「軍師」と一致するもの

真田信之は父弟の赦免を求めて徳川重臣に頭を下げ続けた

真田家に積年の恨みを持ち続けた徳川家康

関ヶ原の戦いで徳川率いる東軍を相手に戦った真田昌幸と真田信繁(真田幸村)は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いそのものには参加していなかった。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。

関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は天文13年(1585年)の第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身は昔年の恨みから真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。だが徳川家の家臣たちの多くは関ヶ原の戦い後、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることはなかった。

父弟は救えなかったが13万石の藩主となった真田信之

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかった。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす=殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていた。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信は初めから真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である自分も徳川家家臣とは言え切腹するのが筋、というのが信之の信念だった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまう。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかは今となっては知る由もない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな最低限の葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまったわけだが、しかし真田信之の奔走もあり、真田の家が取り潰される事態だけは避けることができた。そして真田信之はその後9万5000石の上田藩の祖となった。さらにはその後松代藩に転封し、13万石を得ることになった。

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戦国時代を語るにあたり必ず登場するのが軍師の存在だ。竹中半兵衛、黒田官兵衛、直江兼続、山本勘助、立花道雪ら戦国時代にはその他にも名だたる軍師たちの存在が多く見て取れる。だが戦国時代そのものにはどうやら軍師という役職は存在していなかったようだ。


江戸時代後期や明治時代になると歴史小説が読まれるようになり、それらの小説により軍師という言葉は一般的になった。そしてそれらの小説に軍師という言葉が登場するきっかけとなったのは、江戸時代以降の軍学者たちによる研究結果だった。学者たちは大名に様々な知恵を提供する役割を担った人物のことを軍師と呼ぶようになり、それが小説の世界へと広がって行き、一般的にもよく知られる言葉となっていった。

歴史ドラマではたまに軍師のことを「軍師殿」と呼ぶシーンが描かれているが、どうやら実際にそのように呼ばれることはなかったようだ。例えば直江兼続のように守護職を持っている人物の場合は「山城守(やましろのかみ)」や「山城」と呼ばれていた。一方竹中半兵衛のように役職に関心のない人物は「半兵衛殿」「竹中殿」と呼ばれていた。

ここでは便宜上「軍師」という言葉を使うが、室町時代から戦国時代初期にかけての軍師は、占い師的な要素が強かった。例えば奇門遁甲などを駆使し方角や運勢を読み、運を味方に付け戦に勝つ手助けを行なっていた。いわゆる陰陽師のような存在だ。

そのため特に戦国時代初期の軍師は、実際には陰陽師ではないが、陰陽師をルーツにするような僧侶などの修験者(しゅげんじゃ)が務めることも多かった。例えば今川義元を支えた太原雪斎(たいげんせっさい)や、大友家を支えた角隈石宗(つのくませきそう)のような存在だ。だが戦国時代が中期に突入すると『孫子』などの軍学に精通した人物が軍師として重用されるようになる。羽柴秀吉を支えた竹中半兵衛や黒田官兵衛のような存在だ。

これが戦国時代も末期に差し掛かり戦が減って行くと、軍学を得意とする軍師の役割も減って行く。その代わりに台頭してくるのが吏僚型の軍師だ。石田三成や大谷吉継のような存在だ。彼らは戦のことももちろん学んでいるが、それ以上に兵站(兵糧)の確保や金銭の管理に大きな力を発揮した。特に石田三成は近江商人で有名な土地で生まれ育ったため算術を得意としており、豊臣秀吉が仕掛けた朝鮮出兵などでは後方支援として大きな役割を果たした。

ちなみに日本最初の軍師は吉備真備(きびのまきび)という人物だ。奈良時代(700年代)の学者で、中国の軍学を学ぶことによって戦術面に貢献するようになり、藤原仲麻呂が起こした乱を巧みに鎮圧したことでも知られる人物だ。その後鎌倉時代から南北朝時代に入って行くと、今度は楠木正成という軍師が登場する。楠木正成は、戦国時代で言えば真田昌幸のようなゲリラ戦法を得意とする軍師だった。

強い忠誠心を持っていたことから、戦国時代にはヒーローとして崇められ、例えば竹中半兵衛などは「昔楠木、今竹中」「今楠木」となどと呼ばれ、その高い手腕が賞賛されていた。

軍師とは野球チームで言えばヘッドコーチ、内閣で言えば官房長官のような役割になるのだろう。決してトップになることはないが常にトップの傍らでトップを支え、成り行きを良い方向へと向かわせる役割を果たす。

ちなみに軍師は『孫子』などに精通している必要があるが、現代でMBAを取得する際の必須科目にも『孫子』は加えられている。その孫子(孫武)自身も紀元前500年代に活躍した中国の軍師(軍事思想家)だった。
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関ヶ原の戦いで徳川家と戦った真田昌幸と真田信繁は、西軍敗戦後、九度山(高野山)に蟄居させられた。だが昌幸・信繁父子としては、いつかは必ず赦免されると考えていたようだ。そもそも真田父子は、実のところ関ヶ原の戦いには参加していないのである。あくまでも上田城を攻めて来た徳川秀忠軍を撃退しただけ、なのである。


関ヶ原の戦いの直前に行われた上田城攻防戦を第二次上田合戦と呼ぶわけだが、徳川と真田の因縁は第一次上田合戦まで遡る。徳川家は幾度となく真田家に苦しめられ、家康自身、真田家のことは目の上のたんこぶのように思っていた。一方徳川家の家臣たちの多くは、真田を赦免すべきだと家康に進言していた。

だが幾度となく真田家に苦しめられたことから家康はなかなか首を縦に振ることはなく、第二次上田合戦で足止めをされ、関ヶ原に遅参する羽目になった徳川秀忠も真田家への怒りを抑えることができなかった。家臣たちの説得により、家康は少し態度を軟化させたようだが、しかし実際には秀忠の頑なな反対により赦免されることがなかったようだ。

父と弟が九度山に蟄居させられて以来、真田信之は赦免してもらえるようあちこちに根回しをした。家康の軍師とも言える本多正信、徳川四天王である本多忠勝(信之の舅)・榊原康政・井伊直政の3人に頭を下げ、家康に赦免してもらえるように頼んで回っていた。

『常山紀談』によれば家康は最終的には赦免を与えようとしたらしい。だが秀忠が真田への怒りを抑えることができず、赦免は実現しなかったようだ。秀忠は「昌幸を誅す(ちゅうす:殺す)」とまで口にしており、関ヶ原遅参に対する相当の恨みを真田昌幸に対し持っていたようだ。

信之の依頼を榊原康政は快諾し、当時リンパ系の病気に苦しんでいた井伊直政も家康を説得すると約束してくれている。そして本多正信はもともと真田を擁護するような姿勢を取っており、本多忠勝は信之の舅であることから、真田の赦免を家康に強く進言してくれていた。だが繰り返すが秀忠の怒りが収まらなかったことにより、昌幸・信繁父子の赦免が実現することはなかった。

ちなみに「昌幸を誅す」という秀忠の言葉を伝え聞いた信之は、「父を誅す前にまず自分に切腹を命じて欲しい」と言ったと伝えられている。敵の子は敵、それならば昌幸の子である信之も切腹するのが筋、というのが信之の気持ちだった。

結局昌幸の赦免は実現することなく、慶長16年(1611年)6月4日、昌幸は65歳で九度山にて病没してしまった。しかも赦免が実現しなかったことから、正式な葬儀を執り行うことは認められなかった。昌幸の亡骸は家臣によって九度山で火葬されたようだが、どのような葬いがされたのかはわからない。

徳川の監視(監視役は浅野幸長:よしなが)もあったことから、きっと本格的な葬儀を行うことはできなかったのではないだろうか。もし葬儀が許されない中で立派な葬儀をし、それが秀忠の耳に入れば真田家をひとり守る信之に火の粉が降りかかってしまう。それを避けるためにも信繁や家臣は、本当に細やかな葬いしかしてあげられなかったのではないだろうか。

真田昌幸という戦国時代きっての謀将の最期としては、あまりにも寂しいものとなってしまった。
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戦国時代の軍師の存在、意味とは一体どのようなものだったのか。軍師という言葉は歴史ドラマなどでもよく耳にすることがあるが、実際にはどのような役割を担っていたのか。この巻では軍師の役割について詳しく解説してきたいと思います。


まず軍師を英語で言うと「Tactician(タクティシャン)」となり、戦術家という意味になります。つまり軍師を一言で説明するならば、戦術を練る人、ということになります。いわゆる参謀という存在であり、プロ野球チームならば監督が大名ならばヘッドコーチが軍師、総理大臣が大名ならば官房長官が軍師という感じになるでしょうか。

最終的な決断を下すのはもちろん大名や大将の役割です。その大名や大将に対し選択肢を提供するのが軍師の役目でした。例えば城を攻めるならばシンプルな攻城、兵糧攻め、水攻め、火攻めなどなど、どのような戦術を用いれば最も効果的に、かつ効率的に城を落とすことができるのか、それを大名が決断するための情報を提供するのが軍師の役割です。

そのため軍師は圧倒的な情報量を持っている必要がありました。例えば真田信繁(幸村)は情報を集めるために猿飛佐助や霧隠才蔵などの忍者を抱えていたと伝えられています。またその父真田昌幸は、根津のノノウ(歩き巫女)に情報収集をさせていたという説もあります。

軍師は大名や大将から何かを相談されても、その場ですぐに答えられるように圧倒的な情報量と知識が求められていました。知識といえばもちろん『孫子』を始めとする中国の書物への造詣もです。

軍師という存在が目立つようになったのは、戦国時代からだと言います。戦国時代の前期までは軍師は、主に禅僧の役割でした。中国の学問に精通した禅僧が大名の側に控え、知識を提供していたというのが戦国軍師の元々の姿です。その後徐々に自ら勉学に励む竹中半兵衛のような武将が登場し、大名とともに戦う武将型軍師が多くなっていきました。

ちなみに禅僧型軍師として有名なのは織田信長に仕えた沢彦(たくげん、岐阜を名付けた禅僧)などがいます。沢彦などはまさに典型的な禅僧型軍師であり、戦場にまで赴くことはありませんでした。逆に今川義元に仕えた禅僧型軍師である太原雪斎は自ら鎧をまとい戦場にまで赴く勇猛な禅僧でした。

軍師というのはとにかく、大名や大将が欲しいと思った情報を瞬時に提供できる人物だったようです。そしてそれを可能にするためにも情報網を広げ、武芸だけではなく勉学にも勤しむ忙しい毎日を送っていたと言います。竹中半兵衛や黒田官兵衛らは、夜寝る時間を惜しんで本を読んでいたようです。そして『孫子』なども簡単に諳んじられたと言います。

なお戦国時代の武士はだいたい夜8時には寝て、朝4時には起きていたようです。この8時間の睡眠時間を削ってでも勉学や情報収集に努めたのが軍師という存在だったのです。言ってみれば軍師というのは大名にとって、歩く百科事典だったというわけです。

また、戦場での戦術を練るのが得意だった竹中半兵衛や黒田官兵衛などに対し、吏僚型軍師も戦国時代の後期から登場します。それが石田三成や長塚正家ら、算術が得意な人物たちです。そしてその中間的な存在が大谷吉継でした。大谷吉継は戦術にも算術にも長けていたと言われています。

このように戦国時代の軍師には禅僧型、武将型、吏僚型などなど、他にも幾つものタイプがありました。そしてそのタイプは時代と共にニーズが移り変わっていきます。例えば豊臣秀吉の場合、乱世であった頃は竹中半兵衛や黒田官兵衛を重用しましたが、戦が減ってくると黒田官兵衛とは距離を置き、石田三成ら吏僚型軍師を重用するようになりました。

軍師の役割を見直してみると、軍師と呼ばれた人物は非常に忙しい毎日を送っていたようです。なお戦国時代には軍師という言葉はあまり使われていなかったとも言われています。軍師とは江戸時代後期や明治時代から主に使われるようになった言葉であるようで、戦国時代には明確な「軍師」という役職があったわけでは実はないようです。
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天正18年(1590年)の小田原征伐以降、真田家に大きな動きはほとんどなかった。しかし文禄元年(1592年)2月、いよいよ豊臣秀吉の朝鮮出兵を実行に移すため、真田昌幸は徳川家康、上杉景勝と共に肥前名護屋城に赴いている。ちなみに名護屋城とは朝鮮出兵の拠点として、天正19年10月から普請され、短期間で仕上げられた城だった。


名護屋城には7万3千もの兵が集結した。その中から実際に渡海して行く部隊人数が細かに定められたわけだが、真田父子は700人の兵を持ち、渡海する際は500人連れて行くようにと定められた。だが実際に真田父子が渡海することはなく、上述の通り家康、景勝と共に名護屋城で秀吉の身辺警護を行い、最後まで渡海命令が下されることはなかった。

この時徳川家康、上杉景勝と近い扱いをされるということは、秀吉の中で真田昌幸の存在はかなり大きかったのだろう。そして戦術家としても、小田原征伐以来、秀吉は昌幸を高く評価していたようだ。大名としての格から、さすがにその後大老になるようなことはなかったが、しかし一連の処遇を見ていくと、秀吉が昌幸のことを高く買っていたことが良くわかる。

同じ戦術家として豊臣家には黒田孝高という存在もまだあったわけだが、しかし秀吉に対し耳の痛いこと言う軍師であるためか、この頃の黒田孝高は秀吉からは遠く離されてしまっていた。その黒田孝高の代わりとして、新たな豊臣恩顧の小大名であり、知略にも優れた真田昌幸を置いておきたかったという気持ちが秀吉の中にはもしかしたらあったのかもしれない。

さて、文禄の役では渡海は命じられなかった真田父子だったが、文禄の役が終わると、その替わりとなる役割が待っていた。それは伏見城の普請役だった。伏見城は秀吉が隠居後に暮らすつもりの城で、大坂と京のほぼ中間に作られたものだった。この城の普請を一部担ったわけだが、真田家は木材の提供と1680人(知行高の1/5)の労働者の提供を求められた。

だが文禄の役で実際に渡海させられるよりは遥かにましと言える勤めだった。しかも伏見城の普請、そして名護屋城への出向の恩賞として、家督を継いでいた真田信幸には下従五位伊豆守と豊臣姓が与えられた。真田信繁(幸村)にも下従五位左衛門尉と豊臣姓が与えられたと伝えられてはいるが、しかし信繁の場合はそれを証明する書状は残されてはいない。

その後文禄4年には秀吉が草津温泉への湯治に出かけるということで、真田家はその饗応役を任ぜられたのだが、実際に秀吉が草津に赴くことはなかったようだ。秀吉はこの3年後に病死してしまうわけだが、もしかしたら伏見から草津へ出かけられないほど、この時の秀吉は体が弱っていたのかもしれない。もしくは慶長の役に向けての準備が忙しかったのだろうか。

このように、小田原征伐以降は真田家にはそれほど目立った動きはない。文禄の役では実際に出陣には至らず、文禄の役後は伏見城の普請を担当した程度だった。真田家は最初から最後まで徳川家や北条家などに振り回されていたわけだが、その北条家が滅亡した小田原征伐から少しの間だけは、因縁の沼田領も安堵されていたこともあり、真田家にとってはつかの間の平穏の時だったのかもしれない。
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竹中半兵衛と牛に関する逸話は別の巻にてすでに紹介した。今回は半兵衛の馬にまつわる名言をご紹介したい。竹中半兵衛は僅か16人の手勢で稲葉山城を陥落させて以来、その名は日本全国に知れ渡っていた。まさに日の本一の知将であり、竹中半兵衛を幕下に加えたいと考える大名は一人や二人ではなかった。


それだけの名軍師であるにもかかわらず、半兵衛はいつも貧相な馬に乗って戦場に赴いていた。竹中半兵衛ほどの武将であれば、名のある名馬に乗っていても違和感はない。周りももっと良い馬に乗ってはどうかと話していたようだ。それでも半兵衛は、逆に身分にそぐわない駄馬に跨り続けた。それは何故なのか?!

竹中半兵衛の頭の中は常に戦場にあった。何を取っても戦場に立っていることを想定し物事を考えている。馬にしてもそうだった。もし名のあるような名馬に乗ってしまっては、その馬を失いたくないあまりに勝機を失ってしまうこともある。半兵衛が最も嫌ったのがそれだった。

しかし乗っているのが駄馬であれば、勝機となればすぐにでも馬を捨てて戦場を駆け回ることができる。仮にその馬に槍を刺されても、逃げ出されてしまっても、駄馬などいくらでも手に入る。そう思えるからこそ勝機を握り損なうことなく、好敵に対し瞬時に槍刀を向けていくことができる。

だがもし名馬に乗っていたらどうだろうか。もし場所を考えず馬を乗り捨てたら、従者は馬に追いつけるだろうか?馬を敵に盗られないだろうか?などと余計なことを考えてしまい、好機で瞬時の判断が鈍ってしまう。

大大名ならいくらでも名馬は手に入る。戦場で名馬を失ってしまっても、また次の名馬に乗ることができる。だが城代や、その家臣という程度では名馬などそうそう手に入れることはできない。そのため戦場で名馬に乗ることは戦う上で足手まといになると半兵衛は語っている。

この逸話は江戸時代に書かれた『常山記談(じょうざんきだん)』に収録されているのだが、半兵衛は10両持って馬を買いに行ったなら、5両の馬を買うように勧めている。その理由は戦場で馬を失ったら、残りの5両を使ってまた馬を買えるからだ。このように考えていれば、戦場で馬を理由に勝機を失うこともなくなる。さらに半兵衛はこのことは馬だけではなく、他のことにも当てはまると言葉を締めている。

竹中半兵衛は牛に乗って考えたり、身分にそぐわない駄馬に乗ったり、身形は普通であっても行動に関してはやや傾(かぶ)いていたようだ。だが人とは違う行動、物の見方を普段からしていたからこそ、半兵衛は時に奇想天外な戦術によって味方を勝利に導くことができたのかもしれない。
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本能寺の変が起こった原因を、織田信長からキツく当たられた明智光秀の怨恨だと解説している本もある。しかし現実はそうではなかったようだ。織田信長は、明智光秀ほど信頼していた人物はおらず、逆に羽柴秀吉のことはそれほど信用していなかったようだ。

有名な逸話として、本能寺で徳川家康を歓待するためのもてなし役を任されていた明智光秀が、信長が気に入らない準備をしてしまったために役を解任され、さらには人前で足蹴にされたというものがある。しかしこれも噂に尾ひれが付いたものであるようだ。詳しくは明智憲三郎氏の著書『本能寺の変 431年目の真実 』に証拠の紹介と共に記されているのだが、決してもてなし方が拙かったから解任されたわけではなかった。

羽柴秀吉はこの頃中国の毛利攻めを担当していたのだが、秀吉は信長の顔を立てるためなのか、本来は必要のない援軍を信長に求めていた。だが秀吉をそれほど信用してはいない信長は、光秀を毛利攻めの陣中に送ることにした。これが解任の本当の理由だ。だがこれは通説のように光秀が秀吉の傘下に付くというものではなく、戦況を見極めるための軍師役として信長が指示したものだった。

秀吉の傘下に入ることを嫌った光秀が、信長のその指示に憤怒して本能寺を攻めたという説もあるが、つまりはこれも誤りということになる。毛利攻めへの軍師役に関しても、実は光秀を本能寺から切り離すための演技だった。信長としては、光秀を本当に毛利攻めに参加させるつもりではなく、光秀もそれは最初からわかっていた。

そして光秀が信長に足蹴にされたという逸話だが、これは光秀が本能寺の変を起こしてまで再興させたかった土岐家と縁のある、長曾我部討伐を思い留まるように光秀が信長にしつこく懇願してのことだったと明智憲三郎氏は歴史捜査によって導き出している。

決して光秀が人前で足蹴にされたり、鉄扇で叩かれたという事実はなく、信長が光秀を足蹴にしたのは密室でのことだったようだ。ではなぜ密室で起こったことが他者の耳に入ったかと言えば、信長の小姓を務めていた彌介(黒人)がそれをそばで目撃し、南蛮寺でのちに話したことが尾ひれを付けて広まったらしい。

信長が光秀を辱しめ光秀の恨みを買った、秀吉は信長に大層気に入られていた、という通説は、どうやらのちに秀吉が演出した作り話であるようだ。特に信長と光秀の不仲に関しては、秀吉が自らの天下取りの宣伝用に書かせた『惟任退治記』によって強調されたものだった。

だが信長は光秀を誰よりも信用し、秀吉のことはそれほど信用してはいなかった、というのが真実であったようだ。だからこそ信長は家康の暗殺を秀吉ではなく、光秀に命じたわけだが、しかし長曾我部討伐が影響し、信長は光秀に裏切られてしまった。そしてどうやら秀吉は本能寺の変が起こるであろうことを前々から知っていたようなのだ。そしてそれを契機に主権を奪い取ろうと企てていた節が秀吉にはある。

史家の最新の研究を拝読していくと、我々歴史好きが誤認している通説が非常に多いということがよくわかる。10年前は常識だった通説も、今ではその事情がすっかり変わってきてしまっているのである。それを踏まえると、書籍によって歴史の真実を見極める我々の目ももっと鍛えていかなければならないのかもしれない。
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戦国時代、「昔楠木、今竹中(昔は楠木正成だったが、現代では竹中半兵衛が一番)」「今楠木(現代の楠木正成)」と、楠木正成同等の評価をされていた軍師がいた。それが竹中半兵衛重治だ。竹中半兵衛が戦略を練った戦は、斎藤家時代、羽柴家時代とほとんど負けがなかった。もし竹中半兵衛の勝率を出したならば、間違いなく毛利元就や上杉謙信の上を行くことになる。だからこそ天才軍師の名を欲しいままにできたのだ。


竹中半兵衛は天文13年(1544年)9月11日、竹中重元の次男として生まれた。重行という兄がいたのだが、詳しい資料は残されていないが、どうやら戦で負った怪我で体が不自由になり、次男の重治が竹中家を継ぐことになったようだ。

だが竹中家では当初、三男の重矩(しげのり)に家督を継がせたいという声もあった。その理由は半兵衛が武将としてはあまりに物静かで、肌も青白く女性のような印象があったからだと言う。一方重矩はいわゆる武将タイプの人物で、武芸にも優れていた。しかし重矩に家督を継がせたいと考えた家臣たちの考えは、永禄7年2月6日に変わることとなる。

この日竹中半兵衛は、織田信長がいくら攻めても落とせなかった稲葉山城を、僅か16人の手勢だけで一夜にして落としてしまった。この稲葉山城乗っ取り事件により、家臣たちは半兵衛を見る目を変えざるをえなかった。またこの事件により竹中半兵衛の名が日ノ本中に轟くことになる。

まさに智謀に富んだ名軍師だったわけだが、しかし体は元来強くはなかった。それもあり36歳という若さで結核により亡くなってしまう。若くして亡くなったこの姿も、歴史ファンの心を引き寄せる要因なのだろう。

竹中半兵衛には様々な逸話が残されているが、その大半は後世の創作だと言われている。例えば垂井で隠棲していた際に、三顧の礼によって木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に迎えられたという話だが、これは三国志に登場する劉備が諸葛亮を幕下に加えるため、三度諸葛亮の屋敷を尋ねたという逸話の焼き増しとなる。竹中半兵衛自身が実際、どのような流れによって織田の寄人になったのかは正確にはわかっていない。

あまり有名な話ではないが、牛に関する逸話が残っている。ある時羽柴秀吉の陣屋は出陣を前にしててんやわんやとなっていた。誰もが慌ただしく動き回っており、まったく落ち着きのない雰囲気となっていた。だがひとりその雰囲気を壊す者がいた。もちろん竹中半兵衛だ。皆が忙しく動き回っている中、何と半兵衛はのんびりと牛に跨っていたのだ。

家中の誰かが「なぜこんな忙しい時に牛に乗っているのです?」と尋ねると、半兵衛は「忙しい時ほど牛に乗ってゆっくりと考え、冷静になる必要がある」と答えたと言う。半兵衛のこの言葉により羽柴陣営は落ち着きを取り戻していった。

冷静沈着という言葉はまさに、竹中半兵衛のためにあるようなものだ。いつでも冷静に物事を考え、戦に勝っても決して浮き足立つことなく、勝ったからこそ兜の緒をきつく締め直す、それが竹中半兵衛という人物像だ。

すぐに調子に乗るタイプの羽柴秀吉に対し、どんな時も冷静さを欠かない竹中半兵衛、こうして見ると非常にバランスの取れた良きパートナーだったのかもしれない。そして羽柴秀吉の人柄に惚れこんだからこそ、半兵衛は織田信長の家臣として仕えるのではなく、あえて織田の寄人として秀吉の幕下に加わったのだろう。

そして稲葉山城乗っ取り事件もあり、信長も半兵衛の力量を高く買っていたからこそ、半兵衛の我儘を聞き入れ、家臣ではなく寄人として与力となることを認めたのだろう。そうじゃなければあの織田信長が、たかだか竹中家の当主というだけの人物の我儘を許すはずはない。

竹中半兵衛はまだ謎多き武将ではあるが、戦国時代記では今後もこの人物を深く掘り下げていきたい。なぜなら筆者自身が最も尊敬している人物が竹中半兵衛であるからだ。
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天正6年(1578年)、荒木村重は羽柴秀吉の三木城攻めに加わっていた。だがその10月、突如として村重は主君織田信長に反旗を翻し摂津有岡城に籠城してしまう。なぜ村重が信長を裏切ったのかは諸説あるが、ハッキリとした理由はわかっていない。一般的には信長の苛烈な性格に不安を抱き、毛利の後ろ盾てを得たことで謀反を起こしたとされている。

同じ頃、黒田官兵衛は秀吉の与力として播州(播磨)の案内役を買って出ていた。この頃の官兵衛はまだ小寺政職に仕えており、小寺姓を名乗っていた。官兵衛の進言により主君小寺政職は織田への従属を決めていたのだが、この時人質として秀吉のもとに送られたのは官兵衛の子、松寿丸だった。後の黒田長政だ。

村重の謀反を知ると、官兵衛は村重を説得するために有岡城に単身乗り込んだ。だがその官兵衛がいつまで経っても戻って来ない。その間にも村重は毛利と連携を取り、一時は織田側に靡いていた播州の国衆たちが毛利に付くように状況を変えようとしていた。これに怒りを露わにしたのが信長だった。信長はこの時、知将官兵衛が裏切り、荒木村重に知恵を貸していると判断した。だからこそ音沙汰もなく官兵衛が有岡城から戻って来ないのだ、と。

通常であれば使者は役目を果たすとその後すぐに戻るか、切り捨てられるかのどちらかだ。戦国時代に於いて使者を切り捨てるというのは宣戦布告を意味していた。だが官兵衛の場合はそのどちらでもない。だとすれば、一般的に考えれば官兵衛が村重側に付いたと判断することができる。

信長は秀吉に対し、人質であった松寿丸を切り捨てるよう命じた。当然と言えば当然である。人質とはそのための存在であり、官兵衛が裏切ったと判断されたならば、その人質を殺すのが戦国時代の当たり前のやり方だ。だが松寿丸はまだ9歳と幼かった。秀吉は居城である長浜城で正室のおねに松寿丸を預けていた。そして子に恵まれなかったおねは、我が子のように松寿丸を可愛がっていた。

秀吉もおねがどれだけ松寿丸を可愛がっているのかをよく知っていた。だからこそ信長の松寿丸処刑の命令をおねに伝えるのがあまりにも心苦しかった。そしてそんな秀吉の苦悩を、竹中半兵衛がそばで見守っていた。

その半兵衛が自ら松寿丸の処刑を買って出た。松寿丸を長浜城から自らの本拠、美濃菩提山城へと連れて行った。そして信長にはその後すぐ、松寿丸が処刑されたことが伝えられた。秀吉もおねも大層悲しんだことだろう。例え官兵衛が裏切り者だったとしても、特におねには松寿丸をこのまま我が子として育てたい気持ちがあったはずだ。だが主君信長の命に背くわけにはいかない。だからこそ断腸の思いで、半兵衛に松寿丸の処刑を任せるより他なかったのである。

官兵衛が有岡城に入ってからちょうど1年が過ぎた天正7年10月19日、荒木村重が篭る有岡城はついに落城した。しかもその形が酷く、村重が一族や家臣を残して逃亡するというものだった。そのため一族たちは女子供を含め、全員が処刑されるという最悪の結果になってしまう。

有岡城が陥落した際、狭く汚い土牢に一人の男が幽閉されていた。脚は真っ直ぐ伸びなくなっており、顔には痣ができている。この人物こそが小寺官兵衛であり、官兵衛は織田方を裏切ったのではなく、村重に幽閉されていただけだったのだ。村重には自らの味方に付くよう逆に説得されたようだが、官兵衛は決して織田を裏切ることはしなかった。この時官兵衛を土牢から救出したのは官兵衛の側近、栗山善助だった。

官兵衛は無事に救出され姫路に戻ることができた。だが官兵衛の帰りを待っていたのは、松寿丸が信長の命により処刑されたという報らせだった。官兵衛は嘆き悲しみ、まるで生きて戻った心地がしなかった。

だがその時、別の報らせが官兵衛のもとに届けられた。官兵衛が幽閉されている間に結核により他界していた竹中半兵衛の家の者からの報らせだった。官兵衛は当初半兵衛のことを慕っていたわけだが、しかし半兵衛が松寿丸の処刑を買って出たと聞き、さぞ落胆したことだろう。

竹中家からの報らせはきっと、その詫びだと思ったのかもしれない。だが真実はそうではなかった。半兵衛は処刑を買って出て、松寿丸を長浜城から菩提山城へと連れて行った。その後は半兵衛の家臣である不破矢足の屋敷に松寿丸は置かれた。

事実はたったそれだけだった。

半兵衛は、官兵衛が裏切っていないことを確信していたのだった。だからこそ自ら松寿丸を引き取り、処刑をしたと嘘の報告を行っていた。その報告に信長も満足していた。

信長の命は松寿丸を処刑することだった。だが半兵衛はその命に完全に背いた。なぜそんなことができたのか?半兵衛は自らの死期が近いことを良くわかっていた。半兵衛が自ら処刑役を買って出て、その結果信長の命に背いたとしても、もう半兵衛はこの世にはおらず、さすがの信長であっても死者を処分することはできない。半兵衛はそこまで考えて松寿丸を匿ったのだった。

官兵衛は心の底から半兵衛に対し感謝の意を示した。以降黒田家では竹中家の石餅(こくもち)の家紋を用い、半兵衛の子重門が元服した際には烏帽子親を務めている。

竹中半兵衛という人物は知略に長けた名軍師であったわけだが、最期は自分の死まで利用してしまった。そして死の間際には黒田父子を気遣う手紙まで残している。生前は官兵衛に対し時に冷たく、時に厳しく接した半兵衛であったが、その厳しさもすべて官兵衛のことを考えてのことだった。なぜなら自身亡き後、秀吉を支える軍師は官兵衛しかいないと考えていたからだ。

半兵衛と官兵衛の友情は、親の代だけで途切れることはなかった。半兵衛が他界した21年後に起こった関ヶ原の戦いでは、官兵衛の息子長政と、半兵衛の息子重門が隣り合って陣を敷くことになる。恐らく長政自身、半兵衛によって命を救われた恩を生涯忘れることがなかったのだろう。

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三木城の別所長治はなぜ羽柴秀吉を裏切ったのだろうか。この裏切りが『三木の干殺し』に繋がっていくわけだが、その理由は諸説伝えられている。別所氏の名門意識が百姓上がりの秀吉の下に付くことを嫌ったとか、織田軍の上月城攻めのやり方に反感を持ったなど、信長への信頼感の揺らぎが大きな原因だったようにも伝えられている。


原因はどれか一つではなかったのだろう。いくつもの不安要素が折り重なり、羽柴秀吉に対し反旗を翻す結果になったのだと思う。当初は別所長治も毛利ではなく、織田に味方する姿勢を見せていたのだが、まさかの急展開となってしまった。

羽柴勢による三木城の包囲が始まったのは天正6年(1578年)3月29日のことだった。だが三木城は簡単に攻め落とせるような城ではない。まず城の北側には美嚢川(みのうがわ)という天然の水堀があり、そして城自体も丘の上に建てられているため、下手に攻めれば上から鉄砲や矢の雨が降ってくる。さらには東播磨などから集まってきた7500人もの兵が城を固く守っており、力攻めをしたところで返り討ちに遭うばかりとなる。

この時秀吉の下には竹中半兵衛と黒田官兵衛というふたりの軍師がいた。だが三木城攻めが始まって間もなくすると、今度は攝津有岡城主の荒木村重が信長に反旗を翻す。村重を翻意させるために官兵衛が有岡城を尋ねるのだが、しかし官兵衛は捕らえられてしまい、地下牢に閉じ込められてしまう。

一方の竹中半兵衛は結核を患っており、戦場と病床とを行き来する日々を強いられていた。それでも竹中半兵衛は策を巡らせ、三木城を兵糧攻めにしていく。一説によればこの時、「羽柴軍は別所長治に味方したものは兵士だろうが百姓だろうが構わず皆殺しにする」という噂をわざと流し、百姓たちまで三木城内に駆け込ませたと言う。

すると三木城内は兵だけではなく百姓たちも合わさり、兵糧は見る見る減っていく。そして美嚢川を含めた兵糧の補給路は羽柴勢によりすべて封鎖されており、毛利からの兵糧補給も期待することができない。さらに羽柴勢は周辺の米商人から通常よりも高い金額で米を買い占めていた。これにより三木城内からは米が減っていく一方で、逆に補給路は一切が断たれる形となった。

これらの兵糧攻めを主導したのが竹中半兵衛であったようだ。『孫子 』の言うところの「戦わずして勝つ」を地で行くような戦法だ。羽柴勢は兵をまったく失うことなく、三木城内の兵士たちはどんどん弱っていく。米が尽きれば兵馬が食べられ、馬もいなくなればそこらへんに生えている草木をも食べ、そして餓死者の肉を貪ってもいたようだ。まさに壮絶な兵糧攻めであり、また生き地獄でもあった。

10日も何も食べていない者ばかりとなり、兵も戦うどころか立ってもいられない状況が続いていた。竹中半兵衛の策略が見事にはまり、天然の要塞と呼ばれた三木城も、内側から見る見る力を失っていく。そして炊飯の煙がほとんど上がらなくなると、秀吉はいよいよ総攻撃を命じた。

だが実際には城は攻めるまでもなく、場内の兵の命を救うことを条件にし、別所長治一族が切腹することで城攻めは天正8年1月17日に終了した。この戦いは実に22ヶ月にも及び、戦国時代で最も長期に渡った戦となった。

ちなみに有岡城に幽閉されていた黒田官兵衛は、天正7年10月19日に無事救出されたのだが、盟友である竹中半兵衛はその救出を見ることなく天正7年6月13日、結核により36年という短い生涯を三木陣中にて終えてしまった。秀吉は京での療養を勧めていたようだが、「戦さ場が死に場所」と自らに定めていた半兵衛はそれを聞かず、三木陣中での最期を選んだのだった。

写真:三木市内にある竹中半兵衛の墓

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