「姫」と一致するもの

吉乃の菩提寺である久昌寺が廃寺に

吉乃の墓がある久昌寺が老朽化により取り壊しに

織田信長には斎藤道三の娘である帰蝶(濃姫)という正妻がいた。しかし信長が女性として本当に愛したのは帰蝶ではなく、吉乃(きつの)という女性だった。
※ 吉乃という名前は後世に便宜上付けられた名前で、本名は明らかにはなっていない。

吉乃は若くして未亡人となってしまうのだが、その後信長の側室として嫡男信忠、信雄、徳姫を産んだ。だが生来体が弱かった吉乃は29歳という若さで亡くなってしまう。その吉乃が眠っているのが愛知県江南市にある久昌寺(きゅうしょうじ)という、1384年に建立された寺だった。

しかしこの久昌寺の廃寺が2021年に決定されてしまった。その理由は老朽化した本堂を立て替える費用を捻出できない、というものだった。時代の流れとしてこれは仕方のないことではあるが、しかし時代の流れに乗れば廃寺を防ぐこともできたかもしれない。

例えば法隆寺などはクラウドファンディングで多額の寄付金を集めることができた。久昌寺も信長の名の力を借りれば、法隆寺ほどの額じゃないにしても、本堂を立て替えるくらいの寄付金は集められたかもしれない。吉乃のためであれば、信長も喜んで名を貸してくれたことだろう。

19代目で最後の久昌寺当主となってしまった生駒英夫氏は50代手前でまだ若いわけで、檀家だけに頼るやり方を見直していれば、もう少し違う結果にもなったかもしれなかった。だが唯一の救いは、吉乃のお墓は維持されるということだ。

解体は令和4年(2022年)5月から始まり、令和3年には公園として整備されるようだ。だがその公園には吉乃のお墓が残されるため、信長も少しは安心したのではないだろうか。

永禄9年(1566年)5月13日に吉乃を失うと、信長は当時の居城であった小牧山城の天守閣に登っては西の空を眺めていた。そう、久昌寺は小牧山城の西に位置していたのだ。信長はそこから西の空を眺めながら、吉乃を想いよく一人涙を流していたと伝えられている。

魔王のようだったとも伝えられている織田信長だが、実はそのイメージとは裏腹に愛情深い男でもあった。ドラマや映画では帰蝶との関係が描かれることがほとんどだが、もしいつか、信長と吉乃が互いに愛し合う姿が描かれた作品が誕生したなら、筆者はぜひともその作品を通して信長の素の姿を見てみたい。

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麒麟がくる9回目「信長の失敗」では、若き織田信長が竹千代(のちの徳川家康)の父親である松平広忠を殺害するという物語が展開された。そして明智光秀の出来事としては幼馴染みである煕子と再会し、お互い想いを寄せ合っていきそうな雰囲気になり始めた。さて、この回の史実とフィクションとは?!

うつけの振りではなく、うつけそのもののように見えた織田信長

織田家と松平家は長年に渡り戦を繰り広げてきた。そしてそれは信長と帰蝶の婚儀が行われた頃も変わってはいなかった。松平家としては世継ぎである竹千代を人質に取られていることもあり、織田家に対しては良からぬ感情を持っていたことは確かだった。劇中、そんな中描かれたのが信長の刺客によって松平広忠が討たれるという場面だった。

しかし信長によって広忠が討たれたという資料は恐らくは残されていないと思われるため、これは完全にフィクションだと言える。ちなみに広忠の死因は定かではなく、病死、一揆によって討たれた、織田信秀の策略、織田家の刺客と思われる松平家家臣岩松八弥に討たれた、など諸説ある。岩松八弥によって討たれたという伝承を広義で捉えれば、確かに信長が手を下した可能性を否定することはできないのかもしれない。

しかし信長と竹千代のこの頃の関係は良好だったと伝えられることが多い。とすると果たして信長が弟分である竹千代の父親を殺害するだろうか。この頃の信長は確かに「うつけ(バカ)」と呼ばれていたが、しかしそれはあくまでも信長が見せていた仮の姿であり、実際の信長は決してうつけ者ではなかった。であるならば、果たして信長が本当にこのような政治問題に発展する馬鹿げたことをしただろうか。

それに加え、この件に関して父信秀に叱責された信長は目にうっすらと涙を浮かべ、まるで駄々っ子のような言い訳を劇中では見せていた。これではうつけの振りではなく、うつけそのものになってしまう。今後劇中でこの信長がどう変わっていくのかはわからないが、しかし劇中で見た信長はあまりにも史実とかけ離れているように筆者には感じられた。

妻木煕子の名前は実際には煕子ではなかった?!

さて、話は変わって今回は妻木煕子が初登場した。しかしここで伝えておきたいのは、煕子という名前は史実ではないという点だ。煕子という名前は三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』という小説によって広く知られるようになり、明智光秀の正室の実際の名前は記録には残されていないようだ。しかし戦国時代の女性の名前が残されていないことは珍しくはない。家系図などを見ても女性は「女」としか書かれていないことがほとんどで、実際の名前が記録に残されていることの方が珍しい。

ちなみに信長の正室だったとされる帰蝶に関しても、本当に帰蝶という名前だったのかは定かではない。資料に残されている記述だけでも帰蝶、歸蝶、奇蝶、胡蝶とある。胡蝶だけはそのまま「こちょう」と読み、その他の発音は「きちょう」であるため、それっぽい発音の名前ではあったのだとは思う。そして帰蝶は濃姫と呼ばれることもあるわけだが、これは「美濃から来た姫」という意味でそう呼ばれていた。これはお市が「小谷の方」、茶々が「淀殿」と呼ばれていたことと同様となる。

怪物を見た又左衛門とは一体誰のことなのか?!

今回の劇中では怪物を恐れる村人を信長が勇気付けに行き、それによって帰蝶との婚礼をすっぽかしたと描かれていた。もちろんこれもフィクションであるわけだが、その中で「又左衛門が実際に怪物を見た」と信長が話していた。この頃信長と一緒に行動をしていた又左衛門とは、恐らくは前田利家のことだと思われる。

前田利家も若い頃は信長に負けず劣らずの歌舞伎者で、いわゆる問題児だった。大河ドラマでは『利家とまつ』の主人公にもなっている。後々の『麒麟がくる』では織田信長と明智光秀の二軸になっていくと思われるため、もしかしたら今後前田利家が登場してくることもあるかもしれない。織田家には欠かせない魅力溢れる人物であるため、個人的にはまた大河ドラマで前田利家を見てみたい、と思った今回の信長の台詞だった。

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麒麟がくる第7回目「帰蝶の願い」では、斎藤利政(のちの道三)の娘である帰蝶の織田家への輿入れが決まるまでのことが描かれた。内容としては帰蝶が織田家へ輿入れしていくこと以外のことは、ほぼフィクションとなるのだろう。

戦国の姫に人権はなかった?!

例えば劇中では帰蝶は明智十兵衛光秀に想いを寄せているように描かれている。この設定ももちろんフィクションの域を出ないわけだが、ドラマを盛り上げるためには非常に重要な設定なのだと思う。そして十兵衛に想いを寄せているが故に、帰蝶は十兵衛に「尾張に行くべきではない」と言ってもらいたがっているが、これは戦国の世では実際にはほとんど起こりえないことだと言える。

戦国時代の女性にはほとんど人権はなかった。例えば3月8日は国際女性デーで、世界中で女性の人権やフェミニズムについて語られるわけだが、戦国時代の日本に於いて女性は政略の駒でしかなかった。そして女性に異論を申し立てる権利などなく、主命で輿入れが決まればそれに従う他選択肢はなかった。明智光秀自身後々は、自らの娘たちを臣下に嫁がせることにより、軍団の結束を高めようとしている。もちろん細川ガラシャも同様に。

恋愛結婚がほとんどなかった戦国時代

珍しいケースとして織田信忠と松姫のような純愛も存在していたわけだが、戦国の武家に於いて恋愛結婚が成し遂げられることはほとんど考えられなかったと言える。織田信長にしても最愛の妹であるお市の方を政略結婚によって浅井長政に嫁がせている。

劇中では斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じているが、実際には頭領が決めたことに有無を言うことは許されないため、利政の判断に帰蝶が異論を唱えることは、史実であるならば非常に考えにくい。だがここはドラマであるため、やはり帰蝶が十兵衛に想いを寄せていた、という設定の方が見ていてドラマにのめり込める。ちなみに戦国時代を描いた歴史小説の中には、実際にはありえない恋愛模様が描かれていることも少なくない。例えば同じ美濃の物語で言えば、竹中半兵衛重治とお市の方が実は密かに想いを寄せ合っていた、という設定で描かれた小説もあった。

武家というよりは土豪に近かった道三時代の明智家

さて、もう一点。美濃の国主である斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じるわけだが、史実的にはこの頃の明智家は武家というよりも、土豪に近い存在だった。そのため劇中のように明智光安と十兵衛が頻繁に稲葉山城に赴くことはなかったと思われる。それどころか美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれたうちの一人、稲葉一鉄と話す機会さえほとんどなかったのではないだろうか。史実的にこの頃の明智家はそれほど微々たる存在だった。

ちなみに美濃三人衆とは稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人のことで、一番力を持っていたのが氏家卜全だったと言われている。そして安藤守就は竹中半兵衛の舅で、稲葉一鉄は「頑固一徹」の言葉の由来になった程の頑固者だったようだ。その頑固さに関しては史実通り描かれていると感じたのは、筆者だけではなかったと思う。

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明智光秀という人物は時に、義理に堅くない武将として語られることがあるが、実際にはそんなことはなかった。義理堅く律儀な人物だったということが、光秀が残している書状などから読み取ることができる。

朝倉家の被官とは言え正式な臣下ではなかった光秀

光秀がなぜ義理堅くない武将として語られるかと言えば、それはひとえに主を次々と変えていったためだろう。順に追っていくと斎藤家、朝倉家、足利家、織田家と転々としている。まず斎藤家に関しては斎藤義龍に明智城を攻められて美濃を追われているため、これは光秀の意志ではない。その後越前の朝倉家に仕官するわけだが、その身分は平社員どころか、契約社員のような一時的なものだった。

その後朝倉家にも籍を置いたまま足利義昭に仕えていくわけだが、これは細川藤孝の推薦によるものであり、決して光秀が朝倉義景を蔑ろにしたわけではなかった。ちなみに足利義昭からすれば、大名家は幕臣であるという考え方があるため、各大名家の家臣は自らの家臣という考えもあったはずだ。

一方朝倉義景からすれば、契約社員1人が掛け持ちで他社で働いていたとしても痛くも痒くもない。そのため光秀は義景からすれば「欲しければあげるよ」という程度の存在だったと言える。

朝倉家と足利家に於いての明智光秀の地位とは

足利義昭の側近として織田家に出入りするようになると、光秀は織田信長に気に入られるようになる。その理由の一つとして、光秀が信長の正室である濃姫の従兄妹だったことも影響していたのだろう。この頃の光秀はまだ正社員と呼べるような地位は手にしていなかった。越前はもう完全に去っていたとしても、足利義昭自身「流浪の将軍」状態であり、家臣をしっかりと養う力を持っていたわけではない。そのような状況だったため、義昭と信長の取次役を務めているうちに、信長から頼まれる仕事の割合が少しずつ増えていった。

そうしているうちに光秀は初めて正式な家臣として織田家に仕えるようになる。光秀は決して、義景や義昭を踏み台にしていったわけではない。朝倉家と足利家では光秀は契約社員程度の身分であり、それを信長が初めて正社員として迎えたのであって、光秀が義理に堅くない人物であったからではなかった。

朝倉家が滅んだ直後に光秀が認めた書状の内容

光秀はよく筆を手にする人物だった。例えば束の間の休暇を取り旅行を楽しむと、親しい友人に向け、今でいう絵葉書のような手紙を書くこともあった。そして知人の体調が優れないと知れば、すぐに見舞いに出向いたり気遣いの手紙を書くこともあった。

光秀はどうやら越前にいた頃、竹という人物に世話になっていたようだ。だが朝倉家は後に織田信長に攻められ滅ぶことになる。朝倉家が滅んだ後、光秀は服部七兵衛尉(はっとりしちへいのじょう)という人物に「朝倉が攻められた際、竹を助けてくれてありがとうございました」という内容の書状を認めている。光秀が本当に薄情な人物だったとすれば、果たしてこのような書状を認めただろうか。

ちなみに戦国時代には、光秀のように二つの家で被官することは決して珍しいことではなかった。また、他家からの引き抜きも日常茶飯事であり、光秀のように仕官先を転々とする武将はどこにでもいた。だが確かにそれが元でいざこざが起こることもあり、戦がなくなった江戸時代には、他家からの引き抜きは幕府によって禁止された。

さて、この巻を読んでもらえれば、明智光秀という人物が決して義理堅くない人物ではなかった、ということがおわかりいただけると思う。朝倉義景や足利義昭を裏切ってきた人物なのだから、織田信長に刃を向けたのも不思議ではない、という考え方は間違いであると筆者は考えている。明智光秀という人物は、実は非常に義理堅い人物だったのだ。

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『麒麟がくる』第4回放送「尾張潜入指令」では、まさに副題の通り明智十兵衛光秀と望月東庵、菊丸が尾張に潜入していく姿が描かれた。このように間者(かんじゃ:スパイ)が敵国に送られることは多々あった戦国時代ではあるが、しかし光秀のような武士が送られることはさすがに稀ではなかっただろうか。

武士が間者として送られることはあったのだろうか?

戦国時代にはいわゆる忍びと呼ばれる忍者たちが活躍していた。その忍びや間者、乱波(らっぱ)が敵国に送られるのが普通であり、光秀のような武士が送られることは、絶対になかったとは言い切れないとは思うが、しかしあったとしても非常に稀だったはずだ。理由は単純で、身分が低くかったとしても城に出入りできるような武士の身分であれば、いつ誰に顔を見られているかわからないからだ。

もちろん若き日の光秀はまだ名など知られてはおらず、他国で光秀の顔を知る者もほとんどいなかったはずだ。しかし品格ある教育を受けている人物が薬草売りに扮したところで自然に振舞うことなど難しい。これは農民に武士の振舞いをされるのと同じだ。そのため武士が間者として他国に送られることは、やはり絶対になかったとは言えないわけだが、しかし可能性としては非常に低かったと思う。送るのであればその道のプロである忍びのような者たちに任せることがほとんどだったはずだ。

流行病で亡くなったとも言われている織田信秀

今回の放送では織田信秀(信長の父)が左肩に受けた流れ矢により傷を負い、そこから体に毒が回り始めているという場面が描かれた。織田信秀の死因は実際には病だとされており、流行病だったとも言われている。今回冒頭で描かれたのは天文17年(1548年)の小豆坂の戦いだったと思うのだが、この戦いで今川家に敗れて以来、信秀は徐々に斎藤・今川という両側からの圧力に押され始めていく。

そこで斎藤家と和睦を結ぶために信長と濃姫の政略結婚が画策されていくわけだが、天文19年(1550年)あたりから信秀は体調を崩すことが多くなっていく。だが劇中では小豆坂の戦いの3ヵ月に信秀は東庵を呼んだ設定になっている。すると史実よりもかなり早く体調を崩していくことになっていくのだろうか。ちなみに信秀が病死するのは天文21年(1552年)3月3日の末森城でだった(享年42)。

だが劇中ではまだ古渡城という、天文17年に廃城になった信長が元服した城にいる設定になっている。この後信秀は末森城に移っていくのだが、末森城が天文17年の何月に完成したのかが筆者にはわからない。小豆坂の戦いが天文17年3月で、信秀と東庵が双六をするのが6月頃だと思われる。となるともう間もなく信秀は末森城に移っていくわけだが、果たしてこの辺りも今後どのように描かれていくのだろうか。

菊丸とは本当にただの百姓なのだろうか?

さて、今回非常に気になったのは織田信秀が家臣に、東庵に薬草を売りに来た商人(十兵衛と菊丸)たちを追わせた場面だ。「怪しければ斬れ」と命じたわけだが、斬り合いになったことで当然怪しいと判断されている。その怪しい2人を城に呼び寄せた東庵は、戦国時代であれば首を刎ねられるか拷問を受けてしまうのではないだろうか。この辺りも今後どう描かれていくのか少し興味がある。

そして斬り合いをしている最中に光秀を助ける謎の軍団が登場したのだが、菊丸はもしかしたら忍びか乱波なのだろうか。乱波だとすればその軍団の実は頭領だったりするのだろうか。ことあるごとに映し出される菊丸の表情を見ていると、ただの百姓ではないように感じたのは筆者だけではなかったと思う。

ちなみに三河の大名となる徳川家康の元には服部半蔵という伊賀の者が仕えていた。だが半蔵が生まれたのは天文11年(1542年)であるため、劇中のこの時点ではまだ6歳程度であり、菊丸が半蔵ではないことだけは確かであろう。しかし菊丸が本当にただの百姓なのか、それとも素性を隠している別者なのかは、今後非常に気になる点ではある。ということで『麒麟がくる』は次週も決して見逃せない。

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『麒麟がくる』の3回目放送「美濃の国」では、斎藤高政(のちの義龍)と明智十兵衛光秀の友情シーンが描かれた。これは恐らくはフィクションという枠に入るのだと思う。まず史実で、高政と十兵衛が共に学び育ったという記録は残されてはいない。そして後々の出来事を考えると、その後々の出来事のドラマを盛り上げるために、今高政と十兵衛を親友のように描いているのかもしれない、と筆者は感じた。

双六はモノポリーではなくバックギャモン?

さて、劇中では双六(すごろく)がよく登場する。医師の望月東庵は近所に住む少女と双六を楽しむのが好きだし、十兵衛は子どもの頃、帰蝶に双六で51戦51敗したという。この双六だが、現代では人生ゲームやモノポリーのようなものを想像するわけだが、戦国時代の双六はそのような形態ではなく、バックギャモンを双六と呼んでいた。

元々は中国に伝わる陣地取りゲームが日本に伝わり、同様にヨーロッパに伝わるとバックギャモンと呼ばれるようになったらしい。なので『麒麟がくる』の劇中で双六の話になったら、それはバックギャモンのことだと思っておくと良いかもしれない。

戦国時代は婚姻と離縁が繰り返されていた

さて、第2回放送では帰蝶の夫である土岐頼純が斎藤利政(のちの道三)によって毒殺された。帰蝶は織田信長の正室として後に濃姫(美濃の姫)と呼ばれ有名になっていくわけだが、どうやら信長に嫁ぐ前は土岐頼純に嫁いでいたと思われているらしい。それを示す決定的な資料が残されているわけではないようなのだが、断片的な資料を繋げていくと、「どうやら帰蝶は土岐頼純に嫁いでいたようだ」というのが史家の見解であるらしい。

ちなみに戦国時代は、婚姻と離縁(離婚)は度々繰り返されることがあった。武家にとっては離縁は決して珍しいことではなく、比較的簡単に行われていた。例えば戦国時代は家臣に力を持たせないように時々国替えと言って、治める土地を変更させられることがあったのだが、国替えが行われると離縁して妻は連れて行かず、国替えした土地でまた新たに妻を娶るということが普通に行われていた。

そして戦国時代の婚姻は単純に政略として利用されることがほとんどで、帰蝶の場合ももちろんそうだった。斎藤利政は土岐家に近付くために娘を頼純に嫁がせた。そして頼純には利用価値がないと見るや否や毒殺し、後年今度は帰蝶を尾張の織田信長に嫁がせている。ちなみにこのように婚姻と離縁が繰り返されていたため、キリスト教のパードレ(宣教師)たちは布教に苦心したようだ。なぜならカトリック法では離婚が禁止されているからだ。

光秀と高政の友情の行方

ネタバレになってしまうため、ここではまだ先々の史実に関しては書けないわけだが、明智十兵衛光秀と斎藤高政の友情は果たしてどのように描かれていくのだろうか。筆者個人の感想としては、光秀と高政が親友のような関係で描かれていることにはかなり意表を突かれた。斎藤利政は幼少期の光秀のことを知っているため(それを示す資料が残されている)、確かに利政の子である高政と光秀が幼馴染だった可能性はある。だがまさかこのように描かれるとは思わなかった。

果たして長良川の戦い以降、この友情がどのように描かれていくのだろうか。ここから史実通りに描いていくのか、それとも更なる驚きの描かれ方がなされていくのか。恐らくは桜が咲く頃にはその辺りのことが劇中に描かれていくのだと思うが、今からそれがどう描かれていくのか、筆者は大いに待ち遠しく思っているのである。

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明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

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明智光秀は過度のストレスによりノイローゼに陥り、半ば錯乱状態であるかのように思いつきで信長を討った、という説もある。だが筆者はこの説にはあまり信憑性を感じることはできない。そもそも仮に光秀がそんな状態であったならば、斎藤利三や明智秀満と言った側近たちが気付いていないはずがない。もし光秀がノイローゼで側近たちがそれに気付いていたのであれば、普通に考えれば明智家を守るため、命を賭してでも光秀の盲動を防いでいたはずだ。逆に光秀の異常を察知できないような家臣を、側近と呼ぶことなどできるだろうか。

愛宕百韻はあくまでも戦勝祈願のための連歌会だった

あくまでも筆者個人としては、光秀は多少の心労は抱えていたとしても、ノイローゼではなかったと思っている。その論拠となるのは、光秀は頻繁に茶会や歌会を催しているし、戦が小休止している時にはちょっとした旅行に出かけ、旅先から友人に向けて書状を送り、幸せのお裾分けまでしているのだ。つまり光秀はただ辛い戦さの日々を過ごしていただけではなく、茶や連歌、旅を楽しむという余裕も心には持っていたのだ。

もし本当にノイローゼだったら、歌会で丸一日一緒にいる友人たちの誰かは異変を感じ取っていたはずだが、しかし歌会はどれも滞りなく行われていたようだ。唯一誰かが異変を感じたとすれば、それは本能寺の変の三日目に愛宕山の威徳院西坊(いとくいんにしのぼう)で行われたとされる(三日前は晴れ、雨の日に催されたのなら七日前、という説もある)、いわゆる愛宕百韻と呼ばれる歌会でだろう。光秀はこの時の発句(最初の一句目)として「時は今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)哉(かな)」と読んでいる。この句を少し説明すると、時=土岐、天が下=天下、しる=統べる、という意味となり、意訳すると「土岐家が天下を統べる時がやってきた」と解釈することもできなくはない。だが実際に光秀が読んだのは「時は今 雨が下なる 五月哉」だそうです。つまり「統べる」という意味合いは含まれてはおらず、「統べる(しる)」という表現は『惟任退治記』という秀吉が書かせた軍記物で広められた出鱈目だったようです。

ということもあり、上述した句の意味は後付けされたもので、実際には普通に「季節は今は五月、よく雨が降りますね」という梅雨の情景を歌った句でしかなかったようだ。さらに言えば明智憲三郎氏が指摘する通り、「五月哉」と読みつつ六月に信長を討ったことにも違和感がある。そして光秀がこの発句を読むために、わざわざ本能寺の変の三日前にこの歌会を催したとされる説もあるが、そもそも戦国時代当時、歌会というのは戦勝祈願の意味合いが強かった。その証拠にあらゆる出陣の直前に連歌会が催されている。ちなみにこの時の光秀には信長から、中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉の救援に向かえという命令が下されており、まさに中国地方に向けて出陣する直前だった。つまりこのタイミングで連歌会が催されたことは、戦国時代の背景を考えればごく普通のことだったと言える。

光秀の妹の死が信長と光秀を仲違いさせたという説

光秀が精神的に追い込まれていたという説を追うと、やはり出てくる話は光秀の妹に関することだ。実は光秀の妹は信長の側室となっていた。この妹の存在によって信長と光秀の関係は良好に保たれていたと言われている。だが彼女は本能寺の変が起こる前年の8月に死去してしまう。妹の死によって信長と光秀の間には緩衝材のような存在がなくなり、それによって二人が衝突し始める、と考える専門家の方もいるようだが、果たして国を代表するレベルの二人がそのような理由だけで仲違いするものだろうか。しかも光秀は妹の死後も変わらず信長のために激務をこなし続けている。そんな光秀を、果たして側室だった光秀の妹の死を境に急に信長が嫌うようになるだろうか。流石にそんな子供染みたことはしないと思うし、そうしたと考える方が不自然だと思う。

さらにもう一点付け加えておきたいこととして、光秀の妹の死があったとしても、信長と光秀が従兄弟同士ということに変わりはない。信長の正室である帰蝶(濃姫)は光秀とは血の繋がった従兄妹であり、つまりは信長と光秀は義理の従兄弟同士ということになる。この関係がある限りは、光秀の妹の死によって状況が大きく変わることはなかったと筆者には感じられる。

誰にも気付かれなかった光秀のノイローゼ

さて、そもそもノイローゼになっている人というのは、周りから見てもすぐにそれとわかる。ノイローゼだという確信は持てなかったとしても、普通の状態ではない、ということは誰にでも察することができる。それがノイローゼという状態だ。冒頭にも述べた通り本当に光秀がノイローゼだったのならば側近は必ず気付いているだろうし、細川藤孝や吉田兼見といった気心の知れた友人や、連歌仲間たちが気付いたことを日記などに記していたはずだ。そして誰かが気付けば、それは必ず信長の耳にも入ったはずだ。だが誰も光秀の精神状態を心配するような素振りは見せていない。

となるとやはりノイローゼ説は、軍記物(江戸時代に流行った当時の歴史エンタテインメント小説)に書かれたあることないことを鵜呑みにした方が、創作である可能性が高い記述を状況証拠として採用してしまい、「本当にそんな状況だったら普通ならノイローゼになってしまう!」という印象論によって書いたことではなかったのだろうか。そもそも本当に光秀がノイローゼだったならば、深い知見によってアドリブで百句、千句と繋げていく連歌を中心人物としてこなすことなどできなかったはずだ。連歌会に集う人物たちは皆深い知見を持ち、とにかく頭の良い頭脳派の人たちばかりだったのだ。ノイローゼだった人が、そんな彼らと連歌で対等にやり合えたとは到底思えない。以上のようなことから、光秀はノイローゼなどではなかったと、これを筆者個人の意見としてこの巻を締めくくりたい。

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明智光秀という人物は、土岐氏の再興に強いこだわりを持っていた。ではなぜ明智光秀は明智姓であるにも関わらず、土岐氏の再興を夢見ていたのだろうか。その理由はいたってシンプルで、明智姓は土岐氏が源流となっており、明智氏の祖先を辿ると土岐氏に繋がっていく。そのため明智姓を「土岐明智」と呼ぶこともある。つまり土岐氏というのは、光秀にとっては言わばルーツということになる。

土岐氏を源流とする偉人は光秀以外にも意外と多い

現代の日本人が日本人としてのルーツ、日本人としての誇りを持って外国へと旅立つように、明智光秀も自らのルーツを誇りとしていた。光秀の時代にこそ凋落していた土岐家だったが、土岐氏というのはかつては名門と呼ばれる一族だった。鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府では鎌倉殿、つまり源頼朝と主従関係にある家のこと)として栄えた家柄であり、鎌倉時代や『太平記』の中で活躍した家柄の一つが土岐氏ということになる。

ちなみに有名どころの土岐源流の人物は明智光秀だけではなく、豊臣五奉行の浅野長政、『忠臣蔵』の浅野内匠頭や、坂本龍馬も土岐氏を源流としている。土岐氏の始祖は諸説あるのだが、土岐光衡(みつひら)であるという説が有力なようだ。この土岐光衡から土岐明智氏を経て16代降ると明智光秀に辿り着く。

土岐光衡の父親は源光長と言い、平家が滅び鎌倉幕府が開かれると光衡は源頼朝の御家人となり、美濃の土岐郡を本拠地にしたことから土岐姓を名乗るようになった。光衡の父ら上の世代も土岐と称されることがあるが、しかし実際にはこの土岐光衡が土岐氏の始祖となる。

斎藤道三と戦おうにも戦えなかった明智家

土岐氏が力を失っていったのは1400年代終盤、戦国時代がまさにこれから始まろうとしている頃だった。この頃の土岐家は数十年に渡り相続争いが頻発し、内紛を続けることで力を失い続けていよいよ天文11年(1542年)、土岐頼芸の代になり土岐氏は斎藤道三によって美濃を追放されてしまった。永きに渡り美濃守護職を務めてきた土岐氏も、ここで滅びを迎えることとなった。

そして斎藤道三によって滅ぼされた土岐氏の再興を誰よりも願っていたのが明智光秀という人物だ。つまり道三は土岐氏の仇になるわけだが、しかし話はそう単純ではなく、明智光秀の叔母にあたる小見の方が斎藤道三の正室となっていたのだ。小見の方は信長の正室帰蝶(濃姫)を生んだことでも知られる。このように明智家と斎藤家の繋がりがあったために、光秀は道三を敵に回すことができなかった。

小見の方は天文元年(1532年)に長井規秀に嫁いだ。長井規秀とは油売りという商人の身から立身出世していき、長井家、斎藤家を次々と乗っ取っていき、最後は美濃一国までもを乗っ取ってしまった、まさに下克上を絵に描いたような人物だった。この長井規秀、のちの斎藤道三が小見の方を正室としていたため、明智家は土岐氏が道三によって美濃から追放された後、この縁組と力関係により、道三に服従せざるを得ない状況が続いた。

美濃守護職を美濃から追放してしまった斎藤道三

土岐家とはまさに名門であり、道三が乗っ取った斎藤家も、元々は美濃守護職である土岐氏の守護代だった。つまり土岐氏を源流とする明智家からすると、斎藤道三というのは土岐氏の守護代だった斎藤氏の家臣に過ぎない存在だったのだ。それが卑劣な手法により下克上を繰り返し、美濃一国の大名まで登りつめていった。「土岐家の家臣の家臣に土岐氏は美濃を追放されてしまった」、このような考えはきっと光秀の中にも少なからず存在していたはずだ。

戦国時代に於いて最も重視されたのは、家が滅ばないようにとにかく家を守ることだった。そして名を途切れさせないため、男子が生まれない場合や戦死した場合、血縁者などから養子を引き受けることによって家名を継いで行った。そして土岐家もそれに倣い、血脈を途切れさせなかったことで、明智氏など数々の名門を派生させていった。その名門の数々を派生させた源流である美濃守護職土岐氏を、斎藤道三は美濃から追放してしまったのだった。

偏見を持たずに人を評価した斎藤道三

斎藤道三という人物は戦国時代を代表する悪人の一人とも呼べるわけだが、有能な人材に関しては一切の偏見を持たずに接した懐の広さも持ち合わせていた。商人から立身出世した経験から、その辺りは農家出身の羽柴秀吉と同じ感性を持っていたと言える。例えば尾張でうつけ者と呼ばれていた織田信長の才能にいち早く気付き、その将来に賭けるかのように愛娘の帰蝶をその尾張のうつけに嫁がせた。そしていつか斎藤家の家臣たちは信長の馬を引くことになるだろうと口にし、息子義龍の機嫌を損ねていく。だが実際には道三の言葉通りになった。

そしてもう一人道三が目にかけたのが彦太郎こと、幼い頃の明智光秀だった。当然道三は光秀の源流が土岐であることも、その土岐氏を追放したことで明智家に良い感情を持たれていないことも理解していたはずだ。それでも有能な人材は有能だと偏見なく言い切ることができたのが、道三の懐の広さだ。もし道三が懐の狭い人物であったなら、他の大名たちがそうしたように、復讐をしてくる可能性のある人物は眼が出る前に排除していたはずだ。しかし道三は決してそうはしなかった。

本能寺の変、すべては土岐家のために!

とにかく土岐氏という家柄は、源頼朝の頃より御家人となり、後々美濃守護職を賜ることになっていく、まさに名門中の名門とも言える家柄だった。その家柄に対し、光秀は誇りを持っていた。そして道三に滅ぼされてしまった土岐家の再興を願いながら若き日々を流浪の日々に費やし、武術、学問、文化、鉄砲技術を磨き、将軍家と縁の深い越前朝倉氏に仕官することによって足利義昭に近付くことに成功し、さらには信長の臣下になっていく。

そして今か今かと土岐家を再興するための機会を窺い続け、天正10年6月2日、本能寺に大きな機会を得ていった。この機会が光秀にとって土岐家を再興するためのものだったのか、土岐家の再興を阻まれることを防ぐためのものだったのか、それは今となっては誰も知ることはできない。だが少なくともこの本能寺の変が、すべて土岐家のために決行された事件だったことは確かなようだ。

ちなみに明智家は、初代美濃守護職を務めた土岐頼貞の九男の子、明智頼重を祖としている。

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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。