「細川忠興」と一致するもの

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明智光秀の娘であり、その盟友細川藤孝の息子忠興に嫁いだ細川ガラシャ(明智玉)は、キリシタンでありながらその生涯で一度しか教会に行くことができなかった。それは忠興の拘束が厳しかったことが最も大きな要因であるわけだが、その一度だけ足を運んだ教会でその場で洗礼を受けることを希望するも、その希望は叶えられなかった。

秀吉の側室だと疑われていた細川ガラシャ

天正15年2月(1587年)にガラシャは初めて大坂の教会を訪れた。この時ガラシャの対応をしたのはセスペデスという人物だった。実はこの頃密かに噂されていたことがあり、それはガラシャが実は秀吉の側室なのではないか、ということだった。この噂を知っていたために、セスペデスはその場でガラシャに洗礼を授けることをためらったようだ。

キリスト教では一夫一婦制を重視しており、側室を持つことを良しとはしていなかった。そのため中には側室でありながら、妾(めかけ)と偽り洗礼を受けた者もあるらしい。側室とは第二婦人という立場だが、妾はただの不倫相手という立場になるため、理論上は一夫一婦制を破ってはいないということになる。

秀吉の機嫌を損ねたくはなかった教会側

秀吉と言えば美女に目がない好色として知られていた。その秀吉が絶世の美女とも言われていた細川ガラシャを気に入っていたということは、誰の目にも明らかだった。そして秀吉はこの時期、伴天連追放令を発布している。つまり教会側としては、側室に洗礼を与えにくいということと同時に、秀吉の機嫌を損ねることはできなかった、という事情があった。

そのためセスペデスはその場でガラシャに洗礼を授けることはせず、一度引き取らせ、責任者であったオルガンティーノに相談をすることにした。後日無事に洗礼を受けることができたガラシャではあるが、セスペデスに対しては持ちうる限りの教会に関する関心事を尋ねたという。その熱心さに心を打たれ、セスペデスも誠心誠意、自分の立場でできる限りの対応をしたようだ。

ガラシャと教会の橋渡しとなった小笠原少斎

屋敷に戻った後のガラシャは、もうそう簡単に抜け出して教会に行くことができなくなってしまった。それほどまでに夫細川忠興の監視が厳しくなっていたからだ。そのためガラシャは小笠原少斎という細川家の家老であり、ガラシャの警護隊長を務めていた人物を教会に送り、少斎を介して密かに教会とやり取りを行うようになっていく。ちなみにこの小笠原少斎という人物は、ガラシャが細川家に輿入れする際に明智家から付けられた人物だ。そのためガラシャも少斎を厚く信頼していたようだ。

ガラシャと教会の間を行き来している内に、少斎もキリスト教への改宗に傾いていき、やはり後に洗礼を受けたようだ。そのようなこともあり、教会側も何とかガラシャに洗礼を授けたいと考えた。だがガラシャが教会に行くことはできないし、宣教師が細川家を訪れることもできない。なぜなら伴天連追放令が出されていたからだ。そこで教会側は清原マリアという、すでに洗礼を受けている細川家の侍女に、宣教師に代わってガラシャに洗礼を授けることにした。こうしてガラシャは無事キリシタンになることができたのだった。

ちなみに伴天連(バテレン)という言葉は、ポルトガル語の Padre(パードレ:司祭)を当時の人が聞き間違えて生まれた言葉であるようだ。

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細川ガラシャという人は、戦国時代の最も敬虔なキリシタンとしてその名を知られている。しかしガラシャというのは洗礼名であり、実際にガラシャと呼ばれていたわけではない。実際の名は細川玉(珠)と言い、当時玉というのは非常に貴重なものを意味し、それをラテン語に直した言葉がグラティアで、ガラシャという洗礼名はここから取られたと言う。そして当時ガラシャの周囲にはスペイン語を話す宣教師がいたようで、スペイン語の発音グラァシァが訛りガラシャとなっていったようだ。

生涯たった一度しか教会に行けなかったガラシャ

細川玉でもなく、明智玉でもなく、ガラシャという洗礼名で名を残すほど敬虔なキリシタンであったガラシャだが、しかし教会に足を運んだのは37年の生涯のうちたった一度だけだった。それは天正15年(1587年)のイースターの祝日の正午頃だった。夫である細川忠興が九州に遠征した際、ガラシャは侍女たちと結託し、屋敷の者たちの目を盗み抜け出し、初めて大坂のカトリック教会へと足を運んだ。ガラシャが教会を訪れたのは後にも先にもただこの一度だけだった。

ガラシャがキリシタンの存在を知ったのは忠興との会話からだった。忠興は親交のあるキリシタン大名高山右近から、よくキリシタンに関する話を聞かされていた。そして忠興がその話をガラシャに聞かせているうちに、ガラシャの中のキリシタンへの関心がどんどん膨らんでいく。その強い関心が、屋敷を抜け出して教会に足を運ぶという大胆な行動を彼女に取らせたのだった。

教会でガラシャに対応したのはセスペデス司祭と高井コスメ

ガラシャは数人の侍女と教会を訪れ、名も身分も明かさずに教示を求めた。その時教会にいたのはグレゴリオ・デ・セスペデスという司祭だけだったが、どうやら彼はまだ日本語が堪能ではなかったらしく、高井コスメという人物が戻るまでガラシャには待ってもらい、コスメにガラシャへの説明を任せたらしい。コスメはこの時のガラシャを「ここまで理解力があり、ここまで日本の各宗派のことを詳しく知っている女性には今まで会ったことがない」と後に評している。ガラシャは戦国時代を代表する美女としても知られるが、それだけではなく、頭も切れる人物だったと記録されている。

ガラシャはこれまで抱いていた疑問のすべてをコスメにぶつけた。そしてコスメの話によりキリシタンへの理解をさらに深めると、ガラシャはその場で洗礼を受けたいと強く願い出る。しかしセスペデスがそれを許さなかった。その理由は、名を名乗らぬ目の前の女性はいかにも貴婦人であり、その身分がわからないうちは豊臣秀吉の側室である可能性を否めなかったからだ。天正15年と言えば秀吉がバテレン追放令を出した年で、教会としては秀吉の機嫌を損ねる行為だけは絶対に避ける必要があった。その危険を冒さないためにも、セスペデスは身分がわからないうちは洗礼を与えるべきではないと考えた。

そして何かと理由をつけて洗礼は次に教会に訪れた時にするのが一番だとコスメがガラシャを説得している最中に、ガラシャの不在に気付いた細川家の人間が教会まで探しに来て、ガラシャはそのまま輿に乗せられ連れ戻されてしまった。この時セスペデスは密かに、部下に輿の後とつけさせていた。するとその輿は細川屋敷へと入っていき、セスペデスはその報告を受けて初めて彼女が細川忠興の夫人だったと知ることになる。

清原マリアによって洗礼を与えられガラシャとなった細川玉

ガラシャは同年、細川家の17人と共に洗礼を受けた。この時洗礼を与えたのは、セスペデスの上司に当たるオルガンティーノという司祭から、洗礼を与える手順を指導された清原マリアという、ガラシャの側で尽くした細川家の侍女だった。本来であれば洗礼は司祭にしか行うことができないのだが、この時は忠興によってガラシャが屋敷に監禁状態にされていた事情もあり、細川屋敷に住みすでに洗礼を受けていたマリアが教会から派遣されるという形で、司祭の代わりにガラシャたちに代洗という形で洗礼を授けていった。

前述した通り天正15年は秀吉によってバテレン追放令が出され、司祭たちは次々と大阪を去っていくことになる。ガラシャは彼らが大阪を去る前に洗礼を受けることを強く望んだが、しかしだからと言ってオルガンティーノやセスペデスが細川屋敷に行くことも簡単ではなかった。そこでガラシャは長持ちの中に隠れて教会に行くという危険を犯そうとしたが、あまりにも危険な行動だと感じた司祭たちがそれを制止したと言う。

しかし清原マリアによってガラシャたちは屋敷から出ることなく無事洗礼を受けることができた。そしてこの日から慶長5年(1600年)までの13年間を、玉はガラシャとして、キリシタンとして生きることになっていく。しかしキリシタンになったことで彼女の運命はさらに過酷なものとなり、関ヶ原の戦いを直前に控え、ガラシャは壮絶な最期を迎えることになっていく。

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明智光秀が引き起こした本能寺の変によって運命を狂わされた人物は数知れない。しかしその中でも、最も辛い目に遭った一人が細川ガラシャだと言えるかも知れない。細川ガラシャは明智光秀の娘で信長の命令、そして両家の意向によって細川藤孝の嫡男、細川忠興に嫁いだ。戦国時代、この細川ガラシャほど数奇な運命を生きた女性は少ない。

本能寺の変後にガラシャと離縁した細川家

本能寺で主君織田信長を討った後、明智光秀は盟友である細川藤孝に救援を求めた。光秀と藤孝は旧知の仲であり、光秀が最も当てにしていたのが藤孝だった。しかし藤孝は主君を討った光秀に与することはせず、この謀反を知るや否や家督を忠興に譲り、自らは出家して細川幽斎と名を変えた。

そして同じ頃、謀反人の娘となってしまった細川ガラシャは細川家から離縁という形を取られてしまった。だがガラシャが明智家に戻されるという最悪の事態には至らなかった。仮に明智に戻されていたとしたら、光秀の正室や親族同様、坂本城で自刃する運命となっていただろう。だが細川家はガラシャをそのまま明智家に戻すことはしなかった。

二人の世話役を付けられて味土野に送られたガラシャ

細川家は形式上ガラシャとは離縁という形を取ったわけだが、明智家の居城だった坂本城に戻さなかったのなら、その後ガラシャはどこにいったのだろうか?離縁される前は丹後の細川家居城である宮津城で暮らしていたのだが、離縁後は味土野という土地に送られている。味土野とは、現在の京都府京丹後市弥栄町の山の中にある土地で、今もガラシャの時代同様に何もない人里離れた場所となっている。ガラシャはその味土野で約二年間暮らした。

この時ガラシャは、一色宗右衛門と小侍従(侍女)の二人を付けられたのだが、小侍従の名前が記されている記録は存在しないようだ。一説では清原マリアがその小侍従だったという説もあるが、どうやらそれは間違いらしい。この小侍従は細川忠興の命令によって松本因幡に嫁いでいる。清原マリアは貞節を誓いガラシャに代洗を授けた人物であるため、結婚することはできない。そのために辻褄が合わなくなってしまう。どうやらこの小侍従は単に細川家の侍女というだけの人物だったようだ。

本能寺の変から二年後に忠興との再婚が許されたガラシャ

ではなぜガラシャは味土野という何もない山奥に送られてしまったのか。どうやら明智光秀は丹後国に多少の領土を持っていたようで、専門家の研究によればそれが味土野であった可能性が高いらしい。確かにこの説には筋が通る。謀反人の娘ガラシャと離縁をしつつ、そのガラシャを細川領に置いていたとすれば、当時であれば何らかの疑いを持たれても不思議ではない。だが明智領に追放したとなれば、これは細川家が明智家には与していないという大きな意思表示になる。だが宮津城を挟み、坂本城とは反対方向の味土野に追放したというのは、細川家がガラシャに示せた最大限の優しさだったのかも知れない。

細川家が盟友明智光秀に与することがなかったことに関し、後に信長の後継者となる秀吉から高く評価されている。そのためガラシャは本能寺の変から二年後、秀吉により細川忠興との再婚が許されている。そして無事、再び宮津の地を踏むことができ、子供たちとの再会も果たした。永禄6年(1563年)に越前で生まれたガラシャは、本能寺の変が起こった時はまだ19歳だった。19歳の娘が背負うにはあまりにも重い運命だ。だがガラシャの数値な運命はこれだけには止まらなかった。

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石田三成という人物は本当に誤解されやすい人だ。その理由の一つとして実直すぎるという点を挙げられる。そして実直すぎる故に融通が利かなく、あまり他人を信用しないという性格だったようだ。そしてその性格による対応のせいで、慶長の役では豊臣恩顧の武断派との溝がさらに広まってしまった。


慶長の役とは慶長2年(1597年)に始まった秀吉二度目の唐入りのことで、この朝鮮との戦は慶長3年に豊臣秀吉が死去したことにより終結した。その際、石田三成は国内に留まり、自らが信頼を寄せる軍目付(いくさめつけ)7人を朝鮮に派遣し、戦況や戦功の状況を調査させた。

その7人とは太田一吉(三成家臣)、垣見一直(三成家臣)、熊谷直盛(三成の娘婿)、竹中重利(竹中半兵衛の義弟)、早川長政、福原長堯(ながたか、三成の妹婿)、毛利高政という人選だった。このように三成は軍目付として、自らが信用している人物だけを選んだ。だがこの人選が武断派の不興を買ってしまう。

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興らは、軍目付として三成の臣下以外からも選ぶようにと迫ったが、三成はそれを受け入れなかった。その理由は武断派の息がかかった者を選べば、事実を誇張して報告される恐れがあったためだ。それを防ぎ、事実を正確に把握するために三成は自らが信頼している人物のみを軍目付として選んだ。

この7人の報告を受け、最終報告するのは三成の役目だったわけだが、武断派たちはそこで三成が讒言し、自らの武功を過小評価されたのではないかと猜疑したようだ。だが三成は過小評価して報告をしたわけでも、讒言したわけでもなかった。ただ事実をありのままに秀吉の報告したに過ぎなかったのである。決して私情を交えて報告するようなことはしなかった。

武断派たちは三成の思いなどまったく理解しようとはしなかった。文禄の役などでは特に、日本軍は海路を確保することができなかった。そのため兵糧を日本から朝鮮に送ることもできず、送ったとしても輸送船はあっという間に沈められてしまった。それにより朝鮮の日本軍は食糧危機に陥った。それでも武断派は戦いを続けようとしたのだが、三成は兵を無駄に死なせることを嫌い、退却を強く進言したのだった。

慶長の役では慶長3年8月18日に秀吉が死去し、朝鮮攻めが頓挫すると、三成は帰国してきた武将たちを博多で出迎えた。そして「伏見で秀頼公に御目通りされたら一度国に戻り休み、来年また上洛あれ。その折には茶の湯でも楽しもうではないか」と心からの労いの言葉をかけたようだが、加藤清正は「治部少は茶を振舞われるがよかろう。我らは異国で7年も戦い、米一粒、茶も酒もないため稗粥(ひえがゆ)ででも持て成そう」と怒鳴りつけたと伝えられている。

しかし振り返り見れば、兵糧が尽きかけようとしても戦を続けたのは清正ら武断派であり、兵を守るため撤退させようと苦心したのが三成だった。武断派たちはそんなことは決して理解しようとはせず、理不尽にも三成に当たり散らしたのだった。

秀吉の死は、三成にとっては心が千切れるような出来事だったに違いない。自分を武将に仕立ててくれた恩人であり、三成は秀吉の構想を実現させるべき身を粉にして働いてきた。三成にとっては秀吉こそが正義だったのである。慶長の役は8月以降、撤退は12月まで及んだのだが、三成は兵たちが無事帰国できるように、その間も奉行として涙を見せず働き続けた。

石田三成という人物は、自らにかかる疑念に対し弁明することはほとんどしなかった。そのため誤解が解かれることもなく、誤解がさらなる誤解を生んでしまうことも多々あった。そして江戸時代になると徳川家康の敵として、さらに有る事無い事酷く書かれることになってしまう。

秀吉の生前は秀吉のミスをカバーし続け、そのミスも自らが罪を被り、秀吉のカリスマ性が失われないように対応し続けた。そのような事実も武断派たちは決して知らなかったはずだし、知ろうともしなったのだろう。現代の歴史ドラマでも石田三成は未だ悪役として描かれることが多い。だが実際の石田三成は信じた正義を貫き通した、豊臣家最大の義将だったのである。
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豊臣秀次は実は、叔父秀吉の唐入りに対し反対派だった。秀吉は日本国内を平定すると朝鮮出兵を行うわけだが、秀次は朝鮮出兵を反対し続けていたのだ。そのため石田三成や黒田官兵衛らが朝鮮への渡海を説得しようとしても、結局朝鮮へ出陣していくことを避け続けた。そして日夜妾たちと遊興に更けっていたという噂も流れ、それが秀次愚将説へと繋がっている。

さて、朝鮮出兵反対派の中心として多くの武将たちの相談を受けていた人物がいる。前編にも記した千利休だ。利休は朝鮮出兵に関し反対派武将たちを取りまとめていると見なされ秀吉の逆鱗に触れ、切腹を命じられている。秀吉は豊臣家の将来を安泰にするため、何としても有力大名の多くを朝鮮に移封させたいと考えていた。だからこそ唐入り反対派が有力になってしまっては困るのだ。

日本国内は豊臣一族で支配し、武功を挙げた有力武将たちには明に広大な土地を与え、日本国内で謀反を起こせない状況にする。それが秀吉が目指したものだった。それを実現させるためには唐入り反対派にいてもらっては困るのだ。そのため秀吉は「茶器を法外な値段で売り私腹を肥やしている」という罪により利休に切腹を命じた。当然だが切腹を命じられるほどの罪ではない。真実は唐入り反対派の口を閉じさせるための切腹命令だったのだ。

利休には台子(だいす)七人衆という、茶の秘伝を秀吉から伝授することを許された七人の弟子がいた。蒲生氏郷、高山右近、細川忠興、木村重茲、芝山宗綱、瀬田正忠、そして豊臣秀次だ。つまり秀次は利休の愛弟子であり、反唐入りの同士でもあったのだ。秀吉は利休の意思を最も強く継いでいるのが秀次であり、今後秀次を中心にし反唐入り同盟が組まれることを最も恐れていた。

秀次は逆心を持っていたわけではない。豊臣の未来、そして日本の未来を憂いて唐入りに反対の意を示していただけなのだ。実は唐入りに反対していたのは石田三成も同様だった。三成もまた軍事的に明へ侵攻するのには反対で、逆に明との貿易を盛んにしていくことで日本を豊かにしていきたいと考えていたようだ。

つまり秀次は利休同様、唐入りに反対の姿勢を示したために秀吉の怒りを買ってしまったのだ。秀吉からすれば「豊臣の未来を考えての唐入りなのに、なぜ豊臣である秀次がそれをわかろうとしないのだ」というジレンマもあっただろう。

改めて書き記すが、このように秀次の切腹事件は石田三成が黒幕だったわけではない。なぜなら秀次切腹後、秀次の数少ない遺臣たちは三成に召し抱えられたからだ。もし本当に秀次の切腹が三成の進言によるものであれば、果たして秀次の遺臣たちが三成の家臣になり、さらには関ヶ原で三成の下で命を賭しただろうか。

このような以後の状況から考えても、恐らく三成はなんとかして秀次の切腹を回避させようと苦心したのではないだろうか。結果として秀吉を止めることはできなかったわけだが、しかし三成の対応に何らかの恩を感じていたからこそ、秀次の遺臣たちは誰でもなく三成の下で働くことを決意したと考えるのが自然ではないだろうか。

このように考えられるからこそ、豊臣秀次切腹の黒幕は石田三成ではないと断言できるのである。