「島左近」と一致するもの

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2016年7月1日、大阪府内の民家から島左近の書状が2通見つかったと発表された。島左近は比較的残っている資料が少ない武将であり、その生涯の全貌は明らかにはなっていない。そういう意味でも実筆の書状が2通見つかったというのは、史家にとっては画期的発見となったのではないだろうか。


島左近清興という人物は、当初は筒井順慶に仕える家老だった。しかし順慶の死後に定次が家督を継ぐと、筒井家と左近の関係は悪化し、遂には左近は筒井家を飛び出して浪人となってしまう。その後は蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えたりもしたが、その奉仕も長くは続かなかった。そんな左近に白羽の矢を立てたのが石田三成だった。

以降は関ヶ原で討ち死にする最期まで石田三成に仕え続けた。その島左近の書状が今回新たに発見されたわけだが、これは常陸国の佐竹義宣の家臣、小貫頼久と佐竹義久に宛てられたものだった。

2通とも天正18年(1590年)7月に書かれたもので、1通目の内容は豊臣政権に与することになった佐竹氏に対し、与するのはいいが人質だけは送りたくないと主張し続けた大掾清幹(だいじょうきよもと)の今後の処遇について、佐竹氏側に相談する内容だった。そして2通目は領地支配について指示する内容となる。

島左近は義理堅い猛将として知られる人物だ。石田三成が五奉行の一員となり佐和山城19万4千石の大名になった際も、三成からの知行増の申し出を断っているほどだ。左近は自分の知行を増やすくらいなら、その銭を石田軍の増強のために使って欲しいと逆に申し出たのだった。

そして関ヶ原の戦いでの猛将振りはもはや語るに及ばないだろう。戦場に島左近の姿を見るだけで敵武将は慄いたと言われるほどの猛将だった。そのイメージが強いため、あまり政治面のことは得意ではないように一般的には伝えられている。だがこの2通の書状により石田三成の下、島左近が政治交渉にも当たっていたことが明らかになってきたのだ。

ちなみのこの2通の書状は直に目にすることができる。2016年7月23日から8月31日までの間、長浜城歴史博物館で「石田三成と西軍の関ヶ原合戦」という特別展で一般公開されることになっている。もし島左近の直筆文字を見てみたいという方は、ぜひ夏休みを利用して足を運んでみてください。
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石田三成の一般的なイメージは決して良いものではない。NHK大河ドラマ『真田丸』では山本耕史さんが演じているのだが、やはり感情のない黒幕的な匂いが漂っている。だが石田三成という人物は決して人情味がなかったわけではない。確かに誤解される性格ではあったようだが、当時の石田三成を知る者たちからは、人情味のある熱い人物と見られていたようだ。


石田三成は関ヶ原の戦いで西軍の中心人物であったわけだが、小早川秀秋らの寝返りにより、徳川家康率いる東軍に敗れてしまった。この関ヶ原の戦い自体も大義は三成側にあった。太閤秀吉の遺言を健気に守り続けようとする三成と、豊臣から政権を奪い取ろうとする家康。黒幕という意味では家康の方がよほど黒幕だった。

家康は秀吉恩顧の一部大名たちと三成の対決姿勢を演出し、見事にそれを利用した。つまり本来は豊臣側に付かなければならない福島正則や黒田長政が、三成を嫌っているという理由で家康に味方してしまった。一方の三成は黒幕どころか純粋だった。西軍に味方してくれた諸将たちすべての陣を自ら回り、戦略を細かに伝え、そして礼を尽くしたという。

だが結果的に西軍は敗れてしまい、三成は賊軍というレッテルを貼られてしまう。島左近の奮闘もあり関ヶ原から何とか脱出した三成は、生まれ故郷である近江古橋村へと向かうのだが、その途中にある浅井郡谷口村の石田氏に一時匿ってもらった。この石田氏はこの時の礼として三成から石田姓、家紋、短刀を譲られたという。

その後三成は何とか古橋村までたどり着き、そこでは与次郎太夫という人物に匿われた。この時三成は腹痛を起こしており歩くのもやっとの状態だったようだ。せっかく古橋村までたどり着いた三成だったが、すぐに追っ手に追いつかれてしまった。そこで三成が考えたことは、このままここにいては与次郎太夫に迷惑をかけてしまうということだった。

三成は与次郎太夫の屋敷を出る際、与次郎太夫に対し「追っ手が来たら自分の居所を伝えてくれ」と頼んだ。つまりこれは与次郎太夫が三成の味方をしたことを伏せ、咎めを受けないようにするための三成の心遣いだったのだ。最初与次郎太夫はそれを拒んだが、三成の強い意志により涙を流し承知した。

そして時を経ず、古橋山中にある洞窟に隠れていた三成は田中吉政の家臣によって捕縛されてしまう。

もし三成が本当に心のない人物であったなら、自分の命が狙われているようなこんな時に谷口村の石田氏や、古橋村の与次郎太夫に対しここまで気を回せただろうか。本当に心ない人物であったなら、与次郎太夫が後々どうなろうと逃げた先を追っ手に伝えるなと言ったはずだ。だが三成はそうではない。自分の命よりも、与次郎太夫に下されるかもしれない咎めの回避を優先してすべてを判断した。

勘違いされやすい性格ではあったのかもしれない。だが石田三成という人物の行動を追っていくと、こんなに義に厚く、こんなに人情味溢れる人物はそうそういないということを知ることができる。『真田丸』では今後石田三成がどのように描かれていくのか現段階ではわからない。だが真田信繁(幸村)と石田三成の関係は深いため、今後石田三成も重点的に描かれていくのだろう。だとしても、さらなる誤解を招くような描き方はして欲しくないと筆者としては願うばかりだ。

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石田三成という人物は、とにかく周囲から誤解されやすい性格だった。どうやら率直に物を言い過ぎてしまう嫌いがあったようで、意に反し言葉にも棘があったらしい。だがその実像は決して冷徹な人間ではなく、心に熱いものを秘めた人物だった。そして誰よりも日本という国と豊臣政権のことを深く愛し、そして考えていた。自身のことなど二の次だったのだ。


近江出身の三成には、近江商人の血が流れていた。近江商人と言えば「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」を信条とする商人たちのことだ。つまり売る側も買う側も幸せになり、それによって世間全体も良くしていこうという信念だ。三成もこの近江商人の信念を受け継いでいた。だが三成自身はと言えば、買い手と世間の幸せばかりを考え、自らの幸せなどほとんど考えていなかった。

その好例となるのが佐和山城だ。佐和山城と言えば「三成に過ぎたるもの」と揶揄されたほどの名城で、三成が関ヶ原の合戦後に京都の六条河原で処刑されると、その城は東軍によって接収され、井伊直政(井伊直虎のはとこ)に与えられた。その際将兵たちは「三成のことだから秀吉のように、さぞや財宝を蓄えているのだろう」と考えていた。だが彼らは佐和山城に入り驚くことになる。

佐和山城内は財宝に溢れかえるどころか、驚くほどに質素だった。壁にも庭にも装飾品らしいものは一切なく、生活感さえ感じられないほどだったようだ。三成は「残すは盗なり。つかひ過して借銭するは愚人なり」という言葉を残している。これは農民たちから集めた年貢を使い残し自分のものとするのは盗み同然であり、逆に使い過ぎて借金をするのは愚か者、という意味だ。誰よりも現代の政治家たちに教えてあげたい言葉だ。

つまり三成は集めた年貢はすべて民政のために使い、わずかに残った分で慎ましく暮らしていたのだ。テレビドラマで描かれているように、決して派手な着物を纏っていたわけではなかった。三成は秀吉政権の重臣だったため、どうしてもイメージが秀吉と被ってしまったのだろう。NHK大河ドラマでさえも時に三成を流行に敏感な派手な人物として描いている。

現代に於ける三成のイメージは、すべて江戸時代に捏造されたものばかりだ。確かに武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りは合わなかったようだが、しかしだからと言って誰からも嫌われるような人物ではなく、逆に身近な人間からは非常に好かれていたのだ。

秀吉が滅ぼした大名家の遺臣たちを三成も多く召し抱えたわけだが、彼らのほとんどは関ヶ原の合戦で三成に命を捧げている。さらには盟友である大谷吉継、島左近、真田昌幸・信繁父子、上杉景勝・直江兼続主従は西軍として三成に味方している。しかも大谷吉継と島左近はここで討ち死にを果たしてもいる。

さらには三成に恩を感じていた佐竹義宣も明確に東軍に味方することはせず、再び三成を助けるために上杉家と密約を結んでいたとも伝えられている。果たして三成が現代に伝わるような冷徹な人間であったなら、彼らのような名将たちが天下を分ける関ヶ原で西軍についていただろうか。

家を守るためには手段を選ばず、秀吉に「表裏比興の者」と称された真田昌幸でさえ西軍に味方しているのだ。恐らく昌幸は忍城の水攻めでの三成の働きを間近で見て感銘を受けたことにより、西軍の勝利に賭けたのだろう。

「三成は嫌われ者だった」というイメージは完全に間違っている。もし本当に嫌われ者だったとすれば、わずか19万石の小大名に過ぎなかった三成が、関ヶ原の戦いのために8万人以上の兵を集めることなどできなかったはずだ。西軍に味方した大名たちは「三成だからこそ」味方したのだ。

三成の人柄を言い表すならば、取っ付きにくいが話してみると良い奴、と言った感じだったのだろう。そして弁明などは一切しない人物だっため、誤解をされてもその誤解を自ら解くことはほとんどなかったようだ。それによって誤解が誤解を生み、武断派武将たちを敵に回してしまった印象も強い。

だが石田三成が処刑されてからもう400年以上が経過している。そろそろ三成の誤解をすべて解いてあげてもいいのではないだろうか。

ishida.gif石田三成は自らの弱点をよくわきまえていた。同じ奉行衆であった盟友大谷吉継は、内政も戦も得意としていた。主君豊臣秀吉も、大谷吉継に100万の兵を預け指揮させてみたい、と語っているほどだ。だが石田三成は戦に関しては決して得意ではなかった。

戦略に関しては秀吉の戦いをそばで見ていたこともあり熟知していた。陣中での冷静な判断も失わなかった。だが槍働きに関しては苦手だったのだ。戦を理路整然と考え部隊を動かしていくことはできるのだが、自身で槍を持ち人を殺めることは苦手としていた。なお石田三成の戦下手に関しての誤解はこちらの巻にて解いていただきたい

石田三成は知略に優れた武将だった。出身が近江商人で有名な近江であり、父親正継も近江石田村の庄屋で観音寺の檀那職を務めるような人物だった。つまり父親も算術に秀た人物であり、三成もそれを受け継いでいたようだ。その影響で三成は兵站奉行として兵糧、武器などを滞りなく調達し、秀吉の数々の勝利の手助けをし活躍した。

石田三成の人物の良さは、上述したように自らの弱点をよくわきまえていた点だ。つまり奉行職で地位を得てもすべてが優れているとは勘違いせず、槍働きが苦手なことを自認していたのだ。そしてその弱点を補うために、三成はある人物のスカウティングを行った。そして近江水口城主になり4万石の所領を得た三成は、何と1万5千石をその人物に与えてしまった。その人物とは島左近のことだ。

島左近は大和の筒井順慶を支える筆頭家老だった。しかし順慶が病死したあとは家督を継いだ定次に疎まれるようになり、ついには筒井家を去ってしまう。その後左近は蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えるも長続きはせず、浪人として放浪することが長くなっていった。どうやら左近は筒井家の筆頭家老だった誇りが邪魔をし、新参者として扱われることを嫌ったようだ。

その噂を耳にし、三成は自らの家臣になって欲しいと左近に頭を下げたのだった。島左近清興と言えばまさに戦国時代きっての猛将だ。鬼左近と呼ばれたのも伊達ではなく、戦場で左近と出会った者は皆慄いたと言う。三成は左近を召し抱えることにより、自らの弱点をピンポイントで補うことに成功した。

島左近は漢気溢れる人物で、三成が所領の半分近い1万5千石で召し抱えてくれたことにより、生涯三成に尽くすことを誓った。その後三成は佐和山城19万4千石の大名となったわけだが、その際三成は左近の所領も増やそうとした。だが左近は自分に1万5千石以上は必要ないと言い、その代わりもっと多くの兵を雇い石田軍を強化なものにしてくれと申し出た。左近とはこのように、意気に感じた相手にはとことん尽くせる漢気溢れる人物だったのだ。

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という唄が当時巷で流行っていたようだ。これは文字通り、島左近と佐和山城は三成にはもったいない、と皮肉った歌詞だ。だが本当にこれが戦国時代に唄われていたのだろうか。これも恐らく江戸時代に捏造されたものなのだろう。

関ヶ原以前に於いて、三成を悪く思っているのは豊臣家のいわゆる武断派(加藤清正、福島正則、黒田長政など槍働きを得意とした武将たち)だけだったと言う。そう考えるとこの唄も、恐らく関ヶ原後の江戸時代の創り話なのではないだろうか。この唄については『古今武家盛衰記』という作者不明の古文書に記されており、恐らくは江戸時代後期に書かれたものだと思われる。

関ヶ原で三成は敗れてしまうわけだが、戦場から無事逃げ出すため命を張ったのが島左近だった。とにかくまずは三成を無地戦場から逃がそうと、左近は自ら先頭に立って黒田長政勢と戦った。だが最期は黒田勢の鉄砲で蜂の巣とされてしまい、壮絶な討ち死にを遂げてしまう。

左近としてはこの直前に家康暗殺に失敗しているため、それを挽回するためにも死に場所を探していたのだろう。西軍を何とか立て直すというよりは、左近の最期の行動は自ら華々しく散ることを優先に考えられていたように感じる。もし左近がもっと策を巡らすことができれば、西軍があそこまで総崩れになることはなかったのかもしれない。そして家康暗殺がもし成功していたら、関ヶ原の戦いが起こることもまたなかったのかもしれない。

ishida.gif悪役を立てなければドラマが引き締まらないためだろうか、テレビドラマに登場する石田三成という人物は、大抵が嫌われ役という設定になっている。一昨年放送されたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』では顕著で、あのドラマを見て石田三成を誤解したり、嫌いになったという人は多いのではないだろうか。

武田鉄矢さん率いる海援隊が歌う「二流の人」という曲にも「石田三成 愚か者」という歌詞が出てくる。このように石田三成という人物は誤解されていることが多い。だが歴史好きの間では石田三成こそ義将であると高く評価されている。では何故ここまで酷く誤解されることになってしまったのだろうか?

石田三成は豊臣政権に於ける奉行衆のひとりで、治部少(じぶのしょう)という地位にあった。治部少とは簡単に言えば戸籍や婚姻などに関するお役所仕事をしたり、外国からやってきた使臣を持て成す役割を担っている。いわゆるお役人だ。

豊臣秀吉の元で治部少として活躍する三成ではあったが、時として秀吉は悪政を歩んでしまうことや、道を誤ることもあった。そんな時でも三成は文句一つ言わず、黙々と執行役を務めた。なぜ文句ひとつ言わなかったかと言えば、その文句は秀吉批判に繋がってしまい、豊臣政権内で秀吉批判をしてしまえば、政権への信頼が揺らいでしまうためだ。

三成はとにかく豊臣政権を安定させるために死力を尽くした人物だ。秀吉のミスはすべて三成がカバーしていく。そのためいつしか秀吉のミスが三成のミスへと挿げ替えられ、豊臣政権内で三成は集中砲火を浴びるようになってしまう。それでも三成は決して秀吉に責任を返すことはしなかった。自分が我慢していれば主人秀吉への家臣団の信頼が揺らぐことはない、そう信じ、秀吉の過ちをすべて自ら黙って被っていったのだ。

毛利輝元を大将とする西軍と、徳川家康を大将とした東軍が戦った関ヶ原の戦いでは、三成は東軍同等の10万という兵を率いたにもかかわらず、開戦後あっという間に敗れてしまった。西軍からすれば、籠城していれば徳川に勝てる戦だった。なぜなら徳川軍の多くが遠征隊であり、兵糧に不安を抱えていたからだ。だが三成は家康の陽動作戦に引っかかってしまい、野戦を選択してしまう。野戦は家康が最も得意とする戦いだ。

関ヶ原の戦いに於ける西軍大将は毛利輝元だったわけだが、しかし輝元は大阪城に入っただけで自ら出陣することはなかった。もし戦経験豊富な輝元が出陣していれば、三成が大垣城を出て野戦を選ぶというミスを犯すこともなかったのだろう。だが戦経験に乏しい三成は勢力が互角ならば自軍に分があると踏んだのか、大垣城を出て野戦を選んでしまった。

これは三成のミスだというのが定説ではあるが、しかし疑問点が残ることも事実だ。もし家康が大垣城を横目に進軍していったのであれば、西軍は東軍の横腹を突く攻撃を仕掛けたはずだ。だがそうはせず、対陣する形を選択している。これは果たして何を意味するのだろうか。

一説では家康が大垣城を水攻めしたことにより、三成と主力部隊である小早川秀秋らの連絡が絶たれそうになり、それを防ぐためには城を出るしかなかったという見方もあるようだ。

だがいずれにしても小早川秀秋は西軍を裏切ってしまった。これはやはり三成が人心掌握術に長けていなかったということなのだろう。逆に人心掌握を得意とした家康の口車に乗り、秀秋は東軍に寝返ってしまった。これにより西軍は完全に態勢を崩してしまい、総崩れとなってしまう。

腹心島左近の命懸けの奮戦もあり、三成は何とか戦場を脱出することができた。しかしその後すぐに捕縛されてしまい、家康の命により六条河原で打ち首とされてしまった。辞世の句は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」と読み、享年41歳だった。

三成は決して私利私欲のために敵を増やしたわけではない。三成はとにかく秀吉への恩顧に応えるため、豊臣政権を守るために奮闘し続けたのだ。そして秀吉が犯したミスの責任をすべて負い続けた。それにより誤解されることも多く、江戸時代になると三成の子孫たちは三成の墓を埋めて隠し、ひっそりと生活していたという。それほどまでに誤解がさらなる誤解を呼んでいった三成の生涯だったというわけだ。

戦国時代記では今後、石田三成の誤解を解くための巻も少しずつ増やしていきたいと考えている。