「麒麟がくる」と一致するもの

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麒麟がくる9回目「信長の失敗」では、若き織田信長が竹千代(のちの徳川家康)の父親である松平広忠を殺害するという物語が展開された。そして明智光秀の出来事としては幼馴染みである煕子と再会し、お互い想いを寄せ合っていきそうな雰囲気になり始めた。さて、この回の史実とフィクションとは?!

うつけの振りではなく、うつけそのもののように見えた織田信長

織田家と松平家は長年に渡り戦を繰り広げてきた。そしてそれは信長と帰蝶の婚儀が行われた頃も変わってはいなかった。松平家としては世継ぎである竹千代を人質に取られていることもあり、織田家に対しては良からぬ感情を持っていたことは確かだった。劇中、そんな中描かれたのが信長の刺客によって松平広忠が討たれるという場面だった。

しかし信長によって広忠が討たれたという資料は恐らくは残されていないと思われるため、これは完全にフィクションだと言える。ちなみに広忠の死因は定かではなく、病死、一揆によって討たれた、織田信秀の策略、織田家の刺客と思われる松平家家臣岩松八弥に討たれた、など諸説ある。岩松八弥によって討たれたという伝承を広義で捉えれば、確かに信長が手を下した可能性を否定することはできないのかもしれない。

しかし信長と竹千代のこの頃の関係は良好だったと伝えられることが多い。とすると果たして信長が弟分である竹千代の父親を殺害するだろうか。この頃の信長は確かに「うつけ(バカ)」と呼ばれていたが、しかしそれはあくまでも信長が見せていた仮の姿であり、実際の信長は決してうつけ者ではなかった。であるならば、果たして信長が本当にこのような政治問題に発展する馬鹿げたことをしただろうか。

それに加え、この件に関して父信秀に叱責された信長は目にうっすらと涙を浮かべ、まるで駄々っ子のような言い訳を劇中では見せていた。これではうつけの振りではなく、うつけそのものになってしまう。今後劇中でこの信長がどう変わっていくのかはわからないが、しかし劇中で見た信長はあまりにも史実とかけ離れているように筆者には感じられた。

妻木煕子の名前は実際には煕子ではなかった?!

さて、話は変わって今回は妻木煕子が初登場した。しかしここで伝えておきたいのは、煕子という名前は史実ではないという点だ。煕子という名前は三浦綾子さんの『細川ガラシャ夫人』という小説によって広く知られるようになり、明智光秀の正室の実際の名前は記録には残されていないようだ。しかし戦国時代の女性の名前が残されていないことは珍しくはない。家系図などを見ても女性は「女」としか書かれていないことがほとんどで、実際の名前が記録に残されていることの方が珍しい。

ちなみに信長の正室だったとされる帰蝶に関しても、本当に帰蝶という名前だったのかは定かではない。資料に残されている記述だけでも帰蝶、歸蝶、奇蝶、胡蝶とある。胡蝶だけはそのまま「こちょう」と読み、その他の発音は「きちょう」であるため、それっぽい発音の名前ではあったのだとは思う。そして帰蝶は濃姫と呼ばれることもあるわけだが、これは「美濃から来た姫」という意味でそう呼ばれていた。これはお市が「小谷の方」、茶々が「淀殿」と呼ばれていたことと同様となる。

怪物を見た又左衛門とは一体誰のことなのか?!

今回の劇中では怪物を恐れる村人を信長が勇気付けに行き、それによって帰蝶との婚礼をすっぽかしたと描かれていた。もちろんこれもフィクションであるわけだが、その中で「又左衛門が実際に怪物を見た」と信長が話していた。この頃信長と一緒に行動をしていた又左衛門とは、恐らくは前田利家のことだと思われる。

前田利家も若い頃は信長に負けず劣らずの歌舞伎者で、いわゆる問題児だった。大河ドラマでは『利家とまつ』の主人公にもなっている。後々の『麒麟がくる』では織田信長と明智光秀の二軸になっていくと思われるため、もしかしたら今後前田利家が登場してくることもあるかもしれない。織田家には欠かせない魅力溢れる人物であるため、個人的にはまた大河ドラマで前田利家を見てみたい、と思った今回の信長の台詞だった。

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麒麟がくる第7回目「帰蝶の願い」では、斎藤利政(のちの道三)の娘である帰蝶の織田家への輿入れが決まるまでのことが描かれた。内容としては帰蝶が織田家へ輿入れしていくこと以外のことは、ほぼフィクションとなるのだろう。

戦国の姫に人権はなかった?!

例えば劇中では帰蝶は明智十兵衛光秀に想いを寄せているように描かれている。この設定ももちろんフィクションの域を出ないわけだが、ドラマを盛り上げるためには非常に重要な設定なのだと思う。そして十兵衛に想いを寄せているが故に、帰蝶は十兵衛に「尾張に行くべきではない」と言ってもらいたがっているが、これは戦国の世では実際にはほとんど起こりえないことだと言える。

戦国時代の女性にはほとんど人権はなかった。例えば3月8日は国際女性デーで、世界中で女性の人権やフェミニズムについて語られるわけだが、戦国時代の日本に於いて女性は政略の駒でしかなかった。そして女性に異論を申し立てる権利などなく、主命で輿入れが決まればそれに従う他選択肢はなかった。明智光秀自身後々は、自らの娘たちを臣下に嫁がせることにより、軍団の結束を高めようとしている。もちろん細川ガラシャも同様に。

恋愛結婚がほとんどなかった戦国時代

珍しいケースとして織田信忠と松姫のような純愛も存在していたわけだが、戦国の武家に於いて恋愛結婚が成し遂げられることはほとんど考えられなかったと言える。織田信長にしても最愛の妹であるお市の方を政略結婚によって浅井長政に嫁がせている。

劇中では斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じているが、実際には頭領が決めたことに有無を言うことは許されないため、利政の判断に帰蝶が異論を唱えることは、史実であるならば非常に考えにくい。だがここはドラマであるため、やはり帰蝶が十兵衛に想いを寄せていた、という設定の方が見ていてドラマにのめり込める。ちなみに戦国時代を描いた歴史小説の中には、実際にはありえない恋愛模様が描かれていることも少なくない。例えば同じ美濃の物語で言えば、竹中半兵衛重治とお市の方が実は密かに想いを寄せ合っていた、という設定で描かれた小説もあった。

武家というよりは土豪に近かった道三時代の明智家

さて、もう一点。美濃の国主である斎藤利政が十兵衛に帰蝶の説得を命じるわけだが、史実的にはこの頃の明智家は武家というよりも、土豪に近い存在だった。そのため劇中のように明智光安と十兵衛が頻繁に稲葉山城に赴くことはなかったと思われる。それどころか美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれたうちの一人、稲葉一鉄と話す機会さえほとんどなかったのではないだろうか。史実的にこの頃の明智家はそれほど微々たる存在だった。

ちなみに美濃三人衆とは稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の三人のことで、一番力を持っていたのが氏家卜全だったと言われている。そして安藤守就は竹中半兵衛の舅で、稲葉一鉄は「頑固一徹」の言葉の由来になった程の頑固者だったようだ。その頑固さに関しては史実通り描かれていると感じたのは、筆者だけではなかったと思う。

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麒麟がくる第6回「三好長慶襲撃計画」は、ほぼ全編フィクションで話が進められたのではないだろうか。劇中の出来事を追っていくと時系列が明確になっていなかったり、年齢設定が正確ではないように感じることが多くなってきた。例えば劇中は天文十六~十七年(1547~1548年)あたりを描いていると思われるが、この頃の第十三代将軍足利義輝はまだ13~14歳程度でしかない。劇中の将軍はさすがに14歳には見えなかったのではないだろうか。

三好長慶の暗殺が企てられた連歌会

さて、今回は細川晴元が画策した連歌会に三好長慶が招待され、そこで長慶が暗殺されそうになるという場面が描かれていたが、この出来事もフィクションではないだろうか。確かに細川晴元と三好長慶という主従の間にはいざこざが生じていた。だがこのような連歌会で暗殺が企てられたという事実は筆者はまだ読んだことがない。確かに戦国時代にはよくある話のようにも見えるため、「絶対にそんな事実なかった」とは言い切れないが、しかしあくまでもこれはフィクションの枠の中に納まっていくは思う。

足利義輝は天文十六年(1548年)7月19日に細川晴元によって京を追われ近江国坂本に父義晴と共に落ちている。その10日後両者は和睦し、義輝も京に戻ってはいるのだが、劇中に描かれたのはこの直後の出来事ということになるのだろう。この時の義輝は確かに細川晴元に対し良い心象は持っていなかったはずだ。そのため三好長慶・松永久秀という細川晴元にとっての天敵(実際には晴元の家臣)に手を差し伸べたことにも理解は示せる。だが義輝の立場は常に不安定だったと言える。

劇中この時代の足利義輝はまだ子供だった

細川晴元は細川家嫡流の名門中の名門だった。同じ苗字の細川藤孝(細川護熙元総理はこちらの血筋)とは異なる細川家であり、細川晴元の細川家は、まさに将軍直属の重臣(室町幕府の官領職)だった。立場的には足利義輝の下に細川晴元、その下に三好長慶(晴元の家臣)、三淵藤英(幕府奉公衆)、細川藤孝(幕府警護役)という形になる。だがこの頃の力関係は細川晴元の臣下である三好長慶が勢力を増してきており、細川晴元にとっては頭痛の種になっていた。それ故の暗殺未遂という描かれ方だったのだろう。

この頃の足利義輝はまだ若年だったこともあり、書状にされそれほどの効力はなかった。そのため大御所として義輝を支えようとした父第十二代将軍義晴や、母慶寿院の署名で書かれることも多かったという。つまりこの頃の義輝はまだそれほど幼かったはずであり、明智光秀が三淵藤英を説得しようとする熱弁を耳にし、それに心を打たれ威風堂々「あの者(光秀)の後を追え」と即興の判断などできる年齢には至ってはいなかった。しかし劇中では能をも楽しむ姿が描かれていた。ちなみに足利義輝となるのは天文二十三年(1554年)であり、それまでは足利義藤という名前だった。

筆者が今一番気になるのは遊女タケの存在

この暗殺を止めようとする光秀だが、もちろん明智光秀が三好長慶と松永久秀を救ったという史実は存在しない。いや、もしかしたらあったかもしれないが、少なくともそれを示す資料は残されてはいない。また、実際には明智光秀と細川藤孝が出会うのは、光秀が美濃を追われ越前に逃れたあとだと思われる。

さて、筆者はタケという人物が今非常に気になっている。劇中のタケは恐らくは伊平次と一緒にいる遊女だと思われるが、実は史実の光秀は越前の竹という人物に世話になったとされている(光秀は竹を助けた服部七兵衛尉に感謝の書状を認めている)。このタケがその竹なのかはわからないが、しかし史実と名前が被っているだけに筆者は個人的には非常に気になっている。もしかしたらこの遊女は越前の人間であり、光秀が越前に逃れた後、もしかしたら劇中で重要な役どころになってくるのかもしれない。いやしかし、ただ偶然名前が被っただけかもしれない。これもまたドラマを見続ければ見えてくるのだろう。

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麒麟がくる第5回放送「伊平次を探せ」ではついに第十三代将軍足利義輝が登場し、さらには国友衆という鉄鋼鍛冶集団も登場してきた。明智光秀は斎藤利政(後の道三)に鉄砲についてもっと調べるように命じられ、鉄砲鍛冶の伊平次という男を探すという内容だった。

鉄砲が最初に渡って来たのは実は種子島ではなかった?!

さて、明智光秀と本能寺はまさに因縁とも言える関係であるわけだが、その明智光秀のドラマの5回目で、その本能寺が早速画面に登場してきた。本能寺とは京にある日蓮宗の寺であり、実は今も昔も商魂たくましい寺院として知られている。現代の本能寺は隣接するホテルを経営しているのだが、戦国時代における本能寺は鉄砲の仲卸業者のようなことをしていたようだ。

火縄銃は天文十二年(1543年)に初めて日本の種子島に渡って来たとされているが、どうやらこれは違うようだ。近年の史家の研究結果によると、どうやら天文十二年以前に朝鮮より日本の複数の湊町に伝えられていたという。ちなみに第4回放送では天文十七年(1548年)頃が描かれているため、劇中では少なくとも鉄砲が伝来して5年以上は経過していることになる。

今も昔も商魂たくましい本能寺

ただ、本格的に鉄砲の複製品が作られ始めたのは種子島であるようで、種子島で作られた鉄砲が本能寺に持ち込まれて売買されていた。本能寺は宗教という隠れ蓑を用い、鉄砲の仲介役を務めていたようだ。現代ではホテル業を営み、戦国の世では鉄砲の仲介業者役を務めていたというわけだ。そのため宗教家集団というよりも、戦国時代では商人としての色が濃かったとも言われている。

ちなみにこの鉄砲の暴発などによって本能寺はよく炎上していたのでは、と考えられることもあるが、それはもちろん間違いだ。本能寺が天正十年(1582年)の前に焼失したのは天文五年(1536年)であり、まだ鉄砲は伝来していないものと思われる。

そして仲介業者としての役割は、本能寺の変が起きた天正十年の時点ではもう終えていたのではないだろうか。その理由は本能寺の変が起こった際、信長は弓や十文字槍で戦ったという記録は残っているのだが、信長側の誰かが鉄砲で応戦したという記録は残っていない。もしなおも種子島と本能寺のパイプが繋がっていたのなら、信長も本能寺に保管されていた鉄砲で応戦していたはずだ。だがこの時点ではすでに近江の国友村など、いくつかの拠点で鉄砲が量産されるようになっていた。そのような背景からも、信長が力を付けたこの頃には本能寺はもう仲介業者としての役割は終えていたと考えられる。

明智光秀と盟友細川藤孝の出会い

さて、今回は細川藤孝も登場してきた。細川藤孝と言えば、今後明智光秀と盟友となっていく存在であり、光秀にとっては最重要人物のひとりとも言える。その藤孝が血気盛んな人物として描かれているが、果たしてこれはどうなのだろうか。明智光秀の娘玉(後の細川ガラシャ)を娶った細川藤孝の息子忠興は、血気盛んで短気な人物として知られている。忠興は問題を起こしたとされる家臣の首を斬り、それをガラシャの膝の上に置いたり、ガラシャの世話をしていた女衆の耳を斬ったりしたようだが、その度に藤孝がガラシャに謝り、忠興の愚行を許すように諭していたと記録されている。

それらの愚行は『細川家記』に記されているため、多少誇張されていたとしても、まったくの出鱈目が書かれているわけではないと思われる。細川家からすれば、忠興の愚行は家の恥でしかない。しかしそれでも家記に載せたということは、もしかしたら忠興が神経質になるほどガラシャを必死に守ろうとした、ということを伝えたかったのかもしれない。

そのような史実を踏まえると、細川藤孝は決して息子忠興のような武断派ではなかったと思われる。茶の湯や連歌にも造詣が深かったと伝えられており、戦国時代随一の文化人としても知られている。その人物を武断派として描いたのは、これは完全なるフィクションだと言えるのではないだろうか。ただ、まだ一度だけの登場でしかないため、今後細川藤孝がどのように描かれていくのかは今後の楽しみということになるのだろう。ということで次回の放送では、京の町が再び荒れ模様となるらしい。ただし劇中が天文十七年辺りだとするならば、足利義輝が討たれるのはまだ15年以上先となる。そのため将軍義輝の活躍はもう少し楽しめそうだ。

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『麒麟がくる』第4回放送「尾張潜入指令」では、まさに副題の通り明智十兵衛光秀と望月東庵、菊丸が尾張に潜入していく姿が描かれた。このように間者(かんじゃ:スパイ)が敵国に送られることは多々あった戦国時代ではあるが、しかし光秀のような武士が送られることはさすがに稀ではなかっただろうか。

武士が間者として送られることはあったのだろうか?

戦国時代にはいわゆる忍びと呼ばれる忍者たちが活躍していた。その忍びや間者、乱波(らっぱ)が敵国に送られるのが普通であり、光秀のような武士が送られることは、絶対になかったとは言い切れないとは思うが、しかしあったとしても非常に稀だったはずだ。理由は単純で、身分が低くかったとしても城に出入りできるような武士の身分であれば、いつ誰に顔を見られているかわからないからだ。

もちろん若き日の光秀はまだ名など知られてはおらず、他国で光秀の顔を知る者もほとんどいなかったはずだ。しかし品格ある教育を受けている人物が薬草売りに扮したところで自然に振舞うことなど難しい。これは農民に武士の振舞いをされるのと同じだ。そのため武士が間者として他国に送られることは、やはり絶対になかったとは言えないわけだが、しかし可能性としては非常に低かったと思う。送るのであればその道のプロである忍びのような者たちに任せることがほとんどだったはずだ。

流行病で亡くなったとも言われている織田信秀

今回の放送では織田信秀(信長の父)が左肩に受けた流れ矢により傷を負い、そこから体に毒が回り始めているという場面が描かれた。織田信秀の死因は実際には病だとされており、流行病だったとも言われている。今回冒頭で描かれたのは天文17年(1548年)の小豆坂の戦いだったと思うのだが、この戦いで今川家に敗れて以来、信秀は徐々に斎藤・今川という両側からの圧力に押され始めていく。

そこで斎藤家と和睦を結ぶために信長と濃姫の政略結婚が画策されていくわけだが、天文19年(1550年)あたりから信秀は体調を崩すことが多くなっていく。だが劇中では小豆坂の戦いの3ヵ月に信秀は東庵を呼んだ設定になっている。すると史実よりもかなり早く体調を崩していくことになっていくのだろうか。ちなみに信秀が病死するのは天文21年(1552年)3月3日の末森城でだった(享年42)。

だが劇中ではまだ古渡城という、天文17年に廃城になった信長が元服した城にいる設定になっている。この後信秀は末森城に移っていくのだが、末森城が天文17年の何月に完成したのかが筆者にはわからない。小豆坂の戦いが天文17年3月で、信秀と東庵が双六をするのが6月頃だと思われる。となるともう間もなく信秀は末森城に移っていくわけだが、果たしてこの辺りも今後どのように描かれていくのだろうか。

菊丸とは本当にただの百姓なのだろうか?

さて、今回非常に気になったのは織田信秀が家臣に、東庵に薬草を売りに来た商人(十兵衛と菊丸)たちを追わせた場面だ。「怪しければ斬れ」と命じたわけだが、斬り合いになったことで当然怪しいと判断されている。その怪しい2人を城に呼び寄せた東庵は、戦国時代であれば首を刎ねられるか拷問を受けてしまうのではないだろうか。この辺りも今後どう描かれていくのか少し興味がある。

そして斬り合いをしている最中に光秀を助ける謎の軍団が登場したのだが、菊丸はもしかしたら忍びか乱波なのだろうか。乱波だとすればその軍団の実は頭領だったりするのだろうか。ことあるごとに映し出される菊丸の表情を見ていると、ただの百姓ではないように感じたのは筆者だけではなかったと思う。

ちなみに三河の大名となる徳川家康の元には服部半蔵という伊賀の者が仕えていた。だが半蔵が生まれたのは天文11年(1542年)であるため、劇中のこの時点ではまだ6歳程度であり、菊丸が半蔵ではないことだけは確かであろう。しかし菊丸が本当にただの百姓なのか、それとも素性を隠している別者なのかは、今後非常に気になる点ではある。ということで『麒麟がくる』は次週も決して見逃せない。

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『麒麟がくる』の3回目放送「美濃の国」では、斎藤高政(のちの義龍)と明智十兵衛光秀の友情シーンが描かれた。これは恐らくはフィクションという枠に入るのだと思う。まず史実で、高政と十兵衛が共に学び育ったという記録は残されてはいない。そして後々の出来事を考えると、その後々の出来事のドラマを盛り上げるために、今高政と十兵衛を親友のように描いているのかもしれない、と筆者は感じた。

双六はモノポリーではなくバックギャモン?

さて、劇中では双六(すごろく)がよく登場する。医師の望月東庵は近所に住む少女と双六を楽しむのが好きだし、十兵衛は子どもの頃、帰蝶に双六で51戦51敗したという。この双六だが、現代では人生ゲームやモノポリーのようなものを想像するわけだが、戦国時代の双六はそのような形態ではなく、バックギャモンを双六と呼んでいた。

元々は中国に伝わる陣地取りゲームが日本に伝わり、同様にヨーロッパに伝わるとバックギャモンと呼ばれるようになったらしい。なので『麒麟がくる』の劇中で双六の話になったら、それはバックギャモンのことだと思っておくと良いかもしれない。

戦国時代は婚姻と離縁が繰り返されていた

さて、第2回放送では帰蝶の夫である土岐頼純が斎藤利政(のちの道三)によって毒殺された。帰蝶は織田信長の正室として後に濃姫(美濃の姫)と呼ばれ有名になっていくわけだが、どうやら信長に嫁ぐ前は土岐頼純に嫁いでいたと思われているらしい。それを示す決定的な資料が残されているわけではないようなのだが、断片的な資料を繋げていくと、「どうやら帰蝶は土岐頼純に嫁いでいたようだ」というのが史家の見解であるらしい。

ちなみに戦国時代は、婚姻と離縁(離婚)は度々繰り返されることがあった。武家にとっては離縁は決して珍しいことではなく、比較的簡単に行われていた。例えば戦国時代は家臣に力を持たせないように時々国替えと言って、治める土地を変更させられることがあったのだが、国替えが行われると離縁して妻は連れて行かず、国替えした土地でまた新たに妻を娶るということが普通に行われていた。

そして戦国時代の婚姻は単純に政略として利用されることがほとんどで、帰蝶の場合ももちろんそうだった。斎藤利政は土岐家に近付くために娘を頼純に嫁がせた。そして頼純には利用価値がないと見るや否や毒殺し、後年今度は帰蝶を尾張の織田信長に嫁がせている。ちなみにこのように婚姻と離縁が繰り返されていたため、キリスト教のパードレ(宣教師)たちは布教に苦心したようだ。なぜならカトリック法では離婚が禁止されているからだ。

光秀と高政の友情の行方

ネタバレになってしまうため、ここではまだ先々の史実に関しては書けないわけだが、明智十兵衛光秀と斎藤高政の友情は果たしてどのように描かれていくのだろうか。筆者個人の感想としては、光秀と高政が親友のような関係で描かれていることにはかなり意表を突かれた。斎藤利政は幼少期の光秀のことを知っているため(それを示す資料が残されている)、確かに利政の子である高政と光秀が幼馴染だった可能性はある。だがまさかこのように描かれるとは思わなかった。

果たして長良川の戦い以降、この友情がどのように描かれていくのだろうか。ここから史実通りに描いていくのか、それとも更なる驚きの描かれ方がなされていくのか。恐らくは桜が咲く頃にはその辺りのことが劇中に描かれていくのだと思うが、今からそれがどう描かれていくのか、筆者は大いに待ち遠しく思っているのである。

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『麒麟がくる』第2回「道三の罠」では、冒頭から終始斎藤軍と織田軍の合戦シーンが描かれた。斎藤道三と織田信秀(信長の父)の時代には、このような戦いが幾度もあったわけだが、しかし信秀は生涯最期まで稲葉山城を落とすことができなかった。この稲葉山城は難攻不落の城と呼ばれ、織田信長でさえも桶狭間の戦い以降何度も美濃に侵攻したが、実際に美濃を手中に収めたのは永禄10年(1567年)だと言われている。

斎藤義龍は側女の子だった?!

劇中で稲葉山城はただの砦のように描かれているが、実際にはもう少し城っぽい形状だったとされている。しかしさすがに城を再現することは困難なため、城そのものはほとんど描写せず、城下町や砦のみを描く形に留まっているのだろう。だが今後話が展開していき、織田信長が稲葉山城を岐阜城と改めた時に、岐阜城の姿も映し出されるのではないだろうか。

さてその劇中、のちの斎藤義龍である斎藤高政が「自分は側女(そばめ)の子だから父は私の話に耳を貸さない」と語っていた。この台詞は後々重要な意味を持ってくるはずだ。ネタバレになりすぎないようにここではあえて書かないが、ぜひこの台詞は覚えておいてもらいたい。きっと後々の放送で大きな意味を持ってくるはずだ。

『孫子』が頻繁に登場する『麒麟がくる』

斎藤利政(のちの斎藤道三)はこの戦の前、明智光秀と叔父の明智光安に孫子について尋ねている。光安は答えられなかったが、光秀はすらすらと答えていた。『孫子』謀攻編に出てくる「彼を知り己を知らば、百戦して危うからず(危の実際の漢字は、かばねへんに台)」という言葉を引用しているが、これは敵のことも味方のこともしっかり把握し切れていれば、百度戦をしても大敗することはない、という意味になる。

ちなみに劇中で利政は最初は応戦させたがすぐに籠城させ、織田軍に戦う意思がないように思わた。そして織田軍が、斎藤軍に忍ばせていた乱破(らっぱ)の情報からそれを知り兵たちが油断し始めると、利政は猛攻をかけ織田軍を大敗させた。ちなみに劇中では乱破がスパイのように描かれているが、実際の乱破は闇夜に紛れて敵を討つ忍び集団だったと言われている。スパイを表現するのであれば、間者(かんじゃ)や間諜(かんちょう)の方が筆者個人としてはしっくり来る。斎藤利政が仕掛けたこの、能力がない振りをして相手を油断させて討つことを、『孫子』計編で「兵とは詭道(きどう)なり」と言っている。

「兵とは詭道なり」とは、戦とは騙し合いであって、本当は自軍にはその能力があるのに、実際にはないかのように振舞って相手を油断させて敵を撃退するという意味だ。ちなみにこの戦法が最大限活かされたのが、本巻では詳しくは書かないが桶狭間の戦いだった。さて、『孫子』からもう一遍。今回の戦で利政は籠城する意図を誰にも話さなかった。そして籠城を解く時になって初めて諸将にその意図を伝えている。『孫子』ではこれを「能(よ)く士卒の耳目を愚にして」と説いている。これはいわゆる、敵を騙すならまずは味方から、という意味になる。

土岐家と織田家は本当に強い絆で結ばれていたのか?!

最後にもう一点、劇中では美濃守護である土岐家と尾張の織田家には強い絆があると描かれている。この台詞だけだと深いところまで知ることはできないが、実際には決して絆があったわけではない。劇中で伝えられている通り、斎藤利政は美濃守護の土岐頼芸(劇中では「よりのり」と読むが「よりあき」など読み方がいくつか存在している)を武力で追放して美濃を手中に収めたわけだが、尾張の織田信秀は追放された頼芸を美濃守護に戻すという大義名分を得るために、頼芸を利用していただけだった。

仮に信秀が稲葉山城を落とせていたとしても、美濃を土岐家に返還するようなことは決してしなかっただろう。つまり土岐家と織田家の間には絆などなく、織田家が土岐家を利用していただけだった。これは織田信長と足利義昭の関係にもよく似ていて、戦国時代はこのような形で大義名分を作り戦を仕掛けることがよくあった。

以上が『麒麟がくる』第2回「道三の罠」を見た筆者の感想と、解説とまでは言えないが、解説のようなものとなる。ところで、前回放送後の予告編のような部分と、実際の今回の内容がけっこう違っていることに少し驚いたのだが、これは昨年起きた出来事による影響なのだろうか。筆者はてっきり、第2回放送で光秀が妻を娶り、今川義元も登場してくるものだと思ったのだが、そうではないようだ。とは言え、第3回放送も心待ちにしたい。

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いよいよ始まった2020年大河ドラマ『麒麟がくる』。初回放送はまず冒頭で明智荘(あけちのしょう)に野盗が現れ田畑を荒らし、鉄砲の威力を見せつけるというシーンから始まる。そして光秀は鉄砲を持ち帰り、名医を美濃に連れ帰ることを条件に、国主斎藤利政(のちの斎藤道三)に京・堺への旅の許しを請い、ひとり旅立っていく。

当時の比叡山の僧侶は土倉と呼ばれる高利貸しだった

光秀は美濃から琵琶湖までは馬で行き、琵琶湖を商船のような船で横断していく。この時代、琵琶湖は西と東を結ぶ交通の要衝であり、琵琶湖を制す者が京を制すとも言われていた。その理由は単純で、歩けば険しい山道を何日もかけて行かなければならないが、船なら大荷物であってもあっという間に京まで移動できるからだった。そのため後年の織田信長は琵琶湖周辺に安土城、坂本城、長浜城、大溝城という4つの城を築き琵琶湖を死守に努めた。

そして光秀は比叡山を経て堺に向かうのだが、比叡山では僧兵たちが通行料として15文(もん)徴収していた。そしてそれを払えなければ暴力をふるうというシーンが描かれている。これは史実だと言える。当時の比叡山は一部の僧侶を除き堕落し切っていた。比叡山の僧侶が営む土倉(どそう)と呼ばれる高利貸しは利息50%にもなり、返済が滞ると僧兵が暴力的に取り立てたり、娘を奴隷業者に売るためにさらっていくこともあったと言う。

ちなみに15文というのは現代の金額では1,000~1,500円程度である。信長が焼き討ちにするまでの比叡山はまさに腐り切っており、禁忌とされている魚肉や酒を口にしたり、女人禁制であるにも関わらず、色欲に溺れる僧侶ばかりだった。今でいう悪徳金融業者同様となるわけだが、しかし現代の悪徳業者以上に悪徳だったようだ。

比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長が魔王のように描かれることも多いが、しかし実際には比叡山は元亀元年(1570年)だけではなく、1435年と1499年にも焼かれている。とにかくこの時代の比叡山延暦寺は聖職者とは程遠く、どちらかと言えばヤクザのような振る舞いをしていた。そのため今回劇中で描かれている比叡山の僧兵の横暴過ぎる振る舞いは、史実にかなり近いと言えよう。

まだ高額で1挺手に入れることさえ難しかった火縄銃

この初回放送が、一体何年の設定になっているのか筆者にはわからない。だが光秀がまだ若かった頃は、劇中の松永久秀の言葉通り鉄砲は非常に高価な品で、1挺手に入れることさえもまだ難しかった。そして安全性もまだ確かではなく、暴発して大火傷を負ってしまうことも珍しくはなかった。劇中では三淵藤英(みつぶちふじひで)が試し打ちをしているが、これだけ高い身分の人物が試し打ちをしているということは、安全性が完全に確かめられた1挺であるか、それとも火縄銃の危険性をまったく知らない無知であるかのどちらかだろう。

火縄銃はまず筒に弾と火薬を入れて棒でしっかりと押し込み、撃鉄の部分にも火薬を置き、火縄に付けた火を用いることで火薬を爆発させて発射させていた。そのためどんなに頑張っても30秒に1発しか撃つことはできなかったという。劇中で三淵藤英は「戦では使い物にならない」と語っているがまさにその通りで、1挺だけ持っていても戦で活用することは難しい代物だった。

だが後年、遊学によって鉄砲に関する知識を学んだ光秀は、織田軍団の一員として二段撃ち、三段撃ちという戦法を編み出し、戦で鉄砲を最大限活用することに成功している。長篠の戦いなどはまさにその顕著な例だと言える。

崩壊寸前だった足利幕府と京の都

京に着くと、光秀はその荒廃した様に驚く。とても都と呼べるような有様ではなく、この惨状は織田信長が上洛するまで続くことになる。上洛を果たすと、信長は惜しみなく京の復興に金銭を費やしていく。そしてそれにより朝廷の信頼を得ていく。だが光秀が若かりし頃の京は、まさに劇中のような惨状に近いものだったと推測されている。

足利幕府も崩壊寸前で、幕府に力がなくなったことにより各国の守護大名たちも力を失い、美濃においては守護大名だった土岐氏がのちの斎藤道三である斎藤利政に追放されている。そして隣国尾張の織田信秀(信長の父)は、守護代を追放した斎藤氏を悪と評し、成敗の名目で幾度となく美濃に攻め込んでいく。

とにかくこの時代の京は、足利家と三好家の対立が激しく、頻繁に町が破壊されてしまうという状況だった。直しても直しても切りがなく、町人にとっては諦めて何とかそこで生きるか、京を捨てるかの二択だった。とても都と呼べるような、現代の京都と結びつくような美しい町並みなど存在せず、まさに廃墟に近い状況だったとされている。

「光秀、西へ」のまとめ

ドラマであるため、今後フィクションだと思われるストーリーも多く絡んでくるのだろうが、初回放送に関して言えば、フィクションだと思われるのは堺で明智光秀、松永久秀、三淵藤英が一堂に出会ったり、望月東庵(もちづきとうあん)医師や菊丸ら架空の人物が登場してきたことくらいではないだろうか。

次回「道三の罠」では織田家と斎藤家が激突したり、海道一の弓取り(東海道一の国持大名という意味)と呼ばれた今川義元の姿も登場してくるようだ。名のある戦国大名が続々登場してくるようなので、来週の放送も心待ちにしたい。

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2020年1月19日、紆余曲折を経ながらいよいよ始まる『麒麟がくる』。これは言うまでもなく明智光秀の生涯を追った大河ドラマであり、戦国時代のど真ん中を描いた作品となる。では麒麟とは一体何物なのか?劇中、若き明智十兵衛光秀は太平の世になれば麒麟が現れると信じている。麒麟とは中国の伝説上の生き物のこと。

麒麟とは仁のある政治が行われると現れる瑞獣

中国語で「チーリン」と発音する麒麟(きりん)は、体調は5メートルほどで、龍の顔、鹿のような体と角、牛の尾、馬の蹄を持ち、体は黄色く鱗を持つと言われている。中国の古書『礼記(らいき)』には、王が仁のある政治を行うと現れる瑞獣(ずいじゅう)だとされている。

日本や朝鮮半島ではその姿が似ているということもあり、動物園にいる首の長いキリンが、麒麟同様「キリン」という名で呼ばれている。キリンに似た生き物が麒麟となったのではなく、麒麟に似た動物がキリンと呼ばれるようになった。大昔には麒麟にその姿が似ていたことから、キリンが権力者の間で寵愛を受けたということもあったと言う。

人物像が明確に遺されていない明智光秀という人

劇中の十兵衛は辛い境遇に遭いながらも、夢と希望を失わず、麒麟の出現を待ちわびる実直な人物として描かれていくようだ。史実においては明智光秀という人物は、まだ多くの謎に包まれている。明智光秀に関する多くの悪評は、光秀の死後、豊臣秀吉によって捏造されたものであるケースが多い。

『惟任退治記』という、秀吉が光秀を討った際の出来事が書かれたこの本も、秀吉の命によって書かれたものであり、決して真実が語られているわけではない。つまりは小説であり、ノンフィクションではない。信長、秀吉、家康のように、その人柄まで克明に書き遺されている人物とは異なり、明智光秀という人物像を史実通りに描くことはとても難しい。そのため劇中では、新しい光秀像が生み出されるのではないか、という期待も膨らんでくる。

大河ドラマは決してノンフィクションではない

しかし大河ドラマはあくまでもドラマであり、やはりノンフィクションではない。明智憲三郎氏のように、史実のみを追い求める方にとってはきっと不満も募る内容になるのだと思う。もちろん筆者も明智憲三郎氏同様史実を知りたい。しかし今年の大河ドラマに関しては史実のみに捕らわれることなく、ドラマをドラマとして楽しみたいと思う。

とはいえ、楽しみながらも戦国時代記ではドラマと史実の相違点にも注目していきたい。果たして劇中、明智光秀は麒麟を目にすることができるのか、本能寺の変はどのように描かれるのか、そしてどの登場人物が実在し、どの登場人物が架空の人物なのかについてもご紹介していければと思っています。ということで、初回放送が今から待ち遠しい限りです。本当に楽しみですね!