「本能寺の変」と一致するもの

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明智光秀本能寺の変の一連の出来事の後、天海僧正として徳川家康に仕えたという説が唱えられている。しかしこの説の信憑性は低い。明智光秀といえば、当時は織田家・徳川家の人間の多くがその顔を知る有力大名だった。にも関わらず彼らが天海を見て、明智光秀だと誰も気付かなかったというのであれば、これは非常に不自然なことだと言える。また、天海は蘆名一族の武士の出ということもわかっており、土岐氏を源流とする明智光秀と同一人物であると考えることは難しい。

二度目の比叡山に登るも焼き討ちの憂き目に遭う

蘆名氏の祖は三浦義明という人物であり、そのことから蘆名一族は三浦介と名乗っていた。天海はこの一族の中に生まれており、さらに出自そのものは決して高貴ではなかったと伝えられている。つまりは会津の身分の低い武士の家に生まれた、ということだ。生まれたのは天文5年(1536年)だと言われている。そして遷化(せんげ:高僧が亡くなること)したのは寛永20年(1643)と言われており、これが真実だとすれば108年生きたということになる。人間50年と言われていた時代に於いて108年生きたのだから、これは現代で言えば160歳前後まで生きた、という感覚だ。

元亀元年頃(1570年)、35歳になった天海は、18歳の時以来二度目の比叡山に登り学びを得ようとしていた。だが翌年、織田信長が比叡山を焼き討ちにするという事件が起こり、天海は比叡山での居場所を失ってしまった。生き延びた僧の多くは武田信玄の庇護を受け、天海もその一人となる。

天海=光秀説の論拠となった数々の出来事

さて、なぜ天海は明智光秀と同一人物だと言われるようになったのだろうか。この説が周知されていった要因は、明智憲三郎氏の祖父が書かれた『光秀行状記』にあるようだ。この本によってその可能性が伝えられ、謎が多かった光秀と天海を同一視する説が広がっていったらしい。ちなみにその他にも光秀はやはり山崎の戦いでは死なず、関ヶ原の戦い後に溺死したという説も残されているという。だがこれらはあくまでも伝承であるため、信憑性という意味ではやはり低いということになる。

その他にも天海の光秀転生説の論拠となった出来事がいくつかあり、徳川家康と天海が初めて対面した際、家康は珍しく人払いをして天海と二人だけで二刻(現代の1時間)、まるで旧知の間柄のように話を弾ませたと伝えられており、これがまるで家康がかつて知った光秀と話しているようだ、という形で話が広まっていった。そして天海が造営を任された日光東照社(東照宮)には、多くの桔梗紋が使われている。桔梗紋と言えばまさに明智光秀の家紋であり、これも天海=光秀説の論拠の一つとなっている。また、華厳の滝などをよく見渡せる場所の地名を「明智平」と名付けたのも天海だとされている。

さらに言えば比叡山には慶長20年(1615)に寄進された灯籠があるのだが、そこには「願主光秀」と書かれている。これもやはり、光秀は山崎では死ななかったのではないかという推測の論拠となっている。そしてこれに関しては少し強引さも否めないのだが、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の「秀」と、第3代家光の「光」は明智光秀からその字を取ったのではないかとも推論されている。ちなみにその論拠となっているのは、家光と名付けたのが天海であるという直筆の資料が残っているためだ。確かに「光」という字については土岐一族で多く使われている字だが、「秀」に関しては当時は非常に多く使われていた。

不自然な点も多い天海=光秀説

さて、このように天海は光秀が成りすました人物だと言われることもあるわけだが、天海という人物は徳川家康の側に仕えつつも、戦国時代の他の僧侶のように政治に意見をすることはまったくなかったと伝えられている。天海は天台宗の権益拡大に生涯を捧げた人物であり、人柄という面では明智光秀とはまったく違う形で伝えられている人物だ。確かに天海=光秀の論拠路なる話は多数あるわけだが、しかし同一人物として考えるには、その生い立ちには不自然な点が多いことは否めない。

だが可能性として、比叡山が焼き討ちにされる以前より、天海と光秀の間に何らかの面識があった可能性はあるのかもしれない。信長は堕落した僧侶たちを駆逐するために比叡山を焼き討ちにしたわけだが、光秀は天海は決して堕落した僧侶ではないと以前より知っていて、もしかしたら天海は殺すべき僧侶ではないと考えた光秀が天海を比叡山から逃がしたという出来事があったのかもしれない。それを恩に感じていた天海がその後光秀に報いたことで、上述したような論拠が増えていったのかもしれない。だがこれに関しての真実はもはや誰にも知ることはできず、推論の域を出ることも決してない。

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明智光秀の正室の名は煕子(ひろこ)と伝えられているが、この名前は正確に伝えられてきた名前ではなく、『氷点』などで知られる故三浦綾子さんが書かれた『細川ガラシャ夫人』という1975年に発表された小説以来、煕子という名で周知されていったようだ。それ以前はお牧の方や、伏屋姫と呼ばれていたようだが、これらに関しても正確な名であるという資料は残されていない。ただはっきりしているのは、妻木範煕の娘ということだけで、三浦綾子さんはこの父親の名から煕子と設定されたようだ。

幼馴染みだった明智光秀と煕子

光秀が生まれた当時の明智家は決して大きな力は持ち合わせておらず、美濃の小土豪に過ぎなかった。光秀自身も明智家の居館で生まれることはなかったようで、高木家の居城だった美濃の多羅城で生まれている。そして幼少期は妻木家の庇護を受けながら成長したようだ。だが幼少期の彦太郎ことのちの明智光秀は周囲からの評価は非常に高く、斎藤道三をして「万人の将となる人相」をしていたと言う。

そのようなこともあり彦太郎は妻木家からある程度安定した生活を送れるだけの庇護を受けながら育ち、自然な流れとして、元服した明智十兵衛光秀は幼馴染みでもあった妻木範煕の娘、煕子(便宜上そう呼ぶことにする)を娶った。弘治2年(1556年)に斎藤義龍によって明智城を落とされ越前に落ちた際煕子は身籠っていたというから、二人の婚姻は少なくとも1556年以前ということになるわけだが、正確な日付を知ることのできる資料はまだ発見されてはいないようだ。ただ、弘治2年に光秀はすでに29歳だったと言われていることから、婚姻関係を結んだのは一般的にはその10年以上前のことだと思われる。

黒髪を売って光秀を支えたと伝えられる煕子

光秀が越前の朝倉氏に出仕していた頃、光秀は歌会を催すための資金繰りに悩んでいた。その際に煕子が黒髪を売ってお金の工面をしたというエピソードが伝えられているが、これは後年の創作である可能性が非常に高い。まず妻木氏はこの当時、小土豪だった明智家を保護できるだけの力を持っていた。それだけ力を持った家の娘が仮にお金を工面するために黒髪を売ったとなれば、光秀としては妻木家の面汚しとなってしまう。あくまでも筆者の想像ではあるが、恐らくは黒髪を売ったのではなく、売ろうとしただけではなかっただろうか。そしてそうせざるを得ない窮状を父に相談し、実際には煕子の父親である妻木範煕(広忠と同一人物である可能性もある)が支援したと考える方が自然に感じられる。

通常女性が黒髪を切ったり剃髪するのは出家した時だ。しかし煕子は出家などしていないため、仮に出家していないのに髪を切り法師頭巾などを被っていれば、これは戦国時代では非常に不自然な光景として映ってしまう。そのため煕子の実家がそうなることを決して許さなかったはずだ。もちろん実際に髪を売ってお金を工面したのかもしれないが、しかし時代と、妻木家と光秀の力関係を鑑みるならば、煕子の実家が支援したと考える方が自然ではないだろうか。

光秀に深く愛され続けた煕子

煕子は天正4年(1576年)に病死したと伝えられているが、しかしこれについても真実であるかは確信することはできない。『西教寺塔頭実成坊過去帳』に記されているこの情報の信憑性は低くはないと思うわけだが、一方『川角太閤記』では本能寺の変後、明智秀満が光秀の妻子を介錯した後に自刃とも書かれており、情報が一致しない。ちなみに『川角太閤記』とは川角三郎右衛門が江戸時代初期に、当時を知る武士たちに直接話を聞くことによってまとめた、本能寺の変から関ヶ原の戦いまでの豊臣秀吉、豊臣家の伝記とされている。江戸時代初期という、まだ本能寺の変を知る人物が多く生きる時代に書かれているため、他の軍記物とは異なり信憑性はあるように感じられる。

天正4年に病死したのか、それとも天正10年に秀満により介錯されたのか、どちらが真実なのかは今となってはわからない。しかしただ一つ間違いなく言えることは、煕子は光秀によって深く愛されていたということだ。煕子が病に伏せれば手厚く看病をしたり、吉田兼見に診療を依頼したりした。そして病により顔に痣のようなものが残ってしまっても、光秀はまったく気にすることなく煕子を大切にしたという。その光秀にも側室がいたという言い伝えもあるようだが、一般的には煕子が存命中は側室は持たなかったという説が広く伝えられている。この言い伝えからすると、秀満が介錯した光秀の妻は後妻という可能性もあるわけだが、筆者はまだそこまで調べ切ることができていない。もしこれに関する資料をどこかで読むことができれば、またここで書き伝えたいと思う。

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明智光秀は過度のストレスによりノイローゼに陥り、半ば錯乱状態であるかのように思いつきで信長を討った、という説もある。だが筆者はこの説にはあまり信憑性を感じることはできない。そもそも仮に光秀がそんな状態であったならば、斎藤利三や明智秀満と言った側近たちが気付いていないはずがない。もし光秀がノイローゼで側近たちがそれに気付いていたのであれば、普通に考えれば明智家を守るため、命を賭してでも光秀の盲動を防いでいたはずだ。逆に光秀の異常を察知できないような家臣を、側近と呼ぶことなどできるだろうか。

愛宕百韻はあくまでも戦勝祈願のための連歌会だった

あくまでも筆者個人としては、光秀は多少の心労は抱えていたとしても、ノイローゼではなかったと思っている。その論拠となるのは、光秀は頻繁に茶会や歌会を催しているし、戦が小休止している時にはちょっとした旅行に出かけ、旅先から友人に向けて書状を送り、幸せのお裾分けまでしているのだ。つまり光秀はただ辛い戦さの日々を過ごしていただけではなく、茶や連歌、旅を楽しむという余裕も心には持っていたのだ。

もし本当にノイローゼだったら、歌会で丸一日一緒にいる友人たちの誰かは異変を感じ取っていたはずだが、しかし歌会はどれも滞りなく行われていたようだ。唯一誰かが異変を感じたとすれば、それは本能寺の変の三日目に愛宕山の威徳院西坊(いとくいんにしのぼう)で行われたとされる(三日前は晴れ、雨の日に催されたのなら七日前、という説もある)、いわゆる愛宕百韻と呼ばれる歌会でだろう。光秀はこの時の発句(最初の一句目)として「時は今 天(あめ)が下(した)しる 五月(さつき)哉(かな)」と読んでいる。この句を少し説明すると、時=土岐、天が下=天下、しる=統べる、という意味となり、意訳すると「土岐家が天下を統べる時がやってきた」と解釈することもできなくはない。だが実際に光秀が読んだのは「時は今 雨が下なる 五月哉」だそうです。つまり「統べる」という意味合いは含まれてはおらず、「統べる(しる)」という表現は『惟任退治記』という秀吉が書かせた軍記物で広められた出鱈目だったようです。

ということもあり、上述した句の意味は後付けされたもので、実際には普通に「季節は今は五月、よく雨が降りますね」という梅雨の情景を歌った句でしかなかったようだ。さらに言えば明智憲三郎氏が指摘する通り、「五月哉」と読みつつ六月に信長を討ったことにも違和感がある。そして光秀がこの発句を読むために、わざわざ本能寺の変の三日前にこの歌会を催したとされる説もあるが、そもそも戦国時代当時、歌会というのは戦勝祈願の意味合いが強かった。その証拠にあらゆる出陣の直前に連歌会が催されている。ちなみにこの時の光秀には信長から、中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉の救援に向かえという命令が下されており、まさに中国地方に向けて出陣する直前だった。つまりこのタイミングで連歌会が催されたことは、戦国時代の背景を考えればごく普通のことだったと言える。

光秀の妹の死が信長と光秀を仲違いさせたという説

光秀が精神的に追い込まれていたという説を追うと、やはり出てくる話は光秀の妹に関することだ。実は光秀の妹は信長の側室となっていた。この妹の存在によって信長と光秀の関係は良好に保たれていたと言われている。だが彼女は本能寺の変が起こる前年の8月に死去してしまう。妹の死によって信長と光秀の間には緩衝材のような存在がなくなり、それによって二人が衝突し始める、と考える専門家の方もいるようだが、果たして国を代表するレベルの二人がそのような理由だけで仲違いするものだろうか。しかも光秀は妹の死後も変わらず信長のために激務をこなし続けている。そんな光秀を、果たして側室だった光秀の妹の死を境に急に信長が嫌うようになるだろうか。流石にそんな子供染みたことはしないと思うし、そうしたと考える方が不自然だと思う。

さらにもう一点付け加えておきたいこととして、光秀の妹の死があったとしても、信長と光秀が従兄弟同士ということに変わりはない。信長の正室である帰蝶(濃姫)は光秀とは血の繋がった従兄妹であり、つまりは信長と光秀は義理の従兄弟同士ということになる。この関係がある限りは、光秀の妹の死によって状況が大きく変わることはなかったと筆者には感じられる。

誰にも気付かれなかった光秀のノイローゼ

さて、そもそもノイローゼになっている人というのは、周りから見てもすぐにそれとわかる。ノイローゼだという確信は持てなかったとしても、普通の状態ではない、ということは誰にでも察することができる。それがノイローゼという状態だ。冒頭にも述べた通り本当に光秀がノイローゼだったのならば側近は必ず気付いているだろうし、細川藤孝や吉田兼見といった気心の知れた友人や、連歌仲間たちが気付いたことを日記などに記していたはずだ。そして誰かが気付けば、それは必ず信長の耳にも入ったはずだ。だが誰も光秀の精神状態を心配するような素振りは見せていない。

となるとやはりノイローゼ説は、軍記物(江戸時代に流行った当時の歴史エンタテインメント小説)に書かれたあることないことを鵜呑みにした方が、創作である可能性が高い記述を状況証拠として採用してしまい、「本当にそんな状況だったら普通ならノイローゼになってしまう!」という印象論によって書いたことではなかったのだろうか。そもそも本当に光秀がノイローゼだったならば、深い知見によってアドリブで百句、千句と繋げていく連歌を中心人物としてこなすことなどできなかったはずだ。連歌会に集う人物たちは皆深い知見を持ち、とにかく頭の良い頭脳派の人たちばかりだったのだ。ノイローゼだった人が、そんな彼らと連歌で対等にやり合えたとは到底思えない。以上のようなことから、光秀はノイローゼなどではなかったと、これを筆者個人の意見としてこの巻を締めくくりたい。

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明智光秀が引き起こした本能寺の変によって運命を狂わされた人物は数知れない。しかしその中でも、最も辛い目に遭った一人が細川ガラシャだと言えるかも知れない。細川ガラシャは明智光秀の娘で信長の命令、そして両家の意向によって細川藤孝の嫡男、細川忠興に嫁いだ。戦国時代、この細川ガラシャほど数奇な運命を生きた女性は少ない。

本能寺の変後にガラシャと離縁した細川家

本能寺で主君織田信長を討った後、明智光秀は盟友である細川藤孝に救援を求めた。光秀と藤孝は旧知の仲であり、光秀が最も当てにしていたのが藤孝だった。しかし藤孝は主君を討った光秀に与することはせず、この謀反を知るや否や家督を忠興に譲り、自らは出家して細川幽斎と名を変えた。

そして同じ頃、謀反人の娘となってしまった細川ガラシャは細川家から離縁という形を取られてしまった。だがガラシャが明智家に戻されるという最悪の事態には至らなかった。仮に明智に戻されていたとしたら、光秀の正室や親族同様、坂本城で自刃する運命となっていただろう。だが細川家はガラシャをそのまま明智家に戻すことはしなかった。

二人の世話役を付けられて味土野に送られたガラシャ

細川家は形式上ガラシャとは離縁という形を取ったわけだが、明智家の居城だった坂本城に戻さなかったのなら、その後ガラシャはどこにいったのだろうか?離縁される前は丹後の細川家居城である宮津城で暮らしていたのだが、離縁後は味土野という土地に送られている。味土野とは、現在の京都府京丹後市弥栄町の山の中にある土地で、今もガラシャの時代同様に何もない人里離れた場所となっている。ガラシャはその味土野で約二年間暮らした。

この時ガラシャは、一色宗右衛門と小侍従(侍女)の二人を付けられたのだが、小侍従の名前が記されている記録は存在しないようだ。一説では清原マリアがその小侍従だったという説もあるが、どうやらそれは間違いらしい。この小侍従は細川忠興の命令によって松本因幡に嫁いでいる。清原マリアは貞節を誓いガラシャに代洗を授けた人物であるため、結婚することはできない。そのために辻褄が合わなくなってしまう。どうやらこの小侍従は単に細川家の侍女というだけの人物だったようだ。

本能寺の変から二年後に忠興との再婚が許されたガラシャ

ではなぜガラシャは味土野という何もない山奥に送られてしまったのか。どうやら明智光秀は丹後国に多少の領土を持っていたようで、専門家の研究によればそれが味土野であった可能性が高いらしい。確かにこの説には筋が通る。謀反人の娘ガラシャと離縁をしつつ、そのガラシャを細川領に置いていたとすれば、当時であれば何らかの疑いを持たれても不思議ではない。だが明智領に追放したとなれば、これは細川家が明智家には与していないという大きな意思表示になる。だが宮津城を挟み、坂本城とは反対方向の味土野に追放したというのは、細川家がガラシャに示せた最大限の優しさだったのかも知れない。

細川家が盟友明智光秀に与することがなかったことに関し、後に信長の後継者となる秀吉から高く評価されている。そのためガラシャは本能寺の変から二年後、秀吉により細川忠興との再婚が許されている。そして無事、再び宮津の地を踏むことができ、子供たちとの再会も果たした。永禄6年(1563年)に越前で生まれたガラシャは、本能寺の変が起こった時はまだ19歳だった。19歳の娘が背負うにはあまりにも重い運命だ。だがガラシャの数値な運命はこれだけには止まらなかった。

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明智光秀という人物は、土岐氏の再興に強いこだわりを持っていた。ではなぜ明智光秀は明智姓であるにも関わらず、土岐氏の再興を夢見ていたのだろうか。その理由はいたってシンプルで、明智姓は土岐氏が源流となっており、明智氏の祖先を辿ると土岐氏に繋がっていく。そのため明智姓を「土岐明智」と呼ぶこともある。つまり土岐氏というのは、光秀にとっては言わばルーツということになる。

土岐氏を源流とする偉人は光秀以外にも意外と多い

現代の日本人が日本人としてのルーツ、日本人としての誇りを持って外国へと旅立つように、明智光秀も自らのルーツを誇りとしていた。光秀の時代にこそ凋落していた土岐家だったが、土岐氏というのはかつては名門と呼ばれる一族だった。鎌倉幕府の御家人(ごけにん:鎌倉幕府では鎌倉殿、つまり源頼朝と主従関係にある家のこと)として栄えた家柄であり、鎌倉時代や『太平記』の中で活躍した家柄の一つが土岐氏ということになる。

ちなみに有名どころの土岐源流の人物は明智光秀だけではなく、豊臣五奉行の浅野長政、『忠臣蔵』の浅野内匠頭や、坂本龍馬も土岐氏を源流としている。土岐氏の始祖は諸説あるのだが、土岐光衡(みつひら)であるという説が有力なようだ。この土岐光衡から土岐明智氏を経て16代降ると明智光秀に辿り着く。

土岐光衡の父親は源光長と言い、平家が滅び鎌倉幕府が開かれると光衡は源頼朝の御家人となり、美濃の土岐郡を本拠地にしたことから土岐姓を名乗るようになった。光衡の父ら上の世代も土岐と称されることがあるが、しかし実際にはこの土岐光衡が土岐氏の始祖となる。

斎藤道三と戦おうにも戦えなかった明智家

土岐氏が力を失っていったのは1400年代終盤、戦国時代がまさにこれから始まろうとしている頃だった。この頃の土岐家は数十年に渡り相続争いが頻発し、内紛を続けることで力を失い続けていよいよ天文11年(1542年)、土岐頼芸の代になり土岐氏は斎藤道三によって美濃を追放されてしまった。永きに渡り美濃守護職を務めてきた土岐氏も、ここで滅びを迎えることとなった。

そして斎藤道三によって滅ぼされた土岐氏の再興を誰よりも願っていたのが明智光秀という人物だ。つまり道三は土岐氏の仇になるわけだが、しかし話はそう単純ではなく、明智光秀の叔母にあたる小見の方が斎藤道三の正室となっていたのだ。小見の方は信長の正室帰蝶(濃姫)を生んだことでも知られる。このように明智家と斎藤家の繋がりがあったために、光秀は道三を敵に回すことができなかった。

小見の方は天文元年(1532年)に長井規秀に嫁いだ。長井規秀とは油売りという商人の身から立身出世していき、長井家、斎藤家を次々と乗っ取っていき、最後は美濃一国までもを乗っ取ってしまった、まさに下克上を絵に描いたような人物だった。この長井規秀、のちの斎藤道三が小見の方を正室としていたため、明智家は土岐氏が道三によって美濃から追放された後、この縁組と力関係により、道三に服従せざるを得ない状況が続いた。

美濃守護職を美濃から追放してしまった斎藤道三

土岐家とはまさに名門であり、道三が乗っ取った斎藤家も、元々は美濃守護職である土岐氏の守護代だった。つまり土岐氏を源流とする明智家からすると、斎藤道三というのは土岐氏の守護代だった斎藤氏の家臣に過ぎない存在だったのだ。それが卑劣な手法により下克上を繰り返し、美濃一国の大名まで登りつめていった。「土岐家の家臣の家臣に土岐氏は美濃を追放されてしまった」、このような考えはきっと光秀の中にも少なからず存在していたはずだ。

戦国時代に於いて最も重視されたのは、家が滅ばないようにとにかく家を守ることだった。そして名を途切れさせないため、男子が生まれない場合や戦死した場合、血縁者などから養子を引き受けることによって家名を継いで行った。そして土岐家もそれに倣い、血脈を途切れさせなかったことで、明智氏など数々の名門を派生させていった。その名門の数々を派生させた源流である美濃守護職土岐氏を、斎藤道三は美濃から追放してしまったのだった。

偏見を持たずに人を評価した斎藤道三

斎藤道三という人物は戦国時代を代表する悪人の一人とも呼べるわけだが、有能な人材に関しては一切の偏見を持たずに接した懐の広さも持ち合わせていた。商人から立身出世した経験から、その辺りは農家出身の羽柴秀吉と同じ感性を持っていたと言える。例えば尾張でうつけ者と呼ばれていた織田信長の才能にいち早く気付き、その将来に賭けるかのように愛娘の帰蝶をその尾張のうつけに嫁がせた。そしていつか斎藤家の家臣たちは信長の馬を引くことになるだろうと口にし、息子義龍の機嫌を損ねていく。だが実際には道三の言葉通りになった。

そしてもう一人道三が目にかけたのが彦太郎こと、幼い頃の明智光秀だった。当然道三は光秀の源流が土岐であることも、その土岐氏を追放したことで明智家に良い感情を持たれていないことも理解していたはずだ。それでも有能な人材は有能だと偏見なく言い切ることができたのが、道三の懐の広さだ。もし道三が懐の狭い人物であったなら、他の大名たちがそうしたように、復讐をしてくる可能性のある人物は眼が出る前に排除していたはずだ。しかし道三は決してそうはしなかった。

本能寺の変、すべては土岐家のために!

とにかく土岐氏という家柄は、源頼朝の頃より御家人となり、後々美濃守護職を賜ることになっていく、まさに名門中の名門とも言える家柄だった。その家柄に対し、光秀は誇りを持っていた。そして道三に滅ぼされてしまった土岐家の再興を願いながら若き日々を流浪の日々に費やし、武術、学問、文化、鉄砲技術を磨き、将軍家と縁の深い越前朝倉氏に仕官することによって足利義昭に近付くことに成功し、さらには信長の臣下になっていく。

そして今か今かと土岐家を再興するための機会を窺い続け、天正10年6月2日、本能寺に大きな機会を得ていった。この機会が光秀にとって土岐家を再興するためのものだったのか、土岐家の再興を阻まれることを防ぐためのものだったのか、それは今となっては誰も知ることはできない。だが少なくともこの本能寺の変が、すべて土岐家のために決行された事件だったことは確かなようだ。

ちなみに明智家は、初代美濃守護職を務めた土岐頼貞の九男の子、明智頼重を祖としている。

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斎藤利三(としみつ)と言えば、明智家に於いては重臣中の重臣とも呼べる臣下だった。春日局の父親としても知られる利三だが、同じ美濃国の斎藤姓でも斎藤道三とは血縁関係にはない。元々の美濃守護代であった斎藤家の血筋で、父親は斎藤利賢(としかた)、母親は蜷川氏の娘、光秀の叔母、光秀の妹もしくは姉と諸説ある。今回はこの斎藤利三という人物の人柄に迫っていきたい。

頑固者の稲葉一鉄と何らかの衝突があった斎藤利三

斎藤利三という人物は、少々問題児だったようだ。元々は稲葉一鉄の与力だったようだが、その一鉄とは何らかの理由で衝突があったようだ。そして『当代記』という『信長公記』を元に編纂された資料には、信長から勘当されているとも記されている。それぞれどのような問題があったのかは詳しく記されてはいないが、しかし何らかのいざこざがあったことは確かなようだ。

ちなみに稲葉一鉄という人物は美濃三人衆(安藤守就、氏家卜全)の一人で、美濃国内では非常に有力な人物だった。そして「頑固一徹」という言葉はこの稲葉一鉄が由来となっている。恐らくは利三は、その頑固者の一鉄の考え方に同調できなかったのだろう。だが問題はこれだけでは済まなかった。

斎藤利三が原因で何度も信長に殴られた光秀

稲葉一鉄の元を去り、明智光秀に与した斎藤利三だったが、この状況を一鉄は気に入らなかった。確かに利三は一鉄の娘を娶っていたのだから、一鉄が怒りを感じたことも理解はできる。『明智軍記』や『稲葉家譜』の記述からは、光秀に有能な家臣を奪われたと一鉄は感じていたようだと読み取ることができる。そしてさらに、那波直治が利三を追うように光秀の傘下に加わろうとした。再び光秀に家臣を奪われたと感じた一鉄は信長にこれを報告し、信長は光秀を呼びつけ、直治だけは一鉄の元に返すように命じたようだ。

この時に信長が人前で光秀を叱り飛ばし、さらには2〜3回殴ったことで辱めを受け、それを逆恨みして光秀が本能寺の変を起こしたと主張する歴史学者もいるが、筆者はそうは思わない。本能寺の変当時、天下統一を目前にした信長と光秀は現代で言えば総理大臣と副総理のような立場にあった。それだけの立場にあった光秀が、果たしてそんなことを理由に主君を討つだろうか。そもそも信長が光秀を何度も殴ったという話は、どうやら後世の創作である可能性も高い。

本能寺の変は斎藤利三がけしかけた事件だった?!

さて、斎藤利三には頼辰(よりとき)という兄がいた。しかしこの兄は石谷家の養子となり、石谷頼辰と名を改めている。この頼辰の妻の妹が長曾我部元親の正室となっており、その繋がりがあったために明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次として交渉役を任されていた。しかし実際に交渉に当たっていたのは光秀ではなく、斎藤利三だったようだ。

そしてこの繋がりがあったために、縁戚となっていた長曾我部家を滅ぼそうとしていた信長を止めるため、斎藤利三が光秀に対して本能寺の変を嗾けたという説もまことしやかに語られている。だがこの説も説得力には乏しいように感じられる。織田家と長曾我部家の問題は、信長の家臣の家臣が物を言っていいような次元の話題ではない。もちろん交渉役を務めていたのは利三であったわけだが、しかし交渉役と言っても実際には信長の意思を元親に伝え、元親の意思を信長に伝えるというのが主な役目であり、利三が個人的に意見を言えるような状況ではなかったはずだ。

確かに利三の感情論としては、利三と元親は義理の兄弟であったため、信長の長曾我部討伐を聞いた際は利三も心苦しかったはずだ。だが元々の元凶は元親にもあった。本能寺の変が起こる前年、長宗我部元親は織田家と交渉をしながらも、織田家の宿敵である毛利と同盟を結んでいたのだ。これはつまり元親の織田家に対する裏切り行為であり、これが元凶となって信長が長曾我部討伐を企てたとしても、利三には納得できたことのはずだった。このような理由から、筆者は利三が本能寺の変を嗾けたという説には信憑性がないと感じている。

光秀はまず、利三ら5人だけに本能寺への討ち入りを打ち明けた

斎藤利三は、明智光秀にとってはまさに忠臣だ。明智秀満と共に、光秀が最も信頼を寄せたのが斎藤利三だった。であれば、当然光秀の明智家を守りたいという強い意思や、土岐家再興に対する情熱も知っていたはずだ。それを知った上でもし利三が本当に本能寺の変を嗾けていたのだとすれば、利三を忠臣と呼ぶことなどできなくなる。なぜなら本能寺の変を起こせば土岐家再興どころか、明智家がそのまま滅ぶ恐れもあったからだ。そして実際に明智家は滅んでしまった。忠臣であれば、そのような進言は絶対にしなかったはずだ。

さて、本能寺の変の直前、光秀は5人の信頼できる家臣だけを集めて本能寺への討ち入り計画を最初に打ち明けたようだ。その5人とは斎藤利三、明智秀満、溝尾庄兵衛尉、藤田伝五、明智光忠のようだ。しかしここで疑問が浮かんでくる。光秀も含めこの5人はすべて本能寺の変で戦死、もしくは処刑されている。なのに何故後世に書かれた軍記物などで、光秀がこの5人だけに打ち明けたということがハッキリと書かれているのだろうか。とてもこの5人が死ぬ間際にそれを誰かに打ち明けたとも思えない。

本能寺の変は利三が嗾けたという説を上述したが、しかし『備前老人物語』は、それが真実であるのかはわからないが、利三と秀満は最後まで討ち入りには反対していたと伝えている。これらのことを色々と考えると、結局は真実を伝えているものはほとんど皆無に等しく、書かれている多くのことは後世の創作であったり、噂話をそのまま真実として記しただけであることがよくわかる。特に軍記物は今でいう歴史小説と同じ類もので、ベストセラーを狙って面白おかしく書かれている物であり、その記述を資料として信頼することはできない。

利三処刑後も途絶えなかった斎藤利三の血脈

さて、本能寺の変で信長を討った後、斎藤利三は山崎の戦いで先鋒として羽柴軍と戦った。しかし傷を負い、その傷が原因で病にも侵されかけ力を失った利三は、ついには堅田で捕縛されてしまう。ちなみにこの時利三を捕縛し秀吉に差し出したのは明智半左衛門という味方のはずだった人物だった。明智半左衛門は光秀を裏切ったが、しかし半左衛門の父親である猪飼昇貞(いかいのぶさだ)は最後まで光秀に忠義を尽くし、本能寺の変で戦死している。

半左衛門によって捕縛された利三は六条河原で打ち首にされた。『言経卿記』によれば、斎藤利三は当初から本能寺の変を起こした主要人物として見られていたようだ。さて、このようにして斎藤利三はその生涯を閉じたわけだが、しかし利三の血脈はここで途切れることはなかった。結果的には斎藤利三と稲葉一鉄は喧嘩別れのような形になっていたが、しかしその後利三の娘福が稲葉一鉄の孫(養子)に当たる稲葉正成の後妻となり、その後は江戸幕府第三代将軍家光の乳母となり、さらには江姫(浅井長政と市姫の三女)のもとで大奥を取り仕切るようになっていく。もちろん彼女こそがかの春日局だ。同じ本能寺の変の当事者の子孫であったにも関わらず、明智光秀の子孫に対する扱いとは雲泥の差があったようだ。

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これはあくまでも筆者個人が立てた明智光秀に関する仮説に過ぎず、実際のところどうだったのかということなど、今となっては誰も知ることはできない。しかし筆者は思うのである。明智光秀は、もしかしたら織田家に仕官した頃から本能寺の変を企てていたのではないだろうかと。

お家騒動が繰り返されていた美濃国

明智光秀という人物は、土岐家の再興に情熱を燃やしていた人物だとされている。ではそもそも光秀の時代、土岐家はどういう状況になっていたのか?簡単に説明をすると、土岐頼芸(よりあき、よりのり、よりよし、よりなり、など読み方多数)の頃、土岐家は家督相続にて内紛状態にあった。最終的には頼芸が家督を継ぐわけだが、しかし凋落しかけていた土岐家はこの内紛によって更に力を失っていた。そこを家臣であった斎藤道三に突かれて美濃を強奪され、頼芸は尾張に追われてしまった。いわゆる下剋上に遭ったというわけだ。

すると今度は土岐家を乗っ取った斎藤家にもお家騒動が勃発し、父道三と子の義龍が戦い、道三は長良川の戦いで戦死してしまう。そしてこの時道三側に与していた明智家は義龍によって明智城を落とされ、光秀は命からがら美濃を脱出するという憂き目に遭ってしまう。だが義龍の子、龍興の代になるとまもなく、斎藤家は織田信長によって滅ぼされてしまった。

仇討ちをしたくてもできる状況ではなかった当時の光秀

土岐家を滅亡に追いやった斎藤家のお家騒動により、光秀は多くの血縁者を失った。しかし仇を討つにももう斎藤家は存在しない。残ったのは道三の娘帰蝶を娶っていた織田信長だけだった。道三は土岐家にとっては憎んでも憎み切れない仇敵だったわけだが、土岐家や親族の仇を討とうにももう斎藤家は存在していない。ちなみに道三は頼芸を美濃から追放するだけではなく、尾張に亡命していた頼芸を織田信秀(信長の父)と結託することにより、今度は尾張からも追放してしまった。これではもう土岐家の怒りも収まろうはずはない。

つまり斎藤家だけではなく、土岐家にとっては織田家も同様に仇敵と呼べる存在だったのだ。だがこの頃の光秀には土岐家や親族の仇討ちをできるような力はまったくなかった。美濃を追われた後は越前朝倉氏に仕官したものの、その後5年は放浪の旅に出ており、妻の実家である妻木家からの経済援助を受けているような状態だった。とてもじゃないが美濃・尾張の二国を有する織田信長を討つことなど不可能だ。

仇敵のもとで力を蓄え続けた明智光秀

その後光秀は足利義昭の臣下として土岐家の仇敵である織田信長に近付いていく。そして信長と義昭が不仲になると、光秀は義昭ではなく、信長の臣下として知行を得るようになった。だがこの頃すでに、光秀の頭の中には土岐家の恨みを晴らすための考えが渦巻いていたのではないだろうか。もちろんこれを証明することは不可能であるわけだが、心理面を想像すると、決してありえない話ではないと思う。

光秀は有力大名となっていた信長から禄を得ながら力を蓄えた。それこそ身を粉にして働き、誰もが反対した比叡山の焼き討ちが行われた際も、光秀は率先して刀を振ったと言われている。その功績により光秀は、比叡山の僧侶が所有していた土地の多くを信長から与えられている。そしてその後も光秀は、信長からひっきりになしに命を受け続け、織田家の誰よりも信長に尽くし、流浪の身から織田家の実質ナンバー2になるほどの大出世を遂げていた。

天下人となる目前だった織田信長を討った光秀

斎藤家が滅んでしまった今、斎藤家に対し仇討ちを仕掛けることはできない。だが斎藤家同様に土岐家の仇敵となっていた織田家は全盛期を迎えていた。本能寺の変が起こる頃の信長は、天下布武の旗印のもと天下統一を目前に控えていた。その織田を討てば土岐家だけではなく、斎藤家によって殺されていった多くの親族たちも浮かばれる、光秀がそう考えていたとしても不思議ではないのではないだろうか。

もしかしたら光秀は信長の臣下になって以来、虎視眈々と仇討ちの機会を狙っていたのかもしれない。そしてそれを可能にするためには、とにかく信長から疑いをかけられるようなことの一切を避けなければならない。だからこそ光秀は、どんな無理難題を信長から突きつけられても平静を装い続けたのではないだろうか。さらには光秀は家臣全員に対し「織田家の宿老や馬廻衆とすれ違う際は脇によって必ず道を譲るように」という触れも出すほど、織田家との関係維持に神経質になっていた。流石の織田家臣団も、ここまで徹底する者は他にはいなかったようだ。

「是非に及ばず」という言葉の裏を読む

そして天正10年(1582年)6月2日、ついにその機会が光秀のもとに巡ってきた。信長は京の本能寺に宿泊し、護衛もほとんど付けていない状態だった。そして光秀の本拠地である坂本城は京の目と鼻の先にある。信長としては、万が一の事態が起こっても明智隊がすぐに救援に駆けつけられるという安心感もあったのだろう。だがこの本能寺が襲われた時に見えたのは桔梗紋だった。

もしかしたら信長は心のどこかで、織田・斎藤両家は土岐家の仇敵であり、それは光秀も当然忘れてはいないであろうことを理解していたのかもしれない。もちろんそんな話が二人の間でなされたことはないだろうが、しかし桔梗紋を見れば光秀が土岐氏源流の家柄にあることは一目でわかることだ。だからこそ信長は本能寺で桔梗紋を目の当たりにした際も、「是非に及ばず」という、まるで光秀のこれまでの異常なまでの忠臣振りがようやく腑に落ちたとでも言うような最期の言葉を残したのかもしれない。

計画性がまったくなかった本能寺の変

本能寺の変はほとんど思いつきのような討ち入りだった。計画性がまったくない討ち入りであり、その証拠に光秀が信長を討った後、光秀の盟友であるはずの細川藤孝、筒井順慶がまったく光秀に味方しようとはしていない。光秀に大きな借りができたはずの長宗我部元親でさえも、光秀の救援に向かう素振りは一切見せてはいない。このような状況証拠からも、光秀は天下が欲しかったのではなく、あくまでも土岐家と親族の仇討ちを果たすべくこの機会を利用したのではないかと筆者には感じられる。

仮に光秀が天下を欲しがったのならば、光秀の緻密な性格からすればもっと下準備をしていたはずだ。例えば長宗我部家と手を組み、さらには細川家と筒井家のどちからでも光秀に与してくれていれば、光秀が秀吉に討たれることもなかったはずだ。単純に長宗我部元親が少しでも牽制姿勢を見せていれば、秀吉は四国に背を向けることなどできなくなり、とても中国大返しを実行できるような状況でもなくなる。だが誰一人、光秀の味方をする大名は現れなかった。さらに言えば光秀がもし天下を狙っているのだとすれば、織田家の宿敵である毛利家とも手を結ぶことができたはずだ。だがこれに関してもそのような交渉が行われた形跡は一切残っていない。

一族の誉れのためにとった光秀の行動が一転逆賊のそれに

こうして考えていくとやはり、光秀の目的は天下ではなく仇討ちだったのではないだろうか、という印象の方が強くなっていく。ちなみに光秀は悪人ではない。斎藤道三や松永久秀のように、平気な顔で闇を歩けるような人柄ではなかった。民からも臣下からも慕われた大名で、その証拠に民が光秀を祀った首塚がいたるところに残されている。仮に慕われていなければ、誰が光秀の魂を各所で祀ろうなどと考えるだろうか。

今回の巻はあくまでも筆者個人の心理的推察に過ぎないわけだが、しかしまったくあり得ない話でもないと思う。だが皮肉なことに一族の誉れのために取った光秀の行動は逆賊のそれだと判断されてしまい、後世の明智一族はまったく別の姓を名乗ったり、明田(あけた)という姓を名乗ることによって、逆賊としての汚名から逃れようとした。だが仮に成功していたとしたら、明智光秀は主家の再興を成し遂げた英雄として語り継がれていたのだろう。

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明智光秀は長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説もあるが、これは違うと思う。本能寺の変の少し前まで明智光秀は、織田家と長曾我部家の取次役を務めていた。この任を与えられた理由は、光秀の重臣である斎藤利三の兄、石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が、長曾我部元親の正室だったためだ。

明智光秀の顔に泥を塗った長曾我部元親

織田家と長曾我部家の両家は友好的だった時期もあったのだが、それが次第に険悪になっていく。信長としては潰そうと思えば潰せてしまう程度の長曾我部家にできるだけ良くしてきたという意識があったようだが、しかし両家の間でなかなか思うように事が進まないことに苛立ち始めていた。その最中、本能寺の変の前年となる天正9年(1581年)8月、長曾我部元親が、織田家との共通の敵であったはずの毛利家と同盟を結ぶという大事件が起こってしまった。

信長は当然これに激怒したはずだ。信長は、元親の嫡男である信親の名に自らの名の一部を与えているほど長曾我部家を買っていた。つまり元親の毛利家への急接近は、信長に対する裏切り行為に他ならない。この行為は取次役を務めていた光秀の顔に泥を塗るも同然の行為だったと言える。ここまで侮辱されてなお、斎藤利三の縁者という理由だけで光秀が長曾我部家のために本能寺の変を起こしたとは考えにくい。

光秀に合流する姿勢を一切見せなかった元親

さて、本能寺の変が起こる時期、織田家と長曾我部家の間には辻褄が合わない出来事が起こっている。本能寺の変の当日、信長の三男である神戸信孝と丹羽長秀隊が長曾我部家討伐のために出陣している。だがそこから遡ること10日、長曾我部元親は信長に対し、一定の条件を提示しながらも、信長が提示した国分案に同意する書状を認めているのだ。元親は信長に対し恭順の意を示していたにも関わらず、信長は四国に派兵しようとしていた。恐らくは、このような事実を踏まえて、光秀が長曾我部家を救おうとしたという説が出されたのではないだろうか。

だが自らの家を守るためならともかく、自分の顔に泥を塗った長曾我部家を救うために、果たして光秀が主君を討つなどありうることだろうか。筆者個人としてはないと思う。更に言うならば本能寺の変後、長宗我部家は明智光秀に合流する姿勢を一切見せていない。仮に光秀が長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのであれば、それを元親が知らないはずはないし、もしそれを把握していたのであれば、元親は中国大返しをして見せた羽柴秀吉の背後を突いていたはずだ。だが元親は一切そのような素振りは見せていない。

本能寺の変がなければ滅んでいた長曾我部家

仮に本能寺の変が起こっていなければ、長曾我部家は神戸信孝・丹羽長秀隊によってあっという間に殲滅させられていただろう。織田家と長曾我部家にはそれだけの力の差があった。だが結果的には本能寺の変が起こったことにより、元親は命拾いしたのだった。ちなみに本能寺の変が起こる前の時期に、光秀と元親が交わした密書などは一切残されていない。明智家・長曾我部家の両家共に残っていないのだから、ふたりの間に書状のやり取りはなかったのだろう。となるとやはり、光秀が長曾我部家を救うために本能寺の変を起こした、という説には無理が生じてくる。

明智光秀という人物は、自らの源流である土岐家の再興にこだわりを見せていたことで知られる。いつかは土岐家を再興させたい、それが光秀の最たる望みだったようだ。その望みがあるにも関わらず、他家のために自らの家を滅ぼすようなことは決してしないはずだ。するとすればやはり、自らの家を守るためではないだろうか。そう思うからこそ筆者は、光秀は長曾我部家を守るために本能寺の変を起こしたのではないと感じているのである。

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明智光秀という人物は、実は羽柴秀吉と大差のない状況から立身出世した人物だった。羽柴秀吉は農民から出世街道に乗って行ったため、家臣は0というところから武士人生をスタートさせている。もちろん明智光秀の場合は農民ではなく小土豪だったわけだが、武士としての親族はいたものの、家臣と呼べるほどの家臣の存在は秀吉同様にほとんど0に近いところからの始まりだった。そこで今回は、明智光秀の身近に存在していた人物たちを備忘録的に記録しておきたい。

血縁者

明智光隆
光秀の父親。別名・明智光綱、明智玄蕃頭(げんばのかみ)
天文11〜14年(1542〜1545年)に土岐一族が斎藤道三の下剋上に遭った際に戦死。

明智光安
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光隆死去後は、光安が光秀の後見人を務めた。妹が斎藤道三の継室(小見の方・おみのかた)だったこともあり、斎藤義龍が父道三を討った戦で道三側に与し、稲葉一鉄らと戦い戦死している。

小見の方
光隆・光安の妹で、光秀にとっては叔母。小見の方と斎藤道三の間に生まれた帰蝶(濃姫)は織田信長の正室となっている。つまり織田信長は光秀にとっては義理の従兄弟だった。

煕子
光秀の正室。妻木範煕の娘。光秀がまだ立身出世を果たす前、煕子が黒髪を売って光秀を財政的に支えたと言う逸話が残されているが、これは後世の創作である可能性が高い。実際には妻木範煕が光秀を経済的に支えていた。

明智光忠
光秀の父・光隆の弟である明智光久の子。光秀にとっては血の繋がった従兄弟。光忠は、光秀が最も信頼した家臣の一人で、光秀の娘を娶っている。

明智光久
光隆の弟で、光秀にとっては叔父。光忠の父。斎藤道三に与したことで明智城を斎藤義龍に攻められた際、自らは最後の最後まで籠城して戦い、光秀たちを脱出させた。しかし光久自身はその戦いの最中に戦死。

明智光慶
明智光秀の嫡男。本能寺の変後については諸説あり定かではない。坂本城で討ち死にしたという説や、僧として生き続けたという説がある。

細川ガラシャ
洗礼を受ける前は玉、もしくは珠。明智光秀の娘であり、光秀の盟友細川藤孝の嫡男忠興に嫁いだ。関ヶ原の戦い直前、石田三成の人質となった際にそれを嫌い命を絶った。

光秀の次男(名前不詳)
名前は明らかにはなっていないが、筒井順慶の養子になっていたらしい。

非血縁者

斎藤利三
明智光秀が最も信頼を寄せた家臣。斎藤道三の血縁者というわけではなく、美濃の守護代だった別の斎藤家の血筋。母親が光秀の叔母だったという説もある。利三の兄である石谷頼辰(いしがいよりとき)の義理の妹が長宗我部元親の正室だった。利三はかつて稲葉一鉄や織田信長の与力となっていたが、それぞれと何らかの衝突があり、最終的に光秀の臣下に加わった。最期は山崎の合戦後に明智半左衛門によって捕縛され、六条河原で処刑された。

明智秀満
別名は左馬之助光春。光秀の娘婿。元の名は三宅弥平次で、光秀の娘を娶った後、明智秀満と改名した。美濃の塗師の家に生まれた人物という説の信憑性が高いらしい。実はこの妻、元々は荒木村重の嫡男村次に嫁いでいたのだが、村重が信長に反旗を翻した際、村重が光秀の心中を慮り、光秀の元に返していた。その後秀満に嫁いだ。秀満は本能寺の変後の坂本城で自らの妻、そして煕子ら光秀の親族が捕縛され辱めを受けないように刺殺した後、自刃。

織田信澄
光秀の臣下だったわけではないが、光秀の娘が信長の命により信澄に嫁いでいた。織田信澄とは、織田信長の弟信行の子。信行は家督を争った際、信長に討たれている。光秀の娘を娶っており、居城も坂本城に近かったことがあり、本能寺の変の首謀者の一人として疑われ、織田信孝・丹羽長秀軍により釈明する間も無く討たれてしまう。

溝尾庄兵衛尉(しょうべえのじょう)
別名は三沢秀次との説あり。山崎の合戦後、負傷したことにより自刃を余儀なくされた光秀を介錯し、その後坂本城まで戻り自らも自刃。光秀が信長に仕える以前から光秀に仕えていた古参。

藤田伝五
藤田伝五も、光秀が信長に使える前から光秀に仕えていた。しかし山崎の合戦で負傷し、その翌日に自刃。

可児才蔵
美濃出身で「槍の才蔵」として知られた槍の名手。福島正則に与する以前、光秀の臣下になっていた時期があったらしい。

明智半左衛門
元の名は猪飼野秀貞(いかいのひでさだ)と言う近江出身者で、光秀の臣下になった際に明智半左衛門と名乗るようになったが、本能寺の変では光秀に与することなく、斎藤利三を捕縛し、羽柴秀吉に差し出している。

明智孫十郎
本能寺の変の際、織田信忠が立て籠もる二条城を攻めた際に戦死。

明智掃部(かもん)
詳細は不明だが『天王寺屋会記』に光秀の家臣としてその名が登場する。

明智千代丸
光秀が八上城を攻めた際、最後の最後まで波多野家に忠義を尽くし戦死した小畠国明の遺児。光秀は国明の忠義を称し、まだ幼かった国明の子に明智姓を与えた。

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明智光秀という人物にはまだ多くの謎が残されている。その最大の謎はもちろん、なぜ本能寺で主君信長を討たなければならなかったのか、ということだが、それに次いで出自にもまだ多くの謎が残されている。近年専門家の研究によって随分多くのことが判明してきているわけだが、それでも光秀の出自には明確にならない部分もまだ多い。

明智姓を隠そうとした光秀の親族

ではなぜ明智光秀の出自には不明瞭な点が多いのか。その理由は主君信長を討ってしまったことにより、永きに渡り逆賊として扱われてきたからだ。光秀の出自を追う資料としては、土岐家の家系図と明智家の家系図が存在している。しかしこの2つの家系図には相違点が散見していて、どちらも光秀の出自を正確に伝えるための資料にはなり切れていない。

その理由は本能寺の変後、光秀の親族が明智の名を隠そうとしたことにある。もし明智光秀同様に逆賊として扱われることになれば、とてもじゃないが普通の暮らしは送れなくなってしまう。そうならないために本能寺の変後、江戸時代も含め、明智姓を捨てた明智一族が多かったようだ。そのために家系図が正確でなくなってしまった、という事情があるらしい。

高木家の居城で誕生した明智光秀

光秀が生まれた頃の明智家は、小さな土豪に過ぎなかった。大きな力も持っておらず、吹けば飛んでしまうような小さな家柄だった。そんな明智家に光秀が誕生したのは享禄元年(1528年)で、生まれたのは美濃の多羅城だった。しかし多羅城は高木氏の所領だったため、生まれは多羅城だが、育ったのは別の場所であるらしい。

明確な資料が残されているわけではないのだが、専門家たちの懸命な研究によれば、どうやら生まれた後は妻木氏の所領で育った可能性が高いようだ。妻木氏とは妻木範煕のことで、当時は明智家よりも大きな力を持っていた。恐らくは妻木範煕の庇護を受けながら光秀は育ち、のちに妻木範煕の娘、煕子を娶ったのだと考えられている。

国主からも嘱望された若き日の明智光秀

若き日の明智光秀を見た美濃の国主斎藤道三は、「彦太郎(光秀)は万人の将になる人相がある」と言ったとされている。光秀は十代の頃よりすでに文武に磨きがかけられていて、国主からも将来を嘱望された若武者だったと伝えられている。だがその道三が息子義龍に討たれてしまうと、状況は一変していく。

当時の住まいだった明智城は義龍軍に落とされ、光秀は一族を連れて脱出するのが精一杯だった。そしてこの後から明智光秀の放浪生活が始まっていく。明智城を落とされたのは弘治2年(1556年)、光秀が29歳の時で、その後越前の朝倉家に500貫で仕官したわけだが、30歳になると光秀は諸国放浪へと旅立ち、越前に戻って来たのはその5年後だった。