「石田三成」と一致するもの

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豊臣秀吉はなぜ文禄の役、慶長の役と二度に渡り唐入りを実施したのか?唐入り賛成派の武将というのは実はほとんどいなかった。大それた反論はしなかったものの石田三成でさえも唐入りには反対しており、実際に反乱の火種となりかねなかった豊臣秀次や千利休に至っては切腹させられている。秀吉はなぜ秀次や利休を切腹させてまで唐入りを目指したのだろうか。


実は唐入り構想の原案は秀吉のものではなかった。最初に唐入りを目指すと口にしたのは織田信長であり、それを嫌った明智光秀により信長は討たれてしまった。つまり秀吉は、信長が考えていたことをそのまま自分のアイデアとして取り入れてしまったということになる。

信長は日の本を統一した後は、有力大名たちには刈り取った朝鮮、民国の広大な土地を与え、国内の主要部は織田一門に任せるという構想を練っていた。本能寺の変直前、織田家で最も力を持っていた家臣が明智光秀であり、まさに光秀は朝鮮、民国に移封させられる最有力とされていた。

秀吉も同じことを考えていた。朝鮮、民国に攻め入り領地化し、力を持ち過ぎた大名たちを国内から追い出そうと考えていたのだ。そしてさらには領土を広げることにより、秀吉は大王になろうとしていたとも言われている。一説では実子捨(すて)の死の悲しみを癒すべく唐入りしたとも言われているが、一国を治める太閤(前関白の意)がそのような理由で戦を仕掛けるはずはない。

秀吉も信長同様、有力大名たちを国内から追い出すような形にし、国内は豊臣一門を中心に政権運営していくことを目指したのだった。そしてこれが実現されれば秀吉亡き後、有力大名に後継が狙われる心配もなくなる。秀吉としては先の短くなっていた命、後継が狙われる心配を排除した上で命を全うしたかったようだ。

だからこそ唐入りに意を唱え、クーデターを起こす可能性のあった豊臣秀次や千利休を、下手な言い掛かりをつけて切腹させてしまっている。実際多数の武将たちが秀次や利休を頼り、秀吉に唐入りを中止させるように頼んでいたようだ。秀吉としては唐入り反対派をまとめる役割を果たしていた秀次や利休が邪魔で仕方なかったというわけだ。

武器商人であった千利休としては、実際のところは唐入りという大掛かりな戦をしてくれた方が莫大な利益を得ることができた。それでも利休が唐入りに反対したということは、それだけ国益に繋がらない大義なき戦だと唐入りは見られていたのだろう。そして実際二度に渡り行なわれた唐入りは、大義も成果も何もない戦で、ただただ大名たちを疲弊させただけで終わってしまった。

だが秀吉からすれば、力を持ち過ぎた大名の体力を失わせただけでも、唐入りは成功に値するものだったのかもしれない。だが立派な武将に成長していた豊臣秀次を切腹させてしまったことで、豊臣政権はその後大きく揺らぐことになってしまう。秀次は素行が悪かったとも伝えられているが、しかしそれは切腹を命じた際のでっち上げだと考えられている。実際の秀次は武士としての習い事も真面目に取り組み、勤勉であり、教養にも優れた人物だった。

詳しくはこちらの巻に記しているが、秀次は千利休の愛弟子でもあった。そのため唐入りを阻止するために二人が結託していた可能性も非常に高い。だからこそこのふたりが揃って見せしめとして切腹させられたと考えるのが自然ではないだろうか。

日の本全体としては決して成功とは言えない結果に終わった唐入りだが、しかし秀吉個人からすれば上述の通り唐入りは決して失敗ではなかった。だがその唐入りをめぐっての秀次の切腹などにより、その後豊臣政権が行き行かなくなってしまった。もし秀次に切腹を命じていなければ幼い秀頼が家督を継ぐ状況にもならず、豊臣政権も秀吉一代では終わっていなかったかもしれない。

だが秀次を失ってしまったことにより豊臣政権は大きく揺らぎ、秀吉の死後はあっさりと徳川家康に政権を乗っ取られてしまった。そういう意味に於いては秀吉の唐入りは、特に秀吉の死後は豊臣家に大きな爪痕を残す形となってしまった。

天正19年(1591年) 千利休切腹
文禄元年(1592年)  文禄の役
文禄4年(1595年)  豊臣秀次切腹
慶長2年(1597年)  慶長の役
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2016年7月1日、大阪府内の民家から島左近の書状が2通見つかったと発表された。島左近は比較的残っている資料が少ない武将であり、その生涯の全貌は明らかにはなっていない。そういう意味でも実筆の書状が2通見つかったというのは、史家にとっては画期的発見となったのではないだろうか。


島左近清興という人物は、当初は筒井順慶に仕える家老だった。しかし順慶の死後に定次が家督を継ぐと、筒井家と左近の関係は悪化し、遂には左近は筒井家を飛び出して浪人となってしまう。その後は蒲生氏郷や豊臣秀長に仕えたりもしたが、その奉仕も長くは続かなかった。そんな左近に白羽の矢を立てたのが石田三成だった。

以降は関ヶ原で討ち死にする最期まで石田三成に仕え続けた。その島左近の書状が今回新たに発見されたわけだが、これは常陸国の佐竹義宣の家臣、小貫頼久と佐竹義久に宛てられたものだった。

2通とも天正18年(1590年)7月に書かれたもので、1通目の内容は豊臣政権に与することになった佐竹氏に対し、与するのはいいが人質だけは送りたくないと主張し続けた大掾清幹(だいじょうきよもと)の今後の処遇について、佐竹氏側に相談する内容だった。そして2通目は領地支配について指示する内容となる。

島左近は義理堅い猛将として知られる人物だ。石田三成が五奉行の一員となり佐和山城19万4千石の大名になった際も、三成からの知行増の申し出を断っているほどだ。左近は自分の知行を増やすくらいなら、その銭を石田軍の増強のために使って欲しいと逆に申し出たのだった。

そして関ヶ原の戦いでの猛将振りはもはや語るに及ばないだろう。戦場に島左近の姿を見るだけで敵武将は慄いたと言われるほどの猛将だった。そのイメージが強いため、あまり政治面のことは得意ではないように一般的には伝えられている。だがこの2通の書状により石田三成の下、島左近が政治交渉にも当たっていたことが明らかになってきたのだ。

ちなみのこの2通の書状は直に目にすることができる。2016年7月23日から8月31日までの間、長浜城歴史博物館で「石田三成と西軍の関ヶ原合戦」という特別展で一般公開されることになっている。もし島左近の直筆文字を見てみたいという方は、ぜひ夏休みを利用して足を運んでみてください。
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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の最大の相違点のひとつに、キリスト教を認めたか否かということがある。秀吉は天正15年(1587年)にバテレン追放令を出し、徳川家康も慶長17年(1612年)に禁教令を出し教会の取り壊しを進めた。ではなぜ織田信長だけがキリスト教を手厚く持て成したのだろうか?!


考えらえることとしてはまず、織田信長自身が南蛮文化に強い興味を抱いていたという点が挙げられる。晩年の信長は日本的な甲冑ではなく、ヨーロッパで使われているような鎧やマントをまとっていたし、葡萄酒も好んで飲んでいたと伝えられている。南蛮の珍品は、すべてキリスト教の宣教師によって日本に持ち込まれた。そのような珍品を手に入れたいという思いもあり、キリスト教の布教を認めていたのだろう。

さらに信長は比叡山を焼き討ちにしたことでもわかるように、一部の堕落した僧侶を憎んでいた。そのような僧侶を一掃し、キリスト教という新たなものを利用することにより、日の本全体を新しく作り変えようとしていた可能性もある。事実信長という人物は、日の本を新たに作り直したいという強い思いを抱いていたため、そのためにキリスト教を利用しようと考えていた可能性は高い。

だがそれ以上に信長が目指したのは、南蛮貿易による莫大な利益を得ることだ。当時の南蛮貿易はキリスト教宣教師の専売特許だった。南蛮貿易と布教活動はセットで考えられており、南蛮貿易によって利益を得るためには、宣教師たちと良好な関係を築かなければならない。

信長が目指したのは、堺などの商人たちに南蛮貿易で大きな利益を得させ、その商人たちから莫大な税金を取るという形だった。そのため信長自身で貿易を行ったという形跡は見当たらない。信長はあくまでも珍品を集めるだけで、実際には堺の商人たちに海を渡らせて、海外との貿易を盛んにしていこうと考えていたようだ。

ちなみに豊臣秀吉が文禄の役、慶長の役で朝鮮に出兵した際、石田三成は上述したような信長と同じ考えを持っていた。朝鮮や明を支配下にするよりは、友好関係を結んで貿易を盛んに行なっていくことが国益に繋がると考えていた。だが秀吉は三成の考えを汲むことはせず、朝鮮や明と敵対する道を選んでしまう。

さて、それでは秀吉と家康はなぜバテレン追放令を出したのか。その理由は宣教師たちが秀吉や家康の支配下にされることを嫌ったからだった。特に後発組の宣教師たちが支配下に入ることを毛嫌いし、秀吉や徳川幕府の怒りを買ってしまう。逆に古参の宣教師たちは日本文化をよく理解していたため、後発の宣教師たちを説得しようと試みたようだが上手くはいかなかった。

さらに突っ込んだ話をすれば、鉄砲などの火器も貿易によって日本に入ってきた。信長は最新の武器を南蛮貿易によって手に入れようとも考えていたようだ。鉄砲の威力は長篠の戦いですでに証明されており、戦上手の信長としては重火器を使った戦いをさらに進化させたいと考えていたのだろう。

このように信長にとってのキリスト教とは単に宗教問題ではなく、その主旨は実は貿易による利益を得ることにあった。宗教そのものに深い関心がなかったからこそ、織田信長はいわゆるキリシタン大名になることもなかったのかもしれない。
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慶長5年(1600)年9月15日午前に開戦し、あっという間に東軍勝利に終わった関ヶ原の戦い。真田昌幸・信繁(幸村)父子は西軍に味方し、信繁の兄である信之は東軍に味方した。何と親子が敵味方に分かれて戦う形になったのだが、これはどちらが勝っても負けても真田の家が滅ばないようにと、昌幸があえてこのような状況を選んだとも伝えられている。

真田昌幸は過去、幾度となく東軍大将の徳川家康を苦しめてきた。そのため家康は昌幸のことを目の敵にしている。そして昌幸自身も、家康に煮え湯を飲まされた経験があり積年の鬱憤を晴らしたいと考えていた。そのため昌幸に東軍に味方するという選択肢はほとんどなかった。

しかし信之に関しては事情が異なる。信之は家康に対しそれほど負の感情は持っていなかったとされている。そして徳川四天王である本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎えているという事情もあり、信之は家康率いる東軍に味方することになった。この時信之は再三東軍に味方するようにと昌幸を説得したようだが、しかし昌幸が首を縦に振ることは最後までなかった。

だが個人的な恨みだけで敵味方を決める真田昌幸ではない。勝機ありと見たからこそ、昌幸は西軍に味方したのである。それは関ヶ原から遡ること10年、天正18年(1590年)の忍城の戦いで石田三成の器量の良さを目の当たりにし、この人物の用意周到さがあれば必ず家康に勝てると踏んだからこそ、昌幸は西軍に味方していたのだ。

そうでなければ表裏比興の者と秀吉に言わしめた真田昌幸が、個人的な恨みだけで家康の的に回るはずがない。より高い確率で真田の家を守れると考えたからこそ、昌幸は西軍に味方したのだ。そして昌幸の働きは見事だった。父家康の恨みを晴らすべく徳川秀忠が4万近い大軍を率いて上田城に攻めてきたのだが、昌幸は関ヶ原の前哨戦となったこの戦いに見事勝利した。

この戦いが第二次上田合戦と呼ばれる物だが、実は信之も義弟本多忠政と共に上田城攻めに従っていた。そして父昌幸に開城するようにと説得を試みたが、この時もやはり昌幸が首を縦に振ることはなかった。

さて、信之の妻が本多忠勝の娘であれば、信繁の妻は大谷吉継の娘だった。大谷吉継とは、石田三成と共に関ヶ原の戦いを仕掛けた人物であり、三成の盟友でもあった名将だ。大谷吉継が義父である限り、信繁としては西軍に味方するしかなかった。また、真田昌幸の正室山手殿は石田三成の妻とは姉妹だった。

信繁はこの時、上田城の支城である砥石城を守っていた。この砥石城攻めを任されたのが兄信之だったわけだが、信繁は兄が攻めて来たと知るとすぐに砥石城を捨て、上田城に入ってしまった。信繁には、兄が疑われていることがわかっていた。今は東軍に付いているものの、信之はいつ裏切って父昌幸の元に走るかわからないと思われていたのだ。その疑いを晴らすためにも信繁はあえて兄と戦うことは避け、信之が真田攻めをやり切り徳川を裏切らなかったと秀忠らに思わせようとしたようだ。

砥石城はこのようにした落ちたものの、上田城は昌幸・信繁父子の抗戦により最後まで落ちることはなく、第二次上田合戦もまた、第一次同様に真田勝利で終わったのだった。だが本戦となった関ヶ原では西軍石田三成が、東軍徳川家康に敗れてしまう。これによって真田昌幸・信繁父子は賊軍として扱われてしまうのだった。

関ヶ原後、家康は昌幸・信繁父子を処刑しようとした。だが信之や本多忠勝の説得により、九度山(高野山)への流罪で決着した。この時真田昌幸は信之に対し「さてもさても口惜しきかな。内府(だいふ・徳川家康)をこそ、このように(九度山流罪)してやろうと思ったのに」と語ったと『真田御武功記』に残されている。これは関ヶ原の戦いが終わってしばらくしたのち、信之がふと口にしたことを書き残したものであるようだ。

九度山での生活は侘しいものだった。流罪から10年ほど経つと昌幸は病気がちになり、67歳でその生涯に幕を下ろしてしまう。だが昌幸の意志は信繁が受け継いだ。昌幸の死から3年後に起こった大坂冬の陣で、信繁は真田丸で善戦し、再び徳川勢を大いに苦しめる戦いを見せるのだった。
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慶長5年(1600年)9月15日に開戦された関ヶ原の戦い、一般的には東軍徳川家康が勝つべくして勝ったと理解されている。だが決して楽な戦いではなく、実は開戦する以前の前哨戦に於いては家康は賊軍に成り下がる可能性すらあった。いや、事実賊軍として見做され、一時は身動きが取れない状況にも陥っていた。だがこの危機を救ったのが黒田長政、つまり黒田官兵衛の息子だったのだ。


そもそも家康は、自ら蟄居させていた石田三成が挙兵するとは想像だにしていなかったようだ。家康に並び五大老の筆頭だった前田利家が亡くなると歯止めが利かなくなり、豊臣家のいわゆる武断派たちが三成を襲撃してしまう。その仲裁役を担った際、家康は三成に蟄居を命じていた。これにより家康は、三成を政治的には事実上葬ったつもりでいた。だがその三成が大谷吉継の協力を得て挙兵するという噂が湧き起こる。

この時奉行衆は家康に対し、三成と吉継が不穏な動きをしているため牽制して欲しいという要望を送った。だが三成は奉行衆たちを説得し、実は家康が太閤秀吉の遺言にいくつも背いているという事実をわからせた。それにより奉行衆は態度を変え、家康を太閤秀吉に対する反逆者と見做したのだった。

家康は上杉討伐のため7月21日に会津に向かったのだが、その時点で家康の耳に入っていたのは三成と吉継の結託だけだったようだ。家康からすれば、三成と吉継が結託したところで兵力は徳川家の1/10にしか過ぎず、気にする程度の規模ではなかった。だが家康が会津へ出立すると、三成の説得により奉行衆や多くの大名たちが態度を変え、反家康軍として集結してしまう。

道中、家康は多くの不穏な報せを受けた。とてもじゃないが会津に遠征していられるような状況ではなくなり、7月25日に遠征に帯同していた武将たちを集める。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)だ。小山評定では主に上杉景勝と石田三成の、どちらを先に討つかということが話し合われた。その結果三成を先に討つことが決定する。

その後家康はひとまず江戸城に戻るのだが、しばらく江戸城から出立できない状況が続いた。つまり奉行衆たちにより賊軍とされてしまったことで、親家康の大名たちの多くが西軍になびく可能性があったのだ。それは親家康の筆頭とも呼べる福島正則にしても同様だった。

その理由は家康が会津へ向かったことにより、豊臣秀頼が西軍の手に渡ってしまったためだった。秀吉亡き後、まだ幼い豊臣秀頼が淀殿の後見により豊臣家を継いでおり、実際にはまだ豊臣政権が続いていた。だが奉行衆が、家康が太閤秀吉の遺言に背いていると糾弾したことにより、家康は完全に賊軍に貶められてしまう。それによって親家康大名たちがこぞって西軍になびく可能性があり、家康は下手に江戸城を出られなくなってしまった。

だがこの危機を救ったのが黒田長政だった。長政だけは最初から最後まで親家康を貫き、奉行衆が糾弾した後も家康のために動き続けた。まず小山評定で福島正則をけしかけ、反三成で結託するように仕向けた黒幕が黒田長政だった。長政の働きもあり、小山評定の時点では大きな離脱者が出ることはなく、それどころか打倒三成で一致団結することになった。

さらにその後、長政は吉川広家の調略に尽力する。吉川広家と言えば毛利両川の吉川家、吉川元春の息子だ。そして吉川家が支える毛利家当主である輝元は、西軍の総大将の座に就いている。だが吉川広家は、輝元は安国寺恵瓊にそそのかされ知らぬうちに総大将に担ぎ上げられていた、と家康に申し開きをする。

毛利家の政治面を担当していたのが安国寺恵瓊で、軍事面を担当していたのが吉川広家だったのだが、しかしこのふたりは犬猿の仲だったようだ。特に広家が恵瓊のことを毛嫌いしていた。そのため恵瓊側では毛利を西軍に味方させようとし、広家側では家康に味方させようとしていた。

だが申し開きをしても広家はなかなか態度を明確にしなかった。つまり家康に味方するとなかなか明言しなかったのだ。その広家を時には嘘も交えて調略したのが黒田長政だった。最終的に長政はこの調略に成功し、関ヶ原の戦いで毛利軍を出撃させないことに成功する。

もし黒田長政の活躍がなければ西軍総大将である毛利輝元は当然出撃し、西軍からの離脱者も最小限に抑えられていたはずだ。そしてほとんど互角の兵力差の中、遠征軍を率いる東軍家康と、城を盾に戦える西軍とでは実は西軍に分があった。仮に黒田長政の調略がなければ、関ヶ原の戦いは西軍勝利で終わっていた可能性も高い。

長政の調略がなければ福島正則は豊臣秀頼を奉じる西軍に寝返っていた可能性もあり、さらには毛利輝元が出撃してくる可能性もあった。もしこのどちらかでも史実と逆の事実になっていれば、西軍が勝利していた可能性が高い。そう考えると関ヶ原の戦いを東軍勝利に導いたのは黒田長政の手腕によるところが大きいのである。

さすがは黒田官兵衛の息子であり、幼少時は竹中半兵衛に命を救われ教えを受けた武将だけのことはある。福島正則に対しても、吉川広家に対しても冷静に戦局を見極め、最適なポイントを突いていく能力を持っていた。黒田長政はいわゆる武断派に属されることも多いが、槍働きだけではなく、このような知略にも富んだ名将だったのである。
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毛利輝元と石田三成は盟友で、お互い助け合った場面が多々ある。この縁があり関ヶ原の戦いでは三成の要請に応える形で、輝元は西軍の総大将に就いている。だが輝元は関ヶ原開戦前に三成を裏切り、東軍に内通してしまった。兵力の分散など、毛利勢が関ヶ原でほとんど打って出なかった理由は他にもあるわけだが、一番の理由は東軍への内通だったようだ。

関ヶ原前の毛利家は、決して一枚岩とは言えない状況だった。まず小早川隆景を失ったことにより、毛利家は豊臣政権では力を失いつつあった。その上御家騒動を家康に干渉されるなどのこともあり、毛利家内は毛利輝元と吉川広家との派閥に二分されていた。もっと言えば政略を担当していた安国寺恵瓊派と、軍事面を担当していた吉川広家派とで関係が上手くいっていなかった。隆景が死んだことによりこの対立がより鮮明化されてしまい、関ヶ原の時点では毛利はまったく一枚岩とはなっていなかったのだ。

輝元の祖父、毛利元就はこうなることを予見していたからこそ「三矢の教え」を説いたのだろう。だが元就の願いも空しく、毛利家の分裂は日ごとに増してしまい、関ヶ原の時点では修復し難い状況にまで陥っていた。中でも広家は、恵瓊に対し良い感情をまったく持っていなかったと言う。

輝元は三成とも良好な関係を築いていたが、実は家康とも友好関係を結んでいた。そのため輝元が西軍の総大将になったことを聞くと、家康は非常に驚いたと言う。しかしこれを吉川広家が、すべては安国寺恵瓊の考えだと家康に弁明してしまう。つまり輝元は何も知らず、恵瓊の言う通りにしていたら西軍の総大将にされてしまった、というわけだ。

もちろん事実は違う。輝元と三成の関係あってこその総大将への就任であり、家康の毛利家に対する干渉への対抗心もあったようだ。だが最終的に輝元が優先したのは領地安堵だった。

関ヶ原の戦いは、総勢だけを見れば西軍も東軍もほぼ互角だった。この互角の戦力が真っ向から戦えば、どちらに勝利が傾くかはまったくわからない。だが毛利輝元が東軍として戦わないまでも、西軍として出陣さえしなければ、西軍には勝ち目はほとんどない。さらには小早川秀秋の東軍への内通も明らかになっていたため、輝元と秀秋が東軍に味方をすれば、ほとんど100%東軍が勝利するという状況だった。

そこに家康は東軍が勝利した暁には、現在の毛利の領地を安堵するという密約を輝元と結んだ。これにより関ヶ原の戦いが開戦する前日までに、西軍の総大将が事実上西軍から離脱する形となってしまった。この状況ではやはり西軍に勝ち目などまったくなく、開戦後は2時間も経たないうちに西軍は総崩れとなってしまった。

もう一度繰り返すが、輝元が西軍の総大将に就いたのは恵瓊の策略ではない。三成への友情と、家康への対抗心から輝元自らが総大将に就くことを了承したのだ。決して恵瓊が騙したわけではない。家康は広家の弁明を聞いたからこそ毛利の領地安堵を約束したわけだが、しかし関ヶ原の戦いが終わると、輝元が自らの意思で西軍の総大将に就いたという証拠が出てきてしまった。

これにより開戦前は120万石だった毛利家が、関ヶ原の戦いの後は30万石まで減封されてしまう。版図拡大に情熱を注いでいた輝元としては、立ち直れないほどの衝撃だったのだろう。減封後は間も無く隠居し一線から退いてしまった。ちなみにこの時、毛利家の取り潰しという話もあったようだが、吉川広家の尽力もありそれは回避され、30万石への減封で収まったのだと言われている。

だが冷静に考えれば、もし吉川広家が輝元に完全に味方し関ヶ原の戦いで奮闘していれば、西軍が勝利する可能性も決して低くはなかった。そして西軍が勝っていれば120万石以上を手にできた可能性もある。安国寺恵瓊にしても、そのような考えがあったからこそ西軍への参陣を説いていたのだろう。

しかし恵瓊を毛嫌いする広家の対応もあり、毛利家は結局関ヶ原では戦うこと自体を避けてしまった。最終的には周防・長門の30万石は維持できたものの、実はこの30万石は当初、家康は吉川広家に与えると言っていた。だが広家がそれを拒み、30万石は毛利家に与えて欲しいと懇願し、毛利家の改易処分が免れている。

もしかすると広家には、自分の対応が毛利家を取り潰してしまうところだったという罪悪感があったのかもしれない。だからこそ自らに与えられた30万石を、そっくりそのまま毛利家に譲ったのではないだろうか。今となっては真実は定かではないが、広家の一連の行動からは、そのようなことも想像できるのではないだろうか。
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慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦いで、西軍最大の敗因は石田三成が籠城戦を選ばず、大垣城を出て野戦を選んでしまったことだと言われている。物語などではよく、野戦が得意な家康位に対し野戦を挑んだ三成を戦下手だと評しているが、家康が野戦を得意としていることは三成もよく知っていたはずだ。それなのになぜ三成は野戦を選んだのだろうか?!

一般的に考えれば西軍は大垣城を出るべきではなかった。東軍は大軍勢で美濃まで進行してきているため、兵站の確保が難しい。長期戦になるほど兵糧の消費も多くなり、戦が長引くほど籠城側に有利な状況になっていく。特に関ヶ原の戦いでは遠方から駆け付けた軍勢も多かったため、兵糧に関してはかなりの不安要素となっていた。

一方大垣城に入っていたのは三成自身であったため、兵糧など兵站の準備は得意分野であり、備えも万全だったはずだ。籠城しようと思えば1年以上は戦える準備を整えていたはずだ。そして籠城して堪えている間に東軍の士気が下がり、そこを突く形を取れば大きな勝機も見えて来たはずだ。それに関しては三成自身もそう考えていたのだろう。

しかし現実問題として、籠城するわけにはいかない状況に陥っていた。それは小早川秀秋の西軍離脱だ。関ヶ原の戦いが開戦する何日か前には、小早川秀秋の裏切りは疑いようもないものになっていた。その小早川秀秋が着陣したのが松尾山という、大垣城の西にある場所だった。

そして東側からは家康が西上してきている。つまり小早川秀秋の裏切りがほとんど確定した時点で、大垣城は小早川勢と徳川勢に挟撃されてしまう状況に陥ってしまったのだ。小早川勢が東軍に寝返ったとなれば、大垣城は完全に包囲される形になる。つまりは小田原攻めと同じ状況だ。例え堅固な城だったとしても、完全に包囲されて四方から攻められればひとたまりもない。

小早川秀秋の軍勢は、大垣城を包囲されないようにするため松尾山に配陣させたようなものだった。だがその小早川秀秋が東軍に内通してしまったため、大垣城は一気に窮地に陥ってしまう。これにより三成は、野戦を選ばざるをえない状況になったしまった。決して好き好んで野戦を選んだわけではない。もはや野戦を選ぶしかない状況になっていたのだ。

なおこの時東軍に寝返ったのは小早川秀秋だけではない。大谷吉継の軍勢に加わっていた脇坂安治、小川祐忠も藤堂高虎の調略により東軍に内通していた。9月15日の午前10時頃に開戦されると脇坂・小川が寝返り、その横からは小早川勢が突いてくる。これではさすがの大谷吉継でも太刀打ちはできない。開戦から間も無く、吉継は壮絶な討ち死にを果たしてしまう。

これにより西軍は総崩れになり、立て直しが不可能な状況になってしまった。関ヶ原の戦いは実際には2時間で終わってしまったと言う。江戸時代に書かれた軍記物では当初は西軍が善戦していたと書かれたものもあるが、事実はそうではない。軍記物に書かれている内容のほとんどは、家康の勝利を劇的に見せるための脚色だ。

事実は善戦するどころか、開戦直後に西軍は総崩れとなってしまったのだ。そしてさらに裏切り者として名を挙げるならば、毛利輝元もまた、開戦前日までに東軍に内通していたと言う。つまり西軍の総大将が東軍に内通したということだ。三成自身、まさか盟友であり西軍総大将の輝元に裏切られるとは夢にも思わなかっただろう。

関ヶ原の戦いは、調略という前哨戦ですべての勝敗が決してしまった。小早川秀秋、毛利輝元の調略に成功した徳川家康に対し、福島正則の調略に失敗してしまった石田三成。

石田三成は調略にあたり、とにかく秀吉に対する義を説いて福島正則の説得を試みた。一方の家康方は黒田長政が小早川秀秋の調略を担当したのだが、この時長政は幾度も嘘の情報を秀秋に対し送っている。やはり戦国の世に於いては義だけで生き抜くことはできないということなのだろう。だが義将石田三成が現代の通説のように悪人に仕立てられてしまったことは、どうしても納得し難いものだ。

だがそれができる人間が戦国の世では強い。羽柴秀吉は明智光秀を悪人に仕立て上げることにより、徳川家康は石田三成を悪人に仕立て上げることにより天下を奪った。そう考えると西軍の敗因は、石田三成の人柄の良さが招いてしまったと言うこともできるのかもしれない。
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戦国時代に使われていた名前は、生涯のうちで何度も変わることも多かった。例えば豊臣秀吉などは、若い頃は木下藤吉郎、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と変わり、最後は天皇から苗字を賜り豊臣秀吉と名乗った。今回は戦国時代の名前、呼び方について少し書き留めておきたい。

諱は時の権力者から一字もらうことが多い

戦国武将たちがまず与えられる名前は幼名(ようみょう)だ。幼名とはその名の通り生まれてすぐ付けられる名前のことで、織田信長であれば幼少期は吉法師、真田信繁であれば弁丸と名乗っていた。13歳を過ぎると男子は元服していくのだが、元服をするまではこの幼名を名乗ることになる。

元服をすませると諱(いみな)と、烏帽子親(えぼしおや)によって仮名(けみょう)が与えられる。「真田」が苗字、「源次郎」が仮名、「信繁」が諱、ということになり、諱は時の権力者などから一字もらうことが多い。信繁の場合は武田信玄から一字もらった形だ。

織田信長のことを「信長様」と呼ぶことは非常に失礼なことだった

官位を持っていない武将の場合、仮名で呼ばれることが一般的で、諱で呼ばれることはほとんどない。特に位の高い相手を諱で呼ぶことは失礼に当たり、「信長様」と呼ぶことはまずない。信長は晩年右大臣に就いていたのだが、その役職から信長は「右府(うふ)様」と呼ばれていた。

なお諱というのは元々は、生前の徳行によって死後に贈られる称号のことで、諡(おくりな)とも言われる。漢字も本来は「忌み名」と書くことから、相手を諱で呼ぶことはほとんどなかった。真田源次郎信繁は「源次郎」、竹中半兵衛重治であれば「半兵衛」、黒田官兵衛孝高であれば「官兵衛」と仮名で呼ばれていた。ちなみに信長の仮名は三郎だ。

テレビではわかりやすいように諱で呼ばせている?!

例えば石田三成はテレビドラマなどでは「治部少(じぶのしょう)」や「治部殿」と官途(かんど)で呼ばれているが、やはり諱で呼ばれることはななく、官職が与えられる前は仮名である「佐吉」と呼ばれていた。

テレビドラマでは時々、諱で「信長様」「秀吉様」と呼ぶ場面が見られるが、実際にそう呼ばれることはなかった。ドラマの場合は視聴者にわかりやすいように、あえて諱で呼ばせているのだろう。だが大河ドラマなど、最近のドラマでは比較的官途が使われていることが多いように感じられる。例えば徳川家康のことも「内府(だいふ)殿」と呼ばせることが多い。

家康を内府(ないふ)殿と呼ぶのは実は間違い!?

なお治部少(じぶのしょう)というのは明での読み方となる。日本語では「おさむるつかさ」と読むようで、戦国時代当時は役職を唐名(とうみょう)で読むことが一般的だった。現代に於いては、最高経営責任者のことをCEOと英語で呼ぶようなものだ。また、徳川家康のことを内府(ないふ)と呼んでいるドラマもあるが、これは恐らくは間違いだと思う。内府(ないふ)というのは明治憲法下での呼び方であり、戦国時代では内府(だいふ)と唐名で呼ぶのが正解だ。

羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、その経緯を記した軍記物(現代で言うところの歴史小説)を書かせた際、題名は『惟任退治記』だった。この頃の明智光秀は、惟任日向守光秀と名乗っていた。惟任とは天皇から与えられる氏(うじ)であり、源、平、藤原、橘、豊臣などと同じ部類のものとなる。主君信長を討った光秀のことさえも諱では呼ばず、氏で呼んでいることから、やはり当時は諱で呼ぶことが相当憚られていたのだろう。ちなみに光秀の仮名は十兵衛だった。

最後に付け加えておくと、この諱によって引き起こされた事件があった。方広寺鐘銘事件だ。この事件がきっかけで大坂冬の陣が勃発したわけだが、この時は豊臣方が鐘に「家康」と諱を使ったことを理由にし、家康は大坂城を攻める口実としている。

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賤ヶ岳の戦いと言えば、とにかく真っ先に出てくるのは七本槍だ。賎ヶ岳の七本槍とは糟屋武則、片桐且元、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、福島正則、脇坂安治のことで、この戦いで武功を挙げた秀吉の若き近習たちだ。しかし賤ヶ岳で活躍したのは七本槍だけではない。賎ヶ岳の先駆け衆と呼ばれた14人の若者もおり、その中には石田三成、大谷吉継らが含まれていた。


先駆け衆とは一番槍の武功を挙げた者たちのことで、その名の通り本体よりも先駆けて戦場で戦った者たちのことを呼ぶ。石田三成という人物は、いわゆる武断派と呼ばれた加藤清正、福島正則、黒田長政らとは反りが合わず、武断派の面々は三成は槍働きをせずに出世したと思い込んでいた。確かに武功という意味では三成は武断派には敵わない。だが武断派の活躍は三成あってこそのものだったことを、決して見逃してはならない。

柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いに於いて、羽柴軍は5万を超える大軍となっていた。三成はまず、その5万人分の兵糧の調達を秀吉から命じられた。5万人分の兵糧とは、まさに途方もない数字だ。この時三成は大谷吉継に、5万人の軍勢が何日間食べられるだけ兵糧を用意すればいいかと相談していた。それに対し吉継は1ヵ月半と弾き出した。吉継が軍略に富んだ人物であることは三成もよく知っている。三成は吉継の言葉を信じ、5万人が1ヵ月半食べられるだけの兵糧を準備した。事実この戦いは1ヵ月少々期間で勝敗jが決した。

そしてもちろん揃えるのは兵糧だけではない。鉄砲の玉や硝煙などの武器を揃えたのも三成だった。つまり七本槍が心置きなく戦えたのは、三成が兵糧などを抜かりなく準備してくれたお陰なのである。だが武断派たちはそれを持って三成は槍働きをしていない、と不満を募らせる。

さて、この時三成が任されたのは兵站だけではない。賤ヶ岳での決戦に及ぶ前、秀吉は岐阜城の織田信孝を攻めていた。その隙を突いて柴田勢が賤ヶ岳近くの木之本の羽柴陣営に攻め寄せてきた。柴田勢屈指の猛将佐久間盛政だ。だが佐久間盛政は手薄だったはずの木之本を攻撃することができなかった。

秀吉は岐阜城の信孝を攻めているはずだった。しかし木之本には数え切れない程の松明が灯されている。佐久間盛政はそれを見て、秀吉の本陣がもう木之本まで戻って来たと勘違いしたのだった。さすがの佐久間盛政であっても、秀吉の大軍勢を相手に戦うわけにはいかない。そのため盛政はその松明を見ると、すぐに後退していった。

しかしその松明は、羽柴勢本体が木之本まで戻ったものではなかった。三成が先駆けて木之本まで戻り、農民らの手を借りて杭に笠をかぶせ偽装したものだった。つまりは案山子だ。その案山子を羽柴本体だと勘違いして佐久間盛政は撤退していったのである。もしこの時佐久間盛政が攻め入れば、木之本はあっさりと陥落していた。そしてその後の戦いも柴田勢有利に進み、賤ヶ岳の戦いの結果ももしかしたら変わっていたかもしれない。

このような三成の策略があったからこそ、七本槍の若者たちが活躍する機会も生まれた。なお三成の賤ヶ岳での活躍はこれだけではない。早馬や狼煙を活用することにより、情報を限りなく速くやり取りするシステムの構築も行っていた。狼煙の色によって伝達内容をあらかじめ決め、早馬も一里(約4キロ)置きに馬を置き、常に最速の馬の走りで伝達できるように工夫していた。

七本槍の活躍も見事だったわけだが、しかし石田三成ら十四人の先駆け衆の活躍も、この通り見事だったのである。それでも七本槍ばかりが注目されてきたのはやはり、家康の天敵であった三成の情報が江戸時代に入り、恣意的に捻じ曲げられてしまったせいなのだろう。もし三成が関ヶ原で敗れていなければ、賤ヶ岳の先駆け衆ももっと注目されて然るべきだった。

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織田家に於いて、前田利家ほど武功により出世した人物はいないのではないだろうか。豊臣家で後に武断派と呼ばれる加藤清正、福島正則、黒田長政らも、前田利家のことをとても尊敬しており、特に加藤清正は利家への尊敬の念が強かったと言う。やはり武断派たちにとって、前田利家という武功によって大出世した人物は憧れの的だったのだろう。


前田利家は尾張荒子城主前田利春の四男として生まれた。四男であれば通常は家督を継ぐことはできず、出世を望むことなどほとんどできない時代だった。だが若き日の信長は家督を継ぐことができない次男以下の有能な人物を集め軍団を形成していた。その1人が前田利家だったというわけだ。

通称又左衛門こと若かりし頃の前田利家は、「槍の又左」と呼ばれたほどの槍の名手だった。6.3メートルもの長槍を悠然と振り回していたらしい。そして時には右目に矢傷を負いながらも槍を振り回し続け、敵将の首を打ち取るという武功も残している。

織田信長は前田利家のことを高く買っていた。だがある日利家は、自らの笄(こうがい・刀の付属品)を盗んだ拾阿弥(じゅあみ)を怒りに任せ惨殺してしまった。拾阿弥は信長の家臣だったため、いくら盗みを働いたとしても惨殺は大きな罪となり、利家は織田家を追放されてしまう。これが永禄2年(1559年)の出来事だった。つまり桶狭間の戦いの前年だ。

この惨殺事件により利家は織田家臣団として桶狭間に参戦することができなくなってしまった。だが利家はそれでも勝手に従軍し、織田軍の一員としていくつもの武功を挙げた。そして桶狭間でのその活躍により、利家は再び織田家に帰参することが許され、信長の赤母衣衆に加えられた。

前田家の家督は当然だが長男の利久が継いでいた。だが利久が病弱で子もいなかったため、永禄12年(1569年)になると信長は、利久に替わり利家に前田家を継ぐようにと命じた。これによって利家は四男だったにも関わらず家督を継ぐことができ、以降は主に北陸方面でその武力を発揮していった。

そして天正9年(1581年)になると信長から能登一国を与えられ、本来は家督さえ継げないはずの四男が国持大名にまで出世してしまった。翌年信長が横死すると、利家は最終的には秀吉に味方をし、豊臣政権では五大老という立場で徳川家康と肩を並べた。

同じ五大老の中でも利家は特に人望の厚い人物だった。そのため何か問題が起こったとしても、利家が説得をすれば事なきを得ることも多かったと言う。豊臣政権内で石田三成を敵対視していた加藤清正、福島正則、黒田長政らは、三成の暗殺を企てていた。だが利家の存在によりそれを思いとどまっていたのだが、しかし利家が亡くなるとその翌日、三成の襲撃を実行してしまう(ただし失敗に終わる)。

織田家に於いては出世頭のひとりであり、豊臣政権に於いては内外ともに調整役としてなくてはならない存在だった。若い頃は傾奇者として鳴らした利家も、晩年はすっかり温厚な宿老となっていた。だがその温厚さの陰には絶対的な強さや信念があり、だからこそ豊臣秀吉も家康への抑えとして利家には全幅の信頼を置くことができたのだ。ちなみに利家と秀吉は若い頃から夫婦同士での付き合いがあり、犬千代、猿だったにも関わらず犬猿の仲ではなく、むしろ強い絆で結ばれていたのだった。