「浅井長政」と一致するもの

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麒麟がくる第7回目「帰蝶の願い」では、斎藤利政(のちの道三)の娘である帰蝶の織田家への輿入れが決まるまでのことが描かれた。内容としては帰蝶が織田家へ輿入れしていくこと以外のことは、ほぼフィクションとなるのだろう。

戦国の姫に人権はなかった?!

例えば劇中では帰蝶は明智十兵衛光秀に想いを寄せているように描かれている。この設定ももちろんフィクションの域を出ないわけだが、ドラマを盛り上げるためには非常に重要な設定なのだと思う。そして十兵衛に想いを寄せているが故に、帰蝶は十兵衛に「尾張に行くべきではない」と言ってもらいたがっているが、これは戦国の世では実際にはほとんど起こりえないことだと言える。

戦国時代の女性にはほとんど人権はなかった。例えば3月8日は国際女性デーで、世界中で女性の人権やフェミニズムについて語られるわけだが、戦国時代の日本に於いて女性は政略の駒でしかなかった。そして女性に異論を申し立てる権利などなく、主命で輿入れが決まればそれに従う他選択肢はなかった。明智光秀自身後々は、自らの娘たちを臣下に嫁がせることにより、軍団の結束を高めようとしている。もちろん細川ガラシャも同様に。

恋愛結婚がほとんどなかった戦国時代

珍しいケースとして織田信忠と松姫のような純愛も存在していたわけだが、戦国の武家に於いて恋愛結婚が成し遂げられることはほとんど考えられなかったと言える。織田信長にしても最愛の妹であるお市の方を政略結婚によって浅井長政に嫁がせている。

劇中では斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じているが、実際には頭領が決めたことに有無を言うことは許されないため、利政の判断に帰蝶が異論を唱えることは、史実であるならば非常に考えにくい。だがここはドラマであるため、やはり帰蝶が十兵衛に想いを寄せていた、という設定の方が見ていてドラマにのめり込める。ちなみに戦国時代を描いた歴史小説の中には、実際にはありえない恋愛模様が描かれていることも少なくない。例えば同じ美濃の物語で言えば、竹中半兵衛重治とお市の方が実は密かに想いを寄せ合っていた、という設定で描かれた小説もあった。

武家というよりは土豪に近かった道三時代の明智家

さて、もう一点。美濃の国主である斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じるわけだが、史実的にはこの頃の明智家は武家というよりも、土豪に近い存在だった。そのため劇中のように明智光安と十兵衛が頻繁に稲葉山城に赴くことはなかったと思われる。それどころか美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれたうちの一人、稲葉一鉄と話す機会さえほとんどなかったのではないだろうか。史実的にこの頃の明智家はそれほど微々たる存在だった。

ちなみに美濃三人衆とは稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人のことで、一番力を持っていたのが氏家卜全だったと言われている。そして安藤守就は竹中半兵衛の舅で、稲葉一鉄は「頑固一徹」の言葉の由来になった程の頑固者だったようだ。その頑固さに関しては史実通り描かれていると感じたのは、筆者だけではなかったと思う。

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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。

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NHK大河ドラマ『真田丸』でも頻繁に登場している豊臣秀次は、幼い頃より死ぬまで叔父秀吉に翻弄される人生を送り続けた。こうまでも自分の好きなように生きられなかった戦国武将も珍しいのではないだろうか。武芸や習い事にも真面目で非常に有能な武将だったのだが、最後は殺生関白と呼ばれるようになってしまい、その有能さを活かすことをできずに28歳という若さで秀吉に切腹を命じられてしまった。


豊臣秀次という人物は永禄11年(1568年)に三好吉房と秀吉の姉である智(とも)との間に生まれた。生年は詳細に記録されていないようだが、後年に残された書状などから逆算をすると、永禄11年生まれが最も有力であるようだ。

ちなみに父親である三好吉房という人物は何度も改姓をしており、最初は木下弥助、その後長尾を名乗り、三好吉房、三好昌之と名を変え、秀次が秀吉の養子となった後は羽柴を名乗っている。

豊臣秀次は28年の生涯で三度も養子に出されている。最初は宮部家だった。宮部とは、浅井長政の臣下であった宮部継潤のことだ。姉川の戦いに至る前、羽柴秀吉は浅井家臣下の調略に当たっていた。その調略をスムーズに進めるための駒として、秀吉は甥である秀次を宮部継潤の猶子(相続権を持たない養子)とした。

姉川の戦いは元亀元年(1570年)であるため、秀次はまだ2歳ということになる。ちなみに秀次の幼名などは記録に残されておらず、最初に名前が出てくるのは次に養子に出された先での名前、三好孫七郎信吉としてとなる。

宮部継潤と秀次の養子関係は、遅くとも天正9年(1581年)、秀次が13歳の頃には解消されていたようだ。その理由は宮部継潤が秀吉に厚遇されており、養子関係を結ばずとも両者の関係が良好であったためだ。

その後、四国の長曾我部元親と織田信長との関係が悪化してくると、秀吉は四国攻めのための調略に当たるようになる。その時にしっかりと味方に引き入れておきたかった存在が三好康長だった。三好康長とは三好長慶の叔父に当たる人物で、阿波国の有力者だった。長曾我部を攻めるにあたり、阿波国の三好康長をしっかりと懐柔しておきたかったのである。

その調略の道具として、再び秀次は利用された。秀次がまだ13〜14歳の頃になるわけだが、今度は三好家に養子に出され、三好孫七郎信吉と名乗るようになった。一説では天正7年(1579年)の段階で三好家の養子になっていたともされているが、この頃の三好康長はすでに信長に降っており、織田家と長曾我部家の対立もなかったため、秀次を三好家の養子に出す理由がない。そのため近年の史家の研究では、実際に養子となったのは織田家と長曾我部家の対立が鮮明になった天正9年秋頃という見方が有力とされている。

だが両家の対立も、本能寺の変によって回避されることになり、秀次が三好を名乗った期間も短く終わった。そして天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いの後、16歳になると羽柴孫七郎信吉と名乗り、その直後に羽柴孫七郎秀次と名乗るようになっている。こうしてようやく秀次は羽柴一門に戻ってきたのである。

16歳までの秀次はこのように、秀吉の都合によって他家へ養子に出される日々を過ごしていた。こうして見ていくと秀吉は秀次に対しそれほど愛情は持っていなかったのだろう。確かに戦国の世では養子に出されることは珍しいことではないが、しかし28年の生涯で三度も養子になることは珍しい。三度目はもちろん実子を幼くして亡くした秀吉の養子としてだ。

秀吉が甥っ子に対してそれほど愛情を持っていなかったからこそ、戦略上の都合で簡単に養子に出しては戻すということを繰り返したのだろう。そしてだからこそ秀吉は、豊臣秀次に対しあれほど惨い最期を遂げさせた。文禄4年(1595年)7月15日に秀次を自害させると、8月2日には京の三条河原で秀次の妻子を全員処刑してしまった。

この秀次の死が、豊臣家を秀吉一代で衰退させてしまった最大の要因だとされている。もし秀次を自害させていなければ秀吉死後、幼い秀頼が家督を継ぐこともなく、立派な武将に成長していた秀次が豊臣家を継ぐことにより、徳川家康に政権を奪われる隙も与えずに済んだと考えられている。
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2017年NHK大河ドラマの主人公は井伊直虎と発表されている。直虎を演じるのは柴咲コウさんであり、井伊直虎とは男性の名でありながら、戦国時代を強く生き抜いた女性なのである。大河ドラマの主人公となるわけだが、しかし井伊直虎に関する詳しい資料は非常に少なく、史家も研究に苦心しているようだ。


筆者は最近『女城主・井伊直虎 』という本を拝読したのだが、井伊直虎を知るには一番オススメの一冊だ。時々小説ような文体を混ぜながら、井伊直虎のドキュメントをわかりやすく丁寧に伝えてくれている。だがこの本でさえも冒頭1/3程度は直虎はほとんど登場せず、直虎が直虎になるまでの井伊家の歴史紹介にページが割かれている。つまり井伊直虎とは、それほどまでに歴史的資料が残されていない人物なのだ。

そもそも井伊直虎の女性としての名も文書では残されていないため、許嫁がいた頃の姫としての名さえも謎に包まれたままだ。直虎は亀之丞(後の井伊直親)という婚約者がいたのだが、しかし様々な事情により命を狙われることとなり、亀之丞は身を潜めなくてはならなくなった。直虎は婚約者である亀之丞の帰りをいつまでも待ち続けたが、しかし亀之丞は潜伏先で出会った別の女性と結婚してしまう。

直虎はその失意により出家を決意する。最初は尼となるはずだったが、尼が還俗するという風習は当時はほとんどなかった。つまり一度尼になってしまうと、姫に戻ることはほとんどできない時代だったのだ。だが僧の場合はそうではなく、僧から還俗して戦国大名になった者は多い。井伊家の天敵であった今川家の義元も僧から還俗して大名になったひとりだ。

この頃の井伊家は跡取り不在に悩んでいたため、もしもの場合は直虎が井伊家を継ぐ必要があった。だが尼になってしまうとそれができなくなるため、この時直虎は次郎法師という名前で、尼ではなく僧として出家したのだった。そして結果的には還俗し直虎と名乗り、井伊家を継ぐことになる。

井伊直虎は、井伊直盛と新野左馬助の妹との間に生まれた子ということはわかっている。しかし生まれた日や年は記録として残されておらず、正確な年齢は謎に包まれている。史家の中には直虎と亀之丞の関係を追うことにより、亀之丞よりも2歳ほど上だったのではないかと予想している方もいる。

となると亀之丞は天文4年(1535年)生まれであるため、直虎は天文2年あたりに生まれたことになる。そして亡くなったのは天正10年(1582年)8月26日であることから、享年は49だったのではないかと言われている。だが確かな資料が残っているわけではないため、これも史家の推測の域はまだ出ていない。

直虎が亀之丞よりも2歳上だと仮定すると、亀之丞と婚約したのは天文13年で亀之丞9歳、直虎11歳ということになる。だがこの直後に亀之丞は潜伏生活に入り、18歳になる頃には別の女性と結婚し2人の子供がいた。それを知った直虎は失意により出家を決意するのだが、その時直虎は20歳くらいだったと推測される。

戦国時代、20歳を過ぎて結婚する女性は稀だった。有名どころでは織田信長の妹である市姫が20歳を過ぎて浅井長政に嫁いだくらいで、あとはほとんど例がない。この年齢も出家を決意する一因になったのではないかと史家は語る。

しかしいずれにせよ、婚約直後に命を狙われ姿を消した亀之丞を待ち続けたにも関わらず、その亀之丞は別の女性と結婚し子供を持ってしまった。この現実は直虎にとっては相当心の痛手となったはずだ。亀之丞の無事だけを祈り、7年も8年も待ち続けた結果がそれなのだから、直虎がその後未婚を貫いたことも少し理解できる気がするのである。
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天正10年(1582)年6月2日、本能寺の変はなぜ起こってしまったのか?!誰が黒幕だったかということでも様々な論争が行われているが、黒幕がいたようには感じられない。本能寺の変について書いた他の巻でも書いたことではあるが、これは織田信長の将来構想に対する家臣たちの不安の産物だったと考えられる。


筆者はこれまで多数の本能寺の変に関する書物を拝読してきた。その中でも多くのことを証拠を用いてスッキリさせてくれたのが明智憲三郎氏の『本能寺の変 431年目の真実 』という一冊だった。この中で筆者が最も衝撃的だったのが、信長が手勢僅か100人程度で本能寺に滞在していた理由だった。

さて、信長と家康と言えば兄弟同然の間柄として有名だ。信長は家康のことを弟のように可愛がり、家康も信長のことを兄のように慕っていた。これが通説であるわけだが、事実そうだったと思う。本心はさておき、信長と家康の仲を悪く書いた当時の書物はないようだ。

信長が本能寺に滞在していた通説は、本能寺で家康を接待するためだったと言われている。だが明智憲三郎氏の歴史調査によると、事実はそうではなかったようだ。確かに家康を接待するために信長はわざわざ本能寺に家康を呼び寄せた。しかし事実は決して接待するためではなかったと言う。

この時、明智光秀は手勢を控えて本能寺の近くに控えていた。通説のうちにはノイローゼ気味だった光秀が、突発的に本能寺を襲撃したと書かれたものもあるが、これらの考察はすべて推察でしかなく、何の根拠も示されてはいない。だが明智憲三郎氏の著書は違う。証拠をいくつも並べ立てた上で、信長が家康を本能寺に呼び寄せたのは、家康を暗殺するためだと証明して見せている。他の本能寺の関連本とは異なり、証拠が示されているだけにとにかく説得力があるのだ。

信長は、家康に警戒されないように100人程度の手勢だけで本能寺に滞在していた。つまり油断していたわけではなく、家康を警戒させないための芝居だったと言うわけだ。だが信長の誤算は、光秀を信じ過ぎたことだった。これは金ヶ崎撤退戦と同様だ。金ヶ崎撤退戦でも信長は義弟浅井長政を信じ過ぎ、危うく命を落とすところだった。

一度目は何とか命拾いした。だが二度目は浅井長政よりも遥かに智謀に優れ、経験豊富な明智光秀が相手だった。光秀は影で家康と密約を結んでいたと言う。光秀は、本能寺に入った家康一行を暗殺するために本能寺近くで待機していた。だが光秀は家康と手を結ぶことにより、これを家康暗殺ではなく、信長暗殺に計画を仕立て直してしまったのだ。詳しくはぜひ明智憲三郎氏の著書を読んでもらえたらと思う。

つまり本能寺で本来討たれる相手は徳川家康だったのだ。信長は家康のことを高く買っていた。それだけに自身亡き後、家康が子孫たちの脅威になると考えたようだ。その後家康が豊臣家から天下を奪い取ってしまうように。それを未然に防ぐため、信長は早いうちに家康を屠ってしまおうと考えたらしい。

話をまとめるとこうだ。信長は、家康を暗殺するために本能寺に呼び寄せ、光秀に暗殺を命じていた。だが光秀は家康と手を結んでしまい、家康ではなく主君信長を討ち果たしてしまったというわけだ。

戦国時代に武将たちが最も重視していたのは、いかにして家を守るかということだった。家を守るためなら身内であっても討ち果たすことなど日常茶飯事だった。信長が家康の暗殺を企てたのも織田家を守るためなら、光秀が信長を討ったのも明智家(土岐家)を守るためだった。そして家康が光秀の企てに力を貸したのもやはり、徳川家を守るためには光秀と手を結んだ方が上策だと考えたからだった。

明智憲三郎氏の著書を拝読しながら改めて本能寺の変を考えていくと、これは決して偶発的に起こったクーデターなどではなく、起こるべくして起こった出来事だったということがよくわかるのである。
oda.gif天正10年(1582年)6月2日夜、織田信長は京の本能寺で徳川家康が到着するのを寝所で寛ぎながら待っていた。明智憲三郎氏の研究によれば、この時信長は明智光秀と協力し、本能寺で徳川家康を暗殺するつもりでいたようだ。

そのため家康に勘付かれないように、信長自身身構えないという自作自演が必要だったのだ。だからこそ信長にしては本能寺の警護が異常なまでに手薄だった。そんな状況下で信長は家康の到着を待っていたわけだが、そこに突然夜襲の報せが届く。

森乱丸が「明智謀反」を告げると、信長は「是非に及ばず」と呟いた。この言葉の意味は「そうであろうな」というニュアンスだろうか。謀反人が明智光秀だと聞き、「それ以外考えられないな」というニュアンスで出た言葉だったと思う。

金ヶ崎撤退戦で義弟浅井長政を信じ切ったが故に命を落としそうになった信長だが、ここでまた同じ過ちを繰り返してしまう。明智光秀という腹心を信じすぎたが故に、家康を討つはずの作戦を光秀に乗っ取られ、家康を討つはずだった軍勢により自らを討たせてしまった。

織田信長という人物は時に、意外なほど人を信じ切ってしまうことがある。もし信長がいつも通り決して人を信じ切ることをしていなければ、明智の軍勢とは別働隊として、万が一のため密かにバックアップ要員を立てていたはずだ。だが信長は光秀を信じ切ったことにより、ほとんど丸腰の状態で光秀に大きな隙を与えてしまった。

明智謀反の報せを聞いた信長は口に指を当てると「余は余自ら死を招いたな」と最期の言葉を呟いた。この最期の言葉を伝え聞いたのは、信長に仕えていた黒人小姓の彌介だった。彌介は「すぐに逃げろと二条城の信忠に伝えよ」という言伝を受け、本能寺を脱出し、二条城まで走った。

その一連を伝え聞いたイスパニア(スペイン)商人のアビラ・ヒロンが『日本王国記』に記した。日本国内の文献には一切書かれていないことらしいのだが、イスパニア人が書いた『日本王国記』にだけは信長最期の言葉が記されている。これは本能寺の変後に南蛮寺(教会)に逃げ込んだ彌介、もしくは彌介の言葉を伝え聞いた者から聞き、ヒロンが書き記したことであるようだ。

「余は余自ら死を招いたな」と呟いた信長。もしかしたら「家康の暗殺を企てた天罰か」とも思いながら、自ら招いた死を恨んだのかもしれない。

ちなみに本能寺の焼け跡からは信長の遺体は見つからなかったと言うが、事実は違う。信長は自刃し炎に包まれた。そして多くの味方戦死者たちとともに亡骸は焼かれてしまったのだ。つまり信長の遺体が本能寺で見つからなかった、ということではなく、数多の遺骨が転がる本能寺で信長の遺骨を見分けることはできなかった、というのが事実だ。

以前某も本能寺の信長公の墓を訪ねたことがある。だが京都の街並みにポツンと取り残されたような質素さで、とてもあの織田信長公の墓だとは思えなかった。そしてその目と鼻の先にある息子信忠のいた二条城。現代に残されている本能寺跡は、そこで歴史が動いたとは思えないほどの存在感しか残されてはいなかった。

azai.gif朝倉からの助勢は朝倉景健の8000だった。これは織田への援軍である徳川5000と比較をすると3000も多い。ここだけを見ると、朝倉義景は本気で浅井を救いに行ったようにも見える。しかし事実は違う。朝倉義景は浅井を救うこと以上に、8000の軍勢をできるだけ消耗させずに連れ帰るようにと景健に命じている。

さらに徳川勢は当主である徳川家康が直参しているにも関わらず、朝倉義景は他で戦をしていたわけでもないのに義景自身が出陣してくることはなかった。つまり体裁を保つために8000という軍勢を送ってはいるが、義景自身はまったく浅井を本気で救う気はなかったようだ。織田の朝倉攻めでは浅井に助けられていたにも関わらずだ。もし義景が本気で浅井を救おうとしていれば、間違いなく義景自身が出陣していたはずだ。

元亀元年(1570年)6月28日午前4時頃、姉川の戦いは開戦された。まず戦ったのは徳川勢と朝倉勢だった。数の上では8000の朝倉勢が5000の徳川勢を圧倒しているわけだが、戦いはほとんど互角で膠着状態が続いた。一方織田とぶつかり合う浅井は必死だ。3万5000の織田軍に対し、自軍は僅かに5000の兵のみで打って出ている。だが5000の兵すべてを織田本陣に向けて突撃させた浅井勢の突破力は凄まじい。11段構えを敷いていた織田軍を次々と打ち破っていく。

このままでは信長は討たれてしまうのではないか、そう感じた家康は機転を利かせ、榊原康政に浅井長政勢の横を突かせた。突如として横を攻められ浅井勢は大混乱に陥る。信長の首にたどり着くまでもう少しのところで総崩れとなってしまった。

徳川家康は信長に対して大きな恩を売ることができ、逆に朝倉勢は何の役にも立たないまま足早に越前へと引き返していった。そして小谷城へと撤退する浅井勢を織田勢も追撃したが、長政を討ち取るには至らず、その足で横山城への再攻撃に転戦して行った。

こうして姉川の戦いはあっという間に終わったわけだが、浅井・朝倉の被害は甚大だった。まず長政は最も信頼していた重心である遠藤直経と弟の浅井政之ら、名だたる武将たちが討ち死にを果たした。そして朝倉勢も猛将真柄直隆らが討ち死にを果たす。真柄直隆と言えば長さ221.5センチ、重さ4.5キロという非常に長く重い真柄太刀で戦ったことでも有名な猛将だ。朝倉軍で多くの武功を立てた武将だったが、彼もこの戦いで討たれてしまった。

ちなみに「姉川の戦い」というのは徳川方の呼び名だ。それぞれの家記ではそれぞれが布陣した場所で呼ばれており、織田・浅井方では「野村合戦」、朝倉方では「三田村合戦」と呼ばれている。やはり後々歴史に残るのは滅んだ家の話ではなく、栄えた家の話であるようだ。

さて、姉川の戦いから2ヵ月経った9月、浅井・朝倉連合軍は態勢を整え、合わせて3万の軍勢で信長不在の京に攻め込んだ。織田・徳川、浅井・朝倉にとって姉川の戦いとは、これから始まる壮絶な戦いのまだ序章に過ぎなかったのである。


oda.gif朝倉攻めで義弟浅井長政に裏切られた織田信長は、猛烈な怒りを心の中で沸騰させていた。信長が最も許せないのは味方の裏切りであり、疑わしきは罰するという態度を常々示している。今回裏切られた相手は妹市を嫁がせた浅井長政だけあり、信長の怒りも沸点に達してしまった。

信長はまず、小谷城までの経路の確保に努めた。その任を仰せつかったのが羽柴秀吉であり、調略を担当したのが稲葉山城乗っ取り事件を起こした竹中半兵衛だった。この頃竹中半兵衛は客人として秀吉の陣に加わっており、軍師として活躍していた。半兵衛の活躍で堀秀村の調略に成功し、織田勢は難なく小谷城への経路を確保することができた。

元亀元年(1570年)6月21日、織田軍は浅井父子が立て篭もる小谷城を取り囲み、城下に火を放って回った。信長の作戦は長政を挑発し、野戦に持ち込むことだった。だが長政も愚将ではない。信長の作戦などすでに見通しており、挑発に乗ることはなかった。だが信長も長政が愚将ではないことをよく知っている。だからこそ愛する妹、市を嫁がせたのだ。

信長は第二の作戦に出た。長政にあえて背を見せ、背後から襲わせるという作戦だ。だがもちろんただ襲われるわけではなく、追撃に出てきた浅井勢を返り討ちにするための作戦だった。浅井勢は多少の追撃は見せたものの、しかし本格的に城から討って出ることはなかった。だが籠城戦に持ち込まれ、小谷城を陥すのに何ヵ月も、何年もかけるつもりは信長にはない。

信長は方向転換をし、支城である横山城の攻略へと向かった。小谷城からは6キロ程度しか離れていない、まさに目と鼻の先にある支城であり、信長はここを本拠にし本格的な浅井攻めを行う腹づもりだった。大方の予想通り横山城はあっさりと陥落した。そしてこの頃6月24日、織田軍には5千の兵を率いた徳川家康が加わった。

一方浅井方にも、8千の兵を率いた朝倉景健(かげたか)が援軍に駆けつけた。すると6月26日、織田軍4万+徳川軍5千、浅井長政5千+朝倉景健8千が大依山(おおよりやま)で対峙する形となった。4万5千と1万3千とではあまりに兵力に差があり過ぎる。だがこれを逆手に取ったのは長政だった。6月27日、この大差により一旦兵を引く姿を見せる。もちろんこれは長政の陽動作戦だ。織田勢を誘き寄せ、地の利を活かし戦うつもりだった。しかし信長がそんな戦術に乗ることはなく、織田勢が追撃に出ることはなかった。

6月28日、浅井・朝倉連合軍は結局姉川まで軍勢を進め態勢を整えた。そして川を挟み浅井の正面には織田、朝倉の正面に徳川が向かい合う形で布陣した。いよいよ姉川合戦の火蓋が切られようとしていた。


azai.gif第15代将軍足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、大名たちに対しても上洛を求めた。つまり第15代将軍への挨拶に出向けという指令だ。しかし尾張の田舎大名の指示に従う謂れはないとし、この上洛命を無視する大名も中にはいた。その中でも最も酷かったのは朝倉義景で、理由をつけて上洛を先延ばしにするどころか、再三に渡る上洛命を義景は無視し続けたのだった。

これにより信長と義景の関係はさらに悪化していく。だが義景にしてみれば確かにこれは面白くない上洛だった。何故なら信長が義昭を奉じ上洛する直前まで、義昭は越前朝倉家の庇護下にあったのだ。だが美濃を制した信長が上洛できる旨を書状で伝えてくると、義昭は越前を去り信長の元へと鞍替えしてしまう。

義昭は朝倉から受けた恩に感謝を示したものの、義昭が朝倉の天敵である織田家に鞍替えしてしまったことがまったく面白くない。しかも信長からは上洛の命が何度も届く。尾張の田舎大名から上洛の命を受けることなど、名門朝倉家としては受け入れられるものではなかった。それが例え第15代将軍足利義昭の名代であったとしても。

朝倉と織田の関係が悪化していることに最も頭を悩ませたのは浅井長政だった。浅井の了承なしに朝倉を攻めないという約束をしてはいたが、しかしまさに今一触即発状態に陥っている。信長は今にも朝倉攻めを開始しそうな様相を見せていた。

元亀元年(1570年)2月30日、信長は3万の大軍を率いて上洛すると、4月20日には若狭国の武藤氏を討つために京を後にした。そしてあっという間に武藤氏を征伐すると4月24日、信長はそのまま東に進路をとることを重臣たちに告げた。つまりこれは上洛命に従わない朝倉を征伐することを意味していた。

信長はこの時、果たして長政との約束を忘れてしまっていたのだろうか。それとも覚えてはいたが、上洛命に従わなかったという大義名分があったため、約束など関係ないと踏んだのだろうか。信長は浅井に断ることなく朝倉攻めを開始してしまった。4月25日には天筒山城(てんづつやま)をあっという間に陥落させ、翌26日には金ヶ崎城と疋田城(ひきた)を陥した。

織田軍は破竹の勢いで朝倉義景の居城である一乗谷館に迫ろうとしていた。そして浅井長政は大きな決断を迫られていた。義兄である信長につくべきか、祖父の代に浅井の独立に力を貸してくれた大恩ある朝倉に味方すべきか。長政の決断により浅井家の運命は大きく変わってしまう。浅井家を守るも滅ぼすも、長政のこの決断一つですべてが決まってしまう。

父久政は当然朝倉に味方すべきだと長政を説く。そして重臣たちもまた約束を反故にした信長よりも、大恩ある朝倉に味方すべきだという意見が大勢を占めていた。だが浅井を守るためには朝倉を見捨ててでも織田につくべきだということもまた、長政にはわかっていたのだ。それでも長政の意見を支持する家臣は少なかったようだ。

この時信長はと言えば、まさか義弟が裏切るとは夢にも思っていなかったようだ。信長という人物は時に人を信じ過ぎる嫌いがある。本能寺の変も、明智光秀を信じ過ぎたばかりに相手に隙を見せてしまった。今回もやはりそうで、長政を信じ切ったが故に信長は北近江を背にした状態で朝倉攻めを開始してしまった。

長政は市を愛し、市もまた長政を愛していた。だが浅井家に於いて朝倉に味方することが総意になりつつある中、長政ひとりの意見で織田につくという決断を下すことはできなかった。長政は最後の最後で自らの判断ではなく、周りに押し切られる形で朝倉に味方することを決めてしまう。故に後々優柔不断の将であったと後々語られてしまうのである。

長政は義兄を敵に回すことを市に詫びると、がら空きになっている織田軍の背後を突くため小谷城から出陣していった。そして市は小豆を藁で包み両端を縛ると、それを急ぎ兄信長の元へと送った。これは浅井・朝倉に前後を挟まれ、織田が袋の鼠状態であることを伝える市からのメッセージだった。ただしこのエピソードに関しては、後世書かれた『朝倉家記』で創作された話であるようだ。

信長はそのメッセージをすぐに理解し、義弟浅井長政の裏切りを知り烈火の如く怒り狂うのだった。そして羽柴秀吉に殿を命じると、壮絶な戦いにより金ヶ崎を撤退していく。長政からすれば、もしこの戦いで信長を討つことができなければ、それはすなわち浅井家の滅亡を意味していた。しかし信長は命辛々でありながらも無事に京に辿り着いてしまうのだった。


azai.gif浅井長政はなぜ義兄である織田信長を裏切り、姉川の戦いにより浅井家を滅亡に導いてしまったのだろうか。浅井長政は決して愚将ではなかった。武勇に優れ、文武両道の優れた武将だったと伝えられる。しかし反面、優柔不断だったことも伝えられている。果たして浅井長政は本当に優柔不断で、それにより浅井家を守ることができなかったのだろうか。

浅井賢政が、戦国一の美女と謳われた信長の妹、市を娶ったのは永禄10年(1567年)9月のことだった(時期については諸説あり)。これは浅井家と織田家を結ぶための、いわゆる政略結婚で、この婚儀を機に賢政は信長より一字拝し長政と改名している。ちなみに賢政という名は、かつては主従関係にあった六角義賢の賢をもらった名だった。

浅井家と織田家の関係は同盟当初は非常に友好なものだった。長政自身、信長の天下取りの助力となることを望んでいたともされている。だが唯一の懸念は、かねてより織田家と朝倉家の関係が悪いということだった。浅井家は朝倉家には大恩があった。そのため浅井家としては両者にはあまりいがみ合ってもらいたくはない。

そんな長政の思惑もあり、織田家と同盟を結ぶ際、浅井に断りなく朝倉を攻めないことを信長に約束させている。この約束により、例え織田家と朝倉家が一触即発状態になったとしても、間に浅井が入れば最悪の状態は回避できるはずだった。

浅井家と織田家の同盟については、実は浅井家の総意ではなかったようだ。先見の明があった長政には、今の時代では信長と手を結ぶことが浅井家を守る最良の手だとわかっていた。だが朝倉との仲を懸念する父、浅井久政や何人かの重臣はこの同盟には反対だったようだ。

しかし同盟を結ばなければ、美濃の斎藤が滅んだ後は浅井が織田に攻められることは明白だった。何故なら信長が尾張から上洛するためには、浅井家が支配する北近江を通らなければならない。もし浅井が道を空けなければ、信長は力づくで道を確保するはずだ。長政にはそれがわかっていたからこそ、久政が大反対をしても織田との同盟を推し進めたのだった。

このような点を見ていくと、浅井長政は決して優柔不断ではなかったように感じられる。むしろ積極果敢に未来を切り開こうとする才知溢れる武将のようにも見える。

浅井の協力もあり、信長は永禄11年(1568年)9月16日に足利義昭を奉じ念願の上洛を果たした。だがこの上洛が長政の頭を悩ませることになっていく。