしまう。

一方の織田徳川連合軍が沼地の先に用意していたのは馬防柵だった。騎馬隊が侵攻できないように木でフェンスを作り、その隙間から鉄砲を撃てるようにしていた。この戦略により武田騎馬軍団は一網打尽にされてしまう。

天正3年(1575年)5月21日、早朝に始まった死闘は8時間にも及んだという。だが武田軍に勝機はなく、この戦いで土屋昌次、山縣昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・信輝兄弟(ふたりとも真田昌幸の兄)が討ち死にし、撤退時に殿(しんがり)を務めた馬場信春も、勝頼が無事に撤退したことを知ると討ち死にしてしまった。たった一度の戦でこれだけ名のある武将たちが次々命を失った戦も珍しい。

この敗戦により武田家は一気に衰退していき、天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで勝頼が自害したことにより、名家武田氏は歴史からその名を葬られてしまった。

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