「織田信長」と一致するもの

惟任退治記現代語訳-戦国時代記編

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村井貞勝は本能寺の門外すぐの場所に住んでいた。本能寺での騒ぎを耳にして初めは喧嘩かと思い、それを鎮めようと着の身着の儘外に走り出て様子を見てみたがその騒ぎは喧嘩によるものではなく、本能寺が明智光秀の軍勢二万に取り囲まれている騒ぎの音だった。村井貞勝はどうにか本能寺の中に入ろうと色々試みたが適わず、織田信忠の陣所となっていた妙覚寺まで急いで走り事態を信忠に伝えた。

信忠はすぐにでも本能寺に馳せ参じ父と共に戦い、最後は父と共に腹を切ると家臣たちに話したが、明智軍の包囲が厳重であったため、翼でもなければ本能寺の中に入ることはできそうになかった。まさにこれこそ咫尺千里しせきせんりの裏切りとも言えるものだった。
※咫尺千里:すぐ近くなのにものすごく遠くに感じること

信忠は妙覚寺は戦をするには不向きであるため、他に近くで戦えて最後は自刃できる場はないかと家臣に尋ねると、村井貞勝は誠仁親王(正親町天皇の息子)がおいでの二条御所が良いと言い、信忠を二条御所まで案内した。すると誠仁親王は輿に乗って内裏にお移りになり、信忠は五百人の兵と共に御所に入った。

明智軍に遮られたことにより、二条御所に馳せ参じることができた信長の馬廻はわずかに一千騎ほどで、信忠のもとにいたのは弟の織田又十郎信次、村井春長父子三人、団平八景春、菅屋九右衛門父子、福富平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎幸久、赤沢七郎右衛門、斎藤新五、津田九郎次郎信治、佐々川兵庫、毛利新助、塙伝三郎、桑名吉蔵、水野九蔵、桜木伝七、伊丹新三、小山田弥太郎、小胯与吉、春日源八ら歴々の侍たちであり、彼らは死を覚悟し明智の軍勢が攻め入るのを待ち構えていた。

明智光秀は、主君織田信長が自害し本能寺に火がかけられたのを見ると安心し、織田家の家督を継いでいた信忠の居場所を尋ねた。すると信忠は二条御所に立て篭もっているとのことだった。それを聞いた光秀は兵を休ませることなく二条御所に急行した。しかし二条御所ではすでに死を覚悟した侍たちが大手門を開き、弓・鉄砲隊に前面に構えさせ、他の兵たちも思い思いに武器を手に取り前後を守っていた。

明智軍の先駆けが馬具も整えないまま攻めかかると、矢と鉄砲が次々と放たれてきた。それにたじろぐ明智軍を見ると、信忠の兵は内から一気に攻め出し、押しては退いて、退いては押すの攻防を数時間続けながら戦った。明智軍は武具をしっかりと締め直し、まだ戦える兵に代わるがわる攻めさせた。一方信忠の兵は素肌に帷子だけをまとった軽装で勇ましく善戦を見せたのだが、明智軍は長太刀や長槍を揃えて攻撃してきたため、こちらで五十人、あちらで百人と次々と討ち倒され、遂には御殿のすぐ近くまで攻め入ってきた。

信忠と信次兄弟は腹巻をまとい、百人ばかりの近習は具足をまとい戦った。そして信忠はその中でも一番に打ち出て、十七〜八人の敵兵を討ち取っていった。また、近習たちも果敢に攻め出す信忠に負けじと、刀で火花を散らしながら戦い、敵を方々に蹴散らしていった。

その際明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次ら明智軍屈指の侍たち数百人が一気に斬りかかってきた。信忠はそれを見るとその中に飛び込み、これまで稽古してきた兵法、秘伝の術、英傑一太刀の奥義を繰り出し、次々と敵兵を薙ぎ倒していった。すると孫十郎、三右衛門、清次の首は信忠により次々と刎ね落とされていった。そして近習たちも力の限り太刀を振り続け、御所に攻め込んできた明智軍をことごとく討ち果たしていった。

もう何も思い残すことなく最期の戦を戦い切り、父信長と共に逝こうと二条御所の四方に火を放ち、御所の中心まで退くと十文字に腹を掻き切った。他の精鋭たちも熊や鹿の毛皮で作った敷物を並べ、その上で信忠を追うように腹を切り、皆一斉に炎に包まれていった。信長は四十九歳、信忠は二十六歳であり、悼み惜しむべしと民の誰しもが涙を流した。

ところで、明智光秀と同郷で美濃出身の松野平介一忠は、その夜は京の都の外にいた。そして夜襲の報せを耳にし駆けつけたが間に合わず、到着した時に本能寺での戦はすでに終わっており、信長もすでに自害したと聞くと、諦めて妙顕寺まで走り、追腹を切ろうと覚悟を決めた。その時斉藤利三が一忠を明智側に勧誘したが、一忠は信長に恩義があると言いそれを断り自刃した。一忠は元々は医者であり、文武両道の優秀な男だった。普段から歌道もたしなみ、侍になったのちも学問を怠ることをしなかった。そして以下がその一忠の辞世の句である。

そのきはに 消ゑ残る身の 浮雲も 終には同じ 道の山風

手握活人三尺劔、即今截斷尽乾坤
(手に我の命を助けた約90cmの刀を持ち、今まさに天と地を斬り断つ)

このような句を残して腹を切ると臓腑を引き出しながら朽ち果てた。まさにこの時代では他に類を見ない無双の働き振りだった。人々は一忠ん最期を聞くと涙を流し袂を濡らしたものだった。

櫓から小便をかけられても怒る素振りさえ見せなかった竹中半兵衛

竹中半兵衛

永禄7年(1564年)2月6日の夜、織田信長が4年攻めても落とせなかった美濃・稲葉山城を、竹中半兵衛重治が僅か16人の手勢のみで鮮やかに落として見せた。稲葉山城は天然の要塞とも呼ばれ、これまでどれだけの大軍で攻められても落ちなかった難攻不落の城として有名だった。果たしてこの城を、竹中半兵衛はどのような手を使って僅か16人で落として見せたのか?

そもそも竹中半兵衛は斎藤家の家臣だった。だが斎藤家の他の熱血的な武将たちとは違い、半兵衛はいつも飄々とし、何を考えているのか分からないような人物だった。だがそれは生気がなかったからではなく、斎藤家が近い将来滅びるであろうことが半兵衛には分かっていたからこその姿だった。愚将の主斎藤龍興を守るために熱を帯びることなど、半兵衛にとっては無駄以外の何物でもなかったのだ。

龍興は、祖父道三の頃から仕えている斎藤家の重臣たちをことごとく遠ざけ、自分の言うことをよく聞く者だけを側に置き重用するようになった。そして龍興がことあるごとに半兵衛を馬鹿にするため、龍興の側近たちもそれを真似て半兵衛をからかうようになった。斎藤飛騨守秀成に関しては、菩提山城へ戻って行く半兵衛に対し櫓から小便をかける蛮行を見せたほどで、これは永禄7年、半兵衛が新年の挨拶をするために稲葉山城の龍興の元に出向いた帰り際の出来事だった。

小便をかけられてもなお半兵衛は無表情のまま、不気味なほど冷静な目礼だけをし稲葉山城を去っていく。小便をかけられれば、普通の武士であれば抜刀し怒りを露わにするのが当然だ。だが半兵衛は表情一つ変えない。この半兵衛の姿に逆に恐怖感を覚えたのは斎藤飛騨守の方だった。慌てて龍興の元へ行くと、半兵衛に復讐されるかもしれないと助けを求め、また、半兵衛には逆心があるのではないかという疑心まで龍興に植え付けようとした。

後日、龍興は半兵衛を稲葉山城に呼び出し、逆心の疑いをかけられていることを伝えた。そして半兵衛はそのつもりはないと証明するため、弟である竹中久作重矩(きゅうさくしげのり)を人質として差し出した。だがこの人質こそが、半兵衛が仕掛けた稲葉山城乗っ取り作戦の初動だった。半兵衛は人質として稲葉山城に送られる重矩に対し、2月になったら仮病を患えと命じていた。

逆心を疑われて差し出した弟に仮病を使わせた竹中半兵衛

重矩はその通り、2月になると腹痛で苦しむ振りをした。その痛がりようは尋常ではなく、医者にも痛みの原因が分からない。しかし当然である、仮病なのだから。これは命に関わる重病に違いないと思った龍興は、菩提山城の半兵衛に報せを走らせた。そして半兵衛はまず弟の病を主に詫び、すぐに見舞いに向かうつもりだと返した。

そして2月2日、半兵衛は16日の共を連れ稲葉山城に入った。半兵衛たちはまったくの軽装で、持っていたのは幾つか長持だけだった。これには見舞いの品や、龍興への手土産が入っていると言い城内に持ち込んだ。だが実際に入っていたのは16人分の武具だった。

2月6日になると竹中半兵衛と16人の家臣たちは、長持に隠し持っていた武具を次々纏っていく。この日は夜風が冷たい静かな夜だったらしい。半兵衛は城内を散歩しながら、ようやく二の丸付近で探していた人物を見つけ出した。そう、斎藤飛騨守秀成だ。

遭遇するなりまた威丈高に物言う飛騨守を、半兵衛は一瞬のうちに切り捨てたと伝えられている。実はこの夜の夜警が斎藤飛騨守であることを、半兵衛はあらかじめ知っていた。この2月、斎藤飛騨守は1〜6日の夜警を担当していた。だからこそ半兵衛は夜警最終日であるこの日に稲葉山城を乗っ取ることにしたのだった。

斎藤飛騨守を切り捨てると、半兵衛は家臣たちに「竹中の兵が大勢城内に攻め込んできた」と城内で吹聴させて回った。すると城内は大混乱に陥り、着の身着のまま城を逃げ出す者が続出し、城を守ろうとする者はほとんどいなくなった。斎藤龍興も側近である長井新八郎と新五郎兄弟に支えられ、状況を把握できないまま城を捨て逃げ出すという有様だった。

織田信長と舅安藤伊賀守を感服させた19歳の竹中半兵衛

龍興が城を捨てたことでこのクーデターは完了し、稲葉山城は竹中半兵衛の手中に落ちた。なおこの時、半兵衛の舅である安藤伊賀守範俊がもしもの時のため城下で待機していたようだ。数日前に事を起こすことはすでに本人から伝えられていたが、舅はまさか婿がこの乗っ取りを成功させるとは夢にも思っていなかった。だが16人の手勢のみで一夜にして城を落として見せたことで、範俊はあらためて「この男に娘を嫁がせて正解だった」と思うのだった。

半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件は、瞬く間に美濃周辺へと広がっていった。これに最も驚いたのは尾張の織田信長だ。信長は4年かけて稲葉山城を攻めていたが、未だ落とせる気配さえ見えていなかった。それを竹中半兵衛という19歳の若者が、たった16人の手勢だけで一夜にして落としてしまったのだ。

信長はすぐに半兵衛に使者を送った。そして稲葉山城を織田に明け渡せば、美濃国の半分を与えるという好条件を提示した。だが半兵衛にその提案を受けるつもりはない。そもそも半兵衛は謀反を起こしたのではなく、愚将の主斎藤龍興を諌めるために城を乗っ取っただけなのだ。それを信長に明け渡し、逆臣の汚名を背負うつもりは半兵衛にはさらさらなかった。

しかし半兵衛は信長に対しすぐに回答しようとしない。その理由は信長の使者が頻繁に半兵衛を訪ねているという噂を、龍興の耳に入れるためだ。その噂を聞きつけると龍興は案の定慌て、自ら半兵衛に頭を下げて城の返還を求めた。すると半兵衛は、今回の稲葉山城乗っ取りに関わったすべての者の責任を問わないということを条件に、あっさりと城を明け渡した。そして自らは家督を弟重矩に譲り、自らは晴耕雨読の隠遁生活へと入ったのだった。

この出来事以来、竹中半兵衛は「今楠木(現代の楠木正成)」と称されるようになった。

長篠の戦いに於いて織田徳川連合軍と武田騎馬隊が取った戦術

織田信長

長篠の戦いは近代戦争の先駆けとも言われていた。その理由は織田信長徳川家康の連合軍が日本初の鉄砲の三段撃ちによって武田騎馬隊を撃破したからだった。だがこれについては近年の史家の研究によって非常に疑わしいということが分かって来た。

そもそも語り継がれて来た長篠の戦いでの鉄砲の三段撃ちとは、まず馬防柵を張り巡らせ、織田徳川連合軍が有していた三千挺の鉄砲を、千人一組で三隊編成し、第一隊が撃ち終えたらすぐに後ろに回り今度は第二隊が前に出て撃ち、撃ち終えたらまた最後尾に回り、今度は第三隊が前に出て撃ち再び第一隊に戻るということを繰り返す戦い方のことだ。

これにより武田騎馬隊は一網打尽にされ、この大敗を切っ掛けに武田家は衰退して行ったと言われている。だがそもそも、鉄砲三千挺という数が疑わしいという事実が見えて来た。当時鉄砲というのはなかなか手に入れられる物ではなく、どの大名も鉄砲を確保するのにかなり苦心していた。織田信長自身も鉄砲の弾を作るための鉛や火薬を確保するために堺の支配を目指した程だ。

この三千挺という数字は『信長公記』が出典となっているのだが、実はこの信長公記でも、写本によって三千挺と書かれていたり、千挺と書かれたりしていることが分かった。そのため本当に三千挺だったのか、実は千挺だけだったのかということを断定することは現時点ではまだ難しいらしい。

そして火縄銃の特性として、弾と火薬を筒に詰めて火縄に火を灯すと、その火縄を火がジリジリと火薬まで伝っていき撃てるようになるという仕組みだった。そのため現代の拳銃のように、撃ちたい時にいつでも撃てるというわけでもなかった。この事実を踏まえると、千人一組となった狙撃手が一斉にほとんど同じタイミングで鉄砲を撃つことは不可能に近いことがよく分かる。

今史家の間で語られている話としては鉄砲隊は実は千人だけで、その千人の鉄砲隊に対し指揮官は五人で、一斉に撃ったと言うよりは、武田兵が近付いて来たら撃てる者からどんどん撃っていったというのが現実的であるようだ。

長篠の戦いで見せていた武田騎馬隊の本当の戦い方

そして武田軍は馬に乗ったまま馬防柵に突進して柵を壊そうとし、その騎馬隊が近付いて来ては鉄砲で仕留めたとも伝えられているが、実はこの当時の騎馬隊の一般的な戦い方は、騎馬隊はあくまでも馬に乗って速攻で敵前まで行くことが目的であり、戦う際は馬を降りて戦うことがほとんどだった。つまり馬に乗ったまま大槍を振り回して戦うというケースは非常に稀で、戦国時代当時にはあまり行われていない戦い方だった。

つまり真実としては、武田軍は馬に乗って馬防柵の前まで行き、馬を降りて馬防柵の破壊を試みたのだが、馬防柵を壊そうとした時には鉛の弾を撃ち込まれていた、という顛末だったようだ。

武田軍の戦い方としては、織田徳川連合軍が鉄砲に弾を込めている隙を突いて馬で一気に近付き、まずはとにかく馬防柵を壊すという作戦だったらしいのだが、残念ながら思いの外鉄砲の数が多く、馬防柵を破ることができなかったということらしい。そしてその鉄砲の数が三千挺だったのか、千挺だったのかはまだ確かなことは分かっていない。

まだまだ進んでいなかった兵農分離と当時の馬の姿

そして長篠の戦いが起こった天正3年(1575年)の時点で、織田軍と言えどまだ兵農分離はしっかりと行われてはいなかった。ある程度の兵農分離は進んでいたと言われているがまだまだそれは完全な物ではなく、長篠の戦いに参加した兵卒の大半は平時には農業を営んでいた。

そのため鉄砲の撃ち方は分かっていても、鉄砲の専門家のように大勢が撃つタイミングを合わせられるほどの技術はなかった。この当時の技術力も、史家たちが長篠の戦いに於ける三段撃ちの再検証が必要だという主張の論拠となっている。

ちなみに織田信長自身は鉄砲を初めて手にした頃から橋本一巴はしもといっぱからその使い方を学んでいた。それにより信長の鉄砲を撃つ技術は非常に高くなり、構造や製造過程についても深く理解をしていた。そして近い将来は戦で物を言うのは名刀ではなく鉄砲になると考えた信長は、早くから堺を治めてその原材料の確保を目指したというわけだ。

武田騎馬隊で活躍した馬たちの真の姿

武田騎馬隊

さて、一方馬で激突して馬防柵を破壊しようとしたと伝えられていた武田騎馬隊の馬についても触れておきたい。大河ドラマなどの歴史ドラマを見ると、騎馬隊は決まってサラブレッドのような大きくて見事な馬に乗っている。だが当時の日本にこのように大きな馬は存在していなかった。

戦国時代に活躍した馬の体高はせいぜい120センチ程度で、現代の男性の身長ならば腰よりも僅かに高いくらいだった。つまり現代で言うところの子どもが乗るような小さなポニーが、戦国時代の名馬と同じ大きさだったと言うわけだ。

そしてこのように小さな馬で激突したところで馬防柵はそう簡単には壊れないし、そもそも馬は臆病な動物であるため、いくら鞭を打たれたとしても柵に突っ込んで行くようなことは絶対にしない。ましてや当時馬はとても高価な動物だったため、武田軍の指揮官がそのように馬を無駄死にさせるような戦術を取ったとも考えにくい。

そのためいくつかの書物に記されているような、武田騎馬隊が馬ごと馬防柵に突っ込んで行ったというのも、後世の創作である可能性が非常に高いと史家の間では結論付けられている。

歴史ドラマでは今後も創作された内容を元にドラマティックに演出されていくのだとは思うが、しかし真実はそうではなかったということはここに書き残しておきたい。

明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

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雨の桶狭間でじっと好機を覗っていた織田軍

永禄3年(1560年)5月19日、東海一の弓取り(武将)と称されていた今川義元が、約2万の軍勢を率いて尾張に侵攻してきた。一説ではこの時、義元は上洛の途上だったとされているが実際はそうではなく、信長が今川領への圧力を増していたことから、早いうちに信長を潰しておこうという義元の考えだったようだ。つまり目的は上洛ではなく、信長の居城である清洲城への侵攻だったのだ。

今川軍が織田領の丸根砦、鷲津砦を攻め始めたのは5月19日未明のことだった。この報告を受けると信長は敦盛を舞い、陣触れし、清洲城を飛び出して行く。向かったのは熱田神宮で、ここで必勝祈願を済ますと戦場へと再び馬を駆けて行った。

19日未明は暴風雨だった。織田軍2,500の寡勢が今川軍2万の大軍を攻めるためには、悪天候に乗じて奇襲をかけるのが常套手段だ。だが信長は雨が上がるまで攻撃は仕掛けなかった。その理由は『松平記』で説明されており、この時今川勢として参戦していた松平元康(後の徳川家康)は、織田軍は突如として鉄砲を打ち込んできたと書き残している。当時の火縄銃は濡れてしまっては撃つことができない。そのため信長は雨が上がるまで攻撃を待ったのだ。

雨が上がると織田軍は、今川義元の本陣目掛けて一気に斬り込んでいった。なぜこの時織田軍が迷わず本陣を攻められたかといえば、義元が漆塗りされた輿に乗って来ており、その目立つ輿が信長に義元の居場所を教えてくれたためだった。ちなみに漆塗りの輿は、室町幕府から許可されないと乗ることができない当時のステータスだった。現代で言えばリムジンを乗り回すようなものだ。

奇襲の常套手段を用いずに奇襲をかけた織田信長

周辺の村から多くの差し入れもあり、正午頃、今川本陣はかなりのリラックスモードだった。丸根砦と鷲津砦もあっという間に陥落し、今川の織田攻めは楽勝ムードだったのだ。しかも暴風雨が止んだことで、兵たちは奇襲に対する緊張も解いてしまう。なぜなら上述した通り、雨に紛れて奇襲をかけるのが当時の常套手段だったからだ。だが雨が止んだ空の下、突如として織田軍が鉄砲を打ち込んできた。織田軍はここには攻めて来ないと踏んでいた今川本陣は慌てふためく者ばかりで、武器や幟などを捨てて敗走する兵も多かった。

義元自身、300人の護衛と共に本陣から逃げ出すのがやっとで、その護衛も最後には50人まで減っていた。そして最初に義元に斬り掛かった一番鑓の武功は服部一忠だった。一忠は義元に膝を斬られ倒れてしまうが、直後に毛利良勝が二番鑓として義元の首を落とした。

毛利良勝が義元を討ち取ったことにより午後4時頃、桶狭間の戦いは幕を閉じる。2,500人の織田軍が討ち取った今川兵は3,000にも上った。信長の勝因はまずは雨が止むのを待って鉄砲を用い、兵をすべて今川本陣に一極集中させたことで、一方義元の敗因は大軍を分散させ、さらに輿により自らの居所を信長に教えてしまったことだった。

この桶狭間での勝利を境に信長は天下へと駆け上り、逆に敗れた今川家は滅亡へのカウントダウンが始まり、この8年後に大名としての今川家は滅亡してしまうことになる。

武田勝頼は決して挑むべきではなかった長篠の戦い

織田信長や上杉謙信が恐れた武田勝頼

武田勝頼の最期は実に呆気ないものだった。父信玄の従甥であった小山田信茂の裏切りに遭い、最期は一説によれば100人にも満たない僅かな共の者と逃げ場を失い、天目山で自害したと伝えられている。勝頼のこの自害により、450年続いた甲斐武田氏は信玄亡き後あっという間に滅亡してしまった。だからと言って、武田勝頼は決して愚直な武将だったわけではない。

事実信玄の死後は強過ぎる大将と謳われるほどの戦いを見せていた。だが負け知らずであったがために勝頼のプライドはどんどん高くなってしまったようだ。本来は退くべき戦を退かずに挑んでしまった。勝者の奢りとも言うべきだろうか。重臣たちはしきりに退くことを提言したが、しかしここで退いてはは武田の名が廃るとばかりに、勝頼は無謀な戦いに挑んでしまう。それが長篠の戦いだった。

織田信長は上杉謙信に対し「勝頼は恐るべし武将」と書状を書き、謙信もそれに異論はなかったようだ。長篠の戦いは1万5000の武田勢に対し、織田徳川連合軍は3万8000だった。数の上では織田徳川連合軍が圧倒的に上回っている。しかし信長はそれでも勝利を確信することができなかった。

そのため佐久間信盛に武田に寝返った振りをするように命じた。勝頼はあろうことかこれを信じてしまい、戦いが始まれば織田方の重臣である佐久間信盛が内応することを前提に戦いに挑んでしまった。つまり武田勝頼は長篠では織田方に騙され、天目山では血族である小山田信茂に裏切られたことになる。武田勝頼は織田信長や上杉謙信が恐れる名将ではあったが、生きるか死ぬかの戦国時代に於いては人を信じ過ぎたことが仇となってしまった。

武田信玄は『孫子』を熟知する軍略家だった。しかし勝頼はこの時『孫子』を無視した状態で戦に挑んでしまう。もし勝頼がもっと織田方が整えていた準備を把握できていれば、武田軍に勝ち目がないことは火を見るよりも明らかだった。だが勝頼は最強の武田騎馬軍団を過信してしまい、信長の誘いに乗り沼地の多い設楽原(したらがはら)に陣を敷いてしまった。沼地ではいくら最強と言えど、騎馬軍団の威力半減してしまう。

一方の織田徳川連合軍が沼地の先に用意していたのは馬防柵だった。騎馬隊が侵攻できないように木でフェンスを作り、その隙間から鉄砲を撃てるようにしていた。この戦略により武田騎馬軍団は一網打尽にされてしまう。

天正3年(1575年)5月21日、早朝に始まった死闘は8時間にも及んだという。だが武田軍に勝機はなく、この戦いで土屋昌次、山縣昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・信輝兄弟(ふたりとも真田昌幸の兄)が討ち死にし、撤退時に殿(しんがり)を務めた馬場信春も、勝頼が無事に撤退したことを知ると討ち死にしてしまった。たった一度の戦でこれだけ名のある武将たちが次々命を失った戦も珍しい。

この敗戦により武田家は一気に衰退していき、天正10年(1582年)3月11日、天目山の戦いで勝頼が自害したことにより、名家武田氏は歴史からその名を葬られてしまった。

織田信長の負の定説は秀吉が書かせた捏ち上げ

織田信長という人物は冷酷で、男色でもあったという定説が現在では当たり前のように知られている。だが明智憲三郎氏が書いた『本能寺の変 431年目の真実 』という本を読むと、それは羽柴秀吉が本能寺の変後に作ったイメージに過ぎないことがよくわかる。

明智憲三郎氏は本能寺の変を起こした明智光秀の子孫であると言う。だがこの本は決して先祖を擁護するような感情論的な本ではない。本能寺の変を徹底的に歴史捜査し、推測ではなく、戦国時代に書かれた書状や日記などで証拠を固めながら書かれた良書だ。

当サイト戦国時代記では、本能寺の変にまつわることは主にこの本の情報を基にし、今までの定説に縛られることなく事実のみを発信していきたい。

信長の時代に生きた人々の日記などからは、信長は決して冷酷な人間ではなかったことがよくわかる。例えば本能寺の変であるが、明智光秀の謀反を知り、信長が真っ先に取った行動は女子供など弱者を逃すことだった。

そして信長に男色のイメージがつけられたのは羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』によってだった。惟任日向守とは明智光秀のことで、秀吉自らが逆臣光秀を討ったことを宣伝するために書かせたいわゆるプロパガンダ本だ。森蘭丸は歴史好きであれば誰もが知る名だと思う。だが蘭丸と書かれたのは『惟任退治記』によってで、秀吉は蘭という字には男色のイメージがあるため、森乱丸を森蘭丸とわざと変えて書かせたようだ。

さらには女遊びが好きだったという信長のイメージも、やはり本能寺の変後に秀吉が書かせたことだった。明智憲三郎氏の著書によれば、秀吉が織田政権を奪取しやすくなるよう、信長を負のイメージで固めたのだという。その証拠に関しては上述した本を読んでいただきたいところだが、読めばなるほど納得できる。

信長という人物は確かに激情家ではあったようだ。だが決して冷酷な人間でも男色でもなく、女にだらしのない人物でもなかったのだ。今日までに作られた信長の負のイメージは、すべて秀吉が信長の死後に作り上げたものだったのだ。

織田信長は天下統一を直前にし、最も信頼を寄せていた家臣に裏切られ49歳でこの世を去った。もし本能寺の変が起こっていなければ徳川幕府が開かれることはなく、きっと織田幕府が開かれていたのだろう。だが織田幕府が徳川幕府ほど長くは続かなかったであろうことは、当時信長が考えていたことを思えばよくわかる。それについてはまた別の巻にて書いていきたいと思う。

吉乃の菩提寺である久昌寺が廃寺に

吉乃の墓がある久昌寺が老朽化により取り壊しに

織田信長には斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)という正妻がいた。しかし信長が女性として本当に愛したのは帰蝶ではなく、吉乃(きつの)という女性だった。
※ 吉乃という名前は後世に便宜上付けられた名前で、本名は明らかにはなっていない。

吉乃は若くして未亡人となってしまうのだが、その後信長の側室として嫡男信忠、信雄、徳姫を産んだ。だが生来体が弱かった吉乃は29歳という若さで亡くなってしまう。その吉乃が眠っているのが愛知県江南市にある久昌寺(きゅうしょうじ)という、1384年に建立された寺だった。

しかしこの久昌寺の廃寺が2021年に決定されてしまった。その理由は老朽化した本堂を立て替える費用を捻出できない、というものだった。時代の流れとしてこれは仕方のないことではあるが、しかし時代の流れに乗れば廃寺を防ぐこともできたかもしれない。

例えば法隆寺などはクラウドファンディングで多額の寄付金を集めることができた。久昌寺も信長の名の力を借りれば、法隆寺ほどの額じゃないにしても、本堂を立て替えるくらいの寄付金は集められたかもしれない。吉乃のためであれば、信長も喜んで名を貸してくれたことだろう。

19代目で最後の久昌寺当主となってしまった生駒英夫氏は50代手前でまだ若いわけで、檀家だけに頼るやり方を見直していれば、もう少し違う結果にもなったかもしれなかった。だが唯一の救いは、吉乃のお墓は維持されるということだ。

解体は令和4年(2022年)5月から始まり、令和3年には公園として整備されるようだ。だがその公園には吉乃のお墓が残されるため、信長も少しは安心したのではないだろうか。

永禄9年(1566年)5月13日に吉乃を失うと、信長は当時の居城であった小牧山城の天守閣に登っては西の空を眺めていた。そう、久昌寺は小牧山城の西に位置していたのだ。信長はそこから西の空を眺めながら、吉乃を想いよく一人涙を流していたと伝えられている。

魔王のようだったとも伝えられている織田信長だが、実はそのイメージとは裏腹に愛情深い男でもあった。ドラマや映画では帰蝶との関係が描かれることがほとんどだが、もしいつか、信長と吉乃が互いに愛し合う姿が描かれた作品が誕生したなら、筆者はぜひともその作品を通して信長の素の姿を見てみたい。

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。
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麒麟がくる9回目「信長の失敗」では、若き織田信長が竹千代(のちの徳川家康)の父親である松平広忠を殺害するという物語が展開された。そして明智光秀の出来事としては幼馴染みである煕子と再会し、お互い想いを寄せ合っていきそうな雰囲気になり始めた。さて、この回の史実とフィクションとは?!

うつけの振りではなく、うつけそのもののように見えた織田信長

織田家と松平家は長年に渡り戦を繰り広げてきた。そしてそれは信長と帰蝶の婚儀が行われた頃も変わってはいなかった。松平家としては世継ぎである竹千代を人質に取られていることもあり、織田家に対しては良からぬ感情を持っていたことは確かだった。劇中、そんな中描かれたのが信長の刺客によって松平広忠が討たれるという場面だった。

しかし信長によって広忠が討たれたという資料は恐らくは残されていないと思われるため、これは完全にフィクションだと言える。ちなみに広忠の死因は定かではなく、病死、一揆によって討たれた、織田信秀の策略、織田家の刺客と思われる松平家家臣岩松八弥に討たれた、など諸説ある。岩松八弥によって討たれたという伝承を広義で捉えれば、確かに信長が手を下した可能性を否定することはできないのかもしれない。

しかし信長と竹千代のこの頃の関係は良好だったと伝えられることが多い。とすると果たして信長が弟分である竹千代の父親を殺害するだろうか。この頃の信長は確かに「うつけ(バカ)」と呼ばれていたが、しかしそれはあくまでも信長が見せていた仮の姿であり、実際の信長は決してうつけ者ではなかった。であるならば、果たして信長が本当にこのような政治問題に発展する馬鹿げたことをしただろうか。

それに加え、この件に関して父信秀に叱責された信長は目にうっすらと涙を浮かべ、まるで駄々っ子のような言い訳を劇中では見せていた。これではうつけの振りではなく、うつけそのものになってしまう。今後劇中でこの信長がどう変わっていくのかはわからないが、しかし劇中で見た信長はあまりにも史実とかけ離れているように筆者には感じられた。

妻木煕子の名前は実際には煕子ではなかった?!

さて、話は変わって今回は妻木煕子が初登場した。しかしここで伝えておきたいのは、煕子という名前は史実ではないという点だ。煕子という名前は三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』という小説によって広く知られるようになり、明智光秀の正室の実際の名前は記録には残されていないようだ。しかし戦国時代の女性の名前が残されていないことは珍しくはない。家系図などを見ても女性は「女」としか書かれていないことがほとんどで、実際の名前が記録に残されていることの方が珍しい。

ちなみに信長の正室だったとされる帰蝶に関しても、本当に帰蝶という名前だったのかは定かではない。資料に残されている記述だけでも帰蝶、歸蝶、奇蝶、胡蝶とある。胡蝶だけはそのまま「こちょう」と読み、その他の発音は「きちょう」であるため、それっぽい発音の名前ではあったのだとは思う。そして帰蝶は濃姫と呼ばれることもあるわけだが、これは「美濃から来た姫」という意味でそう呼ばれていた。これはお市が「小谷の方」、茶々が「淀殿」と呼ばれていたことと同様となる。

怪物を見た又左衛門とは一体誰のことなのか?!

今回の劇中では怪物を恐れる村人を信長が勇気付けに行き、それによって帰蝶との婚礼をすっぽかしたと描かれていた。もちろんこれもフィクションであるわけだが、その中で「又左衛門が実際に怪物を見た」と信長が話していた。この頃信長と一緒に行動をしていた又左衛門とは、恐らくは前田利家のことだと思われる。

前田利家も若い頃は信長に負けず劣らずの歌舞伎者で、いわゆる問題児だった。大河ドラマでは『利家とまつ』の主人公にもなっている。後々の『麒麟がくる』では織田信長と明智光秀の二軸になっていくと思われるため、もしかしたら今後前田利家が登場してくることもあるかもしれない。織田家には欠かせない魅力溢れる人物であるため、個人的にはまた大河ドラマで前田利家を見てみたい、と思った今回の信長の台詞だった。