「徳川四天王」と一致するもの

真田信之は父弟の赦免を求めて徳川重臣に頭を下げ続けた

真田家に積年の恨みを持ち続けた徳川家康

関ヶ原の戦いで徳川率いる東軍を相手に戦った真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いそのものには参加していなかった。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。

関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は天文13年(1585年)の第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身は昔年の恨みから真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。だが徳川家の家臣たちの多くは関ヶ原の戦い後、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることはなかった。

父弟は救えなかったが13万石の藩主となった真田信之

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかった。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす=殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていた。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信は初めから真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である自分も徳川家家臣とは言え切腹するのが筋、というのが信之の信念だった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまう。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかは今となっては知る由もない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな最低限の葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまったわけだが、しかし真田信之の奔走もあり、真田の家が取り潰される事態だけは避けることができた。そして真田信之はその後9万5000石の上田藩の祖となった。さらにはその後松代藩に転封し、13万石を得ることになった。

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関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。


関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を俗に徳川四天王と呼ぶ。だがこの4人年齢が実にバラバラなのである。その中でも井伊直政は最も若く、酒井忠次とは親子以上の歳の差があった。それでも井伊直政が徳川四天王に名を連ねたということは、物凄い速度で出世していったということになる。


酒井忠次・・・大永7年(1527年)生まれ
本多忠勝・・・天文17年(1548年)生まれ
榊原康政・・・天文17年生まれ
井伊直政・・・永禄4年(1561年)生まれ

酒井忠次と井伊直政は34歳差、本多忠勝・榊原康政と井伊直政は13歳となる。ちなみに直政を除く3人はみな三河出身で、つまりは家康と同郷となる。まだ新興大名だった頃から家康を支えていた3人だった。一方直政は遠江出身で、家康に出仕したのは天正3年(1575年)、直政が15歳の時からだった。この時はわずかに300石の知行だった。

それから7年後、本能寺の変が起こる天正10年(1582年)には4万石にまで加増されている。そして関ヶ原の戦いでの功績として石田三成の居城であった佐和山城を与えられた時には、18万石の有力大名となっていた。まさにトントン拍子で出世して行ったと言える。

この出世に対し一説では徳川家康が男色家であり、直政を寵愛していたためだと言われている。だがこれは真実とは言えない。多くの史家たちが言うように、家康に男色の気はなかったのである。これは織田信長が森蘭丸を寵愛したことになぞらえられていると考えられるが、実は織田信長も男色家として森蘭丸を寵愛していたわけではなかった。

信長が蘭丸を寵愛したというのは、信長の死後に秀吉が吹聴した作り話だった。森蘭丸という漢字も秀吉が勝手に変えてしまったものであり、実際の漢字は森乱丸だった。 当時、蘭という言葉には女性らしい男子という意味合いがあったらしく、信長を男色家としてしまうために、秀吉はあえて蘭丸と書かせていたようだ。秀吉の場合、男色家の信長より、自分の方が天下人に相応しいとアピールするために、このような捏ち上げをしている。

話を井伊直政に戻すと、直政の父親は直親であり、直親の祖父は井伊直平だ。この井伊直平という人物は、実は築山殿の母方の祖父なのだ。築山殿とはもちろん、徳川家康の正室だ。築山殿は直政が家康に仕えた4年後に殺されてしまうのだが、正室の血縁者ということで家康も直政を重用するようになった。

そしてもう一つ家康が直政を重用した理由がある。直政の父、井伊直親は謀反の嫌疑をかけられ謀殺されてしまったわけだが、その原因は直親と徳川家康が遠江について話し合ったことにあった。もちろん謀反の相談ではなかったわけだが、それを謀反だと讒言され、直親は今川氏真の命により殺害されてしまう。

このような経緯もあり、家康は直親の子である直政を重用するようになった。井伊直虎の死後、まだ万千代と名乗っていた22歳の直政に「井伊を名乗るようにと」命じたのも家康だった。

井伊直政の驚異的なスピード出世の陰には直政自身の高い能力に加え、築山殿の血縁者、直親の死に家康が関係していた、という要因があったようだ。そして最終的には近江佐和山藩初代藩主にまで昇り詰め、慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で追った怪我が原因で41歳という若さで亡くなっている。

幼き頃から今川から命を狙われ、14歳でようやく井伊谷に戻ることができ、15歳で家康に出仕してからはスピード出世し、そして関ヶ原から1年半後に亡くなってしまった。まさに井伊直政は太く短く生きた戦国の名将と言えるだろう。
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のちに徳川四天王と呼ばれることになる井伊直政は、22歳まで元服をしなかった。元服は早ければ13歳、一般的には15〜16歳で行うものであり、22歳での元服は異例の遅さだったと言える。ではなぜ井伊直政は22歳まで元服をしなかったのか?実はこれは直政の優しさに理由が隠されていた。


井伊直政の父は井伊直親であり、幼い日の直親、つまり亀之丞と井伊直虎は幼馴染であり、かつての許嫁だった。だが紆余曲折あり、結局亀之丞と直虎が結婚することはなかった。そして直親となった亀之丞は讒言により謀反の疑いをかけられて謀殺されてしまう。その後直親の子である虎松、つまりのちの井伊直政は、父同様に命を狙われないように名を変えて鳳来寺で匿われていた。

直親が殺害されてからの十数年の間、井伊家を守っていたのは女城主直虎だった。その直虎は虎松が14歳になり井伊家に戻ってくる形になると、虎松の養母となる。虎松はその後徳川家康に目をかけられ万千代と名乗り、目覚ましい活躍をしていく。その間も井伊家の居城である井伊谷城を守り続けたのは直虎だった。

一時は今川により、井伊家は滅亡の危機を迎えたこともあった。それを強い信念で乗り越え、直虎は井伊家を再興させようと命を賭していた。そのことを虎松はよく知っていたし、鳳来寺から井伊家に戻ってからもその直虎の姿を目の当たりにしていた。つまり虎松は、自分が井伊家に戻って来られたのは直虎の努力あってこそだったとよくわかっていたのだ。

22歳を迎えるまでもなく、もちろん虎松には何度も元服する機会があった。だが虎松は頑なに元服することを拒み続けた。虎松が元服をすると、当然名は井伊直政となる。そして井伊直政が誕生するということは直親の死以来、ついに井伊宗家を継ぐ男子が登場することを意味し、井伊直虎の女城主としての役割もそこで終わることになる。

虎松は直虎が経験してきた苦労をよく理解していた。そのため直虎が存命であるうちは、直虎こそが井伊家の頭領であるべきだと考えていた。だから虎松は22歳になるまで元服しなかったのである。

だが天正10年(1582年)8月26日、井伊直虎は50歳前後という年齢でこの世を去ってしまった。50歳前後と書くのは、直虎が生まれた年が不明であるためだ。史家の研究により、ただい50歳くらいだったと推定されており、有力なのは井伊直親よりも2歳上だったという説だ。仮に直親よりも2歳上だったとすれば、直虎は享年49ということになり、同年6月2日に本能寺の変で討たれている織田信長と同じ歳ということになる。

直虎がこの世を去ってから3ヵ月後の11月、万千代と名を改め家康の元で活躍していた虎松は、ようやく22歳で元服し井伊直政と名乗り、正式に井伊家を継ぐことになった。戦場では赤鬼と呼ばれ恐れられた井伊直政ではあるが、戦場を離れれば母思いの心優しい青年だったのである。

直政にとって井伊直虎は実の母親ではなく、あくまでも養母だった。しかし直虎と父直親が許嫁だったことを知る直政としては、直虎は実の母同然の存在だったようだ。そして直虎のこれまでの苦労を知るだけに、その母にいつまでも井伊家頭領でいてもらいたく、普通では考えられない22歳で元服する形になったのだった。

なお井伊直虎の墓は井伊谷城にほど近い龍潭寺にあり、法名は「妙雲院殿月泉祐圓大姉(みょううんいんでんげつせんゆうえんだいし)」とされている。
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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
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井伊直虎は姫として生まれ、なぜ男として生きなければならなかったのか?それには井伊家と今川家の間の深い因縁が関係している。井伊家は長年に渡り今川家に苦しめられてきたのだが、直虎が家督を継ぐまではそれがずっと続いていた。だが直虎が家督を継ぎ、桶狭間の戦いによって今川家が衰退していくことにより、井伊は徐々に平和を取り戻していった。

直虎の曽祖父井伊直平は永禄6年(1563年)、今川家から離反していた天野景泰・天野元景父子を攻めた戦いで討ち死にを果たしている。そして直虎の祖父井伊直宗は天文11年(1542年)に田原城攻めで討ち死に。さらに父井伊直盛は桶狭間の戦いで討ち死にしている。決して討ち死にが珍しくはなかった戦国時代とは言え、ここまで代々討ち死にが続くことはさすがに珍しいことだった。

そして父井伊直盛は男児に恵まれず、子は女児である直虎ひとりしかいなかった。そのため桶狭間の戦い後、井伊家は家督問題に直面してしまう。そこで井伊宗家は、直虎の祖父直宗の弟である直満の子、亀之丞(のちの井伊直親)を直虎の婿として迎え、井伊宗家を継がせることにした。亀之丞は直虎にとっては幼馴染であり、気心の知れた親戚の子だった。

だがそうなろうとした矢先、井伊直満と直義兄弟が小野和泉守政直(道高)の讒言により謀反の疑いをかけられ、主君今川義元に殺害されてしまった。ちなみに直満と小野政直は犬猿の仲だったようで、直満の子が井伊宗家を継ぐことが政直は許せなかったらしい。小野直政としては自らの息子に井伊宗家を継がせたいという思いだったようだ。

直満が殺害されたことにより、亀之丞にも危機が迫る。謀反の疑いにより殺害された者の息子がそのまま平和に生きることは許されない。もちろんこの疑いは小野政直のでっち上げだったわけだが、それでも亀之丞も小野政直によって命を狙われ、離れた土地の寺で匿われることになる。その後7〜8年の潜伏生活ののち亀之丞は戻り、ようやく養子として井伊宗家を継ぐことになった。

だが亀之丞改め井伊直親は、今度は小野政直の息子、小野道好の讒言により謀反の疑いをかけられ永禄5年(1563年)、今川氏真の命により騙し討ちにされてしまった。井伊宗家は、こうしてまたもや跡取りを失ってしまったのだった。

この時直虎はすでに出家し次郎法師として生きていたのだが、かつての直虎の婚約者であった直親が殺害されてしまったため直虎が井伊家を継ぐしか道が残されておらず、還俗し名を直虎と改め、井伊宗家を継ぐことになった。不幸が続くことによりこうして井伊家24代当主直虎が誕生したのであった。

ちなみに直親の子・直政は直虎が養母となりその後25代当主となるわけだが、井伊直政はご存知の通り徳川四天王としてその後大活躍することになる。

曽祖父・井伊直平(20代当主)/討ち死に
祖父・井伊直宗(21代当主)/討ち死に
父・井伊直盛(22代当主)/桶狭間の戦いで討ち死に
大叔父・井伊直満、直義/謀反の疑いにより騙し討ち
養子・井伊直親(23代当主)/謀反の疑いにより騙し討ち
井伊直虎(24代当主)
井伊直政(25代当主)/佐和山藩初代藩主
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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
ishida.gif忍城の水攻めに失敗した石田三成だが、実はこの当初、三成を悪く言う者はいなかった。徳川四天王のひとりである榊原康政も、三成と共に忍城を攻めた浅野長吉への書状で「お手柄」と書いているほどだ。やはり三成の戦下手という評価は江戸時代に恣意的に作られたものだと考えるべきだ。

備中高松城を水攻めした際に作られた堤は東南4キロに渡って築かれた。つまり備中高松城を水攻めにするには4キロの堤を作れば良かったわけであり、水攻めをするに適した弱点を持った城だった。一方の忍城を水攻めにした際約1ヵ月かけて作られた堤は28キロにも及んだ。備中高松城攻めで築いた堤の実に7倍の長さだ。これだけの堤を作るためには人員や資金ばかりではなく、大量資材や、人員のための大量の食料まで必要になる。それを手際よく用意したのが他でもない、石田三成なのだ。

土木工事も滞りなく進んだと言い、この三成の活躍を間近で見ていたのが大谷吉継、真田昌幸、真田信繁(幸村)、直江兼続、佐竹義宣、長束正家、多賀谷重経らだった。そして面白いのは彼らは皆、関ヶ原の戦いで三成に味方しているという点だ。もし忍城の水攻めの失敗が三成の戦下手や不手際によるものであれば、名だたる名将たちが果たして天下分け目の関ヶ原で三成に味方しただろうか。

大谷吉継や直江兼続のように、三成と親しかった者が味方するのならばまだわかる。しかし秀吉に表裏非興の者とまで言わせた謀将真田昌幸が、戦下手の三成に果たして味方などするだろうか。いや、しないはずだ。真田父子はこの時に三成の手際の良さや、水攻めはすべきではないという三成の冷静な判断に接していたからこそ、関ヶ原では西軍の勝利を予測し三成に味方したはずだ。そうでなければ家を守るためには手段を選ばなかった真田昌幸が三成に味方する理由はない。

忍城内では実は離反の動きも少なくなかったと言う。そのような状態であれば力攻めをすればあっという間に城は落ちたはずだ。その情報も掴んでいたからこそ水攻めにより無駄な労力や無駄な出費をすることなく、忍城を力攻めにすべきだと三成は秀吉に進言したようだ。

結果的に忍城の戦いは天正18年6月17日から始まり、7月5日に小田原城が落ち、成田氏長がそのことを忍城に伝え開城を説得し、城を守っていた成田長親(のぼうのモデル)らが説得に応じ、7月16日に開城された。

忍城水攻めの失敗により三成を責めるべきではない。三成は秀吉に命じられた無理難題を実現させ、たった1ヵ月で28キロにも及ぶ堤を完成させたのだ。三成の手際の良さと政治力がなければ決してなしえなかっただろう。それなのに三成は水攻め失敗の事実を歪曲され、戦下手として周知されるようになってしまった。

なおこの堤は「石田堤」と呼ばれ、現在では行田市から鴻巣市にかけて250メートルだけ現存している。忍城水攻めでは、三成は本来であれば賞賛されるべき功績を残しているのだ。そして秀吉自身この水攻めの段取りは三成にしかできないと思ったからこそ、「水攻めについては全面的に任せた」という書状を三成に送っているのである。