「鉄砲」と一致するもの

惟任退治記現代語訳-戦国時代記編

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村井貞勝は本能寺の門外すぐの場所に住んでいた。本能寺での騒ぎを耳にして初めは喧嘩かと思い、それを鎮めようと着の身着の儘外に走り出て様子を見てみたがその騒ぎは喧嘩によるものではなく、本能寺が明智光秀の軍勢二万に取り囲まれている騒ぎの音だった。村井貞勝はどうにか本能寺の中に入ろうと色々試みたが適わず、織田信忠の陣所となっていた妙覚寺まで急いで走り事態を信忠に伝えた。

信忠はすぐにでも本能寺に馳せ参じ父と共に戦い、最後は父と共に腹を切ると家臣たちに話したが、明智軍の包囲が厳重であったため、翼でもなければ本能寺の中に入ることはできそうになかった。まさにこれこそ咫尺千里しせきせんりの裏切りとも言えるものだった。
※咫尺千里:すぐ近くなのにものすごく遠くに感じること

信忠は妙覚寺は戦をするには不向きであるため、他に近くで戦えて最後は自刃できる場はないかと家臣に尋ねると、村井貞勝は誠仁親王(正親町天皇の息子)がおいでの二条御所が良いと言い、信忠を二条御所まで案内した。すると誠仁親王は輿に乗って内裏にお移りになり、信忠は五百人の兵と共に御所に入った。

明智軍に遮られたことにより、二条御所に馳せ参じることができた信長の馬廻はわずかに一千騎ほどで、信忠のもとにいたのは弟の織田又十郎信次、村井春長父子三人、団平八景春、菅屋九右衛門父子、福富平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎幸久、赤沢七郎右衛門、斎藤新五、津田九郎次郎信治、佐々川兵庫、毛利新助、塙伝三郎、桑名吉蔵、水野九蔵、桜木伝七、伊丹新三、小山田弥太郎、小胯与吉、春日源八ら歴々の侍たちであり、彼らは死を覚悟し明智の軍勢が攻め入るのを待ち構えていた。

明智光秀は、主君織田信長が自害し本能寺に火がかけられたのを見ると安心し、織田家の家督を継いでいた信忠の居場所を尋ねた。すると信忠は二条御所に立て篭もっているとのことだった。それを聞いた光秀は兵を休ませることなく二条御所に急行した。しかし二条御所ではすでに死を覚悟した侍たちが大手門を開き、弓・鉄砲隊に前面に構えさせ、他の兵たちも思い思いに武器を手に取り前後を守っていた。

明智軍の先駆けが馬具も整えないまま攻めかかると、矢と鉄砲が次々と放たれてきた。それにたじろぐ明智軍を見ると、信忠の兵は内から一気に攻め出し、押しては退いて、退いては押すの攻防を数時間続けながら戦った。明智軍は武具をしっかりと締め直し、まだ戦える兵に代わるがわる攻めさせた。一方信忠の兵は素肌に帷子だけをまとった軽装で勇ましく善戦を見せたのだが、明智軍は長太刀や長槍を揃えて攻撃してきたため、こちらで五十人、あちらで百人と次々と討ち倒され、遂には御殿のすぐ近くまで攻め入ってきた。

信忠と信次兄弟は腹巻をまとい、百人ばかりの近習は具足をまとい戦った。そして信忠はその中でも一番に打ち出て、十七〜八人の敵兵を討ち取っていった。また、近習たちも果敢に攻め出す信忠に負けじと、刀で火花を散らしながら戦い、敵を方々に蹴散らしていった。

その際明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次ら明智軍屈指の侍たち数百人が一気に斬りかかってきた。信忠はそれを見るとその中に飛び込み、これまで稽古してきた兵法、秘伝の術、英傑一太刀の奥義を繰り出し、次々と敵兵を薙ぎ倒していった。すると孫十郎、三右衛門、清次の首は信忠により次々と刎ね落とされていった。そして近習たちも力の限り太刀を振り続け、御所に攻め込んできた明智軍をことごとく討ち果たしていった。

もう何も思い残すことなく最期の戦を戦い切り、父信長と共に逝こうと二条御所の四方に火を放ち、御所の中心まで退くと十文字に腹を掻き切った。他の精鋭たちも熊や鹿の毛皮で作った敷物を並べ、その上で信忠を追うように腹を切り、皆一斉に炎に包まれていった。信長は四十九歳、信忠は二十六歳であり、悼み惜しむべしと民の誰しもが涙を流した。

ところで、明智光秀と同郷で美濃出身の松野平介一忠は、その夜は京の都の外にいた。そして夜襲の報せを耳にし駆けつけたが間に合わず、到着した時に本能寺での戦はすでに終わっており、信長もすでに自害したと聞くと、諦めて妙顕寺まで走り、追腹を切ろうと覚悟を決めた。その時斉藤利三が一忠を明智側に勧誘したが、一忠は信長に恩義があると言いそれを断り自刃した。一忠は元々は医者であり、文武両道の優秀な男だった。普段から歌道もたしなみ、侍になったのちも学問を怠ることをしなかった。そして以下がその一忠の辞世の句である。

そのきはに 消ゑ残る身の 浮雲も 終には同じ 道の山風

手握活人三尺劔、即今截斷尽乾坤
(手に我の命を助けた約90cmの刀を持ち、今まさに天と地を斬り断つ)

このような句を残して腹を切ると臓腑を引き出しながら朽ち果てた。まさにこの時代では他に類を見ない無双の働き振りだった。人々は一忠ん最期を聞くと涙を流し袂を濡らしたものだった。

長篠の戦いに於いて織田徳川連合軍と武田騎馬隊が取った戦術

織田信長

長篠の戦いは近代戦争の先駆けとも言われていた。その理由は織田信長徳川家康の連合軍が日本初の鉄砲の三段撃ちによって武田騎馬隊を撃破したからだった。だがこれについては近年の史家の研究によって非常に疑わしいということが分かって来た。

そもそも語り継がれて来た長篠の戦いでの鉄砲の三段撃ちとは、まず馬防柵を張り巡らせ、織田徳川連合軍が有していた三千挺の鉄砲を、千人一組で三隊編成し、第一隊が撃ち終えたらすぐに後ろに回り今度は第二隊が前に出て撃ち、撃ち終えたらまた最後尾に回り、今度は第三隊が前に出て撃ち再び第一隊に戻るということを繰り返す戦い方のことだ。

これにより武田騎馬隊は一網打尽にされ、この大敗を切っ掛けに武田家は衰退して行ったと言われている。だがそもそも、鉄砲三千挺という数が疑わしいという事実が見えて来た。当時鉄砲というのはなかなか手に入れられる物ではなく、どの大名も鉄砲を確保するのにかなり苦心していた。織田信長自身も鉄砲の弾を作るための鉛や火薬を確保するために堺の支配を目指した程だ。

この三千挺という数字は『信長公記』が出典となっているのだが、実はこの信長公記でも、写本によって三千挺と書かれていたり、千挺と書かれたりしていることが分かった。そのため本当に三千挺だったのか、実は千挺だけだったのかということを断定することは現時点ではまだ難しいらしい。

そして火縄銃の特性として、弾と火薬を筒に詰めて火縄に火を灯すと、その火縄を火がジリジリと火薬まで伝っていき撃てるようになるという仕組みだった。そのため現代の拳銃のように、撃ちたい時にいつでも撃てるというわけでもなかった。この事実を踏まえると、千人一組となった狙撃手が一斉にほとんど同じタイミングで鉄砲を撃つことは不可能に近いことがよく分かる。

今史家の間で語られている話としては鉄砲隊は実は千人だけで、その千人の鉄砲隊に対し指揮官は五人で、一斉に撃ったと言うよりは、武田兵が近付いて来たら撃てる者からどんどん撃っていったというのが現実的であるようだ。

長篠の戦いで見せていた武田騎馬隊の本当の戦い方

そして武田軍は馬に乗ったまま馬防柵に突進して柵を壊そうとし、その騎馬隊が近付いて来ては鉄砲で仕留めたとも伝えられているが、実はこの当時の騎馬隊の一般的な戦い方は、騎馬隊はあくまでも馬に乗って速攻で敵前まで行くことが目的であり、戦う際は馬を降りて戦うことがほとんどだった。つまり馬に乗ったまま大槍を振り回して戦うというケースは非常に稀で、戦国時代当時にはあまり行われていない戦い方だった。

つまり真実としては、武田軍は馬に乗って馬防柵の前まで行き、馬を降りて馬防柵の破壊を試みたのだが、馬防柵を壊そうとした時には鉛の弾を撃ち込まれていた、という顛末だったようだ。

武田軍の戦い方としては、織田徳川連合軍が鉄砲に弾を込めている隙を突いて馬で一気に近付き、まずはとにかく馬防柵を壊すという作戦だったらしいのだが、残念ながら思いの外鉄砲の数が多く、馬防柵を破ることができなかったということらしい。そしてその鉄砲の数が三千挺だったのか、千挺だったのかはまだ確かなことは分かっていない。

まだまだ進んでいなかった兵農分離と当時の馬の姿

そして長篠の戦いが起こった天正3年(1575年)の時点で、織田軍と言えどまだ兵農分離はしっかりと行われてはいなかった。ある程度の兵農分離は進んでいたと言われているがまだまだそれは完全な物ではなく、長篠の戦いに参加した兵卒の大半は平時には農業を営んでいた。

そのため鉄砲の撃ち方は分かっていても、鉄砲の専門家のように大勢が撃つタイミングを合わせられるほどの技術はなかった。この当時の技術力も、史家たちが長篠の戦いに於ける三段撃ちの再検証が必要だという主張の論拠となっている。

ちなみに織田信長自身は鉄砲を初めて手にした頃から橋本一巴はしもといっぱからその使い方を学んでいた。それにより信長の鉄砲を撃つ技術は非常に高くなり、構造や製造過程についても深く理解をしていた。そして近い将来は戦で物を言うのは名刀ではなく鉄砲になると考えた信長は、早くから堺を治めてその原材料の確保を目指したというわけだ。

武田騎馬隊で活躍した馬たちの真の姿

武田騎馬隊

さて、一方馬で激突して馬防柵を破壊しようとしたと伝えられていた武田騎馬隊の馬についても触れておきたい。大河ドラマなどの歴史ドラマを見ると、騎馬隊は決まってサラブレッドのような大きくて見事な馬に乗っている。だが当時の日本にこのように大きな馬は存在していなかった。

戦国時代に活躍した馬の体高はせいぜい120センチ程度で、現代の男性の身長ならば腰よりも僅かに高いくらいだった。つまり現代で言うところの子どもが乗るような小さなポニーが、戦国時代の名馬と同じ大きさだったと言うわけだ。

そしてこのように小さな馬で激突したところで馬防柵はそう簡単には壊れないし、そもそも馬は臆病な動物であるため、いくら鞭を打たれたとしても柵に突っ込んで行くようなことは絶対にしない。ましてや当時馬はとても高価な動物だったため、武田軍の指揮官がそのように馬を無駄死にさせるような戦術を取ったとも考えにくい。

そのためいくつかの書物に記されているような、武田騎馬隊が馬ごと馬防柵に突っ込んで行ったというのも、後世の創作である可能性が非常に高いと史家の間では結論付けられている。

歴史ドラマでは今後も創作された内容を元にドラマティックに演出されていくのだとは思うが、しかし真実はそうではなかったということはここに書き残しておきたい。

鉄砲隊の割合が多かった伊達隊の弱点と、それを利用して戦った真田幸村

大坂夏の陣で何らかの密約を交わしていた真田幸村と伊達政宗

慶長20年(1615年)5月6日、誉田(こんだ)の戦いで真田幸村(信繁)と伊達政宗は対峙した。誉田の戦いとは大坂夏の陣に於ける一戦で、誉田陵(こんだりょう・応神天皇が埋葬された古墳)周辺で繰り広げられた戦いのことだ。伊達政宗からすると道明寺の戦いで後藤又兵衛と戦った直後の真田隊との遭遇だった。道明寺の戦いでは伊達の鉄砲隊の前に又兵衛が壮絶な討ち死にを果たしている。

忍びからの情報で、伊達鉄砲隊の威力の凄まじさは幸村の耳にも入っていた。2800の後藤隊を壊滅させた1万の伊達隊はほとんど減っていない。まともに対峙をすれば3000の真田隊に勝ち目はなかった。この時の伊達隊は三分の一が鉄砲隊で、実はこれが強みであると同時に、一つの弱点にもなっていた。

火縄銃を連続して撃てるのは当時は最大でも20発程度だったらしく、それだけ打つと筒内に煤が溜まり、一度手入れをしなければ暴発の危険があった。幸村は、後藤隊と戦った際に伊達隊はすでにある程度鉄砲を消耗していたことを耳にしていた。そのため幸村は伊達隊にどんどん鉄砲を撃たせ、鉄砲を使えなくなるまで時間稼ぎをしたのだった。

鉄砲隊が主力だった伊達隊だけに、鉄砲が使えなくなると戦力が一気に低下してしまった。幸村にとっては敵将伊達政宗を討ち取る好機となった。だが幸村は後退する伊達隊を深追いすることはしなかった。その理由は、幸村が狙っていたのは徳川家康の首だけだったからだと伝えられている。だがそれ以上に、幸村と政宗の間に密約があった可能性があるのだ。

密約を交わしていた可能性がある真田幸村と伊達政宗

実は大坂夏の陣、徳川方として参戦していた伊達政宗は豊臣方への内通が疑われており、逆に豊臣方として戦っていた真田幸村は徳川への内通を疑われていた。その理由はかつて政宗に仕えていた家臣が出奔し、豊臣秀頼に仕えるようになっていたためだと伝えられている。しかもその家臣は一時は幸村の配下にも置かれていたようで、これにより幸村と政宗はいつでも連絡を取り合える状況にあった。この状況によりふたりは内通を疑われていたらしい。

いくつかの資料を読んでいると幸村と政宗は、家康の首を狙う密約を交わしていた可能性があるようだ。そのために誉田の戦いで政宗は真田隊を攻め切らず、幸村も後退した伊達隊を深追いすることはしなかった。何らかの密約があったからこそ、ふたりは本格的にぶつかり合うことを避けた可能性は否めない。

真田隊を中心にして豊臣方も善戦を繰り広げた。だが八尾・若江にて豊臣勢が壊滅させられたため、誉田で戦っていた豊臣勢は大阪城への撤退を余儀なくされる。この時に殿(しんがり)を務めたのは真田隊だったわけだが、全滅させられる可能性が高い殿であるにもかかわらず、伊達隊は真田隊を逆に追うことはしなかった。本来であれば殿隊は敵に背を向けながら戦うため、追う側とすれば簡単に壊滅させることができる。だが政宗はそうはしなかった。

真田幸村は大阪城に戻ると、次男と4人の娘たちを政宗の元へと送り届けた。そして実際政宗は幸村の子を引き取り保護している。ふたりの間に密約がなければ、このようなやり取りが行われることもなかったはずだ。どんな内容だったにせよ、幸村と政宗の間に何らかの密約があったことは、やはり間違いないのではないだろうか。ではその密約の内容とは?戦国時代に同盟を結ぶ理由は二つしかない。お互いの利害の一致と、家を守るためだ。

父昌幸の代から天敵だった徳川家康と、天下取りを狙った伊達政宗

真田幸村は父昌幸の代から天敵であった徳川家康を討ち、自らの名を後世に残すことを目的としこの戦いに挑んでいた。一方伊達政宗は未だ野心を捨て切れず、隙あらばと天下を虎視眈々と狙っていた。つまりこの戦いで家康が敗れれば、両者ともに大きな利益があったというわけだ。

いくつかの資料、書籍でも書かれているように、ふたりはきっと家康を討つための密約を結び、そしてそれが上手くいかなかった時の手筈まで整えていたのだろう。だからこそこの大戦のさなか、幸村は5人の子どもたちをすんなりと政宗の元へ送り届けることができた。

だがこの大戦に関する作戦はまったく上手くいかなかった。豊臣方は所詮は浪人の寄せ集め集団であり、しかもその頂点に立っていた司令官は戦に関しては素人同然の淀殿だった。このような烏合の衆が戦上手の徳川軍に勝てる可能性など最初からなかったのだ。だからこそ幸村や又兵衛が善戦を見せても、別の場所ではすぐに豊臣勢は壊滅させられてしまい、幸村は大阪城に戻るしかなくなってしまった。つまり例えで幸村と政宗の共闘で家康を討つという作戦があったとしても、幸村が大阪城に戻らなければならなくなったこの時点でその作戦は破綻していたことになる。

伊達政宗のお陰で最後まで家康を悩ませ続けた真田幸村

先にも述べたように殿を務めた幸村を、政宗は追撃しなかった。政宗の娘婿である松平忠輝は、政宗に加勢し真田を追撃すると申し出たようだが、政宗はそれを断っている。もしかしたら命を落とす可能性が高い殿を務める幸村を、無事大阪城に戻すために政宗はあえて加勢を断ったのかもしれない。だが今となってはその真実は誰にも分からない。

大坂夏の陣では、徳川方は必ずしも一致団結していたわけではなかった。家康のやり方が気に入らない武将も多く存在しており、この戦いでも豊臣方に内通する機会を窺っていた武将も多かったと言う。だが豊臣方が想像以上に脆く崩れてしまったために、将たちは寝返る機会を失ってしまった。

豊臣方は大阪城まで撤退を強いられる状況になってしまったわけだが、前年の大阪冬の陣とはわけが違った。大阪城の防御は大坂冬の陣の停戦協定により根こそぎ取り壊されており、城の防御能力はないに等しかった。冬の陣で徳川方を苦しめた真田丸の存在も、この時にはもはや過去の話となっていた。

慶長20年(1615年)5月7日、つまり幸村と政宗が対峙した翌日、天王寺の戦いにて幸村は家康本隊を猛攻するも、3000の軍勢では徳川の大軍の前にすぐに力を失ってしまった。この時の真田軍の猛攻にはさすがの家康も死を覚悟したと伝えられている。真田幸村は最後の最後まで家康を苦しませた。かつては上田合戦で、前年は真田丸で、そして大坂夏の陣では天王寺の戦いでまた。

しかし数で圧倒された真田隊は善戦を見せるも松平忠直の部隊によってすぐに壊滅させられてしまい、幸村はそこで壮絶な討ち死にを果たしている。天王寺の戦いで力尽きるまで刀を振るい続けた幸村だが、それもやはり子どもたちが政宗によって保護されたからこそ、心置きなく戦えた結果だったのではないだろうか。

真田幸村のために口を閉し続けた伊達政宗

大阪冬の陣、夏の陣以前より真田家は徳川家の天敵であり、一方の伊達家は徳川に従属していた。つまり幸村と政宗は立場上では完全なる敵同士だった。だが同じ年齢であるふたりは、何かを切っ掛けにしお互いに興味を持ち、人知れず友情を育んでいたのかもしれない。

それが幸村の死後、政宗の口から語られることはなかったわけだがそれは当然だ。敵である幸村と密約をしていたことが公になれば、政宗もただでは済まされない。家康によって切腹を命じられたかもしれないし、伊達征伐軍を奥州に送られていたかもしれない。だからこそ政宗は固く口を閉ざしたわけだが、閉ざしたからこそ幸村との間に何らかの密約があったと想像する方が自然だとは言えないだろうか。

その真実は今となっては誰にも分からないわけだが、ふたりの英傑がこうして繋がっていたと考えることは、歴史好きにとっては果てしなく大きな浪漫とは言えないだろうか。

千利休は本当はどのような理由で秀吉の怒りを買ったのか?

刎ねた利休の首を踏みつけさせる異常さを見せる怒り狂った秀吉

天正19年2月28日(1591年)、千利休は豊臣秀吉から切腹を命じられた。その理由は茶器を法外な値段で売りつけ私腹を肥やしているため、というものだった。そして切腹した後は京都一条戻橋で晒し首にされ、大徳寺山門に置かれていた利休の木像も磔にされ、しかもその像に利休の首を踏ませるという異常なものだった。利休はそれほどまでに秀吉の怒りを買ったらしいのだ。

当然だが茶器を高く売った程度で受ける程度の処罰ではない。そもそも利休は信長、秀吉に仕えた政商であり、政権を運営するための資金集めを任されていた人物だ。そして鉄砲など武器の調達も任されていた。つまり茶人千利休の本業は実は商人だったというわけだ。

利休が切腹させられた翌年、秀吉は唐入りを決行している。つまり朝鮮出兵だ。この朝鮮出兵については当時は何年も前から噂が流れており、多くの武将が秀吉がいつかは朝鮮に攻め込むであろうと考えていた。だが朝鮮に攻め込みたい武将など一人もいない。見ず知らずの国で、言葉さえも通じないのだ。そんな国を攻めて領土を与えられたとしても何も嬉しくはない、それが武将たちの総意だった。

だがこの頃、秀吉に諫言できる家臣は一人もおらず、唯一利休だけが物怖じすることなく秀吉に思ったことを伝え続けていた。そのため武将たちは利休の茶室を訪れては秀吉に朝鮮出兵を思い留まらせて欲しいと懇願していたのだ。

利休のクーデーターを恐れた秀吉

多くの武将が利休を訪ねているという噂は秀吉の耳にも入り、これより秀吉は、利休が家臣たちを結託させようとしていると疑念を抱き始める。そんな疑念が強まる中、利休は秀吉に対し朝鮮出兵をやめるようにと言ってきた。秀吉はこのまま利休を放っておけば、影で家臣たちを束ねクーデターを起こしかねないと考えたのだった。

秀吉は何よりも、自分を差し置いて家臣たちが利休を頼っていることが許せなかった。まるで秀吉の政策が、利休によって作られているかのように秀吉には感じられたのかもしれない。

だが利休が唐入りに反対したという理由だけで切腹を命じるわけにはいかない。何故ならそんなことをしては、唐入りに対しさらに風当たりが強くなってしまうからだ。そのため利休自身に何か罪を被せなければならない。それが茶器を法外な値段で売っているというものだった。

一族への報復を恐れ切腹命令に背けなかった千利休

ちなみに戦国時代に於ける茶器はステータスであり、茶碗ひとつで城や国が買えてしまうほどの名器もあった。そういう意味では利休も確かに法外な値段で茶器を売っていたのだと思う。だがそれは利休に限った話ではないことも確かだ。秀吉自身も金に糸目をつけず茶器を買い漁っていた一人なのだから。

利休自身、辞世の句などでこの切腹に納得していない気持ちを遺している。しかしだからと言って秀吉に楯突くことはできない。そんなことをしてしまえば利休だけではなく、一族にも危害が及んでしまうからだ。だからこそ利休は娘のお亀に対してのみ、密かに言葉を遺した。

利休が切腹させられた翌年に唐入りは実現してしまう。かつては信長も計画していた唐入りだったが、信長も唐入り計画に対する不安を持った家臣に討たれてしまい、秀吉もまた唐入りを実現させたことで求心力を失った。だがその反面、唐入りを封印して世論を味方につけ幕府を開いたのが徳川家康だったというわけだ。

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雨の桶狭間でじっと好機を覗っていた織田軍

永禄3年(1560年)5月19日、東海一の弓取り(武将)と称されていた今川義元が、約2万の軍勢を率いて尾張に侵攻してきた。一説ではこの時、義元は上洛の途上だったとされているが実際はそうではなく、信長が今川領への圧力を増していたことから、早いうちに信長を潰しておこうという義元の考えだったようだ。つまり目的は上洛ではなく、信長の居城である清洲城への侵攻だったのだ。

今川軍が織田領の丸根砦、鷲津砦を攻め始めたのは5月19日未明のことだった。この報告を受けると信長は敦盛を舞い、陣触れし、清洲城を飛び出して行く。向かったのは熱田神宮で、ここで必勝祈願を済ますと戦場へと再び馬を駆けて行った。

19日未明は暴風雨だった。織田軍2,500の寡勢が今川軍2万の大軍を攻めるためには、悪天候に乗じて奇襲をかけるのが常套手段だ。だが信長は雨が上がるまで攻撃は仕掛けなかった。その理由は『松平記』で説明されており、この時今川勢として参戦していた松平元康(後の徳川家康)は、織田軍は突如として鉄砲を打ち込んできたと書き残している。当時の火縄銃は濡れてしまっては撃つことができない。そのため信長は雨が上がるまで攻撃を待ったのだ。

雨が上がると織田軍は、今川義元の本陣目掛けて一気に斬り込んでいった。なぜこの時織田軍が迷わず本陣を攻められたかといえば、義元が漆塗りされた輿に乗って来ており、その目立つ輿が信長に義元の居場所を教えてくれたためだった。ちなみに漆塗りの輿は、室町幕府から許可されないと乗ることができない当時のステータスだった。現代で言えばリムジンを乗り回すようなものだ。

奇襲の常套手段を用いずに奇襲をかけた織田信長

周辺の村から多くの差し入れもあり、正午頃、今川本陣はかなりのリラックスモードだった。丸根砦と鷲津砦もあっという間に陥落し、今川の織田攻めは楽勝ムードだったのだ。しかも暴風雨が止んだことで、兵たちは奇襲に対する緊張も解いてしまう。なぜなら上述した通り、雨に紛れて奇襲をかけるのが当時の常套手段だったからだ。だが雨が止んだ空の下、突如として織田軍が鉄砲を打ち込んできた。織田軍はここには攻めて来ないと踏んでいた今川本陣は慌てふためく者ばかりで、武器や幟などを捨てて敗走する兵も多かった。

義元自身、300人の護衛と共に本陣から逃げ出すのがやっとで、その護衛も最後には50人まで減っていた。そして最初に義元に斬り掛かった一番鑓の武功は服部一忠だった。一忠は義元に膝を斬られ倒れてしまうが、直後に毛利良勝が二番鑓として義元の首を落とした。

毛利良勝が義元を討ち取ったことにより午後4時頃、桶狭間の戦いは幕を閉じる。2,500人の織田軍が討ち取った今川兵は3,000にも上った。信長の勝因はまずは雨が止むのを待って鉄砲を用い、兵をすべて今川本陣に一極集中させたことで、一方義元の敗因は大軍を分散させ、さらに輿により自らの居所を信長に教えてしまったことだった。

この桶狭間での勝利を境に信長は天下へと駆け上り、逆に敗れた今川家は滅亡へのカウントダウンが始まり、この8年後に大名としての今川家は滅亡してしまうことになる。

武田勝頼は決して挑むべきではなかった長篠の戦い

織田信長や上杉謙信が恐れた武田勝頼

武田勝頼の最期は実に呆気ないものだった。父信玄の従甥であった小山田信茂の裏切りに遭い、最期は一説によれば100人にも満たない僅かな共の者と逃げ場を失い、天目山で自害したと伝えられている。勝頼のこの自害により、450年続いた甲斐武田氏は信玄亡き後あっという間に滅亡してしまった。だからと言って、武田勝頼は決して愚直な武将だったわけではない。

事実信玄の死後は強過ぎる大将と謳われるほどの戦いを見せていた。だが負け知らずであったがために勝頼のプライドはどんどん高くなってしまったようだ。本来は退くべき戦を退かずに挑んでしまった。勝者の奢りとも言うべきだろうか。重臣たちはしきりに退くことを提言したが、しかしここで退いてはは武田の名が廃るとばかりに、勝頼は無謀な戦いに挑んでしまう。それが長篠の戦いだった。

織田信長は上杉謙信に対し「勝頼は恐るべし武将」と書状を書き、謙信もそれに異論はなかったようだ。長篠の戦いは1万5000の武田勢に対し、織田徳川連合軍は3万8000だった。数の上では織田徳川連合軍が圧倒的に上回っている。しかし信長はそれでも勝利を確信することができなかった。

そのため佐久間信盛に武田に寝返った振りをするように命じた。勝頼はあろうことかこれを信じてしまい、戦いが始まれば織田方の重臣である佐久間信盛が内応することを前提に戦いに挑んでしまった。つまり武田勝頼は長篠では織田方に騙され、天目山では血族である小山田信茂に裏切られたことになる。武田勝頼は織田信長や上杉謙信が恐れる名将ではあったが、生きるか死ぬかの戦国時代に於いては人を信じ過ぎたことが仇となってしまった。

武田信玄は『孫子』を熟知する軍略家だった。しかし勝頼はこの時『孫子』を無視した状態で戦に挑んでしまう。もし勝頼がもっと織田方が整えていた準備を把握できていれば、武田軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった。だが勝頼は最強の武田騎馬軍団を過信してしまい、信長の誘いに乗り沼地の多い設楽原(したらがはら)に陣を敷いてしまった。沼地ではいくら最強と言えど、騎馬軍団の威力半減してしまう。

一方の織田徳川連合軍が沼地の先に用意していたのは馬防柵だった。騎馬隊が侵攻できないように木でフェンスを作り、その隙間から鉄砲を撃てるようにしていた。この戦略により武田騎馬軍団は一網打尽にされてしまう。

天正3年(1575年)5月21日、早朝に始まった死闘は8時間にも及んだという。だが武田軍に勝機はなく、この戦いで土屋昌次、山縣昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・信輝兄弟(ふたりとも真田昌幸の兄)が討ち死にし、撤退時に殿(しんがり)を務めた馬場信春も、勝頼が無事に撤退したことを知ると討ち死にしてしまった。たった一度の戦でこれだけ名のある武将たちが次々命を失った戦も珍しい。

この敗戦により武田家は一気に衰退していき、天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで勝頼が自害したことにより、名家武田氏は歴史からその名を葬られてしまった。

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麒麟がくる第5回放送「伊平次を探せ」ではついに第十三代将軍足利義輝が登場し、さらには国友衆という鉄鋼鍛冶集団も登場してきた。明智光秀は斎藤利政(後の道三)に鉄砲についてもっと調べるように命じられ、鉄砲鍛冶の伊平次という男を探すという内容だった。

鉄砲が最初に渡って来たのは実は種子島ではなかった?!

さて、明智光秀と本能寺はまさに因縁とも言える関係であるわけだが、その明智光秀のドラマの5回目で、その本能寺が早速画面に登場してきた。本能寺とは京にある日蓮宗の寺であり、実は今も昔も商魂たくましい寺院として知られている。現代の本能寺は隣接するホテルを経営しているのだが、戦国時代における本能寺は鉄砲の仲卸業者のようなことをしていたようだ。

火縄銃は天文十二年(1543年)に初めて日本の種子島に渡って来たとされているが、どうやらこれは違うようだ。近年の史家の研究結果によると、どうやら天文十二年以前に朝鮮より日本の複数の湊町に伝えられていたという。ちなみに第4回放送では天文十七年(1548年)頃が描かれているため、劇中では少なくとも鉄砲が伝来して5年以上は経過していることになる。

今も昔も商魂たくましい本能寺

ただ、本格的に鉄砲の複製品が作られ始めたのは種子島であるようで、種子島で作られた鉄砲が本能寺に持ち込まれて売買されていた。本能寺は宗教という隠れ蓑を用い、鉄砲の仲介役を務めていたようだ。現代ではホテル業を営み、戦国の世では鉄砲の仲介業者役を務めていたというわけだ。そのため宗教家集団というよりも、戦国時代では商人としての色が濃かったとも言われている。

ちなみにこの鉄砲の暴発などによって本能寺はよく炎上していたのでは、と考えられることもあるが、それはもちろん間違いだ。本能寺が天正十年(1582年)の前に焼失したのは天文五年(1536年)であり、まだ鉄砲は伝来していないものと思われる。

そして仲介業者としての役割は、本能寺の変が起きた天正十年の時点ではもう終えていたのではないだろうか。その理由は本能寺の変が起こった際、信長は弓や十文字槍で戦ったという記録は残っているのだが、信長側の誰かが鉄砲で応戦したという記録は残っていない。もしなおも種子島と本能寺のパイプが繋がっていたのなら、信長も本能寺に保管されていた鉄砲で応戦していたはずだ。だがこの時点ではすでに近江の国友村など、いくつかの拠点で鉄砲が量産されるようになっていた。そのような背景からも、信長が力を付けたこの頃には本能寺はもう仲介業者としての役割は終えていたと考えられる。

明智光秀と盟友細川藤孝の出会い

さて、今回は細川藤孝も登場してきた。細川藤孝と言えば、今後明智光秀と盟友となっていく存在であり、光秀にとっては最重要人物のひとりとも言える。その藤孝が血気盛んな人物として描かれているが、果たしてこれはどうなのだろうか。明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)を娶った細川藤孝の息子忠興は、血気盛んで短気な人物として知られている。忠興は問題を起こしたとされる家臣の首を斬り、それをガラシャの膝の上に置いたり、ガラシャの世話をしていた女衆の耳を斬ったりしたようだが、その度に藤孝がガラシャに謝り、忠興の愚行を許すように諭していたと記録されている。

それらの愚行は『細川家記』に記されているため、多少誇張されていたとしても、まったくの出鱈目が書かれているわけではないと思われる。細川家からすれば、忠興の愚行は家の恥でしかない。しかしそれでも家記に載せたということは、もしかしたら忠興が神経質になるほどガラシャを必死に守ろうとした、ということを伝えたかったのかもしれない。

そのような史実を踏まえると、細川藤孝は決して息子忠興のような武断派ではなかったと思われる。茶の湯や連歌にも造詣が深かったと伝えられており、戦国時代随一の文化人としても知られている。その人物を武断派として描いたのは、これは完全なるフィクションだと言えるのではないだろうか。ただ、まだ一度だけの登場でしかないため、今後細川藤孝がどのように描かれていくのかは今後の楽しみということになるのだろう。ということで次回の放送では、京の町が再び荒れ模様となるらしい。ただし劇中が天文十七年辺りだとするならば、足利義輝が討たれるのはまだ15年以上先となる。そのため将軍義輝の活躍はもう少し楽しめそうだ。

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いよいよ始まった2020年大河ドラマ『麒麟がくる』。初回放送はまず冒頭で明智荘(あけちのしょう)に野盗が現れ田畑を荒らし、鉄砲の威力を見せつけるというシーンから始まる。そして光秀は鉄砲を持ち帰り、名医を美濃に連れ帰ることを条件に、国主斎藤利政(のちの斎藤道三)に京・堺への旅の許しを請い、ひとり旅立っていく。

当時の比叡山の僧侶は土倉と呼ばれる高利貸しだった

光秀は美濃から琵琶湖までは馬で行き、琵琶湖を商船のような船で横断していく。この時代、琵琶湖は西と東を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を制す者が京を制すとも言われていた。その理由は単純で、歩けば険しい山道を何日もかけて行かなければならないが、船なら大荷物であってもあっという間に京まで移動できるからだった。そのため後年の織田信長は琵琶湖周辺に安土城、坂本城、長浜城、大溝城という4つの城を築き琵琶湖を死守に努めた。

そして光秀は比叡山を経て堺に向かうのだが、比叡山では僧兵たちが通行料として15文(もん)徴収していた。そしてそれを払えなければ暴力をふるうというシーンが描かれている。これは史実だと言える。当時の比叡山は一部の僧侶を除き堕落し切っていた。比叡山の僧侶が営む土倉(どそう)と呼ばれる高利貸しは利息50%にもなり、返済が滞ると僧兵が暴力的に取り立てたり、娘を奴隷業者に売るためにさらっていくこともあったと言う。

ちなみに15文というのは現代の金額では1,000~1,500円程度である。信長が焼き討ちにするまでの比叡山はまさに腐り切っており、禁忌とされている魚肉や酒を口にしたり、女人禁制であるにも関わらず、色欲に溺れる僧侶ばかりだった。今でいう悪徳金融業者同様となるわけだが、しかし現代の悪徳業者以上に悪徳だったようだ。

比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長が魔王のように描かれることも多いが、しかし実際には比叡山は元亀元年(1570年)だけではなく、1435年と1499年にも焼かれている。とにかくこの時代の比叡山延暦寺は聖職者とは程遠く、どちらかと言えばヤクザのような振る舞いをしていた。そのため今回劇中で描かれている比叡山の僧兵の横暴過ぎる振る舞いは、史実にかなり近いと言えよう。

まだ高額で1挺手に入れることさえ難しかった火縄銃

この初回放送が、一体何年の設定になっているのか筆者にはわからない。だが光秀がまだ若かった頃は、劇中の松永久秀の言葉通り鉄砲は非常に高価な品で、1挺手に入れることさえもまだ難しかった。そして安全性もまだ確かではなく、暴発して大火傷を負ってしまうことも珍しくはなかった。劇中では三淵藤英(みつぶちふじひで)が試し打ちをしているが、これだけ高い身分の人物が試し打ちをしているということは、安全性が完全に確かめられた1挺であるか、それとも火縄銃の危険性をまったく知らない無知であるかのどちらかだろう。

火縄銃はまず筒に弾と火薬を入れて棒でしっかりと押し込み、撃鉄の部分にも火薬を置き、火縄に付けた火を用いることで火薬を爆発させて発射させていた。そのためどんなに頑張っても30秒に1発しか撃つことはできなかったという。劇中で三淵藤英は「戦では使い物にならない」と語っているがまさにその通りで、1挺だけ持っていても戦で活用することは難しい代物だった。

だが後年、遊学によって鉄砲に関する知識を学んだ光秀は、織田軍団の一員として二段撃ち、三段撃ちという戦法を編み出し、戦で鉄砲を最大限活用することに成功している。長篠の戦いなどはまさにその顕著な例だと言える。

崩壊寸前だった足利幕府と京の都

京に着くと、光秀はその荒廃した様に驚く。とても都と呼べるような有様ではなく、この惨状は織田信長が上洛するまで続くことになる。上洛を果たすと、信長は惜しみなく京の復興に金銭を費やしていく。そしてそれにより朝廷の信頼を得ていく。だが光秀が若かりし頃の京は、まさに劇中のような惨状に近いものだったと推測されている。

足利幕府も崩壊寸前で、幕府に力がなくなったことにより各国の守護大名たちも力を失い、美濃においては守護大名だった土岐氏がのちの斎藤道三である斎藤利政に追放されている。そして隣国尾張の織田信秀(信長の父)は、守護代を追放した斎藤氏を悪と評し、成敗の名目で幾度となく美濃に攻め込んでいく。

とにかくこの時代の京は、足利家と三好家の対立が激しく、頻繁に町が破壊されてしまうという状況だった。直しても直しても切りがなく、町人にとっては諦めて何とかそこで生きるか、京を捨てるかの二択だった。とても都と呼べるような、現代の京都と結びつくような美しい町並みなど存在せず、まさに廃墟に近い状況だったとされている。

「光秀、西へ」のまとめ

ドラマであるため、今後フィクションだと思われるストーリーも多く絡んでくるのだろうが、初回放送に関して言えば、フィクションだと思われるのは堺で明智光秀、松永久秀、三淵藤英が一堂に出会ったり、望月東庵(もちづきとうあん)医師や菊丸ら架空の人物が登場してきたことくらいではないだろうか。

次回「道三の罠」では織田家と斎藤家が激突したり、海道一の弓取り(東海道一の国持大名という意味)と呼ばれた今川義元の姿も登場してくるようだ。名のある戦国大名が続々登場してくるようなので、来週の放送も心待ちにしたい。

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明智光秀という人物は、土岐氏の再興に強いこだわりを持っていた。ではなぜ明智光秀は明智姓であるにも関わらず、土岐氏の再興を夢見ていたのだろうか。その理由はいたってシンプルで、明智姓は土岐氏が源流となっており、明智氏の祖先を辿ると土岐氏に繋がっていく。そのため明智姓を「土岐明智」と呼ぶこともある。つまり土岐氏というのは、光秀にとっては言わばルーツということになる。

土岐氏を源流とする偉人は光秀以外にも意外と多い

現代の日本人が日本人としてのルーツ、日本人としての誇りを持って外国へと旅立つように、明智光秀も自らのルーツを誇りとしていた。光秀の時代にこそ凋落していた土岐家だったが、土岐氏というのはかつては名門と呼ばれる一族だった。鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府では鎌倉殿、つまり源頼朝と主従関係にある家のこと)として栄えた家柄であり、鎌倉時代や『太平記』の中で活躍した家柄の一つが土岐氏ということになる。

ちなみに有名どころの土岐源流の人物は明智光秀だけではなく、豊臣五奉行の浅野長政、『忠臣蔵』の浅野内匠頭や、坂本龍馬も土岐氏を源流としている。土岐氏の始祖は諸説あるのだが、土岐光衡(みつひら)であるという説が有力なようだ。この土岐光衡から土岐明智氏を経て16代降ると明智光秀に辿り着く。

土岐光衡の父親は源光長と言い、平家が滅び鎌倉幕府が開かれると光衡は源頼朝の御家人となり、美濃の土岐郡を本拠地にしたことから土岐姓を名乗るようになった。光衡の父ら上の世代も土岐と称されることがあるが、しかし実際にはこの土岐光衡が土岐氏の始祖となる。

斎藤道三と戦おうにも戦えなかった明智家

土岐氏が力を失っていったのは1400年代終盤、戦国時代がまさにこれから始まろうとしている頃だった。この頃の土岐家は数十年に渡り相続争いが頻発し、内紛を続けることで力を失い続けていよいよ天文11年(1542年)、土岐頼芸の代になり土岐氏は斎藤道三によって美濃を追放されてしまった。永きに渡り美濃守護職を務めてきた土岐氏も、ここで滅びを迎えることとなった。

そして斎藤道三によって滅ぼされた土岐氏の再興を誰よりも願っていたのが明智光秀という人物だ。つまり道三は土岐氏の仇になるわけだが、しかし話はそう単純ではなく、明智光秀の叔母にあたる小見の方が斎藤道三の正室となっていたのだ。小見の方は信長の正室帰蝶(濃姫)を生んだことでも知られる。このように明智家と斎藤家の繋がりがあったために、光秀は道三を敵に回すことができなかった。

小見の方は天文元年(1532年)に長井規秀に嫁いだ。長井規秀とは油売りという商人の身から立身出世していき、長井家、斎藤家を次々と乗っ取っていき、最後は美濃一国までもを乗っ取ってしまった、まさに下克上を絵に描いたような人物だった。この長井規秀、のちの斎藤道三が小見の方を正室としていたため、明智家は土岐氏が道三によって美濃から追放された後、この縁組と力関係により、道三に服従せざるを得ない状況が続いた。

美濃守護職を美濃から追放してしまった斎藤道三

土岐家とはまさに名門であり、道三が乗っ取った斎藤家も、元々は美濃守護職である土岐氏の守護代だった。つまり土岐氏を源流とする明智家からすると、斎藤道三というのは土岐氏の守護代だった斎藤氏の家臣に過ぎない存在だったのだ。それが卑劣な手法により下克上を繰り返し、美濃一国の大名まで登りつめていった。「土岐家の家臣の家臣に土岐氏は美濃を追放されてしまった」、このような考えはきっと光秀の中にも少なからず存在していたはずだ。

戦国時代に於いて最も重視されたのは、家が滅ばないようにとにかく家を守ることだった。そして名を途切れさせないため、男子が生まれない場合や戦死した場合、血縁者などから養子を引き受けることによって家名を継いで行った。そして土岐家もそれに倣い、血脈を途切れさせなかったことで、明智氏など数々の名門を派生させていった。その名門の数々を派生させた源流である美濃守護職土岐氏を、斎藤道三は美濃から追放してしまったのだった。

偏見を持たずに人を評価した斎藤道三

斎藤道三という人物は戦国時代を代表する悪人の一人とも呼べるわけだが、有能な人材に関しては一切の偏見を持たずに接した懐の広さも持ち合わせていた。商人から立身出世した経験から、その辺りは農家出身の羽柴秀吉と同じ感性を持っていたと言える。例えば尾張でうつけ者と呼ばれていた織田信長の才能にいち早く気付き、その将来に賭けるかのように愛娘の帰蝶をその尾張のうつけに嫁がせた。そしていつか斎藤家の家臣たちは信長の馬を引くことになるだろうと口にし、息子義龍の機嫌を損ねていく。だが実際には道三の言葉通りになった。

そしてもう一人道三が目にかけたのが彦太郎こと、幼い頃の明智光秀だった。当然道三は光秀の源流が土岐であることも、その土岐氏を追放したことで明智家に良い感情を持たれていないことも理解していたはずだ。それでも有能な人材は有能だと偏見なく言い切ることができたのが、道三の懐の広さだ。もし道三が懐の狭い人物であったなら、他の大名たちがそうしたように、復讐をしてくる可能性のある人物は眼が出る前に排除していたはずだ。しかし道三は決してそうはしなかった。

本能寺の変、すべては土岐家のために!

とにかく土岐氏という家柄は、源頼朝の頃より御家人となり、後々美濃守護職を賜ることになっていく、まさに名門中の名門とも言える家柄だった。その家柄に対し、光秀は誇りを持っていた。そして道三に滅ぼされてしまった土岐家の再興を願いながら若き日々を流浪の日々に費やし、武術、学問、文化、鉄砲技術を磨き、将軍家と縁の深い越前朝倉氏に仕官することによって足利義昭に近付くことに成功し、さらには信長の臣下になっていく。

そして今か今かと土岐家を再興するための機会を窺い続け、天正10年6月2日、本能寺に大きな機会を得ていった。この機会が光秀にとって土岐家を再興するためのものだったのか、土岐家の再興を阻まれることを防ぐためのものだったのか、それは今となっては誰も知ることはできない。だが少なくともこの本能寺の変が、すべて土岐家のために決行された事件だったことは確かなようだ。

ちなみに明智家は、初代美濃守護職を務めた土岐頼貞の九男の子、明智頼重を祖としている。

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最大の相違点のひとつに、キリスト教を認めたか否かということがある。秀吉は天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、徳川家康も慶長17年(1612年)に禁教令を出し教会の取り壊しを進めた。ではなぜ織田信長だけがキリスト教を手厚く持て成したのだろうか?!


考えらえることとしてはまず、織田信長自身が南蛮文化に強い興味を抱いていたという点が挙げられる。晩年の信長は日本的な甲冑ではなく、ヨーロッパで使われているような鎧やマントをまとっていたし、葡萄酒も好んで飲んでいたと伝えられている。南蛮の珍品は、すべてキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれた。そのような珍品を手に入れたいという思いもあり、キリスト教の布教を認めていたのだろう。

さらに信長は比叡山を焼き討ちにしたことでもわかるように、一部の堕落した僧侶を憎んでいた。そのような僧侶を一掃し、キリスト教という新たなものを利用することにより、日の本全体を新しく作り変えようとしていた可能性もある。事実信長という人物は、日の本を新たに作り直したいという強い思いを抱いていたため、そのためにキリスト教を利用しようと考えていた可能性は高い。

だがそれ以上に信長が目指したのは、南蛮貿易による莫大な利益を得ることだ。当時の南蛮貿易はキリスト教宣教師の専売特許だった。南蛮貿易と布教活動はセットで考えられており、南蛮貿易によって利益を得るためには、宣教師たちと良好な関係を築かなければならない。

信長が目指したのは、堺などの商人たちに南蛮貿易で大きな利益を得させ、その商人たちから莫大な税金を取るという形だった。そのため信長自身で貿易を行ったという形跡は見当たらない。信長はあくまでも珍品を集めるだけで、実際には堺の商人たちに海を渡らせて、海外との貿易を盛んにしていこうと考えていたようだ。

ちなみに豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮に出兵した際、石田三成は上述したような信長と同じ考えを持っていた。朝鮮や明を支配下にするよりは、友好関係を結んで貿易を盛んに行なっていくことが国益に繋がると考えていた。だが秀吉は三成の考えを汲むことはせず、朝鮮や明と敵対する道を選んでしまう。

さて、それでは秀吉と家康はなぜバテレン追放令を出したのか。その理由は宣教師たちが秀吉や家康の支配下にされることを嫌ったからだった。特に後発組の宣教師たちが支配下に入ることを毛嫌いし、秀吉や徳川幕府の怒りを買ってしまう。逆に古参の宣教師たちは日本文化をよく理解していたため、後発の宣教師たちを説得しようと試みたようだが上手くはいかなかった。

さらに突っ込んだ話をすれば、鉄砲などの火器も貿易によって日本に入ってきた。信長は最新の武器を南蛮貿易によって手に入れようとも考えていたようだ。鉄砲の威力は長篠の戦いですでに証明されており、戦上手の信長としては重火器を使った戦いをさらに進化させたいと考えていたのだろう。

このように信長にとってのキリスト教とは単に宗教問題ではなく、その主旨は実は貿易による利益を得ることにあった。宗教そのものに深い関心がなかったからこそ、織田信長はいわゆるキリシタン大名になることもなかったのかもしれない。