「桶狭間の戦い」と一致するもの

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雨の桶狭間でじっと好機を覗っていた織田軍

永禄3年(1560年)5月19日、東海一の弓取り(武将)と称されていた今川義元が、約2万の軍勢を率いて尾張に侵攻してきた。一説ではこの時、義元は上洛の途上だったとされているが実際はそうではなく、信長が今川領への圧力を増していたことから、早いうちに信長を潰しておこうという義元の考えだったようだ。つまり目的は上洛ではなく、信長の居城である清洲城への侵攻だったのだ。

今川軍が織田領の丸根砦、鷲津砦を攻め始めたのは5月19日未明のことだった。この報告を受けると信長は敦盛を舞い、陣触れし、清洲城を飛び出して行く。向かったのは熱田神宮で、ここで必勝祈願を済ますと戦場へと再び馬を駆けて行った。

19日未明は暴風雨だった。織田軍2,500の寡勢が今川軍2万の大軍を攻めるためには、悪天候に乗じて奇襲をかけるのが常套手段だ。だが信長は雨が上がるまで攻撃は仕掛けなかった。その理由は『松平記』で説明されており、この時今川勢として参戦していた松平元康(後の徳川家康)は、織田軍は突如として鉄砲を打ち込んできたと書き残している。当時の火縄銃は濡れてしまっては撃つことができない。そのため信長は雨が上がるまで攻撃を待ったのだ。

雨が上がると織田軍は、今川義元の本陣目掛けて一気に斬り込んでいった。なぜこの時織田軍が迷わず本陣を攻められたかといえば、義元が漆塗りされた輿に乗って来ており、その目立つ輿が信長に義元の居場所を教えてくれたためだった。ちなみに漆塗りの輿は、室町幕府から許可されないと乗ることができない当時のステータスだった。現代で言えばリムジンを乗り回すようなものだ。

奇襲の常套手段を用いずに奇襲をかけた織田信長

周辺の村から多くの差し入れもあり、正午頃、今川本陣はかなりのリラックスモードだった。丸根砦と鷲津砦もあっという間に陥落し、今川の織田攻めは楽勝ムードだったのだ。しかも暴風雨が止んだことで、兵たちは奇襲に対する緊張も解いてしまう。なぜなら上述した通り、雨に紛れて奇襲をかけるのが当時の常套手段だったからだ。だが雨が止んだ空の下、突如として織田軍が鉄砲を打ち込んできた。織田軍はここには攻めて来ないと踏んでいた今川本陣は慌てふためく者ばかりで、武器や幟などを捨てて敗走する兵も多かった。

義元自身、300人の護衛と共に本陣から逃げ出すのがやっとで、その護衛も最後には50人まで減っていた。そして最初に義元に斬り掛かった一番鑓の武功は服部一忠だった。一忠は義元に膝を斬られ倒れてしまうが、直後に毛利良勝が二番鑓として義元の首を落とした。

毛利良勝が義元を討ち取ったことにより午後4時頃、桶狭間の戦いは幕を閉じる。2,500人の織田軍が討ち取った今川兵は3,000にも上った。信長の勝因はまずは雨が止むのを待って鉄砲を用い、兵をすべて今川本陣に一極集中させたことで、一方義元の敗因は大軍を分散させ、さらに輿により自らの居所を信長に教えてしまったことだった。

この桶狭間での勝利を境に信長は天下へと駆け上り、逆に敗れた今川家は滅亡へのカウントダウンが始まり、この8年後に大名としての今川家は滅亡してしまうことになる。

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。
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惟任光秀(明智光秀)は信長から秀吉救援の命令を受け二万以上の軍勢を揃えたものの、備中には行かず、密かに謀反を企んでいた。この謀反は決してその場の思い付きなどではなく、長年積もりに積もった信長への恨みにより、この時が好機であると決断したものだった。そして五月二十八日(本能寺の変は六月二日)、光秀は愛宕山で連歌会を催した。その時光秀が読んだ発句(会全体の最初の句)がこれだった。

時は今 雨が下しる 五月哉
(ときはいま あめがしたしる さつきかな)

今になって思うと、この句こそが謀反の兆しだった。しかしこの時誰がそんな光秀の企みに気付いただろうか。

天正十年六月一日、夜半から先の二万の軍勢を率いて居城である丹波亀山城を出立し、京都四条西洞院(きょうとしじょうにしのとういん)にある信長の宿所、本能寺に押し寄せた。信長は光秀が謀反を起こすなど夢にも思っておらず、その日も夜がまだ深まる前、信忠(信長の嫡男)といつものように仲良く語り合っていた。

ここ何年かを振り返ってみると、思い残すことがないほど満ち足りた四十代だったことを喜び、これからも末永くその栄光が続くようにと、村井貞勝をはじめ近習(主君のそばに仕えるもの)・小姓(主君のそばで雑用をする少年)に至るまで優しい言葉をかけてくださった。そうしているうちに夜も更けていったため、信忠は暇を乞い自らの宿所である妙覚寺へと帰っていった。

信長も寝所へと入っていくと、美女たちを集めてそばに侍(はべ)らせた。だが現実はそのような夢のようにはいかない。信長がそうしている間にも光秀は、明智秀満、明智勝兵衛(三沢秀次)、明智光忠、明智孫十郎、斎藤利三を大将とした軍勢を四方に分けて本能寺を取り囲んでいた。

夜明け間近、光秀の軍勢は壁を壊し、門や木戸を破り、一気に本能寺へと乱入していった。信長の命運ももはや尽きていたのだろう。近頃は戦もめっきり減っていたため、信長はほとんど護衛をつけてはいなかった。有力武将たちは毛利攻めのために西国に遠征していたり、北条などを警戒するために東国に置かれているのみで、京付近の護衛は手薄になっていた。

信長の三男である織田信孝も四国の長曾我部討伐の遠征で渡海するため、丹羽長秀、蜂谷頼隆を従え泉堺の津に留まっていた。その他の武将たちも毛利攻めの準備をするためそれぞれの国に戻っていたために、信長は手薄な警護のみで在京していたのだった。

たまたま京付近に滞在していた家臣もいたにはいたのだが、思い思いに都を楽しみ、信長の救援に駆け付けられる状態ではなかった。つまり信長の警護に当たっていたのは小姓百人程度でしかなかった。

信長は夜討ちの報せを受けて森蘭丸に問うと、彼は光秀が謀反を起こしたと告げた。恩を仇で返すということに前例がないわけではない。生きている者はいつかは死にゆく。これは道理であって今さら驚くようなことでもない。

信長は急いで弓を取ると縁側に出て向かってくる敵兵五、六人を射抜き、十文字の槍を手に何人かをなぎ倒し、門外まで追い、追い払った時にはいくつかの傷を負い、寺内へと引き返していった。

森蘭丸(森成利、本来は蘭丸ではなく乱丸。信長が男色だったと捏造するため、秀吉が男色を匂わせる「蘭」という漢字を使わせた)、森坊丸、森力丸の兄弟をはじめ、高橋虎松、大塚又一郎、菅屋角蔵(十四歳)、薄田金五郎(すすきだきんごろう)、落合小八郎らの小姓たちは、最期まで信長のそばを離れず付き従った。彼らは真っ先に駆け出し、名乗るや否や一歩も引かずに戦い続けたが、最後は全員が枕を並べて討ち死にをしていった。

彼らに続いたのは中尾源太郎、狩野又九郎、湯浅甚助(桶狭間の戦い活躍)、馬乗勝介(うまのりしょうすけ、厩から飛び出してきて戦ったらしい)、一雲斎針阿弥(いちうんさいしんあみ、奉行的立場の側近)ら七十から八十人だった。彼らも思い思いに戦いしばらくは防戦に努めたものの、二万の軍勢に攻められことごとく討たれていった。

信長は日ごろ寵愛していた美女たちを刺し殺し御殿に火をかけると、切腹をし果てていった。

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『麒麟がくる』第2回「道三の罠」では、冒頭から終始斎藤軍と織田軍の合戦シーンが描かれた。斎藤道三と織田信秀(信長の父)の時代には、このような戦いが幾度もあったわけだが、しかし信秀は生涯最期まで稲葉山城を落とすことができなかった。この稲葉山城は難攻不落の城と呼ばれ、織田信長でさえも桶狭間の戦い以降何度も美濃に侵攻したが、実際に美濃を手中に収めたのは永禄10年(1567年)だと言われている。

斎藤義龍は側女の子だった?!

劇中で稲葉山城はただの砦のように描かれているが、実際にはもう少し城っぽい形状だったとされている。しかしさすがに城を再現することは困難なため、城そのものはほとんど描写せず、城下町や砦のみを描く形に留まっているのだろう。だが今後話が展開していき、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改めた時に、岐阜城の姿も映し出されるのではないだろうか。

さてその劇中、のちの斎藤義龍である斎藤高政が「自分は側女(そばめ)の子だから父は私の話に耳を貸さない」と語っていた。この台詞は後々重要な意味を持ってくるはずだ。ネタバレになりすぎないようにここではあえて書かないが、ぜひこの台詞は覚えておいてもらいたい。きっと後々の放送で大きな意味を持ってくるはずだ。

『孫子』が頻繁に登場する『麒麟がくる』

斎藤利政(のちの斎藤道三)はこの戦の前、明智光秀と叔父の明智光安に孫子について尋ねている。光安は答えられなかったが、光秀はすらすらと答えていた。『孫子』謀攻編に出てくる「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず(危の実際の漢字は、かばねへんに台)」という言葉を引用しているが、これは敵のことも味方のこともしっかり把握し切れていれば、百度戦をしても大敗することはない、という意味になる。

ちなみに劇中で利政は最初は応戦させたがすぐに籠城させ、織田軍に戦う意思がないように思わた。そして織田軍が、斎藤軍に忍ばせていた乱破(らっぱ)の情報からそれを知り兵たちが油断し始めると、利政は猛攻をかけ織田軍を大敗させた。ちなみに劇中では乱破がスパイのように描かれているが、実際の乱破は闇夜に紛れて敵を討つ忍び集団だったと言われている。スパイを表現するのであれば、間者(かんじゃ)や間諜(かんちょう)の方が筆者個人としてはしっくり来る。斎藤利政が仕掛けたこの、能力がない振りをして相手を油断させて討つことを、『孫子』計編で「兵とは詭道(きどう)なり」と言っている。

「兵とは詭道なり」とは、戦とは騙し合いであって、本当は自軍にはその能力があるのに、実際にはないかのように振舞って相手を油断させて敵を撃退するという意味だ。ちなみにこの戦法が最大限活かされたのが、本巻では詳しくは書かないが桶狭間の戦いだった。さて、『孫子』からもう一遍。今回の戦で利政は籠城する意図を誰にも話さなかった。そして籠城を解く時になって初めて諸将にその意図を伝えている。『孫子』ではこれを「能(よ)く士卒の耳目を愚にして」と説いている。これはいわゆる、敵を騙すならまずは味方から、という意味になる。

土岐家と織田家は本当に強い絆で結ばれていたのか?!

最後にもう一点、劇中では美濃守護である土岐家と尾張の織田家には強い絆があると描かれている。この台詞だけだと深いところまで知ることはできないが、実際には決して絆があったわけではない。劇中で伝えられている通り、斎藤利政は美濃守護の土岐頼芸(劇中では「よりのり」と読むが「よりあき」など読み方がいくつか存在している)を武力で追放して美濃を手中に収めたわけだが、尾張の織田信秀は追放された頼芸を美濃守護に戻すという大義名分を得るために、頼芸を利用していただけだった。

仮に信秀が稲葉山城を落とせていたとしても、美濃を土岐家に返還するようなことは決してしなかっただろう。つまり土岐家と織田家の間には絆などなく、織田家が土岐家を利用していただけだった。これは織田信長と足利義昭の関係にもよく似ていて、戦国時代はこのような形で大義名分を作り戦を仕掛けることがよくあった。

以上が『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見た筆者の感想と、解説とまでは言えないが、解説のようなものとなる。ところで、前回放送後の予告編のような部分と、実際の今回の内容がけっこう違っていることに少し驚いたのだが、これは昨年起きた出来事による影響なのだろうか。筆者はてっきり、第2回放送で光秀が妻を娶り、今川義元も登場してくるものだと思ったのだが、そうではないようだ。とは言え、第3回放送も心待ちにしたい。

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織田信長という人物は時に、冷酷非道な人物として語れることがある。それはやはり比叡山を焼き討ちにし女子供問わず殺させたり、浅井父子・朝倉義景の髑髏(しゃれこうべ)に金箔を塗って飾らせたり、自らを裏切った荒木村重の一族を皆殺しにしたりと、このような行動を取ってきたことに影響している。だが本当の信長は、実は愛情深い男だったのだ。


織田信長には、正室である濃姫以上に愛していた女性がいた。吉乃(きつの)という人物だ。吉乃は元々は土田御前(信長の母)の甥である土屋弥平次に嫁いでいたが、弥平次が弘治2年(1556年)に戦死し、19歳という若さで未亡人になってしまった。そして吉乃が未亡人になった頃にその存在を知った信長の恋心はどんどん膨らんで行く。ちなみに吉乃という名前は後世の創作で、実名は定かではない。

さて、信長自身は天文18年(1549年)2月24日に斎藤道三の娘、濃姫と結婚している。濃姫に関しては若くして亡くなった説や、本能寺の変で信長と共に戦い死んだという説など、諸説存在している。若くして亡くなったとしても、それでも信長は濃姫の目を盗んでは吉乃に会いに行く日々を続けていた。時期としては桶狭間の戦いが起こる前の数年間だ。

吉乃は馬借(ばしゃく・馬を使った運送業)をしていた生駒家宗の長女だったのだが、弥平次が死んでからは生駒家に戻っていた。そして信長は当時の居城であった清須城から10キロ離れた生駒家まで馬を駆けて通っていたと言う。若き日の信長は毎日馬で山野を駆け巡り地形を頭に叩き込んでいたのだが、そのついでに生駒家に通う日々だったのかもしれない。

吉乃はその後、信長の側室として迎えられた。そして嫡男信忠、信雄、徳姫を産むのだが、吉乃は元来体が弱かった。それもあり出産をするごとに体力を失っていき、病に伏せるようになってしまう。信長は吉乃のために名医を呼び、金に糸目をつけず吉乃のために薬を手に入れた。そして少し元気な日には吉乃の体を支えながら屋敷内を一緒に歩いたと言う。

時には吉乃を支えながら歩き家臣団がいるところまで連れて行き、吉乃を家臣たちに紹介することもあったようだ。普段は激烈な信長の姿ばかりを見ている家臣たちは、その信長の優しい姿を見てさぞや驚いたのではないだろうか。

信長は吉乃のために輿まで用意すると言った。当時輿と言えば、身分の高い女性だけが乗ることを許された乗り物だった。それを馬借の娘であり、側室という身分でしかなかった女性が乗ることなど、普通ではまず考えられることではない。つまり信長はそれほどまでに吉乃に愛情を示していたということなのだ。

だが吉乃の病状が良くなることはなく、永禄9年(1566年)5月13日、29歳という若さで他界してしまう。この頃の信長は戦に明け暮れ、吉乃に会いに行けることも減っていた。時期は信長が稲葉山城を手に入れる直前だ。

この頃の信長は稲葉山城を攻めるため、稲葉山城にほど近い小牧山城に居城を移していたのだが、吉乃はそこから西4キロほど離れた久昌寺で荼毘に付された。

吉乃を弔った久昌寺の僧侶は「信長公は妻女(吉乃)を哀慕し小牧山城の櫓に登り、(吉乃が眠る)遥か西方を望んで涙を流していた」と書き残している。

織田信長は決して冷徹なだけの人物ではなかった。愛した女性に対しては深い愛情を示し、無償の愛を贈ることのできる男だったのだ。信長にこれほど愛され、吉乃はきっと幸せな最期を迎えたのではないだろうか。そして吉乃が最初に産んだ子、織田信忠もまた愛情深い人物に育っていく。詳しくはこちらの巻を参照していただきたい。

吉乃を亡くした数年後、信長は比叡山を焼き討ちにし、浅井父子・朝倉義景の髑髏を金箔で飾り、荒木村重一族を皆殺しにするわけだが、もしかしたら吉乃を失った深い悲しみを誤魔化すために愛情とは真逆の行動を取り続けたのかもしれない。

なぜそう思うかと言えば、吉乃が存命していた頃の信長は寛大な対応を見せることも多かったからだ。相続争いの際には柴田勝家らを許した。後には稲葉山城を奪取していた竹中半兵衛に信長は再三好条件での開城を要求したのだが、半兵衛はそれを断り続けた。その半兵衛を数年後、半兵衛の思うような形で織田の寄人になることを許している。

だが吉乃を失ったあとはこのような寛大な対応が減り、黒田官兵衛に裏切りの疑惑がかけられると人質松寿丸の処刑をかんたんに命じてしまうような姿も見せている。今となっては信長の心境などわかるはずもないが、しかし吉乃を失った悲しみはとても一言で言い表せるものではなかったのだろう。もしかしたら吉乃の死が信長を魔王に変えてしまったのかもしれない。
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井伊直虎は姫として生まれ、なぜ男として生きなければならなかったのか?それには井伊家と今川家の間の深い因縁が関係している。井伊家は長年に渡り今川家に苦しめられてきたのだが、直虎が家督を継ぐまではそれがずっと続いていた。だが直虎が家督を継ぎ、桶狭間の戦いによって今川家が衰退していくことにより、井伊は徐々に平和を取り戻していった。

直虎の曽祖父井伊直平は永禄6年(1563年)、今川家から離反していた天野景泰・天野元景父子を攻めた戦いで討ち死にを果たしている。そして直虎の祖父井伊直宗は天文11年(1542年)に田原城攻めで討ち死に。さらに父井伊直盛は桶狭間の戦いで討ち死にしている。決して討ち死にが珍しくはなかった戦国時代とは言え、ここまで代々討ち死にが続くことはさすがに珍しいことだった。

そして父井伊直盛は男児に恵まれず、子は女児である直虎ひとりしかいなかった。そのため桶狭間の戦い後、井伊家は家督問題に直面してしまう。そこで井伊宗家は、直虎の祖父直宗の弟である直満の子、亀之丞(のちの井伊直親)を直虎の婿として迎え、井伊宗家を継がせることにした。亀之丞は直虎にとっては幼馴染であり、気心の知れた親戚の子だった。

だがそうなろうとした矢先、井伊直満と直義兄弟が小野和泉守政直(道高)の讒言により謀反の疑いをかけられ、主君今川義元に殺害されてしまった。ちなみに直満と小野政直は犬猿の仲だったようで、直満の子が井伊宗家を継ぐことが政直は許せなかったらしい。小野直政としては自らの息子に井伊宗家を継がせたいという思いだったようだ。

直満が殺害されたことにより、亀之丞にも危機が迫る。謀反の疑いにより殺害された者の息子がそのまま平和に生きることは許されない。もちろんこの疑いは小野政直のでっち上げだったわけだが、それでも亀之丞も小野政直によって命を狙われ、離れた土地の寺で匿われることになる。その後7〜8年の潜伏生活ののち亀之丞は戻り、ようやく養子として井伊宗家を継ぐことになった。

だが亀之丞改め井伊直親は、今度は小野政直の息子、小野道好の讒言により謀反の疑いをかけられ永禄5年(1563年)、今川氏真の命により騙し討ちにされてしまった。井伊宗家は、こうしてまたもや跡取りを失ってしまったのだった。

この時直虎はすでに出家し次郎法師として生きていたのだが、かつての直虎の婚約者であった直親が殺害されてしまったため直虎が井伊家を継ぐしか道が残されておらず、還俗し名を直虎と改め、井伊宗家を継ぐことになった。不幸が続くことによりこうして井伊家24代当主直虎が誕生したのであった。

ちなみに直親の子・直政は直虎が養母となりその後25代当主となるわけだが、井伊直政はご存知の通り徳川四天王としてその後大活躍することになる。

曽祖父・井伊直平(20代当主)/討ち死に
祖父・井伊直宗(21代当主)/討ち死に
父・井伊直盛(22代当主)/桶狭間の戦いで討ち死に
大叔父・井伊直満、直義/謀反の疑いにより騙し討ち
養子・井伊直親(23代当主)/謀反の疑いにより騙し討ち
井伊直虎(24代当主)
井伊直政(25代当主)/佐和山藩初代藩主
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織田家に於いて、前田利家ほど武功により出世した人物はいないのではないだろうか。豊臣家で後に武断派と呼ばれる加藤清正、福島正則、黒田長政らも、前田利家のことをとても尊敬しており、特に加藤清正は利家への尊敬の念が強かったと言う。やはり武断派たちにとって、前田利家という武功によって大出世した人物は憧れの的だったのだろう。


前田利家は尾張荒子城主前田利春の四男として生まれた。四男であれば通常は家督を継ぐことはできず、出世を望むことなどほとんどできない時代だった。だが若き日の信長は家督を継ぐことができない次男以下の有能な人物を集め軍団を形成していた。その1人が前田利家だったというわけだ。

通称又左衛門こと若かりし頃の前田利家は、「槍の又左」と呼ばれたほどの槍の名手だった。6.3メートルもの長槍を悠然と振り回していたらしい。そして時には右目に矢傷を負いながらも槍を振り回し続け、敵将の首を打ち取るという武功も残している。

織田信長は前田利家のことを高く買っていた。だがある日利家は、自らの笄(こうがい・刀の付属品)を盗んだ拾阿弥(じゅあみ)を怒りに任せ惨殺してしまった。拾阿弥は信長の家臣だったため、いくら盗みを働いたとしても惨殺は大きな罪となり、利家は織田家を追放されてしまう。これが永禄2年(1559年)の出来事だった。つまり桶狭間の戦いの前年だ。

この惨殺事件により利家は織田家臣団として桶狭間に参戦することができなくなってしまった。だが利家はそれでも勝手に従軍し、織田軍の一員としていくつもの武功を挙げた。そして桶狭間でのその活躍により、利家は再び織田家に帰参することが許され、信長の赤母衣衆に加えられた。

前田家の家督は当然だが長男の利久が継いでいた。だが利久が病弱で子もいなかったため、永禄12年(1569年)になると信長は、利久に替わり利家に前田家を継ぐようにと命じた。これによって利家は四男だったにも関わらず家督を継ぐことができ、以降は主に北陸方面でその武力を発揮していった。

そして天正9年(1581年)になると信長から能登一国を与えられ、本来は家督さえ継げないはずの四男が国持大名にまで出世してしまった。翌年信長が横死すると、利家は最終的には秀吉に味方をし、豊臣政権では五大老という立場で徳川家康と肩を並べた。

同じ五大老の中でも利家は特に人望の厚い人物だった。そのため何か問題が起こったとしても、利家が説得をすれば事なきを得ることも多かったと言う。豊臣政権内で石田三成を敵対視していた加藤清正、福島正則、黒田長政らは、三成の暗殺を企てていた。だが利家の存在によりそれを思いとどまっていたのだが、しかし利家が亡くなるとその翌日、三成の襲撃を実行してしまう(ただし失敗に終わる)。

織田家に於いては出世頭のひとりであり、豊臣政権に於いては内外ともに調整役としてなくてはならない存在だった。若い頃は傾奇者として鳴らした利家も、晩年はすっかり温厚な宿老となっていた。だがその温厚さの陰には絶対的な強さや信念があり、だからこそ豊臣秀吉も家康への抑えとして利家には全幅の信頼を置くことができたのだ。ちなみに利家と秀吉は若い頃から夫婦同士での付き合いがあり、犬千代、猿だったにも関わらず犬猿の仲ではなく、むしろ強い絆で結ばれていたのだった。

oda.gif桶狭間の戦いで、なぜ織田信長は寡兵で大軍今川義元を討つことができたのか?織田軍、今川軍の軍勢はそれぞれ資料によって違うことが書かれているわけだが、今川軍はだいたい2万前後で、織田軍は多くても5千程度だったようだ。

ただ織田軍の5千に関しては『三河物語』で、今川方の石河六左衛門尉が「織田軍は少なくとも5千に見える」と語ったことが記録されている数字で、他には3千と書いている資料もある。そう考えると実際には3〜4千という実数だったのではないだろうか。

ちなみに『信長公記』では今川軍は4万5千と書かれているが、これは織田方から見た資料であるため、書かれている内容は誇張されているのだろう。やはり2万から2万5千というのが今川軍の現実的な軍勢だったようだ。

ここでは今川軍2万、織田軍4千と仮定してみたい。それでも実に5倍もの差がある。桶狭間の戦いは4千の織田の軍勢が2万の今川軍を打ち破ったことになっているが、実際には4千vs2万という人数で戦ったわけではない。今川軍は軍勢をいくつかの部隊に分けており、その中でも先鋒隊は織田軍の半分程度、つまり2千程度だったようだ。

最初にぶつかり合ったのは織田軍4千vs今川先鋒隊2千だった。4千と2千の戦いであるため、ここでは織田軍があっという間に今川先鋒隊を打ち破っていく。そしてこの4千の織田軍は一気に今川本陣へと突き進んでいった。

今川本陣の軍勢は部隊人数的には織田軍と拮抗していたようだ。つまり織田軍と今川本陣との戦いはほぼ4千と4千のぶつかり合いだった。だが織田軍とこの時の今川本陣とでは戦に対する意欲がまるで異なる。織田軍は今川義元の首だけを狙って突き進み、今川軍はまさか織田軍が攻めてくるとは思っていない。今川本陣はあっという間に総崩れになってしまい、義元も300人程度の旗本(主君を守る精鋭隊)に守られながら本陣を脱出するのがやっとだった。

だがすぐに織田軍に追いつかれてしまう。最初に今川義元に斬りかかった一番槍の武功は服部一忠だったが、しかし一忠は義元に膝を切られ返り討ちにされてしまう。そこにさらに義元めがけて斬りかかったのは毛利良勝(新助)だった。良勝は見事義元の首を落とした。

戦は大将を討ち取ったら勝ちとなり、大将を討ち取られたら負けとなる。織田軍は電光石火の如く桶狭間に現れ、あっという間に義元を討つことにより、あっという間に戦を終わらせてしまった。

繰り返すが桶狭間の戦いは4千vs2万で戦ったわけではない。実際の戦いは士気の高い4千の織田軍と、油断した4千の今川本陣との戦いだった。だがこの状況は偶然作られたわけではない。信長が綿密に情報収集を繰り返し、その情報をもとに実行された戦術だったのだ。

この日桶狭間には嵐のような大雨が降っていたのだが、奇襲をかけるのであれば普通は嵐と共に行う。だが信長は雨が止むのを待ってから今川本陣に斬りかかって行った。その理由は嵐の奇襲は今川方も予測しているはずであり、さらに味方の鉄砲隊を有効に使うためだ。突然現れた織田軍が突然鉄砲を打ち込んできたため、今川本陣はそれだけで散り散りになってしまった。そしてこの状況では今川軍に勝ち目はなかったのである。

織田軍の桶狭間の勝利は、まぐれでもなければ奇跡が起きたわけでもない。信長の知略と戦略あってこその、必然の勝利だったのである。

uesugi.gif永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれ、今川家の家督を氏真が相続すると、今川家の衰退は止め処なく進行していった。その姿を見て武田信玄は今川家を見限り、当時締結していた武田・北条・今川による「甲相駿三国同盟」を永禄11年(1568年)に破棄し、さらに信玄は今川領である駿河を攻め自領としてしまった。

これに怒った今川氏真は「塩止め」を実施する。武田家は塩を駿河湾からの輸入で賄っていたのだが、氏真はこの塩を武田には売らないように塩商人たちに指示を出したのだ。これにより武田家のみならず、甲斐や信濃の民までも苦しめられてしまう。塩がなければ食料を保存することもできず、食べ物はどんどん腐っていってしまう。

この窮状を知り、上杉謙信は川中島で鎬を削っていた武田信玄に日本海産の塩を送ったという逸話が残っている。いわゆる「敵に塩を送る」という故事の語源だ。だがこれはあくまでも逸話であり、事実は少し異なる。

上杉謙信は武勇で名を馳せた武将であるわけだが、商業面でも優れた才覚を発揮していた。謙信は病死するまでに2万7140両という莫大な財産を築き上げていたわけだが、これは決して佐渡金山のお陰ではない。なぜなら佐渡金山が上杉家の物となったのは景勝の代になってからだからだ。では謙信はどのようにして財を成したのか?

謙信は直江津、寺泊、柏崎などの湊で「船道前(ふなどうまえ)」という関税を徴収していた。さらには越後上布(えちごじょうふ/上質な麻糸で織った軽くて薄い織物)を京で売るため、京に家臣を常駐させるなどしていた。このように関税や特産品によって謙信は財を成して行ったわけだが、そんな折に目をつけたのが塩不足で困っている武田信玄だった。

謙信は決して塩を信玄にプレゼントしたわけではない。そうではなく、越後の塩商人を甲斐に送り、通常よりも高い価格で塩を売ったに過ぎない。今では謙信の義の象徴として語り継がれる故事ではあるが、事実は謙信の商魂によるものだったのだ。そもそも謙信は武田信玄のやり方を嫌っていた。今回の塩止めに関しても、信玄が同盟を破棄して今川領駿河に攻め込んだ自業自得が生んだ出来事であり、謙信は決して信玄を救おうとしたわけではない。

謙信と信玄は永遠のライバルのようにも語られているが、謙信は決して信玄のことを良く思ってはいなかったという。逆に信玄は謙信という人物を高く評価していたようだ。ちなみに謙信は、武田勝頼という人物に関しては信玄のことよりも高く評価していた。それは織田信長とやり取りした書状に残されている。

「敵に塩を送る」という故事の語源は、このように決して美談ではなかったというわけだ。事実は謙信が、塩がなく困ったいた信玄の足元を見ただけの話なのである。だが他面に於いて義を貫き通した上杉謙信であるため、後世に書かれた書物によりいつの間にか美談化されていったようだ。