「本能寺の変」と一致するもの

惟任退治記現代語訳-戦国時代記編

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村井貞勝は本能寺の門外すぐの場所に住んでいた。本能寺での騒ぎを耳にして初めは喧嘩かと思い、それを鎮めようと着の身着の儘外に走り出て様子を見てみたがその騒ぎは喧嘩によるものではなく、本能寺が明智光秀の軍勢二万に取り囲まれている騒ぎの音だった。村井貞勝はどうにか本能寺の中に入ろうと色々試みたが適わず、織田信忠の陣所となっていた妙覚寺まで急いで走り事態を信忠に伝えた。

信忠はすぐにでも本能寺に馳せ参じ父と共に戦い、最後は父と共に腹を切ると家臣たちに話したが、明智軍の包囲が厳重であったため、翼でもなければ本能寺の中に入ることはできそうになかった。まさにこれこそ咫尺千里しせきせんりの裏切りとも言えるものだった。
※咫尺千里:すぐ近くなのにものすごく遠くに感じること

信忠は妙覚寺は戦をするには不向きであるため、他に近くで戦えて最後は自刃できる場はないかと家臣に尋ねると、村井貞勝は誠仁親王(正親町天皇の息子)がおいでの二条御所が良いと言い、信忠を二条御所まで案内した。すると誠仁親王は輿に乗って内裏にお移りになり、信忠は五百人の兵と共に御所に入った。

明智軍に遮られたことにより、二条御所に馳せ参じることができた信長の馬廻はわずかに一千騎ほどで、信忠のもとにいたのは弟の織田又十郎信次、村井春長父子三人、団平八景春、菅屋九右衛門父子、福富平左衛門、猪子兵助、下石彦右衛門、野々村三十郎幸久、赤沢七郎右衛門、斎藤新五、津田九郎次郎信治、佐々川兵庫、毛利新助、塙伝三郎、桑名吉蔵、水野九蔵、桜木伝七、伊丹新三、小山田弥太郎、小胯与吉、春日源八ら歴々の侍たちであり、彼らは死を覚悟し明智の軍勢が攻め入るのを待ち構えていた。

明智光秀は、主君織田信長が自害し本能寺に火がかけられたのを見ると安心し、織田家の家督を継いでいた信忠の居場所を尋ねた。すると信忠は二条御所に立て篭もっているとのことだった。それを聞いた光秀は兵を休ませることなく二条御所に急行した。しかし二条御所ではすでに死を覚悟した侍たちが大手門を開き、弓・鉄砲隊に前面に構えさせ、他の兵たちも思い思いに武器を手に取り前後を守っていた。

明智軍の先駆けが馬具も整えないまま攻めかかると、矢と鉄砲が次々と放たれてきた。それにたじろぐ明智軍を見ると、信忠の兵は内から一気に攻め出し、押しては退いて、退いては押すの攻防を数時間続けながら戦った。明智軍は武具をしっかりと締め直し、まだ戦える兵に代わるがわる攻めさせた。一方信忠の兵は素肌に帷子だけをまとった軽装で勇ましく善戦を見せたのだが、明智軍は長太刀や長槍を揃えて攻撃してきたため、こちらで五十人、あちらで百人と次々と討ち倒され、遂には御殿のすぐ近くまで攻め入ってきた。

信忠と信次兄弟は腹巻をまとい、百人ばかりの近習は具足をまとい戦った。そして信忠はその中でも一番に打ち出て、十七〜八人の敵兵を討ち取っていった。また、近習たちも果敢に攻め出す信忠に負けじと、刀で火花を散らしながら戦い、敵を方々に蹴散らしていった。

その際明智孫十郎、松生三右衛門、加成清次ら明智軍屈指の侍たち数百人が一気に斬りかかってきた。信忠はそれを見るとその中に飛び込み、これまで稽古してきた兵法、秘伝の術、英傑一太刀の奥義を繰り出し、次々と敵兵を薙ぎ倒していった。すると孫十郎、三右衛門、清次の首は信忠により次々と刎ね落とされていった。そして近習たちも力の限り太刀を振り続け、御所に攻め込んできた明智軍をことごとく討ち果たしていった。

もう何も思い残すことなく最期の戦を戦い切り、父信長と共に逝こうと二条御所の四方に火を放ち、御所の中心まで退くと十文字に腹を掻き切った。他の精鋭たちも熊や鹿の毛皮で作った敷物を並べ、その上で信忠を追うように腹を切り、皆一斉に炎に包まれていった。信長は四十九歳、信忠は二十六歳であり、悼み惜しむべしと民の誰しもが涙を流した。

ところで、明智光秀と同郷で美濃出身の松野平介一忠は、その夜は京の都の外にいた。そして夜襲の報せを耳にし駆けつけたが間に合わず、到着した時に本能寺での戦はすでに終わっており、信長もすでに自害したと聞くと、諦めて妙顕寺まで走り、追腹を切ろうと覚悟を決めた。その時斉藤利三が一忠を明智側に勧誘したが、一忠は信長に恩義があると言いそれを断り自刃した。一忠は元々は医者であり、文武両道の優秀な男だった。普段から歌道もたしなみ、侍になったのちも学問を怠ることをしなかった。そして以下がその一忠の辞世の句である。

そのきはに 消ゑ残る身の 浮雲も 終には同じ 道の山風

手握活人三尺劔、即今截斷尽乾坤
(手に我の命を助けた約90cmの刀を持ち、今まさに天と地を斬り断つ)

このような句を残して腹を切ると臓腑を引き出しながら朽ち果てた。まさにこの時代では他に類を見ない無双の働き振りだった。人々は一忠ん最期を聞くと涙を流し袂を濡らしたものだった。

明智家

明智光秀はなぜ主君を討たなければならなかったのか?!

明智光秀はあの日なぜ本能寺で謀反を起こしたのだろうか。定説では信長に邪険にされノイローゼ気味だったとか、信長を恨んでいたとか、天下への野望を持っていたとか、様々なことが伝えられている。しかし筆者が支持したいのは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』にて証拠をもって結論づけている、土岐氏再興への思いだ。

明智家は元来「土岐明智」とも称する土岐一族で、光秀が家紋として用いた桔梗の紋も、土岐桔梗紋と呼ばれる土岐氏の家紋だ。土岐氏とは室町時代に美濃を中心にし隆盛を誇った名家で、土岐氏最後の守護職となった頼芸(よりのり)は、斎藤道三の下克上によって美濃から追放され、これにより200年続いた土岐氏による美濃守護は終焉を迎えてしまう。そして大名としての土岐氏も事実上滅んだことになり、土岐一族は美濃から散り散り追われる形になってしまった。そのひとりが明智光秀だったというわけだ。

長曾我部元親が突然信長に対し強硬姿勢に出た理由

本能寺の変の直前、長曾我部元親はそれまでは友好的だった織田信長に対し、所領問題で抗戦的な態度を見せ始めていた。しかし両家が戦えば長曾我部の軍勢など、織田の軍勢の前では子ども同然だ。それは元親自身分かっていたはずだ。それでも元親が信長に敵対したのは、光秀の存在があったからこそだった。光秀であれば何とか信長を説得してくれるはずだと踏んでいたのだ。だがその目論見は外れ、信長は遂に長曾我部征伐軍を四国へと送ってしまう。

ではなぜ元親は光秀の存在を当てにしたのか?長曾我部と織田を結んだのは元々光秀の功績だったわけだが、ここにもやはり土岐氏が絡んでくるのだ。元親の正室は石谷光政の娘で、石谷氏(いしがい)もやはり美濃の土岐一族なのだ。そして元親の正室の兄が石谷頼辰という明智光秀の家臣であり、頼辰は斎藤家から石谷家に婿養子となった人物で、斎藤利三は実の弟に当たる。

石谷頼辰=斎藤利賢の実子であり後に石谷光政の養子になる。長曾我部元親の正妻の義理の兄に当たり、明智家の重臣である斎藤利三の実の兄。

つまり光秀は家臣頼辰と元親の関係から長曾我部家と懇意になり、長曾我部と織田のパイプ役となっていたのだ。そして光秀自身も、長曾我部と連携を図ることは明智家にとって大きなメリットがあると考えていたようだ。近畿を治める明智と四国を治める長曾我部が連携すれば、光秀の織田家での立場をより強固なものにできる。外様大名として肩身の狭い思いをしていた光秀にとり、長曾我部家と連携するメリットは非常に大きかった。

このような関係があったからこそ、元親は光秀の後ろ盾を当てにし、信長に対し強硬姿勢を取ってしまったのだった。だが光秀の懸命な説得も虚しく、信長は長曾我部征伐軍を四国に送り込んでしまった。これに慌てたのは光秀と元親だった。ふたりとも、まさか信長が本気で長曾我部を攻めるとは考えていなかったのだ。

土岐家縁戚の長曾我部滅亡を黙ってみてはいられなかった明智光秀

明智光秀の夢は土岐家の再興だ。そのためには長曾我部家の協力が不可欠となる。元親の正室が土岐氏の娘である以上、元親自身も土岐家の縁戚ということになる。いずれは両家が協力し、土岐家を再興させるつもりだったのだ。だが信長はその長曾我部を滅ぼすつもりで征伐軍を四国に送ってしまった。

もしここで長曾我部が滅亡してしまっては、光秀の土岐家再興の夢も潰えてしまう。そもそも土岐家の縁戚である長曾我部が攻められ、土岐明智である光秀が黙って見ていることなどできようはずもない。光秀は何とかしようと信長に取り入るわけだが、しかし信長はそんな光秀を相手にしようとさえしなかった。

さて、信長が徳川家康の接待役である光秀のやり方が気に入らず、役を解任し足蹴にしたという話はあまりにも有名だ。だがこのエピソードも明智憲三郎氏の歴史捜査によれば実際はそうではなく、光秀がしつこく長曾我部への恩赦を求めたため、信長が激昂し足蹴にしたらしいのだ。つまり光秀はそれほどまでに土岐家再興のためにも長曾我部を守りたかったのだ。

だが何をどうしても信長の長曾我部征伐軍を止めることはできなかった。あとはもう信長を討ってでも止めるしか術はない。光秀がそんな思いに駆られていたタイミングで、信長は本能寺にて家康を持て成すことになった。家康を待つ間、信長は僅かな護衛のみで本能寺で過ごしていた。この一瞬とも言える信長の隙を狙い、光秀は信長を討ったのだった。すべては長曾我部を守り、土岐家を再興させるために。

敵は本能寺にあり!

「敵は本能寺にあり!」、この言葉は光秀が突発的に口にしたものではない。幾重もの手回しをし、状況をしっかり整えた上で言い放った言葉だった。光秀はノイローゼでもうつ病でもなかった。夢実現のため、周到な準備をした上で謀反を企てたのだ。だが残念ながらその準備のいくつかが信長を討った後に上手く機能せず、謀反そのものは成功するも、信長を討った僅か11日後に光秀も山崎の戦いで討たれてしまった。

光秀は決して信長への恨みを晴らすために謀反を起こしたわけでも、ノイローゼで錯乱した状態で本能寺に攻め込んだわけでも、天下を横取りするためにクーデターを起こしたわけでもなかった。純粋に土岐家の再興と盟友である長曾我部元親を守るそのため、泣く泣く主信長を討ったのだった。

もしこの時光秀が信長を討たなければ、光秀は土岐縁戚である長曾我部を見捨てることになっていた。つまり信長を討とうと討つまいと、光秀はどちらにせよ自らの裏切りに苛まれたことになる。土岐縁戚である長曾我部を守るならば信長を討つしかなく、主に従うならば土岐家縁戚である長曾我部の滅亡を黙って見ているしかない。果たして誰がこの光秀の苦しい立場を責めることができよう。

明智光秀という人物は、決して主を討った極悪人ではないのだ。そして自らの野望のために主を討った謀反人でもない。確かに謀反を起こしはしたが、それは決して利己的な目的によるものではなかった。

明智光秀という人物の真実を知るためにも、ぜひ『本能寺の変 431年目の真実 』をお手に取ってもらいたい。一般的な歴史書のような堅苦しく読みにくい文章ではなく、まるで推理小説を読むような面白さとスピード感がある一冊となっている。筆者もこの本との出会いがなければ、この先もずっと織田信長や明智光秀を勘違いし続けていたかもしれない。たくさんの証拠を示しながら本能寺の変を紐解いている良書です。

織田信長の負の定説は秀吉が書かせた捏ち上げ

織田信長という人物は冷酷で、男色でもあったという定説が現在では当たり前のように知られている。だが明智憲三郎氏が書いた『本能寺の変 431年目の真実 』という本を読むと、それは羽柴秀吉が本能寺の変後に作ったイメージに過ぎないことがよくわかる。

明智憲三郎氏は本能寺の変を起こした明智光秀の子孫であると言う。だがこの本は決して先祖を擁護するような感情論的な本ではない。本能寺の変を徹底的に歴史捜査し、推測ではなく、戦国時代に書かれた書状や日記などで証拠を固めながら書かれた良書だ。

当サイト戦国時代記では、本能寺の変にまつわることは主にこの本の情報を基にし、今までの定説に縛られることなく事実のみを発信していきたい。

信長の時代に生きた人々の日記などからは、信長は決して冷酷な人間ではなかったことがよくわかる。例えば本能寺の変であるが、明智光秀の謀反を知り、信長が真っ先に取った行動は女子供など弱者を逃すことだった。

そして信長に男色のイメージがつけられたのは羽柴秀吉が書かせた『惟任退治記』によってだった。惟任日向守とは明智光秀のことで、秀吉自らが逆臣光秀を討ったことを宣伝するために書かせたいわゆるプロパガンダ本だ。森蘭丸は歴史好きであれば誰もが知る名だと思う。だが蘭丸と書かれたのは『惟任退治記』によってで、秀吉は蘭という字には男色のイメージがあるため、森乱丸を森蘭丸とわざと変えて書かせたようだ。

さらには女遊びが好きだったという信長のイメージも、やはり本能寺の変後に秀吉が書かせたことだった。明智憲三郎氏の著書によれば、秀吉が織田政権を奪取しやすくなるよう、信長を負のイメージで固めたのだという。その証拠に関しては上述した本を読んでいただきたいところだが、読めばなるほど納得できる。

信長という人物は確かに激情家ではあったようだ。だが決して冷酷な人間でも男色でもなく、女にだらしのない人物でもなかったのだ。今日までに作られた信長の負のイメージは、すべて秀吉が信長の死後に作り上げたものだったのだ。

織田信長は天下統一を直前にし、最も信頼を寄せていた家臣に裏切られ49歳でこの世を去った。もし本能寺の変が起こっていなければ徳川幕府が開かれることはなく、きっと織田幕府が開かれていたのだろう。だが織田幕府が徳川幕府ほど長くは続かなかったであろうことは、当時信長が考えていたことを思えばよくわかる。それについてはまた別の巻にて書いていきたいと思う。

明智家

本能寺の変が起きた際には鳥羽にいた明智光秀

本能寺の変を舞台にしたテレビドラマや映画を見ると、必ず明智光秀が本能寺の門の外で軍配を振っているようなシーンが描かれている。だがこの光秀の姿は事実ではなかった可能性があり、これに関しては長い間専門家たちも議論していると言う。

本能寺の変が起こったのは1582年で、それから87年後の1669年に書かれた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という古文書があるのだが、実はこの古文書に「光秀は鳥羽に控えたり」という記述があるのだ。この古文書は関屋政春によって書かれたもので、斎藤利宗が井上清左衛門に語った言葉として書かれている。

戦国時代にももちろん天皇の存在はあった。しかし現代ほど国の象徴的な存在ではなく、特に戦国時代は天皇の威信は薄れ、財政に苦しむ天皇も少なくなかった。中には即位の礼を行うための資金がなく、なかなか即位できなかった天皇もいたほどだ。今回の巻では、戦国時代の天皇を一覧にしていこうと思う。ちなみに今上天皇(平成)は第125代目となる。

第104代 後柏原天皇(ごかしわばら)
在位:明応9年10月25日〜大永6年4月7日(1500〜1526年)
父:後土御門天皇(第103代)
子:後奈良天皇(第105代)

明応9年に後土御門天皇(ごつちみかど)が崩御され、37歳で践祚式(せんそしき:天皇の象徴である勾玉や宝剣を継承する儀式)を行なった。だがその後は財政難によってなかなか即位することができず、第11代将軍足利義澄が献金しようとするも管領である細川政元に反対されてしまう。その後足利将軍家や本願寺から献金を受け即位できたのは践祚から21年経った大永元年(1521年)だった。戦国時代はこのように、天皇の威信が最も失われていた時代だったのである。


第105代 後奈良天皇(ごなら)
在位:大永6年4月29日〜弘治3年9月5日(1526〜1557年)
父:後柏原天皇(第104代)
子:正親町天皇(第106代)

後柏原天皇が崩御するとすぐに践祚したが、しかし朝廷の財政難は続いていた。父である後柏原天皇同様、践祚してもなかなか即位することができず、大内家・北条家・今川家からの献金を受け即位できたのは天文5年(1536年)になってからだった。後奈良天皇は即位後に財政危機を乗り切るため、天皇の直筆を諸大名に売った。金銭さえ支払えば、大名たちは天皇に好きな文言を直筆してもらうことができた。このような天皇の行動も、天皇の権威を失墜させる原因となっていた。

だが後奈良天皇も父親同様、民の安寧を誰よりも願う天皇だった。そのため長尾景虎(後の上杉謙信)のように天皇への忠誠を誓う義将の存在もあった。長尾景虎は天文22年(1553年)に上洛し後奈良天皇に拝謁している。


第106代 正親町天皇(おおぎまち)
在位:弘治3年10月27日〜天正14年11月7日(1557〜1586年)
父:後奈良天皇(第105代)

正親町天皇はまさに戦国時代のど真ん中を生きた天皇だった。践祚(せんそ)したのは弘治3年(1557年)だったが、財政難は変わらず毛利元就らの献金により即位できたのは永禄3年(1560年:桶狭間の戦いが起きた年)だった。応仁の乱(応仁元年:1467年)以降朝廷を苦しめ続けた財政難だが、正親町天皇の代になると状況が一変する。織田信長が登場したためだ。信長は永禄11年(1568年)に上洛をすると、その後は第15代将軍足利義昭を援助しながら、朝廷への献金も熱心に行った。

しかし信長の場合は長尾景虎とは違い、天皇に忠誠心を持っていたわけではなかった。戦で都合が悪くなると天皇を担ぎ出し調停に持ち込むため、信長は天皇を味方にするためだけに資金援助を行っていた。長年苦しめられた石山本願寺との休戦も、天皇の勅命あってこそだった。

だが正親町天皇は徐々に信長のやり方に異論を挟むようになり、信長は正親町天皇を疎ましく感じるようになる。そこで信長が考えたことは、信長の養子となっていた第五皇子、誠仁親王(さねひとしんのう)に譲位させることだった。だがこれに関しては信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたため実現することはなかった。だが107代天皇には誠仁親王の子、後陽成天皇が即位している。

ちなみに本能寺の変後、天下を掌握した羽柴秀吉は征夷大将軍になることを目指した。しかし征夷大将軍になるためには第15代将軍足利義昭の養子になる必要がある。これを義昭が拒んだため、秀吉は征夷大将軍になることができず、関白の職に就くことになった。また、羽柴秀吉に豊臣姓を与えたのは正親町天皇だった。


第107代 後陽成天皇(ごようぜい)
在位:天正14年11月7日〜慶長16年3月27日(1586〜1611年)
父:誠仁親王(正親町天皇の第5皇子で織田信長の養子)

豊臣政権と徳川政権にまたがって即位していた天皇で、関ヶ原の戦いの翌年までの在位となる。豊臣政権時代は織田政権時代同様、秀吉が朝庭に対し熱心に献金を行なっていた。そのため正親町天皇の頃に取り戻していた天皇の威信もまだ保たれていた。ちなみに秀吉が文禄の役慶長の役を戦った際、もし勝っていたら後陽成天皇を明国(中国)の皇帝にしようと考えていたようだ。

秀吉が死に天下が家康の手に渡ると、天皇の威信は再び失われていった。徳川家康は天皇を蔑ろにするような政治を行い、後陽成天皇もそれに対し不満を募らせていた。江戸幕府は1603年に徳川家康によって創設されたわけだが、それ以降天皇の威信はどんどん失われていった。後陽成天皇は元和3年(げんな:1617年)に崩御し火葬される。その後天皇はすべて土葬されているため、後陽成天皇は最後の火葬された天皇ということになる。
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麒麟がくる第5回放送「伊平次を探せ」ではついに第十三代将軍足利義輝が登場し、さらには国友衆という鉄鋼鍛冶集団も登場してきた。明智光秀は斎藤利政(後の道三)に鉄砲についてもっと調べるように命じられ、鉄砲鍛冶の伊平次という男を探すという内容だった。

鉄砲が最初に渡って来たのは実は種子島ではなかった?!

さて、明智光秀と本能寺はまさに因縁とも言える関係であるわけだが、その明智光秀のドラマの5回目で、その本能寺が早速画面に登場してきた。本能寺とは京にある日蓮宗の寺であり、実は今も昔も商魂たくましい寺院として知られている。現代の本能寺は隣接するホテルを経営しているのだが、戦国時代における本能寺は鉄砲の仲卸業者のようなことをしていたようだ。

火縄銃は天文十二年(1543年)に初めて日本の種子島に渡って来たとされているが、どうやらこれは違うようだ。近年の史家の研究結果によると、どうやら天文十二年以前に朝鮮より日本の複数の湊町に伝えられていたという。ちなみに第4回放送では天文十七年(1548年)頃が描かれているため、劇中では少なくとも鉄砲が伝来して5年以上は経過していることになる。

今も昔も商魂たくましい本能寺

ただ、本格的に鉄砲の複製品が作られ始めたのは種子島であるようで、種子島で作られた鉄砲が本能寺に持ち込まれて売買されていた。本能寺は宗教という隠れ蓑を用い、鉄砲の仲介役を務めていたようだ。現代ではホテル業を営み、戦国の世では鉄砲の仲介業者役を務めていたというわけだ。そのため宗教家集団というよりも、戦国時代では商人としての色が濃かったとも言われている。

ちなみにこの鉄砲の暴発などによって本能寺はよく炎上していたのでは、と考えられることもあるが、それはもちろん間違いだ。本能寺が天正十年(1582年)の前に焼失したのは天文五年(1536年)であり、まだ鉄砲は伝来していないものと思われる。

そして仲介業者としての役割は、本能寺の変が起きた天正十年の時点ではもう終えていたのではないだろうか。その理由は本能寺の変が起こった際、信長は弓や十文字槍で戦ったという記録は残っているのだが、信長側の誰かが鉄砲で応戦したという記録は残っていない。もしなおも種子島と本能寺のパイプが繋がっていたのなら、信長も本能寺に保管されていた鉄砲で応戦していたはずだ。だがこの時点ではすでに近江の国友村など、いくつかの拠点で鉄砲が量産されるようになっていた。そのような背景からも、信長が力を付けたこの頃には本能寺はもう仲介業者としての役割は終えていたと考えられる。

明智光秀と盟友細川藤孝の出会い

さて、今回は細川藤孝も登場してきた。細川藤孝と言えば、今後明智光秀と盟友となっていく存在であり、光秀にとっては最重要人物のひとりとも言える。その藤孝が血気盛んな人物として描かれているが、果たしてこれはどうなのだろうか。明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)を娶った細川藤孝の息子忠興は、血気盛んで短気な人物として知られている。忠興は問題を起こしたとされる家臣の首を斬り、それをガラシャの膝の上に置いたり、ガラシャの世話をしていた女衆の耳を斬ったりしたようだが、その度に藤孝がガラシャに謝り、忠興の愚行を許すように諭していたと記録されている。

それらの愚行は『細川家記』に記されているため、多少誇張されていたとしても、まったくの出鱈目が書かれているわけではないと思われる。細川家からすれば、忠興の愚行は家の恥でしかない。しかしそれでも家記に載せたということは、もしかしたら忠興が神経質になるほどガラシャを必死に守ろうとした、ということを伝えたかったのかもしれない。

そのような史実を踏まえると、細川藤孝は決して息子忠興のような武断派ではなかったと思われる。茶の湯や連歌にも造詣が深かったと伝えられており、戦国時代随一の文化人としても知られている。その人物を武断派として描いたのは、これは完全なるフィクションだと言えるのではないだろうか。ただ、まだ一度だけの登場でしかないため、今後細川藤孝がどのように描かれていくのかは今後の楽しみということになるのだろう。ということで次回の放送では、京の町が再び荒れ模様となるらしい。ただし劇中が天文十七年辺りだとするならば、足利義輝が討たれるのはまだ15年以上先となる。そのため将軍義輝の活躍はもう少し楽しめそうだ。

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斎藤道三と斎藤義龍父子の仲は、最終的には長良川で戦火を交えるほど険悪なものへとなっていく。この長良川での戦い以降、明智家は斎藤道三に味方していたものと思われている。だが反対に、明智家が土岐家を追放に追いやった道三に味方するはずはない、という見方をしている史家もいる。だが正確な資料が残されていない上では、明智家が実際にはどちらの味方をしたのかを断言することはできない。

明智家は本当は道三と義龍のどちらに味方したのか?!

『明智軍記』を参考にするならば、どうやら明智光安(光秀の叔父)が城主を務める明智城は道三側に付いていたようだ。ただし『明智軍記』は本能寺の変から100年以上経ったのちに書かれたものであるため、情報が正確ではない記述も多々ある。そのためこれを信頼し得る情報だとは言い切れないわけだが、しかし今回は『明智軍記』の記述も参考にしていきたい。

ここで明智家が斎藤道三に味方するはずがないという論理も合わせて見ておくと、斎藤道三は光秀が再興を夢見た土岐家を美濃から追いやった人物だった。その人物に味方するなど考えられない、という論理であるわけだが、筆者は個人的にはそうは思わない。戦国時代は力を持つ者こそが正義だった。つまり力がなければ、力を持つものに従うしかない。

さらに言えば斎藤道三の正室である小見の方は、光秀の叔母だったとされている。となれば、血縁者の側に味方するのは自然であったとも言える。光秀は家を何よりも大切に考えていた人物だ。それならば明智家の血縁者である小見の方を正室に迎えている道三に味方する方が自然に見え、『明智軍記』に書かれていることにも違和感を覚えることはない。

幼少期から光秀に一目置いていた斎藤道三

長良川の戦いが起こったこの頃、明智光秀はまだまだ土岐家の再興を現実的に考えられるような状況ではなかった。明智家は武家とは言え最下層とも言える家柄で、武家というよりは土豪に近い水準にまで成り下がっていた。このような状況では土岐家のことまで心配することなどとてもできなかったはずだ。

そもそも斎藤道三は明智光秀には幼少の頃から一目置いており、彦太郎(光秀の幼名)に対し「万人の将となる人相がある」と言ったとも記録されている。このような関係性があったことからも、道三と義龍が戦った際、明智家が道三に味方したと考えることに不自然さはないようにも思える。

斎藤義龍の父親は斎藤道三と土岐頼芸のどっちだったのか?!

斎藤義龍は長良川で父道三を討った後に明智城を攻め落とした。この戦いで明智光安が討ち死にし、光秀ら明智一族は越前へと亡命するしかなくなってしまった。ではなぜその亡命先が越前だったのか?明智光秀の父明智玄播頭(げんばのかみ)こと明智光隆の妻は、若狭の武田義統の妹だった。そしてこの武田家は越前朝倉家に従属していた。恐らくはこの武田家を通じ、当時は非常に裕福だった越前に仕官を求めたのではないだろうか。

ちなみに斎藤義龍には土岐頼芸の子であったという説もあるが、斎藤道三の子であったことが記された書状なども残されており、その信憑性は低いようだ。仮に義龍が本当に頼芸の子だったならば、光秀が義龍に味方することが自然にも思えるが、しかしそうしなかったということは、やはり義龍は道三の子だったのではないだろうか。

義龍は父道三を討った後、中国で同じようにやむなく父親を殺害した人物から名を取り范可(はんか)と名乗るようになった。また、父親殺しの汚名を避けるためか道三を討つ際は一色を名乗っていたようだ。これらのことを踏まえるならば、もし義龍が本当に頼芸の子で、道三の子ではないのだとすれば、范可という名も一色という名も名乗る必要はなかったはずだ。

道三は小見の方を娶った後に明智城を攻めたのか!?

このように総合的に考えていくと、斎藤義龍の父親はやはり斎藤道三で、義龍は弟たちに寵愛を示していた道三によって廃嫡される可能性があったために、土岐氏を美濃から追放した極悪人を討伐するという名目によって長良川の戦いへと発展していったと考えられる。そしてかつての主君に忠誠を誓っていた安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全の美濃三人衆は道三に対し良い印象を持ってはおらず、長良川ではこの美濃最大の有力者たち3人が義龍側に付くことにより、道三はあっけない最期を迎えることになってしまう。

そして光秀の叔母である小見の方が道三の正室だった明智家としては、その小見の方を見捨てることなどできず、感情はどうあれ道三に味方するしかなかったのではないだろうか。ちなみに小見の方は天文元年(1532年)に道三(当時の名は長井規秀)に嫁いでいる。だが『細川家記』によれば、光秀の父である玄播頭は土岐家が道三に敗れた戦で道三に明智城を攻められ討ち死にしているらしいのだが、信憑性に関しては確かとは言えないらしい。

確かに明智家から小見の方を娶り、その後で明智城を攻め、なお小見の方を正室にし続けたとなると、やや辻褄が合わなくなる。となると光秀の父はもしかしたら、土岐家と斎藤道三による抗争とは無関係の戦で戦死したのではないだろうか。だとすれば辻褄も合う。

明智城を守る明智光安の苦悩

こうして考えていくと、やはり小見の方が道三に輿入れした天文元年以降、明智家は道三側とは一貫して良好な関係を維持していたのではないだろうか。そう考えなければ、圧倒的な兵力差がある中で明智家が義龍側ではなく、あえて道三側に味方した理由も、義龍が明智家を明智城から追いやった理由も説明がつかなくなる。

確かに斎藤道三はかつての主君である土岐家を美濃から追放した人物だ。しかし世は戦乱だったとしても、明智城を守る光秀の叔父光安としては、妹である小見の方を見捨てることなどできなかったのだろう。そう考えるともしかしたら長良川の戦い以降、明智家は明らかに道三に味方したわけではなく、立場を鮮明にせず自らに味方しなかったために業を煮やした義龍によって明智城を攻められたのかもしれない。だが今となってはその真実を知るすべはない。

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惟任光秀(明智光秀)は信長から秀吉救援の命令を受け二万以上の軍勢を揃えたものの、備中には行かず、密かに謀反を企んでいた。この謀反は決してその場の思い付きなどではなく、長年積もりに積もった信長への恨みにより、この時が好機であると決断したものだった。そして五月二十八日(本能寺の変は六月二日)、光秀は愛宕山で連歌会を催した。その時光秀が読んだ発句(会全体の最初の句)がこれだった。

時は今 雨が下しる 五月哉
(ときはいま あめがしたしる さつきかな)

今になって思うと、この句こそが謀反の兆しだった。しかしこの時誰がそんな光秀の企みに気付いただろうか。

天正十年六月一日、夜半から先の二万の軍勢を率いて居城である丹波亀山城を出立し、京都四条西洞院(きょうとしじょうにしのとういん)にある信長の宿所、本能寺に押し寄せた。信長は光秀が謀反を起こすなど夢にも思っておらず、その日も夜がまだ深まる前、信忠(信長の嫡男)といつものように仲良く語り合っていた。

ここ何年かを振り返ってみると、思い残すことがないほど満ち足りた四十代だったことを喜び、これからも末永くその栄光が続くようにと、村井貞勝をはじめ近習(主君のそばに仕えるもの)・小姓(主君のそばで雑用をする少年)に至るまで優しい言葉をかけてくださった。そうしているうちに夜も更けていったため、信忠は暇を乞い自らの宿所である妙覚寺へと帰っていった。

信長も寝所へと入っていくと、美女たちを集めてそばに侍(はべ)らせた。だが現実はそのような夢のようにはいかない。信長がそうしている間にも光秀は、明智秀満、明智勝兵衛(三沢秀次)、明智光忠、明智孫十郎、斎藤利三を大将とした軍勢を四方に分けて本能寺を取り囲んでいた。

夜明け間近、光秀の軍勢は壁を壊し、門や木戸を破り、一気に本能寺へと乱入していった。信長の命運ももはや尽きていたのだろう。近頃は戦もめっきり減っていたため、信長はほとんど護衛をつけてはいなかった。有力武将たちは毛利攻めのために西国に遠征していたり、北条などを警戒するために東国に置かれているのみで、京付近の護衛は手薄になっていた。

信長の三男である織田信孝も四国の長曾我部討伐の遠征で渡海するため、丹羽長秀、蜂谷頼隆を従え泉堺の津に留まっていた。その他の武将たちも毛利攻めの準備をするためそれぞれの国に戻っていたために、信長は手薄な警護のみで在京していたのだった。

たまたま京付近に滞在していた家臣もいたにはいたのだが、思い思いに都を楽しみ、信長の救援に駆け付けられる状態ではなかった。つまり信長の警護に当たっていたのは小姓百人程度でしかなかった。

信長は夜討ちの報せを受けて森蘭丸に問うと、彼は光秀が謀反を起こしたと告げた。恩を仇で返すということに前例がないわけではない。生きている者はいつかは死にゆく。これは道理であって今さら驚くようなことでもない。

信長は急いで弓を取ると縁側に出て向かってくる敵兵五、六人を射抜き、十文字の槍を手に何人かをなぎ倒し、門外まで追い、追い払った時にはいくつかの傷を負い、寺内へと引き返していった。

森蘭丸(森成利、本来は蘭丸ではなく乱丸。信長が男色だったと捏造するため、秀吉が男色を匂わせる「蘭」という漢字を使わせた)、森坊丸、森力丸の兄弟をはじめ、高橋虎松、大塚又一郎、菅屋角蔵(十四歳)、薄田金五郎(すすきだきんごろう)、落合小八郎らの小姓たちは、最期まで信長のそばを離れず付き従った。彼らは真っ先に駆け出し、名乗るや否や一歩も引かずに戦い続けたが、最後は全員が枕を並べて討ち死にをしていった。

彼らに続いたのは中尾源太郎、狩野又九郎、湯浅甚助(桶狭間の戦い活躍)、馬乗勝介(うまのりしょうすけ、厩から飛び出してきて戦ったらしい)、一雲斎針阿弥(いちうんさいしんあみ、奉行的立場の側近)ら七十から八十人だった。彼らも思い思いに戦いしばらくは防戦に努めたものの、二万の軍勢に攻められことごとく討たれていった。

信長は日ごろ寵愛していた美女たちを刺し殺し御殿に火をかけると、切腹をし果てていった。

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令和の時代となった今なお、明智光秀という人物を天下の裏切り者と呼ぶ史家は多い。しかし筆者は20年ほど前からそのようには感じていなかった。当時20歳前後だった筆者は、その頃多くの明智光秀に関する本を読んでいたのだが、裏切り者というレッテルの陰に隠れながらも、いくつかの明智光秀の人柄を表す言い伝えを目にした。それを踏まえて明智光秀という人物を考え、裏切り者というレッテルの方にこそ違和感を感じたことを今でもよく覚えている。

明智光秀を逆賊にしたい史家たちの言い分

明智光秀を逆賊に仕立てたい史家の言い分としては、美濃から亡命した明智家を救ってくれた朝倉家を裏切り足利家に仕え、そうかと思えば突然織田家に鞍替えしたという話を持ち出しながら、簡単に人を裏切る人物であると断罪していることが多い。だが本当にそうだろうか。この明智光秀の足跡は、今で言うところの「ヘッドハンティングと転職」とはどう違うのだろうか。筆者には同じものにしか見えない。

転職をした人間は裏切り者であるという考え方は、非常に単一的であり思い込み以外の何物でもないと思う。これが仮に、朝倉家を攻めるために足利家に寝返ったり、足利家を攻めるために織田家に寝返ったというのなら話は別だ。しかし光秀が足利将軍家に仕えていた際に、将軍家と朝倉家が敵対していた事実はない。また、足利家から織田家へと転籍した際も、まだ足利義昭と織田信長の間に目立った大きな火種はなかった。

このように冷静に見ていけば、これは光秀が主家を次々と裏切ったというよりは、功績によりヘッドハンティングされ、立身出世していったと見た方が自然ではないだろうか。もちろん後々、足利家・朝倉家と織田家の間には修復しがたい溝が生じていくわけだが、しかし光秀が転籍した時点ではそうではなかった。だからこその転籍を裏切りと表現することに筆者は大きな違和感を覚えてしまう。

浮かび上がるのは領民に愛された光秀の姿

明智光秀にはその良き人柄を表す言い伝えが多く残っている。まず、とにかく妻熙子を生涯大切にしたと伝えられている。もし自らの欲のためだけに主家を裏切り次々と転籍をしていったのであれば、例えば斎藤道三や松永久秀のように金や権力に憑りつかれていたような人物だったはずだ。だが光秀は生涯を妻を大切にし、さらには領民のことも深く愛した。

実際光秀が治めていた地方には光秀の善政に関する言い伝えが多く残されているようで、本能寺の変後に敗死した光秀を祀る石碑なども多数残されている。もし光秀が本当にただの裏切り者だっとすれば、石碑がそのように多く作られただろうか?いや、そんなことはない。光秀は領民に対し善政を行っていたからこそ彼らに愛され、逆賊として敗死した後でさえこのように愛されたのだ。もし光秀がただの欲深い城持ちというだけだったなら、領民たちも誰も敗死した光秀のためになけなしの銭をはたいて供養塔など祀らなかったはずだ。
(明智光秀に関するガイドブックなどをお読みいただければ、多数ある光秀の首塚の場所を調べることができます)

明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

戦国の世という時代背景を鑑みても、若き日の明智光秀は苦労人だったと言える。美濃の内乱に巻き込まれて国を追われ、かなりの年齢になるまでは武家でありながらも極貧の生活を送っていたようで、叔父明智光安や妻の実家である妻木家からの経済的援助なくして家族を養うことはできなかった。妻熙子には多大な苦労をかけ、それを負い目にも感じていただろう。その光秀が妻のため家族のためにととにかく必死に働き、少しでも多くの禄(給料)を得るために転職を重ねていったことは、逆に美談としては見えないだろうか。

(一次資料にも残されているように)時に体を壊しながらも死に物狂いで働いた光秀はどんどん出世していき、時の権力者である織田信長軍団の実質ナンバー2にまで伸し上がった。ようやく家族に楽をさせてあげられるようにもなり、光秀の思いも一入だったのではないだろうか。

果たしてそのような人物であった明智光秀が、自らの野望のためだけに織田信長を討つという盲動に出るだろうか。果たして本能寺の変という出来事を、明智光秀の裏切りという言葉だけで片付けてしまっていいのだろうか。少なくとも筆者はそうは思わない。領民にも慕われ、そして誰よりも家族を愛した光秀なのだ。自らの野望のために本能寺の変を起こしたのではないはずだ。やはり一説にあるように、光秀は何かを守るために本能寺の変を起こしたのだろう。

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2020年1月19日、紆余曲折を経ながらいよいよ始まる『麒麟がくる』。これは言うまでもなく明智光秀の生涯を追った大河ドラマであり、戦国時代のど真ん中を描いた作品となる。では麒麟とは一体何物なのか?劇中、若き明智十兵衛光秀は太平の世になれば麒麟が現れると信じている。麒麟とは中国の伝説上の生き物のこと。

麒麟とは仁のある政治が行われると現れる瑞獣

中国語で「チーリン」と発音する麒麟(きりん)は、体調は5メートルほどで、龍の顔、鹿のような体と角、牛の尾、馬の蹄を持ち、体は黄色く鱗を持つと言われている。中国の古書『礼記(らいき)』には、王が仁のある政治を行うと現れる瑞獣(ずいじゅう)だとされている。

日本や朝鮮半島ではその姿が似ているということもあり、動物園にいる首の長いキリンが、麒麟同様「キリン」という名で呼ばれている。キリンに似た生き物が麒麟となったのではなく、麒麟に似た動物がキリンと呼ばれるようになった。大昔には麒麟にその姿が似ていたことから、キリンが権力者の間で寵愛を受けたということもあったと言う。

人物像が明確に遺されていない明智光秀という人

劇中の十兵衛は辛い境遇に遭いながらも、夢と希望を失わず、麒麟の出現を待ちわびる実直な人物として描かれていくようだ。史実においては明智光秀という人物は、まだ多くの謎に包まれている。明智光秀に関する多くの悪評は、光秀の死後、豊臣秀吉によって捏造されたものであるケースが多い。

『惟任退治記』という、秀吉が光秀を討った際の出来事が書かれたこの本も、秀吉の命によって書かれたものであり、決して真実が語られているわけではない。つまりは小説であり、ノンフィクションではない。信長、秀吉、家康のように、その人柄まで克明に書き遺されている人物とは異なり、明智光秀という人物像を史実通りに描くことはとても難しい。そのため劇中では、新しい光秀像が生み出されるのではないか、という期待も膨らんでくる。

大河ドラマは決してノンフィクションではない

しかし大河ドラマはあくまでもドラマであり、やはりノンフィクションではない。明智憲三郎氏のように、史実のみを追い求める方にとってはきっと不満も募る内容になるのだと思う。もちろん筆者も明智憲三郎氏同様史実を知りたい。しかし今年の大河ドラマに関しては史実のみに捕らわれることなく、ドラマをドラマとして楽しみたいと思う。

とはいえ、楽しみながらも戦国時代記ではドラマと史実の相違点にも注目していきたい。果たして劇中、明智光秀は麒麟を目にすることができるのか、本能寺の変はどのように描かれるのか、そしてどの登場人物が実在し、どの登場人物が架空の人物なのかについてもご紹介していければと思っています。ということで、初回放送が今から待ち遠しい限りです。本当に楽しみですね!