「関ヶ原の戦い」と一致するもの

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直江兼続が認めた『直江状』は、一般的には徳川家康への挑戦状として知られている。そしてこの『直江状』が関ヶ原の戦いの一因になったとも言われている。だが実際に『直江状』は徳川家康への挑戦状ではなく、単純に上杉家にかけられた嫌疑を晴らしたいという思いが込められた書状だったのである。


『直江状』が書かれたことにはそれなりの原因があった。それは上杉家の、越後から会津への移封である。上杉家は死去する直前の豊臣秀吉の命令により慶長3年(1598年)に移封させられた。これにより上杉家は50万石から、120万石の大大名となる。秀吉が上杉家を移封させたのには、上杉家に江戸の徳川家康の牽制役を務めてもらいたかったからだった。

国替えさせられた際に直江兼続と石田三成が協議し、この年に徴収した慶長2年分の年貢をすべて会津に持っていくことになった。上杉家の後に越後に入ったのは堀秀治で、米倉が空になっていることに驚く。そして上杉家に借米してなんとか窮地をしのいだわけだが、次の年貢徴収(慶長3年分)で、さらに驚くべき事実が発覚した。何と農民の多くが上杉家を慕い、一緒に会津に移り住んでしまっていたのだ。

これにより越後の田畑の多くが耕作放棄されることになり、堀家はほとんど年貢を徴収することができなかった。この状況を堀秀治の家老である堀直政が徳川家康に訴え、更には上杉家に遺恨を抱いたことで「上杉家に不穏な動きあり」と讒言までしてしまった。これは慶長4年の出来事であり、移封を命じていた豊臣秀吉はすでに前年に死去している。

秀吉の死により豊臣政権の中心となっていたのが徳川家康だったわけだが、家康とって上杉家は目の上のたんこぶだった。なにせ上杉家は、徳川家康の牽制役として会津に国替えさせられていたのだから。家康としては何とか上杉景勝を失脚させたかったわけだが、その大義名分を堀秀政の訴えによって得たのだった。

家康は「二心ないのであればすぐに上洛せよ」と上杉家に迫る。だが上杉家は移封させられたばかりで会津国内もまだ落ち着いていないため、落ち着いてから秋にでも上洛したいと返す。だが家康はすぐに上洛をしようとしない上杉家に二心ありと決めつけてしまう。これに対し不満を示したのが上杉家であり、『直江状』だったのである。

『直江状』には主に、家康は堀家の讒言は究明しようともせず鵜呑みにしたのに、なぜ上杉家の言い分は聞こうとしないのか、それは不公平であると書かれている。これは決して家康への挑戦状ではなく、上杉家の純粋な訴えだった。現に先には秋に上洛したいと伝えていたが、『直江状』では夏に上洛すると繰り上げており、豊臣政権にも家康に対しても喧嘩など売っていないのである。

そして「二心がないのなら上洛せよ」という家康の要求に対し、謀反の疑いと上洛をセットにして考えて欲しくはないとも訴えている。上杉家としてはあくまでも、会津の領国支配が落ち着いたらすぐにでも上洛する旨を示しており、二心がないから上洛するのではない、ということを直江状では訴えられている。

小説やテレビドラマではストーリーをドラマティックにするため、『直江状』は家康への挑戦状として描かれることも多い。しかし真実はそうではない。上杉家の「真実を究明して欲しい」という思いが込められただけの書状だったのである。

ちなみに家康が真実を究明しようとしなかった理由の一つには、上述したように年貢について協議した相手が石田三成だったからという可能性がある。慶長4年と言えば関ヶ原の戦いが起こる前年であり、この頃の石田三成と徳川家康はほとんど敵対しているような状態だった。慶長4年3月には、家康により五奉行石田三成は蟄居させられており、家康と三成の関係は冷え切っていた。

そのような状況だったこともあり、家康は三成が絡んでいることに対して知らない振りをしていたのかもしれない。だが家康が知らない振りをしたことにより直江兼続と、失脚していた石田三成が連絡を取りやすくなり、それが関ヶ原の戦いを引き起こす三成の挙兵に繋がった可能性もある。

この時三成と兼続が連携を取っていた証拠は残っていないため、真実は定かではない。だが隠密裏に行われていた作戦の証拠が残させるケースはほとんどないため、証拠がないからと言って、ふたりの連携がなかったとは言い切れない。もちろん連携があったと言い切ることもできないわけだが、親友であったふたりだけに、その可能性は十分にあったのではないだろうか。

『直江状』を受け取った家康はそれを読み激怒したという。そして関ヶ原の戦い3ヵ月前の慶長5年(1600年)6月、家康はついに上杉討伐のために会津に出陣していく。そしてこの機を狙っていたかのように石田三成は打倒家康を掲げ、大阪で挙兵したのだった。

史家の分析では石田三成と直江兼続は協力関係にあり、『直江状』を送れば家康は必ず会津に出陣すると予測し、その隙を突き三成が大阪で挙兵し、上杉家と共に家康を東西から挟み撃ちする作戦を練っていたとするものもある。上述の通りその証拠は残されていないわけだが、やはり可能性としては十分にありえたと考えるべきではないだろうか。

何故ならもし三成と兼続の連携がなく『直江状』を送ったとすれば、単純に上杉家が家康に攻められる戦に終わり、そうなればこの頃の上杉家だけでは家康に勝つ力などなく、上杉家は滅ぼされていた可能性も高かった。連携があったからこそ上杉景勝は直江兼続に命じ、家康を刺激する可能性の高い『直江状』を書かせたのではなかっただろうか。
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酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人を俗に徳川四天王と呼ぶ。だがこの4人年齢が実にバラバラなのである。その中でも井伊直政は最も若く、酒井忠次とは親子以上の歳の差があった。それでも井伊直政が徳川四天王に名を連ねたということは、物凄い速度で出世していったということになる。


酒井忠次・・・大永7年(1527年)生まれ
本多忠勝・・・天文17年(1548年)生まれ
榊原康政・・・天文17年生まれ
井伊直政・・・永禄4年(1561年)生まれ

酒井忠次と井伊直政は34歳差、本多忠勝・榊原康政と井伊直政は13歳となる。ちなみに直政を除く3人はみな三河出身で、つまりは家康と同郷となる。まだ新興大名だった頃から家康を支えていた3人だった。一方直政は遠江出身で、家康に出仕したのは天正3年(1575年)、直政が15歳の時からだった。この時はわずかに300石の知行だった。

それから7年後、本能寺の変が起こる天正10年(1582年)には4万石にまで加増されている。そして関ヶ原の戦いでの功績として石田三成の居城であった佐和山城を与えられた時には、18万石の有力大名となっていた。まさにトントン拍子で出世して行ったと言える。

この出世に対し一説では徳川家康が男色家であり、直政を寵愛していたためだと言われている。だがこれは真実とは言えない。多くの史家たちが言うように、家康に男色の気はなかったのである。これは織田信長が森蘭丸を寵愛したことになぞらえられていると考えられるが、実は織田信長も男色家として森蘭丸を寵愛していたわけではなかった。

信長が蘭丸を寵愛したというのは、信長の死後に秀吉が吹聴した作り話だった。森蘭丸という漢字も秀吉が勝手に変えてしまったものであり、実際の漢字は森乱丸だった。 当時、蘭という言葉には女性らしい男子という意味合いがあったらしく、信長を男色家としてしまうために、秀吉はあえて蘭丸と書かせていたようだ。秀吉の場合、男色家の信長より、自分の方が天下人に相応しいとアピールするために、このような捏ち上げをしている。

話を井伊直政に戻すと、直政の父親は直親であり、直親の祖父は井伊直平だ。この井伊直平という人物は、実は築山殿の母方の祖父なのだ。築山殿とはもちろん、徳川家康の正室だ。築山殿は直政が家康に仕えた4年後に殺されてしまうのだが、正室の血縁者ということで家康も直政を重用するようになった。

そしてもう一つ家康が直政を重用した理由がある。直政の父、井伊直親は謀反の嫌疑をかけられ謀殺されてしまったわけだが、その原因は直親と徳川家康が遠江について話し合ったことにあった。もちろん謀反の相談ではなかったわけだが、それを謀反だと讒言され、直親は今川氏真の命により殺害されてしまう。

このような経緯もあり、家康は直親の子である直政を重用するようになった。井伊直虎の死後、まだ万千代と名乗っていた22歳の直政に「井伊を名乗るようにと」命じたのも家康だった。

井伊直政の驚異的なスピード出世の陰には直政自身の高い能力に加え、築山殿の血縁者、直親の死に家康が関係していた、という要因があったようだ。そして最終的には近江佐和山藩初代藩主にまで昇り詰め、慶長7年(1602年)2月1日、関ヶ原で追った怪我が原因で41歳という若さで亡くなっている。

幼き頃から今川から命を狙われ、14歳でようやく井伊谷に戻ることができ、15歳で家康に出仕してからはスピード出世し、そして関ヶ原から1年半後に亡くなってしまった。まさに井伊直政は太く短く生きた戦国の名将と言えるだろう。
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2016年7月1日、大阪府内の民家から島左近の書状が2通見つかったと発表された。島左近は比較的残っている資料が少ない武将であり、その生涯の全貌は明らかにはなっていない。そういう意味でも実筆の書状が2通見つかったというのは、史家にとっては画期的発見となったのではないだろうか。


島左近清興という人物は、当初は筒井順慶に仕える家老だった。しかし順慶の死後に定次が家督を継ぐと、筒井家と左近の関係は悪化し、遂には左近は筒井家を飛び出して浪人となってしまう。その後は蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えたりもしたが、その奉仕も長くは続かなかった。そんな左近に白羽の矢を立てたのが石田三成だった。

以降は関ヶ原で討ち死にする最期まで石田三成に仕え続けた。その島左近の書状が今回新たに発見されたわけだが、これは常陸国の佐竹義宣の家臣、小貫頼久と佐竹義久に宛てられたものだった。

2通とも天正18年(1590年)7月に書かれたもので、1通目の内容は豊臣政権に与することになった佐竹氏に対し、与するのはいいが人質だけは送りたくないと主張し続けた大掾清幹(だいじょうきよもと)の今後の処遇について、佐竹氏側に相談する内容だった。そして2通目は領地支配について指示する内容となる。

島左近は義理堅い猛将として知られる人物だ。石田三成が五奉行の一員となり佐和山城19万4千石の大名になった際も、三成からの知行増の申し出を断っているほどだ。左近は自分の知行を増やすくらいなら、その銭を石田軍の増強のために使って欲しいと逆に申し出たのだった。

そして関ヶ原の戦いでの猛将振りはもはや語るに及ばないだろう。戦場に島左近の姿を見るだけで敵武将は慄いたと言われるほどの猛将だった。そのイメージが強いため、あまり政治面のことは得意ではないように一般的には伝えられている。だがこの2通の書状により石田三成の下、島左近が政治交渉にも当たっていたことが明らかになってきたのだ。

ちなみのこの2通の書状は直に目にすることができる。2016年7月23日から8月31日までの間、長浜城歴史博物館で「石田三成と西軍の関ヶ原合戦」という特別展で一般公開されることになっている。もし島左近の直筆文字を見てみたいという方は、ぜひ夏休みを利用して足を運んでみてください。
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慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍のあっけない勝利で終わってしまった。そして関ヶ原の戦いの前哨戦となった第二次上田合戦に於いては、西軍に属した真田昌幸・信繁(幸村)父子は勝利したにもかかわらず、その直後に西軍が敗れてしまったために家康からの処分を受ける羽目になってしまった。当初は処刑されるはずだったが、真田信之と本多忠勝の説得もあり、九度山への流罪で収まった。


九度山とは高野山の表玄関に当たる場所となる。九度山への流罪ということは、言い換えれば事実上は出家の有無は問わず、高野山で出家したのと同等となる。出家した身となれば、特別な赦しを得て還俗しなければ武士に戻ることはできない。つまり真田父子は高野山に入れられたことにより、事実上武士ではなくなったということなのだ。

なお高野山という場所は女人禁制であるのだが、九度山であれば妻子を伴って入山することができる。九度山とは、空海の母が息子を訪ねたものの高野山には女人は入れずに滞在した場所で、空海が月に九度、母親を訪ねるために山を下りたことから名付けられたという。そのために九度山は妻子を連れて入ることができ、女人高野とも呼ばれるようになった。

信繁は妻である竹林院と子を伴って入山したのだが、しかし昌幸は山手殿を連れて行くことはなかった。山手殿は信之の元に留まらせた。どうやら昌幸は状況が変われば、つまり家康が少しでも失脚するようなことがあれば、すぐにでも下山して再び家康と一戦交えるつもりであったらしい。

だが九度山への流罪になったことで、そう簡単に家康に刃向かうことはできなくなってしまう。その理由は単純に経済的問題だ。九度山に入るということは武士としての収入を失うということになり、九度山での真田父子の生活はかなり困窮していたようだ。

「借金が多く暮らしが立ち行かないため、残りの20両を早く送って欲しい」という昌幸の国元への手紙や、「恥ずかしながらこの壺に焼酎を目一杯詰めて目張りして送って欲しい」という信繁の手紙が現存しており、その手紙はまさに九度山での生活の困窮ぶりを如実に表している。

そして九度山での生活を支えたのは「真田紐 」の存在だ。この紐は九度山で真田父子が発明したとも言われているが、その真意は定かではない。とにかくこの真田紐を竹林院ら女性たちが作り、そして家臣の男手たちが大坂や京の都で売り歩き、なんとか生計を立てていた。このように九度山での真田父子の経済力はほとんど地に落ちており、とてもじゃないが家康に刃向かう力など残ってはいなかった。

なお真田父子には監視役もつけられたのだが、それは紀州藩(のちの和歌山藩)の藩主である浅野幸長(よしなが)が担った。だが幸長は真田父子に敬意を示したのか、多少のことには目を瞑り、また屋敷を立てる際などには資金援助なども行った。もし監視役が浅野幸長でなければ、真田父子はもっと苦しい生活を強いられていたかもしれない。

九度山に蟄居させられている際、昌幸は日々軍略を考え続け、信繁は新しい兵器の開発に勤しんでいた。大筒の模型を作る信繁を見て、また戦場に戻るつもりなのだと竹林院は泣いて過ごしていたと伝えられている。だがそんな生活が10年近く続くと、昌幸の体にも異変が起こってきた。

昌幸は信之(この頃はまだ信幸)に対し、気弱なことを書く手紙を送るようになる。病が昌幸の体を蝕み始めていたのだ。信繁は日々弱っていく父の姿を目の当たりにし、父を勇気付けるためにも自分だけは戦意を失わずに居続けようと気丈になる。その気丈さが上述の竹林院の涙に繋がるわけだが、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65年の生涯を閉じてしまう。

だがその3年後、真田信繁にようやく再起するための好機が訪れる。大坂冬の陣だ。豊臣秀頼に九度山を下りて大坂城に参陣して欲しいと要望されたわけだが、しかし未だ家康存命のため簡単に下山することはできない。だが蟄居中に信繁が良くしていた山の住人たちが、信繁一行の下山に力を貸してくれた。そのため浅野幸長の監視も掻い潜ることができた。

なお山の住人たちの多くは信繁に心を寄せており、共に戦うために一緒に大坂城に入った者も多かったと言う。昌幸もあと少し長く生きていられればもう一度戦うことができたのだが、再起の好機を待ち切ることができず先立ってしまった。その昌幸の無念を晴らすためにも、信繁は意を決して大坂城に入ったのであった。
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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
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関ヶ原の戦いで西軍を裏切った大名の代表格としていつも語られるのは、小早川秀秋だ。だがなぜ小早川秀秋は豊臣秀吉の正室、高台院(寧々、北政所)の甥でありながら西軍豊臣秀頼ではなく、東軍徳川家康に味方したのだろうか?実は秀秋を東軍に寝返らせるための調略を行ったのも、黒田長政だったのである。まさに黒田長政は東軍勝利の大立役者なのだ。


小早川秀秋は最後の最後まで悩み続けたと言う。西軍に味方すべきか、それとも東軍に寝返るか。当初は黒田長政に対し、東軍に味方するようなことを話していた。だがそれをなかなか実行に移そうとしない。それどころか関ヶ原の前哨戦として行われた伏見城の戦いでは、西軍の副将として東軍伏見城攻めに参戦している。

黒田長政は解せなかった。東軍に味方をするようなことを言っておきながら、小早川秀秋は未だ西軍として東軍に攻撃を仕掛けている。本当に家康に味方するつもりがあるのか、長政は秀秋を問い質そうとした。だが秀秋はなかなか態度をはっきりさせなかった。本来であれば豊臣恩顧の大名として西軍で戦うのが筋だ。しかし東軍に味方する大きな理由もあったのである。

その前に秀秋は、唐入り(慶長の役)では戦目付の報告により秀吉の怒りを買い減俸させれていた。その戦目付が三成派であり、秀秋は三成に対してはそれほど良い感情は持っていなかったと伝えられている。しかしそれでも一時は西軍として戦っているのだから、黒田長政や福島正則、加藤清正らに比べればそれほど三成のことを嫌ってはいなかったのかもしれない。

秀秋は迷いに迷った。ただ、東軍に味方すると言いながら西軍に付かなければならない事情もあった。関ヶ原の戦いを前にして大坂城は西軍の大軍で溢れており、仮に秀秋が早い段階で東軍に寝返ったとしたら、あっという間に西軍に討たれてしまう危険があったのだ。そのために最後の最後まで態度をはっきりさせられなかった、と考えることもできる。

だが黒田長政は悠長に待っていることなどできなかった。関ヶ原の戦いが開戦される半月ほど前の8月28日、黒田長政は浅野幸長(よしなが)と連名で小早川秀秋に書状を送っている。その内容は、浅野幸長の母親が北政所の妹であるため、秀秋にも東軍に味方して欲しい、と求めるものだった。ではなぜ長政はこのような書状を送ったのか?

実は小早川秀秋は豊臣秀吉の養子であり、幼い頃は北政所に育てられていた。つまり北政所は秀秋にとって養母であり、母親同然の存在だったのだ。黒田長政は秀秋よりも14歳上なのだが、実は長政にとっても北政所は母親同然なのである。

幼少期にまだ松寿丸と名乗っていた頃、長政は人質として織田家に送られていた。そしてその人質の面倒を見ていたのが羽柴秀吉の妻寧々、つまり若き日の北政所だったのである。子を産めなかった北政所は、長政のことを我が子同然に可愛がった。人質として扱うことなど決してなく、父官兵衛の裏切りが疑われた際に長政の処刑が信長から命じられると、最も悲しんだのが北政所だった。そして竹中半兵衛により長政の命が救われ最も喜んだのも北政所だった。

その北政所は淀殿(茶々)と反りが合わず、秀吉死後は自然と家康側に傾倒していた。長政は、秀秋にとっても母同然である北政所が東軍にいるのだから、秀秋も当然東軍に味方すべきであると、と説得を繰り返したのだった。この長政の説得もあり、秀秋は関ヶ原の戦い当日になりようやく西軍を離脱することになる。

福島正則の西軍への寝返りを阻止したのも、西軍総大将毛利輝元に出撃させなかったのも、小早川秀秋を東軍に寝返らせたのも、すべては黒田長政の調略によってのものだった。黒田長政は歴史上、父黒田官兵衛ほど目立つ存在ではない。実際黒田官兵衛を特集した書籍、雑誌ならいくらでもあるが、黒田長政を特集したものはほとんど存在しない。

だが関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたというこの功績は、父官兵衛のかつての活躍を凌ぐ働きだったとも言える。なお幼馴染である竹中半兵衛の子、重門とは関ヶ原の戦いでは隣り合って布陣したと伝えられている。
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慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。


そもそも家康は、自ら蟄居させていた石田三成が挙兵するとは想像だにしていなかったようだ。家康に並び五大老の筆頭だった前田利家が亡くなると歯止めが利かなくなり、豊臣家のいわゆる武断派たちが三成を襲撃してしまう。その仲裁役を担った際、家康は三成に蟄居を命じていた。これにより家康は、三成を政治的には事実上葬ったつもりでいた。だがその三成が大谷吉継の協力を得て挙兵するという噂が湧き起こる。

この時奉行衆は家康に対し、三成と吉継が不穏な動きをしているため牽制して欲しいという要望を送った。だが三成は奉行衆たちを説得し、実は家康が太閤秀吉の遺言にいくつも背いているという事実をわからせた。それにより奉行衆は態度を変え、家康を太閤秀吉に対する反逆者と見做したのだった。

家康は上杉討伐のため7月21日に会津に向かったのだが、その時点で家康の耳に入っていたのは三成と吉継の結託だけだったようだ。家康からすれば、三成と吉継が結託したところで兵力は徳川家の1/10にしか過ぎず、気にする程度の規模ではなかった。だが家康が会津へ出立すると、三成の説得により奉行衆や多くの大名たちが態度を変え、反家康軍として集結してしまう。

道中、家康は多くの不穏な報せを受けた。とてもじゃないが会津に遠征していられるような状況ではなくなり、7月25日に遠征に帯同していた武将たちを集める。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)だ。小山評定では主に上杉景勝と石田三成の、どちらを先に討つかということが話し合われた。その結果三成を先に討つことが決定する。

その後家康はひとまず江戸城に戻るのだが、しばらく江戸城から出立できない状況が続いた。つまり奉行衆たちにより賊軍とされてしまったことで、親家康の大名たちの多くが西軍になびく可能性があったのだ。それは親家康の筆頭とも呼べる福島正則にしても同様だった。

その理由は家康が会津へ向かったことにより、豊臣秀頼が西軍の手に渡ってしまったためだった。秀吉亡き後、まだ幼い豊臣秀頼が淀殿の後見により豊臣家を継いでおり、実際にはまだ豊臣政権が続いていた。だが奉行衆が、家康が太閤秀吉の遺言に背いていると糾弾したことにより、家康は完全に賊軍に貶められてしまう。それによって親家康大名たちがこぞって西軍になびく可能性があり、家康は下手に江戸城を出られなくなってしまった。

だがこの危機を救ったのが黒田長政だった。長政だけは最初から最後まで親家康を貫き、奉行衆が糾弾した後も家康のために動き続けた。まず小山評定で福島正則をけしかけ、反三成で結託するように仕向けた黒幕が黒田長政だった。長政の働きもあり、小山評定の時点では大きな離脱者が出ることはなく、それどころか打倒三成で一致団結することになった。

さらにその後、長政は吉川広家の調略に尽力する。吉川広家と言えば毛利両川の吉川家、吉川元春の息子だ。そして吉川家が支える毛利家当主である輝元は、西軍の総大将の座に就いている。だが吉川広家は、輝元は安国寺恵瓊にそそのかされ知らぬうちに総大将に担ぎ上げられていた、と家康に申し開きをする。

毛利家の政治面を担当していたのが安国寺恵瓊で、軍事面を担当していたのが吉川広家だったのだが、しかしこのふたりは犬猿の仲だったようだ。特に広家が恵瓊のことを毛嫌いしていた。そのため恵瓊側では毛利を西軍に味方させようとし、広家側では家康に味方させようとしていた。

だが申し開きをしても広家はなかなか態度を明確にしなかった。つまり家康に味方するとなかなか明言しなかったのだ。その広家を時には嘘も交えて調略したのが黒田長政だった。最終的に長政はこの調略に成功し、関ヶ原の戦いで毛利軍を出撃させないことに成功する。

もし黒田長政の活躍がなければ西軍総大将である毛利輝元は当然出撃し、西軍からの離脱者も最小限に抑えられていたはずだ。そしてほとんど互角の兵力差の中、遠征軍を率いる東軍家康と、城を盾に戦える西軍とでは実は西軍に分があった。仮に黒田長政の調略がなければ、関ヶ原の戦いは西軍勝利で終わっていた可能性も高い。

長政の調略がなければ福島正則は豊臣秀頼を奉じる西軍に寝返っていた可能性もあり、さらには毛利輝元が出撃してくる可能性もあった。もしこのどちらかでも史実と逆の事実になっていれば、西軍が勝利していた可能性が高い。そう考えると関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたのは黒田長政の手腕によるところが大きいのである。

さすがは黒田官兵衛の息子であり、幼少時は竹中半兵衛に命を救われ教えを受けた武将だけのことはある。福島正則に対しても、吉川広家に対しても冷静に戦局を見極め、最適なポイントを突いていく能力を持っていた。黒田長政はいわゆる武断派に属されることも多いが、槍働きだけではなく、このような知略にも富んだ名将だったのである。
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慶長19年11月(1614年)、大坂冬の陣が勃発した。この直前、真田信繁(幸村)は関ヶ原の戦いで西軍に味方したことにより、徳川家康から九度山(高野山)への蟄居を命じられていた。実に10年以上にも及ぶ九度山生活だったわけだが、しかし家康の本音は、自らを大いに苦しませてくれた真田昌幸・信繁父子の処刑だった。


家康はふたりの処刑を強く望んでいたようだが、関ヶ原の戦いでは昌幸・信繁とは袂を分かち東軍に味方した真田信之(信繁の兄)、そして信之の舅である本多忠勝(徳川四天王)の説得により処刑は考え直し、高野山への配流という形で決着させた。昌幸は九度山からも再起を図ろうと苦心したが、しかし1611年、65年の生涯を九度山で閉じてしまう。

父昌幸を亡くした3年後、信繁の元に大坂城に入って欲しいという要請が届いた。つまり大坂冬の陣が始まるにあたり、豊臣側に味方して欲しいという参陣要請だ。この要請を信繁は快諾し、再び徳川を敵に回し戦う覚悟を固めた。父昌幸の無念を晴らすためにも。

NHK大河ドラマでも描かれる真田丸とは、この大坂冬の陣に登場する防衛線のことなのだが、そもそも信繁はなぜ真田丸を作らなければならなかったのか?そしてなぜ寡兵でその真田丸に篭り戦わなければならなかったのか?

大坂城には10万人にも及ぶ兵が集まったのだが、しかしこれは烏合の衆と呼ばざるを得ないものだった。絶対的な大将がいるわけではなく、豊臣勢を率いたのは21歳と若く経験も浅い豊臣秀頼で、しかも実権を握っていたのは淀殿だったとも言われている。そのため軍勢にはまとまりがまったくなく、戦略に関しても特に真田信繁と大野治長の間で意見が割れていた。

信繁と後藤又兵衛は出撃論を展開していたが、大野治長は籠城して徳川軍を疲弊させてから戦おうと主張した。信繁・又兵衛案には多くの武将が賛同したようだが、結局は淀殿と親しかった治長の主張が通ってしまう。だが信繁は出撃することで勝機が生まれるという確かな勝算を持っており、何とか大阪城の外で戦う道を模索した。

実は真田丸は、最初から信繁が作り上げたものではなかった。信繁が大坂城に入った頃にはすでに形が出来上がっており、入城後に普請を引き継いだ信繁が改良を加え真田丸として完成させたものだった。そして従来は大坂城に隣接する丸馬出しとして認識されていたが、しかし近年の史家の研究によれば、実は大坂城から200メートル以上も離れた場所に作られた独立砦だった可能性が高いらしい。

つまり大坂城への敵兵の侵入を防ぐのではなく、敵兵をすべて引き寄せ大坂城に近づけさせないための役割を真田丸は持っていたと言うのだ。これに関しては『翁物語』にも記されており、幸村の甥である真田信吉が信繁の陣中見舞いをした際「城より遥かに離れ予想だにしない場所に砦を構えたのは、城中に対するお気遣いあってのことなのでしょう」と信吉が信繁に対し語ったとされている。この信吉の言葉を信じるならば、やはり真田丸は大坂城からはかなり離れた場所に作られた砦だったのだろう。

200メートルも離れていては、当然火縄銃や弓などで援護を受けることはできない。信繁はまさに孤立無援状態で真田丸に篭り、徳川勢を撃退したようだ。以前、父昌幸が上田城で家康を苦しめた時のように。

大坂冬の陣、真田丸の前には前田利常(利家の息子)、藤堂高虎、伊達政宗ら、錚々たる武将たちが15軍団以上対陣した。しかし信繁は彼らを一切大坂城に近づけることなく、大坂城唯一の弱点と言われていた南方を最後まで守り抜いた。家康は総勢20万とも言われる兵力で大坂城を攻めたわけだが、その被害は甚大だった。そして徳川方の戦死者の8割は真田丸攻防戦によるものだったと伝えられている。

上田合戦では二度も家康を苦しめ、大坂冬の陣でも信繁は大いに徳川勢を苦しめた。この結果を見るならば関ヶ原の戦い直後、家康が昌幸・信繁父子を処刑したかったという気持ちもよくわかる。ふたりを生かしておけば、また自らを苦しめることになると家康はきっとわかっていたのだろう。
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毛利輝元と石田三成は盟友で、お互い助け合った場面が多々ある。この縁があり関ヶ原の戦いでは三成の要請に応える形で、輝元は西軍の総大将に就いている。だが輝元は関ヶ原開戦前に三成を裏切り、東軍に内通してしまった。兵力の分散など、毛利勢が関ヶ原でほとんど打って出なかった理由は他にもあるわけだが、一番の理由は東軍への内通だったようだ。

関ヶ原前の毛利家は、決して一枚岩とは言えない状況だった。まず小早川隆景を失ったことにより、毛利家は豊臣政権では力を失いつつあった。その上御家騒動を家康に干渉されるなどのこともあり、毛利家内は毛利輝元と吉川広家との派閥に二分されていた。もっと言えば政略を担当していた安国寺恵瓊派と、軍事面を担当していた吉川広家派とで関係が上手くいっていなかった。隆景が死んだことによりこの対立がより鮮明化されてしまい、関ヶ原の時点では毛利はまったく一枚岩とはなっていなかったのだ。

輝元の祖父、毛利元就はこうなることを予見していたからこそ「三矢の教え」を説いたのだろう。だが元就の願いも空しく、毛利家の分裂は日ごとに増してしまい、関ヶ原の時点では修復し難い状況にまで陥っていた。中でも広家は、恵瓊に対し良い感情をまったく持っていなかったと言う。

輝元は三成とも良好な関係を築いていたが、実は家康とも友好関係を結んでいた。そのため輝元が西軍の総大将になったことを聞くと、家康は非常に驚いたと言う。しかしこれを吉川広家が、すべては安国寺恵瓊の考えだと家康に弁明してしまう。つまり輝元は何も知らず、恵瓊の言う通りにしていたら西軍の総大将にされてしまった、というわけだ。

もちろん事実は違う。輝元と三成の関係あってこその総大将への就任であり、家康の毛利家に対する干渉への対抗心もあったようだ。だが最終的に輝元が優先したのは領地安堵だった。

関ヶ原の戦いは、総勢だけを見れば西軍も東軍もほぼ互角だった。この互角の戦力が真っ向から戦えば、どちらに勝利が傾くかはまったくわからない。だが毛利輝元が東軍として戦わないまでも、西軍として出陣さえしなければ、西軍には勝ち目はほとんどない。さらには小早川秀秋の東軍への内通も明らかになっていたため、輝元と秀秋が東軍に味方をすれば、ほとんど100%東軍が勝利するという状況だった。

そこに家康は東軍が勝利した暁には、現在の毛利の領地を安堵するという密約を輝元と結んだ。これにより関ヶ原の戦いが開戦する前日までに、西軍の総大将が事実上西軍から離脱する形となってしまった。この状況ではやはり西軍に勝ち目などまったくなく、開戦後は2時間も経たないうちに西軍は総崩れとなってしまった。

もう一度繰り返すが、輝元が西軍の総大将に就いたのは恵瓊の策略ではない。三成への友情と、家康への対抗心から輝元自らが総大将に就くことを了承したのだ。決して恵瓊が騙したわけではない。家康は広家の弁明を聞いたからこそ毛利の領地安堵を約束したわけだが、しかし関ヶ原の戦いが終わると、輝元が自らの意思で西軍の総大将に就いたという証拠が出てきてしまった。

これにより開戦前は120万石だった毛利家が、関ヶ原の戦いの後は30万石まで減封されてしまう。版図拡大に情熱を注いでいた輝元としては、立ち直れないほどの衝撃だったのだろう。減封後は間も無く隠居し一線から退いてしまった。ちなみにこの時、毛利家の取り潰しという話もあったようだが、吉川広家の尽力もありそれは回避され、30万石への減封で収まったのだと言われている。

だが冷静に考えれば、もし吉川広家が輝元に完全に味方し関ヶ原の戦いで奮闘していれば、西軍が勝利する可能性も決して低くはなかった。そして西軍が勝っていれば120万石以上を手にできた可能性もある。安国寺恵瓊にしても、そのような考えがあったからこそ西軍への参陣を説いていたのだろう。

しかし恵瓊を毛嫌いする広家の対応もあり、毛利家は結局関ヶ原では戦うこと自体を避けてしまった。最終的には周防・長門の30万石は維持できたものの、実はこの30万石は当初、家康は吉川広家に与えると言っていた。だが広家がそれを拒み、30万石は毛利家に与えて欲しいと懇願し、毛利家の改易処分が免れている。

もしかすると広家には、自分の対応が毛利家を取り潰してしまうところだったという罪悪感があったのかもしれない。だからこそ自らに与えられた30万石を、そっくりそのまま毛利家に譲ったのではないだろうか。今となっては真実は定かではないが、広家の一連の行動からは、そのようなことも想像できるのではないだろうか。
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慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いで、西軍最大の敗因は石田三成が籠城戦を選ばず、大垣城を出て野戦を選んでしまったことだと言われている。物語などではよく、野戦が得意な家康位に対し野戦を挑んだ三成を戦下手だと評しているが、家康が野戦を得意としていることは三成もよく知っていたはずだ。それなのになぜ三成は野戦を選んだのだろうか?!

一般的に考えれば西軍は大垣城を出るべきではなかった。東軍は大軍勢で美濃まで進行してきているため、兵站の確保が難しい。長期戦になるほど兵糧の消費も多くなり、戦が長引くほど籠城側に有利な状況になっていく。特に関ヶ原の戦いでは遠方から駆け付けた軍勢も多かったため、兵糧に関してはかなりの不安要素となっていた。

一方大垣城に入っていたのは三成自身であったため、兵糧など兵站の準備は得意分野であり、備えも万全だったはずだ。籠城しようと思えば1年以上は戦える準備を整えていたはずだ。そして籠城して堪えている間に東軍の士気が下がり、そこを突く形を取れば大きな勝機も見えて来たはずだ。それに関しては三成自身もそう考えていたのだろう。

しかし現実問題として、籠城するわけにはいかない状況に陥っていた。それは小早川秀秋の西軍離脱だ。関ヶ原の戦いが開戦する何日か前には、小早川秀秋の裏切りは疑いようもないものになっていた。その小早川秀秋が着陣したのが松尾山という、大垣城の西にある場所だった。

そして東側からは家康が西上してきている。つまり小早川秀秋の裏切りがほとんど確定した時点で、大垣城は小早川勢と徳川勢に挟撃されてしまう状況に陥ってしまったのだ。小早川勢が東軍に寝返ったとなれば、大垣城は完全に包囲される形になる。つまりは小田原攻めと同じ状況だ。例え堅固な城だったとしても、完全に包囲されて四方から攻められればひとたまりもない。

小早川秀秋の軍勢は、大垣城を包囲されないようにするため松尾山に配陣させたようなものだった。だがその小早川秀秋が東軍に内通してしまったため、大垣城は一気に窮地に陥ってしまう。これにより三成は、野戦を選ばざるをえない状況になったしまった。決して好き好んで野戦を選んだわけではない。もはや野戦を選ぶしかない状況になっていたのだ。

なおこの時東軍に寝返ったのは小早川秀秋だけではない。大谷吉継の軍勢に加わっていた脇坂安治、小川祐忠も藤堂高虎の調略により東軍に内通していた。9月15日の午前10時頃に開戦されると脇坂・小川が寝返り、その横からは小早川勢が突いてくる。これではさすがの大谷吉継でも太刀打ちはできない。開戦から間も無く、吉継は壮絶な討ち死にを果たしてしまう。

これにより西軍は総崩れになり、立て直しが不可能な状況になってしまった。関ヶ原の戦いは実際には2時間で終わってしまったと言う。江戸時代に書かれた軍記物では当初は西軍が善戦していたと書かれたものもあるが、事実はそうではない。軍記物に書かれている内容のほとんどは、家康の勝利を劇的に見せるための脚色だ。

事実は善戦するどころか、開戦直後に西軍は総崩れとなってしまったのだ。そしてさらに裏切り者として名を挙げるならば、毛利輝元もまた、開戦前日までに東軍に内通していたと言う。つまり西軍の総大将が東軍に内通したということだ。三成自身、まさか盟友であり西軍総大将の輝元に裏切られるとは夢にも思わなかっただろう。

関ヶ原の戦いは、調略という前哨戦ですべての勝敗が決してしまった。小早川秀秋、毛利輝元の調略に成功した徳川家康に対し、福島正則の調略に失敗してしまった石田三成。

石田三成は調略にあたり、とにかく秀吉に対する義を説いて福島正則の説得を試みた。一方の家康方は黒田長政が小早川秀秋の調略を担当したのだが、この時長政は幾度も嘘の情報を秀秋に対し送っている。やはり戦国の世に於いては義だけで生き抜くことはできないということなのだろう。だが義将石田三成が現代の通説のように悪人に仕立てられてしまったことは、どうしても納得し難いものだ。

だがそれができる人間が戦国の世では強い。羽柴秀吉は明智光秀を悪人に仕立て上げることにより、徳川家康は石田三成を悪人に仕立て上げることにより天下を奪った。そう考えると西軍の敗因は、石田三成の人柄の良さが招いてしまったと言うこともできるのかもしれない。